比叡 (戦艦)

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Hiei Sasebo 1915.jpg
初期の艦容
Hiei1942.jpg
近代化改装後
艦歴
起工 1911年11月4日
進水 1912年11日21日
竣工 1914年8月4日
喪失 1942年11月13日
第三次ソロモン海戦後に自沈
除籍 1942年12月20日[要出典]
要目
排水量 常備:27,500トン→
基準:32,156トン、公試:36,600トン
全長 214.6m → 222.0m
全幅 28.04m → 31.0m
主機 パーソンズタービン2基4軸 64,000馬力
艦本式タービン4基4軸136,000馬力
速力 27.7235ノット[1]
25ノット(第一次改装)
30.5ノット(第二次改装)
航続距離 8,000浬(14ノット時)
→ 9,800浬 (18ノット時)
乗員 1,221名 → 1,222名(1,360名?)
兵装 45口径毘式35.6cm連装砲4基
50口径四十一式15.2cm単装砲16基
53cm水中魚雷発射管

45口径毘式35.6cm連装砲4基
50口径四十一式15.2cm単装砲14基
八九式12.7cm連装高角砲4基
九六式25mm連装機銃10基
13mm4連装機銃2基
装甲 水線203mm
甲板19mm
主砲前盾250mm
副砲廊152mm
(全て竣工時)
航空兵力 水上機3機、呉式2号射出機1基(1940年)

比叡ひえい)は、大日本帝国海軍(以下日本海軍)の戦艦(発注時は装甲巡洋艦)で、金剛型戦艦の2番艦。改装時に大和型戦艦のテスト艦として新技術が導入され、南雲機動部隊の一艦として行動したが、第三次ソロモン海戦で喪失。太平洋戦争で最初に沈没した日本海軍戦艦となった。

太平洋戦争までの艦歴[編集]

巡洋戦艦比叡[編集]

横須賀で建造される本艦。

1906年明治39年)10月、英国が画期的な戦艦(いわゆる弩級戦艦)「ドレッドノート」を就役させると、日本海軍が建造中だった薩摩型戦艦をはじめ、世界各国の保有戦艦は前弩級戦艦として一挙に旧式化した[2]1906年(明治39年)、同じく英国がインヴィンシブル級巡洋戦艦を完成させると、日本海軍が1905年(明治38年)に就役させたばかりの筑波型巡洋戦艦1907年(明治40年)就役の鞍馬型巡洋戦艦も旧式装甲巡洋艦の烙印を押された[3]斎藤実海軍大臣は英国の技術導入もかねてヴィッカース社装甲巡洋艦を発注、同社は弩級戦艦「エリン」を基礎に巡洋戦艦を設計し、金剛型巡洋戦艦金剛」の建造が開始される[4]。「比叡」は「金剛」より10ヶ月遅れた1911年(明治44年)11月4日、横須賀海軍工廠で「卯号装甲巡洋艦」として発注・起工[5]1912年(大正元年)11日21日に大正天皇臨席のもと「卯号巡洋戦艦」として進水した[6]。この時天皇による初の命名が行われ、「軍艦 比叡」となった[7]。また艦内神社として日吉大社が奉祀された[8]。竣工は1914年(大正3年)8月4日である[9]。佐世保鎮守府に入籍した。

1927年に撮られた本艦。

第一次大戦による日本の対ドイツ参戦により、「比叡」は竣工後1ヶ月で早速東シナ海方面へ出動している[10]。英国は日本に金剛型巡洋戦艦4隻の欧州戦線投入を求めたが、日本は拒否した[11]1916年(大正5年)6月1日、英国海軍とドイツ海軍の間にユトランド沖海戦が勃発し、英国の巡洋戦艦3隻(クイーン・メリーインヴィンシブルインディファティガブル)とドイツ巡洋戦艦1隻(リュッツオウ)が失われた[12]巡洋戦艦の脆さが露呈した海戦により世界各国は戦艦の水平防御力強化対策を行ったが、日本海軍はユトランド沖海戦の戦訓を踏まえた超弩級戦艦長門型戦艦を筆頭とする八八艦隊(戦艦8隻、巡洋戦艦8隻)の建造にとりかかっており、「比叡」をはじめ金剛型巡洋戦艦の補強を行う予算はなかった[13]。「比叡」は各国の思惑をよそに、1919年大正8年)の北支沿岸警備、1920年(大正9年)のロシア領沿岸警備、1922年(大正11年)の青島・大連警備、セント・ウラジミル警備、1923年(大正12年)の南洋警備・支那沿岸警備、関東大震災救援物資輸送任務など、諸任務に投入されている[14]

練習戦艦に改装[編集]

1933年(昭和8年)、練習戦艦時代
練習戦艦「比叡」。煙突が1本減り、4番砲塔が撤去されている。

列強各国は戦艦の大量建造と維持に多額の予算を投じたが、やがて軍縮の気運が高まった。1921年(大正10年)、ワシントン海軍軍縮条約により大型艦の建造を自粛する海軍休日が始まる。軍縮の影響は「比叡」にも及んだ。1929年昭和4年)10月15日より「比叡」は呉海軍工廠にて第一次改装に着手するが、ロンドン海軍軍縮条約成立により工事は一旦中止された。条約により戦艦1隻が練習戦艦へ改装されることになり、金剛型で工事の一番遅れていた「比叡」が選ばれた。工事は4番主砲と舷側装甲の撤去及び機関の変更が行われ1932年(昭和7年)12月31日に完了、翌1933年(昭和8年)1月1日に練習戦艦に類別変更された[15]。この工事により要目は以下のようになった。外見上の特徴は4番砲塔を撤去したことで、撤去跡にバラスト500トンを搭載して艦のバランスが崩れることを防いでいる[16]

  • 基準排水量:19,500トン
  • 主缶:ロ号艦本式大型2基、同小型3基、同混焼缶6基
  • 出力:16,000馬力
  • 速力:18ノット
  • 兵装
    • 35.6cm連装砲3基
    • 15.2cm単装砲16門
    • 8cm単装高角砲4門(後日12.7cm連装高角砲4基に交換と推定される)

航空兵装、水雷兵装は全廃された。 改装中の1931年に横須賀鎮守府に移籍している。

御召艦改装[編集]

比叡艦内御座所

練習戦艦当時の「比叡」で勤務した経験を持つ吉田俊雄は当時の姿を「お年寄り」と表現しており[17]、後の艦長西田正雄も改装された「比叡」を見て涙ぐんだという[18]。他方、井上成美は生涯で最も愉快な時期を比叡艦長時代とし、海軍省軍務局長時代には御召艦「比叡」の油絵を飾っていた[19]。比叡は、練習戦艦となった際の兵装の撤去により艦内に余裕のあること、また艦隊所属でないためスケジュールの組みやすいことから昭和天皇の御召艦として利用された。1933年(昭和8年)5月には展望台を設けるなど、御召艦用施設の設置工事を横須賀工廠で行った。「比叡」はこの年と1936年(昭和11年)、また戦艦に復帰した第二次改装直後の1940年(昭和15年)10月11日における紀元二千六百年特別観艦式の合計3回、観艦式での御召艦を務めている。また1935年(昭和10年)には宮崎、鹿児島行幸の際の御召艦を、更に同年4月の満州国皇帝 愛新覚羅溥儀の訪日の際にも御召艦となっている[20]1936年(昭和11年)2月の二・二六事件では、横須賀鎮守府井上成美参謀長が米内光政司令官に「万一の場合は陛下を比叡に御乗艦願いましょう」と進言しており、より深刻な事態になった場合は昭和天皇が「比叡」から指揮を執る事態もありえた[21]

御召艦「比叡」は切手に描かれ、写真週報でも報道されるなど、戦前の日本海軍を代表する軍艦であった。これらにより戦前では長門型戦艦高雄型重巡洋艦と同じくらい親しまれた艦であったという。その一方、御召艦に指定されると2週間上陸が禁止され、艦内徹底清掃が行われるため、乗組員達にとっては苦労が多かった[22]

大改装[編集]

改装後
艦橋の形状が姉妹艦と異なる。

1936年(昭和11年)12月末のロンドン海軍軍縮条約切れをまって、11月26日より呉工廠で戦艦として復活する大改装が行われた[23]。英国は「比叡」の再武装を在日本英国代理大使を通じて抗議し、本艦の廃棄処分と日本政府の説明を求めた[24]。これに対する日本政府の返答は「比叡を練習艦として保存するという制限は、条約の効力存続を前提とするものであって、失効後は制限も消滅する」だった[24]。この改装は他の金剛型戦艦が一次、二次と2回で行われた改装を一度に行った形となった[25]。改装点は以下の通り。

  • 第4砲塔、舷側装甲の復活。
  • 水平装甲の追加(推定。他艦は第一次改装で実施済み)
  • 主砲装甲を強化、前盾250mm、天蓋150mmとなる。
  • その他装甲を追加する。
  • 主砲仰角を43度まで増大し、最大射程は35,450mとなった。
  • 副砲仰角も30度まで増大し、最大射程は19,500mとなった。
  • 副砲は2門減り、14門とする。
  • 主缶を重油専焼缶8基とする。
  • 重油搭載量を増大、航続距離を延長した。
  • 主機を艦本式タービンと交換、出力は136,000馬力となった。
  • 抵抗を減少させるため艦尾を7.6m延長し速力を29.7ノットとした。
  • 排水量が増大したため、バルジを装着した。
  • 12.7cm高角砲の指揮装置を九四式高射装置とする。(他艦は九一式高射装置)
  • 25mm連装機銃10基を装備。
  • 艦橋の近接防御用に13mm4連装機銃2基を装備(この機銃に対して「大和型と同じ装備」との記述が見受けられるが実際に大和型の艦橋に装備されたのは13mm連装機銃であり比叡とは異なる)
  • その他応急注排水装置、防毒装置などを装備した。

この工事は大和型戦艦のテスト艦としての役割も担っている。艦橋構造物は他の艦と違い、大和型戦艦と似た塔型構造を採用している[26]。艦橋トップの方位盤も大和型で採用予定の九八式射撃盤と九四式方位照準装置を、大和型と同様に縦に重ねて搭載している[26]。これにより姉妹艦とは艦影がかなり異なる形となった。また主砲旋回用水圧ポンプに大和型への導入テストとしてブラウンホペリ社のターボポンプ1台を導入し、高評価を得て大和型に3台導入された[26]。内部も、火薬庫冷却装置、応急注排水装置、急速注排水装置を大和型採用予定のものを組み込んでいる[27]

艦幅は他の同型艦より1m広い。他の艦は改装により吃水が深くなりすぎ、防御甲板(下甲板)が水線下となってしまった。このため吃水を浅くし防御甲板を水線上に上げるためにとられた処置である。バルジの幅を広くして浮力を増し、下甲板は水面より高くなった[27]。排水量は3万6601トンに達している[27]宇垣纏連合艦隊参謀長は、著作の中で「改造の最後艦にして最も理想化された艦」と述べている[28]

1939年(昭和14年)12月5日の公試では排水量36,332トン、出力137,970馬力において29.9ノットを記録している。1940年(昭和15年)7月3日には、皇弟である高松宮宣仁親王が砲術長(少佐)として着任し、1941年(昭和16年)4月まで勤務していた。有馬馨艦長以下幹部は宣仁親王に参謀長室を提供しようとするなど気を使うことが多かったが、親王は一将校として「比叡」で勤務した[29]

太平洋戦争[編集]

緒戦[編集]

高速戦艦として生まれ変わった「比叡」は姉妹艦「霧島」と共に第三戦隊第一小隊を編成、第八戦隊(利根型重巡洋艦利根筑摩)と共に第一航空艦隊(通称、南雲機動部隊)の支援部隊を形成した[30]。機動部隊に随伴できる速力を持つため、米軍水上部隊に襲撃された場合は36cm砲で撃退し、また空母が損傷した場合は曳航することが期待されていた[31]1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃を行う南雲機動部隊を護衛する。12月24日、日本に戻り、1942年(昭和17年)1月8日トラック泊地へ向けて出港した[32]。南雲機動部隊はラバウル空襲、オーストラリアのポート・ダーウィン空襲を行い、「比叡」も同行する。2月8日、「比叡」は「霧島」を含む機動部隊ごと南方部隊に編入され、2月16日に「金剛」・「榛名」と合流し金剛型戦艦4隻が揃うことになった[33]。2月下旬、南雲機動部隊はオーストラリア方面に脱出する連合軍艦艇の捕捉撃滅を命ぜられ、「比叡」は第八戦隊「利根」「筑摩」と共にジャワ島南方海域を警戒した[34]。3月1日午後5時46分、「比叡」は逃走する米軍駆逐艦「エドサル」(DD-219 Edsall)を発見し、距離25kmの敵艦に対し前部36cm砲で砲撃した[35]。「利根」「筑摩」も砲撃したが「エドソル」には命中せず、「比叡」が発進させた九五式水上偵察機の爆撃も失敗[36]、「比叡」は午後6時25分に砲撃を中止する[35]。苛立った南雲忠一中将は空母「加賀」・「蒼龍」に九九式艦上爆撃機による爆撃を命じた[37]。午後6時35分から艦爆が攻撃し、「エドソル」は大破した[35]。「比叡」は16kmまで接近すると、副砲射撃で午後7時に「エドソル」を撃沈した[35]。後にアイオワ級戦艦ニュージャージー」(USS New Jersey, BB-62)もトラック島空襲で駆逐艦「野分」を目標として砲撃した時、「比叡」と同じような体験をしている。日本軍の東南アジア占領を見届けた「比叡」は3月11日から3月25日までスターリング湾に停泊したあとインド洋へ進出[38]セイロン沖海戦に参加した。4月24日、「比叡」は日本に戻った[39]

米軍機動部隊との戦い[編集]

米軍の継戦意欲を砕くため、山本五十六連合艦隊司令長官は残存する米空母の撃滅を企図した。ミッドウェー島を占領し、ハワイから進出してくる米軍機動部隊・艦隊を迎撃するという作戦である。日本軍は、米軍の戦力を「戦艦2隻、正規空母2-3隻、特設空母2隻、甲巡洋艦4-5隻、乙巡洋艦3-4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦30隻」、ミッドウェー島の戦力を「航空機48機、アメリカ海兵隊750名、砲台対空施設相当あり」と推定している[40]。実際には正規空母3隻、海兵隊3000人、ミッドウェー基地航空機150機が日本軍を待ち構えていた。5月、第三戦隊の中で編成替えが行われる。「比叡」と「金剛」が第一小隊、「榛名」と「霧島」が第二小隊となり、第一小隊は近藤信竹中将の第二艦隊(攻略部隊本隊)に加わり、第二小隊は南雲機動部隊に編入された[41]。5月29日、「比叡」は日本を出発した[42]。6月5日、日本軍と米軍の間にミッドウェー海戦が勃発する。近藤艦隊は南雲部隊から距離340浬・28ノット12時間の地点で空母「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の被弾炎上という速報を受信する[43]。近藤は直ちに東方へ進軍を命じ米軍機動部隊との水上戦闘を企図したが[44]、米軍機動部隊は日本軍との夜戦を嫌って東方へ反転退避する。さらにレーダーを搭載した戦艦「日向」は山本長官が乗艦する戦艦「大和」と共に遥か西方にあり、近藤は夜戦を断念、続いて山本長官の退却命令により退却行動に入った[45]。「比叡」は第十駆逐隊と共にアリューシャン方面で哨戒任務につき、7月11日、横須賀に帰港した[46]

7月14日、戦時編制が改訂された。南雲忠一中将、草鹿龍之介参謀長指揮のもと、第一航空戦隊(空母:翔鶴瑞鶴瑞鳳)・第二航空戦隊(空母:飛鷹隼鷹龍驤)を中核とする第三艦隊が編成され、「比叡」は「霧島」と共に第十一戦隊(阿部弘毅少将/司令官)を形成して第三艦隊専属部隊となった[47]。8月7日、米軍はウォッチタワー作戦を発動し、米軍機動部隊の支援の元、ガダルカナル島ツラギ島に米海兵隊が上陸・占領する。日本軍はラバウルから一式陸上攻撃機を、水上からは三川軍一中将(7月まで比叡に座乗)率いる外南洋部隊・第八艦隊を迎撃に向かわせた。日本軍航空隊は「軽巡2隻、輸送船10隻、大巡1隻大火災、中巡1隻大破傾斜、駆逐艦2隻火災、輸送船1隻火災」を報告、第八艦隊は第一次ソロモン海戦で「巡洋艦10隻撃沈、駆逐艦4隻撃沈」を報告した[48]。実際には、第八艦隊は重巡洋艦4隻を沈めたものの、航空隊の戦果は駆逐艦2隻撃沈、駆逐艦2隻大破だけだった。

8月16日、「比叡」を含む第三艦隊はトラック島に向けて日本を出発した[49]。この時点では空母「隼鷹」、「飛鷹」、「瑞鳳」の訓練が途中だったため、空母は「瑞鶴」、「翔鶴」、「龍驤」の3隻だけだった。第三艦隊は主に2つの集団で構成され、空母と少数の護衛部隊からなる本隊、第十一戦隊(比叡、霧島)・第七戦隊(重巡洋艦鈴谷熊野)・第八戦隊(重巡洋艦利根筑摩)の前衛艦隊に分かれている[50]。前衛艦隊は空母部隊から100-150浬前方に進出して横一列陣形(艦間隔10-20km)をとり、索敵と敵機の攻撃を吸収する役割を担った[51]。いわば囮となる前衛艦隊将兵からは不満が続出したが、指揮官達は新陣形・新戦法を検討する時間も与えられないまま最前線へ進出した[52]

8月21日、米軍機動部隊出現の報告により第三艦隊はトラック入港を中止し、近藤信竹中将の第二艦隊(前進部隊)と合流した[53]。近藤中将は第三艦隊を指揮する南雲中将より先任だったため、形式上は近藤が南雲と機動部隊を指揮することになっていたが、近藤司令部と南雲司令部はお互いの情報交換・戦術のすり合わせを一度も行ったことがなかった[54]。8月24日の第二次ソロモン海戦では、第三艦隊前衛部隊は機動部隊本隊からわずか5-10浬程度しか進出せず[55]、近藤の第二艦隊は第三艦隊が無線封鎖をしているために味方の位置すら掴めなかった[56]。日本軍は軽空母「龍驤」と零戦30、艦爆23、艦攻6を失い、米軍は空母「エンタープライズ」(USS Enterprise, CV-06)が中破して航空機20を失った[57]。この戦闘で「比叡」は零式水上観測機1機をSBDドーントレスとの空戦により失っている[58]。8月28日、トラック泊地に到着した[59]

9月10日、ソロモン諸島北東海面に向けてトラック泊地を出撃[60]、米軍機動部隊を捜索したが会敵できず、9月23日にトラック泊地に戻った[61]

約1ヶ月後の10月26日、ガダルカナル島の日本陸軍総攻撃を支援する日本海軍と、同海域の制海権を確保しようとする米軍機動部隊との間に南太平洋海戦が勃発する。第十一戦隊(比叡・霧島)は戦闘中に近藤中将の第二艦隊前進部隊の指揮下に入り、撤退する米軍機動部隊を追撃した[62]。近藤艦隊は航行不能になっていた空母「ホーネット」(USS Hornet, CV-08)を捕捉し、撃沈に成功している。日本軍は当初米軍主力空母3隻、戦艦「サウスダコタ」、巡洋艦3隻、駆逐艦1隻を撃沈したと誤認していた[63]

第三次ソロモン海戦[編集]

ガダルカナル島の日本陸軍は重火器、弾薬、食料の不足により米海兵隊に対抗できなくなっていた。日本軍は11月の月が出ない闇夜を選んで、第三十八師団を11隻の輸送船でガダルカナル島へ送り届けることを決定する[64]。輸送作戦の成功には、ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を破壊して米軍機の活動を抑えることが必要となっていた[65]。10月中旬、栗田健男少将率いる第三戦隊(金剛、榛名)がヘンダーソン基地艦砲射撃を行って米軍に大きな損害を与えており[66]今村均第十八軍司令官は再度の戦艦による対地砲撃を要請した[67]山本五十六連合艦隊長官は陸軍の要請を断れず、山本自らが「比叡」もしくは戦艦「大和」を率いてガダルカナル島へ赴くことを検討したほどである[68]。結局、空母「隼鷹」を含む第二艦隊は11月9日トラック泊地を出撃し、第十一戦隊(阿部弘毅中将、戦艦:比叡、霧島)、第十戦隊(木村進少将、軽巡洋艦:長良、第六十一駆逐隊:照月、第十六駆逐隊:雪風、天津風、第六駆逐隊:暁、雷、電)、第四水雷戦隊(高間少将、駆逐艦:朝雲、第二駆逐隊:村雨、五月雨、春雨、時雨、第二十七駆逐隊:白露、夕暮、夕立)で構成される「挺身攻撃隊」が抽出されてヘンダーソン飛行場砲撃に向かった[69]。艦隊は事前に水上偵察機をイサベル島レカタ基地に派遣し、ガダルカナル島沖で偵察機からの誘導を元に砲撃を行う計画である[70]

当初はルンガ泊地に米ワシントン型戦艦3隻を含む艦隊の存在が報告されたが、後に防空巡洋艦という訂正電報が入った[71]宇垣纏連合艦隊参謀長は米艦隊がガダルカナル島周辺にとどまり、飛行場砲撃に向かう挺身艦隊を交戦することを危惧したが、黒島亀人先任参謀は「米軍は何時もの通り夜になれば逃げる」と主張し、山本五十六連合艦隊長官と共に何の手段も講じなかった[72]。宇垣は後に強く主張しなかったことを「之れ十数時間後に重大なる結果を招来せる素因となれり」と後悔している[73]

11月12日第1夜戦[編集]

1942年11月12日、戦艦「比叡」を旗艦とする挺身艦隊は猛烈なスコールに襲われた。大西謙次比叡運用長は、数時間続いた豪雨が「比叡」の運命を狂わせたと証言している[74]。飛行場射撃困難と判断した阿部弘毅中将/司令官は午後10時、サボ島北で反転を命じた[75]。ところが反転直後に天候が回復、レカタ基地から水上偵察機発進の通達と、ガダルカナル島のコカンボナ観測所から砲撃要請があった[76]。阿部中将は艦隊司令部の意見を総合し、艦砲射撃実行を決断した[77]。このため再度反転、予定より約40分遅れてガダルカナル島に接近する[78]。挺身艦隊は第十戦隊、第十一戦隊、第四水雷戦隊の寄せ集めであり、電波の調整が上手くいかず、艦隊の陣形は乱れた[79]。護衛されるべき旗艦「比叡」は艦隊の前方に位置していた[80]

混乱した状況下、挺身艦隊司令部は米艦隊がルンガ泊地に存在せぬものと判断し、戦艦2隻の主砲に対地砲撃用の三式弾を弱装弾薬で装填した[81]。「比叡」は主砲を右舷に指向して砲撃寸前の状態だった[82]。午後11時43分、挺身艦隊は左前方約10kmに米巡洋艦艦隊を発見する[83]。陸上砲撃用の三式弾を徹甲弾に切り替える間もなく、午後11時51分に「比叡」は探照灯で距離5-6km先で横陣を形成していた米艦隊を照らし出すと、主砲射撃を開始した[84]。この時、一番砲塔は第一斉射を発射できなかったという証言がある[85]

「比叡」は米軍防空巡洋艦「アトランタ」(USS Atlanta, CL-51)に初弾命中を記録したものの、探照灯を使用したために米艦隊の格好の目標となり、集中砲撃を受けた[86]。2-3斉射を行ったところで艦橋を含めた上部構造物に50発以上の命中弾があり、通信能力を喪失、火災も発生する[87]。特に艦橋への命中弾で射撃指揮所から各砲塔に繋がっている電線回路が切断され、一斉斉射が不可能になった[88]。艦橋指揮所では鈴木参謀長が戦死、阿部司令官、西田艦長、田村副長、千早正隆砲術参謀も重軽傷を負った[89]。駆逐艦「五月雨」は「比叡」を敵艦と誤認して機銃射撃を行い、「比叡」から副砲もしくは高角砲の反撃を受けている[90]。「五月雨」は味方識別灯をつけ、ようやく双方が射撃を停止した[91]。その「比叡」では、艦尾喫水線付近を米軍巡洋艦主砲弾に貫通(不発)され、艦後部舵取機室・電動機室が浸水、操舵不能となった[92]。西田艦長の戦闘日誌によれば、40分間の夜間戦闘で米艦隊砲弾85発が命中、魚雷数本が命中不発、魚雷1本が右舷バルジに命中した[93]。「比叡」は艦橋を中心に上部構造物に大きな被害を受けたが、主砲や機関は無事であった[94]。あまりにも至近距離の砲戦となったために、米軍駆逐艦は機銃まで使用して砲撃を行い、「比叡」の艦橋は着弾する機銃弾の火花に包まれた。前部副砲で米駆逐艦を迎撃しようとしたところ、距離が短すぎて仰角が足らず砲撃できないこともあった。

舵復旧作業と米軍の攻撃[編集]

操舵不能状態に陥った「比叡」は、ガダルカナル島周辺海域から離脱しようと応急修理を急いでいた[95]。午前3時30分、艦橋付近の火災は鎮火に向かい、機関室は無事であったため、右舷スクリューと左舷スクリューを反対に回して北西に針路をとろうとし、これで3ノットほどで直進できるようになった[96]。しかし排水ポンプ停止による浸水増加のためついに舵取機室を放棄。人力操舵をしていた乗員は溺死寸前で舵取機室から退避した。これで舵が流され、サボ島北方を旋回した[97]。阿部司令官や西田艦長は戦闘艦橋から司令塔に移って指揮をとった。午前4時7分、「比叡」はルンガ方面距離24kmに米軍巡洋艦を認め、その巡洋艦がすでに破棄され無人漂流中であった駆逐艦「夕立」を撃沈したのをきっかけに後部主砲を発射し[98]、3-4斉射で応射した。この艦は大混戦中に酸素魚雷1本が命中し、舵が故障して「比叡」と同じように旋回運動を行っていた重巡洋艦ポートランド」(USS Portland, CA-33)だった。「比叡」は徹甲弾を使用して砲撃を行ったが、実は「ポートランド」に命中せず、この後「ポートランド」は戦場を離脱した。しかし、日本軍の公式記録では撃沈が記録されており[99]大本営発表では『つひに戦艦も満身創痍の損害の受けたこの時、サボ島の島かげから1隻の敵大型巡洋艦がわれ(比叡)に止めを刺さんと出撃して来たのです。わが戦艦は莞爾としてこれを迎へ撃ち、戦艦は敵巡洋艦に最後の巨弾を報い、忽ちこれを撃沈したのです』と報道された[100]

午前4時20分、駆逐艦「雪風」が到着[101]、続いて「照月」、「時雨」、「白露」、「夕暮」が到着する。「照月」から見た「比叡」は健在のようだったが「舵故障・修理中」という連絡があり、動き出しては停止していたという[102]。午前6時15分、阿部少将は「比叡」から「雪風」に移乗した[103]。ところが「比叡」の通信機が故障していたため連絡は手旗信号に頼らざるを得なくなり、阿部と西田の間で情報の把握に差異が生じた[104]。阿部は姉妹艦「霧島」で「比叡」を曳航することを計画したが、反転して現場に向かっていた「霧島」が米潜水艦に雷撃され1本の魚雷が命中する被害を受けた。幸い魚雷は不発であり被害は軽微であったが、「霧島」を護衛もなしで戦場に再投入するのは危険と判断され、北方に退避させる指示が出た[105]。日本軍は「比叡」を掩護すべく、付近の基地航空隊や空母隼鷹」から零式艦上戦闘機零式水上偵察機を上空直掩機として送り込んだ[106]。「隼鷹」の戦力に余裕はなく、一度に送り出せる零戦は10機未満だった。「比叡」は停止して泳ぎの達者な乗員による防水作業を試みていた。海面下の直径1mほどの破孔に毛布を充填して防水しようとした。

日が昇ると、ヘンダーソン基地から発進したF4Fワイルドキャット戦闘機SBDドーントレス急降下爆撃機エスピリトゥサント島から飛来するB-17大型爆撃機による攻撃が始まる。「比叡」の右舷高角砲2基は無傷、左舷三番高角砲は仰角48度で故障していた[107]。「比叡」の機関は無事だったため、左に旋回しながらも最高29ノットで米軍機の攻撃回避に努めた[108]。魚雷は全て回避に成功した。しかしB-17からの大量の投弾により、午前中に爆弾3発が2番主砲塔傍、中部右舷、4番主砲塔右に命中した[109]。これによって缶2基が使用不能になり、機関区にも死傷者が出たが火災も程なく消火され致命傷にはならなかった。しかし空襲のたびに応急作業が中断された。また回避のための高速運転により破孔に詰め込んだ毛布も流されてしまい、乗組員は艦尾の破孔修復作業を何度もやり直すことになった[110]

午前8時30分、阿部長官は「比叡」をガダルカナル島へ座礁させるよう命じた[111]。この行動は西田艦長の案という見解もある[112]。その頃、空母「エンタープライズ」から第10雷撃隊のTBFアベンジャー雷撃機9機(アル・コフィン大尉)、F4Fワイルドキャット戦闘機6機(ジョン・サザーランド大尉)がヘンダーソン飛行場に移動するため発進する[113]。西からサボ島とエスペランス岬に近づいた彼らは、戦艦「比叡」と駆逐艦4隻がサボ島北16kmにいるのを発見した[114]。ワイルドキャット隊が「比叡」の上空にいた零式艦上戦闘機8機に向かうと、零戦隊は交戦せずに逃走した[114]。TBF隊は雲に隠れながら二手にわかれると、「比叡」に対し挟撃雷撃を開始する[114]。「比叡」は左舷のTBFに向けて主砲を発射したが、砲弾はTBFの頭上を越えていった[115]。TBFからは、「比叡」の上部構造物に火災の跡がくっきりと残り、高角砲や副砲の砲身が曲がっている光景が見られた[115]。コフィン隊は左舷・右舷・艦尾に魚雷3本命中を主張している[115]。「隼鷹飛行機隊戦闘行動調査」によれば、F4F16機、TBF5機、B-17爆撃機1機と交戦、F4F2機を撃墜、零戦3機が撃墜され、零戦2機が発進直後に不時着している[116]。午前10時25-33分、阿部少将は「比叡」に総員退去を命じたが西田は断った[117]。西田艦長が戦闘詳報の草稿として残したメモによれば、阿部の総員退去命令時点で「爆弾2-3発が命中するも損害軽微、罐室若干浸水するも排水の見込みあり」であった[118]

午前11時30分、阿部は『艦爆20機の攻撃で「比叡」3罐使用不能、操舵復旧不可能、曳航不可能』とトラック島の連合艦隊司令部・山本五十六司令長官に報告、同時に「比叡」の処分を決定した[119]。阿部の命令に対し、西田は午後12時14分に復旧見込みありと反論する[120]。そこに米軍機が再び出現、「比叡」を襲った。この雷撃隊はエンタープライズ第10雷撃隊だった。彼らはヘンダーソン飛行場に着陸すると補給を行い、再度出撃してきたのである。TBFアベンジャーは補給が間に合わなかったことから6機に減っていたが、ワイルドキャットの数は変わらず、加えてアメリカ海兵隊SBDドーントレス急降下爆撃機8機が同行した[121]。第10雷撃隊は「比叡」の右舷中央に1本、艦尾に1本、左舷に3本(2本不発)を主張する[122]。「比叡」の赤沢主計中尉は、米軍機による来襲10回、爆弾命中6、魚雷命中4本を記録した[123]戦闘詳報では、「比叡」は雷撃機10機の攻撃により魚雷2本が命中、右に15度傾斜、後部の浸水を記録している[124]。西田メモによれば、魚雷2本命中(右舷前部揚鎖機室、右舷機械室前部)、爆弾1発が飛行甲板に命中である[125]。坂本松三郎(大尉、掌航海長兼信号長)によれば、午後12時40分の総員上甲板集合命令時点で、「比叡」は右に7度傾斜、推定浸水量4,670トン、予備浮力12,150トンで「諸機械非常装置の作動極めて良好」であったという[126]

沈没[編集]

午後1時、阿部は「比叡」処分のため「各艦魚雷2本ヲ準備シオケ」と命令する[127]西田正雄艦長は艦保全に努力していたが、機関室全滅の報告を受けるとついに諦めて総員退艦準備、総員後甲板を下令した[128]。坂本信号長は、右舷機械室に命中した魚雷は不発だったが、魚雷命中と同時に命中した爆弾の火災により「機械室全滅」の誤報が西田の元に届いたと推測している[129]。最初西田は前甲板に総員の集合をかけることを考えたが、前甲板は戦死者の遺体や臓物が累々と散積しており、とても訓示を行える状態ではなかったので、後部甲板に変更された。比叡掌航海長:坂本松三郎大尉は、西田が艦と運命を共にしようとしているのを察知し、西田艦長をなんとか艦橋から下ろそうと知恵をめぐらした。退艦時の訓示をするために艦長に後甲板に下りるように進言したが、西田は艦橋からメガホンで訓示を行うとして動こうとしなかった。暫く押し問答の末、坂本はやむなしと判断してその場に居た部下2人とともに西田を3人がかりで担ぎ上げて、無理やり後甲板に引き摺り降ろした。西田は大暴れして抵抗したが、後甲板に着くと大人しくなり、砲塔の影で負傷によって汚れた制服を着替えた。訓示は後部砲塔の上から行われ、最後に総員退艦とキングストン弁開放を命じた。柚木哲(発令所所長)は、司令部と西田の命令により柚木が機関長にキングストン弁開放を命じ、作業を行った兵からも実行を確認したと証言した[130]。乗組員がカッターで駆逐艦に移乗を始めた時、右舷後甲板から海面まで2mもなかった[131]。西田はこの期に至っても「比叡」と共に自決するつもりで、総員退艦下命後も生還を望む部下達と1時間半にも渡る押し問答をしていた。それを察知した「雪風」艦上の阿部は、直筆の命令書を比叡に送り、「比叡」の現状報告のために「雪風」に移乗するように司令したが、西田はこれも無視した[132]。「比叡」の上甲板が波に洗われる状態となったとき、もはや説得は不可能と判断した部下が西田の手足を掴んで担ぎ上げ、強引にカッターに載せて「比叡」を離れた。「雪風」移乗後に「比叡」機関室が無事だったことが判明したが、もはや手遅れであった[133]。午後4時、阿部は第二十七駆逐隊に「比叡」の雷撃処分を命じる[134]。実際に魚雷が発射されたかについては、戦闘詳報には記載されていないが、西田は雪風の艦内で魚雷発射音を聞いている[要出典]。魚雷は「比叡」の中央部に命中したが、「比叡」は沈まず「雪風」はそのまま現場を退避した。

午後4時38分、阿部少将に山本五十六司令長官より「比叡の処分待て」の命令がある[135]。この少し前、トラック島の戦艦「大和」司令部では「比叡」の処分を巡って対立があった。宇垣纏の「戦藻録」によれば、「比叡」は味方航空機行動圏内にいることから、宇垣は放置して様子を見ることを考えていた[136]。すると山本が宇垣の部屋を訪れ『如何にも明日の撮影に依り宣伝の国米国に利用せらるる事心苦し。サインはしたるも如何かと思ふ』との心中を述べた[137]。宇垣は山本の提案に同意して「比叡」の処分を決定しかけたが、黒島亀人先任参謀が「比叡が浮いている限り輸送船団に対する攻撃を吸収する可能性がある」と反論した[138]。山本は黒島の主張を採用し、「比叡」処分命令を撤回したのである[139]。宇垣は「中将たる司令官の意思を酌み長官の立場に於て其の責を引受くるの心情及敵手に委して機密暴露の惧を来たす事なからしむるの用心ある事なり。先の見えざる主張は理屈に偏して之等機微の点を解し得ざるものあるのみ」と記した[140]。第十一戦隊参謀として現場(駆逐艦雪風)にいた千早正隆は「宇垣は現場の事情を少しは理解しているが、黒島は全く理解していない」と評している[141]

午後5時、駆逐艦「雪風」以下5隻は「比叡」の傍を離れてサボ島西方に退避した[142]。午後5時38分、阿部は「雪風」が至近弾を受けて小火災が発生し、「雪風」は魚雷4本を投棄したと報告、さらに送信機故障と報告した[143]。午後11時ごろ「雪風」達が戻ると「比叡」の姿は既になく、沈没したものと判定された[144]。「比叡」の戦死者188名、負傷者は152名だった[145]。「比叡」に勤務して『最も好きな軍艦の一つ』としている吉田俊雄[146]著作で「比叡の最期は、しかし、たいへん後味の悪いものであった」と述べている[147]。翌日、姉妹艦「霧島」も11月15日第2夜戦で、「霧島」より30年も新しいノースカロライナ級戦艦ワシントン 」(USS Washington, BB-56)、サウスダコタ級戦艦サウスダコタ 」(USS South Dakota, BB-57)と交戦、砲撃戦の末に沈没した。金剛型戦艦は一度の海戦で4隻中2隻を喪失した。本作戦が実行される前、昭和天皇は日露戦争旅順港閉塞作戦で戦艦「初瀬」「八島」が漫然と行動中、ロシア海軍が仕掛けた機雷により沈没したことを引き合いに出し「注意を要す」と警告していた[148]。日本海軍は10月16日の戦艦「金剛」「榛名」の飛行場砲撃と同じ手を繰り返し、現存する敵兵力を軽視し、充分な護衛部隊をつけず、結果として「比叡」と「霧島」を失ったのである[149]

「比叡」という艦名は公表されなかったが、第三次ソロモン海戦で戦艦1隻が沈没、1隻が大破(本当は霧島沈没)したことは報道された[150]

『その凄絶な奮戦ぶりがまるで眼に見えるようで、私どもの感奮を促してやみません。これこそ、正しく敵にわが皮を切らせて、敵の肉を切り、わが肉を切らせて骨を切らんとする真剣勝負であり、決戦であったのです』

と評しているが、

『敵の戦意を決して侮ることはできません。艦齢外とはいえ、わが戦艦めざして集中攻撃を加へ来り、戦列を離れるや、さらにこれを攻撃し、つひに撃沈せしめるやうな攻撃精神をも発揮しつゝあるのです。(中略)敵もまた敵なりに相当の攻撃精神を発揮しつゝある事実を、私どもはこの際、はっきり銘記すべきでありませう』

とも述べている[151]

これにより、国民の間に建艦運動が起きている[152]。艦長の西田に対しては、言い分を聞く査問会すら開催されず、時の海軍大臣嶋田繁太郎海軍大将により、現役を解き予備役とする懲罰処分を受けた。山本五十六はこの処分に激怒し、宇垣纏を派遣して抗議したが裁定は覆らなかった。西田はその後も閑職を転々として終戦を迎えた。戦後も決して言い訳をすることなく、取材に応じたのも死の数ヶ月前に1度きりであった。

大分県竹田市にある広瀬神社には第二次改装のとき取り外された比叡のマストがある。

主要目一覧[編集]

主要目 新造時計画[153]
(1914年)
練習戦艦時[154]
(1931年)
2次改装後
(1940年)
排水量 常備:27,500t 基準:19,500t 基準:32,165t
公試:37,000t
全長 214.6m 199.15m 222m
全幅 28.04m 31.02m
吃水 8.38m (常備) 6.32m 9.37m
主缶 イ号艦本式混焼缶36基 ロ号艦本式大型2基
同小型3基
同混焼缶6基
ロ号艦本式缶8基
主機 パーソンズ式直結タービン4基4軸 艦本式タービン4基4軸
軸馬力 64,000shp 16,000shp 136,000shp
速力 27.5kt 18kt 29.7kt
航続距離 8,000海里/14kt 9,800海里/18kt
燃料 石炭:4,000t
重油:1,000t
重油:6,240t
乗員 1,221名 1,222名
主砲 毘式35.6cm連装砲4基 同3基 同4基
副砲 四十一式15.2cm単装砲16門 同14門
高角砲 なし 八九式12.7cm連装4基
(後日装備)
12.7cm連装4基
機銃 なし 40mm連装2基
九二式7.7mm機銃3挺
九六式25mm連装10基
13mm4連装2基
魚雷 53cm水中発射管8本 なし
その他兵装 8cm砲4門
装甲 水線203mm
甲板19mm
主砲天蓋75mm
同前盾250mm
副砲廓152mm
(水線装甲撤去) 水線203mm
甲板19mm※※
主砲天蓋150mm
同前盾280mm
副砲廓152mm
航空機 なし 水上機3機
射出機1基

※ ←は左に同じ(変更無し)。空白は不明。
※※ 工事内容の詳細は明らかでないが、他艦と同様とすると追加の甲板装甲は以下の通り。

缶室64mm、機械室83-89mm、弾薬庫102-114mm、舵取室76mm

公試成績[編集]

時期 排水量 出力 速力 実施日 実施場所 備考
竣工時 27,390t 76,127shp 27.724kt 1914年(大正3年)4月26日 館山沖標柱間
2次改装後 36,332t 137,970shp 29.9kt 1939年(昭和14年)12月 宿毛湾外標柱間

歴代艦長[編集]

  1. 高木七太郎 大佐:1913年9月20日 - 1915年12月13日 *兼横須賀海軍工廠艤装員(- 1914年8月4日)
  2. 加藤寛治 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
  3. 堀輝房 大佐:1916年12月1日 -
  4. 桑島省三 大佐:1917年12月1日 -
  5. 吉川安平 大佐:1918年12月1日 -
  6. 白根熊三 大佐:1919年12月1日 -
  7. 松村菊勇 大佐:1920年8月12日 -
  8. 匝瑳胤次 大佐:1920年11月20日 -
  9. 横地錠二 大佐:1922年11月10日 -
  10. 中島晋 大佐:1923年12月1日 -
  11. 村瀬貞次郎 大佐:1924年12月1日 -
  12. 館明次郎 大佐:1925年6月16日 -
  13. 岡本郁男 大佐:1926年8月20日 -
  14. 大野寛 大佐:1927年12月1日 -
  15. 嶋田繁太郎 大佐:1928年12月10日 -
  16. 石井二郎 大佐:1929年11月30日 -
  17. 和田専三 大佐:1930年12月1日 -
  18. 丹下薫二 大佐:1932年5月10日 -
  19. 前田政一 大佐:1932年12月1日 -
  20. 佐田健一 大佐:1933年2月23日 -
  21. 井上成美 大佐:1933年11月15日 -
  22. 大川内傳七 大佐:1935年8月1日 -
  23. 稲垣生起 大佐:1936年4月1日 -
  24. 越智孝平 大佐:1936年12月1日 -
  25. 青柳宗重 大佐:1937年12月1日 -
  26. 平岡粂一 大佐:1938年11月15日 -
  27. 阿部孝壮 大佐:1939年11月15日 -
  28. 有馬馨 大佐:1940年10月15日 -
  29. 西田正雄 大佐:1941年9月10日 -

郵便切手[編集]

満州国来訪記念切手

前述のように、「比叡」は御召艦に改装されていたが、1935年4月2日に満州皇帝溥儀の来訪記念切手の4種類セットのうち、1銭5厘と6銭切手の2種類に航行する「比叡」の姿が描かれている。また背景には遼陽の白塔が描かれている。

日本の戦艦が切手に登場したのは、同じく御召艦であった香取型戦艦(香取と鹿島)を描いた1921年発行の皇太子(昭和天皇)帰朝記念切手以来2度目のことであった。

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「試験(2)」p.5
  2. ^ #吉田比叡p.7
  3. ^ #吉田比叡p.9
  4. ^ #吉田比叡p.12
  5. ^ 「軍艦比叡製造一件(1)」p.26
  6. ^ #吉田比叡p.13、「軍艦比叡製造一件(1)」p.8、「付製造命令及予算進水式関係(2)」p.26
  7. ^ 『官報』第96号、大正元年11月25日。
  8. ^ 「軍港と名勝史蹟」p.47
  9. ^ #吉田比叡p.15、「軍艦比叡製造一件(3)」pp.29-30
  10. ^ 「艦歴人歴調(2)」p.23
  11. ^ #吉田比叡p.18
  12. ^ #吉田比叡p.20
  13. ^ #吉田比叡pp.21-25
  14. ^ #吉田比叡p.31
  15. ^ #吉田比叡pp.28-29
  16. ^ 「軍艦比叡に「バラスト」搭載の件」p.4-5
  17. ^ #吉田比叡p.32
  18. ^ #怒りの海p.55
  19. ^ #海軍の昭和史143頁
  20. ^ 「満洲国皇帝陛下御来訪の際御召艦及警衛艦の件」
  21. ^ #海軍の昭和史p.86
  22. ^ #吉田比叡p.33、#日本海軍のこころpp.211-212
  23. ^ #吉田比叡p.39
  24. ^ a b #執務報告pp.7-8
  25. ^ #吉田比叡pp.36-39
  26. ^ a b c #吉田比叡p.40
  27. ^ a b c #吉田比叡p.41
  28. ^ #戦藻録(九版)p.234、#怒りの海p.209
  29. ^ 有馬馨『帝国海軍の伝統と教育』pp19、26
  30. ^ #第3戦隊2詳報p.5
  31. ^ #吉田比叡p.73-74
  32. ^ #第3戦隊1詳報p.6
  33. ^ #第3戦隊2詳報p.7
  34. ^ #第3戦隊2詳報p.46
  35. ^ a b c d #第3戦隊2詳報p.48
  36. ^ #第3戦隊2詳報p.52
  37. ^ #豊田撃沈p.71
  38. ^ #第3戦隊4詳報p.4
  39. ^ #第3戦隊3詳報p.48
  40. ^ #第3戦隊4詳報p.26
  41. ^ #吉田比叡p.111、#豊田撃沈]p.75、#第3戦隊4詳報p.28、「ミッドウエー海戦戦時日誌戦闘詳報(1)」p.4
  42. ^ #第3戦隊4詳報p.32
  43. ^ #吉田比叡p.112
  44. ^ #吉田比叡p.113
  45. ^ #吉田比叡p.114
  46. ^ #第3戦隊4詳報pp.43、48
  47. ^ #吉田比叡p.107、#11戦隊詳報(1)p.3
  48. ^ #吉田比叡p.109、#11戦隊詳報(3)p.3
  49. ^ #豊田撃沈p.81、#11戦隊詳報(2)p.21、p.26、p.45
  50. ^ #吉田比叡p.127
  51. ^ #吉田比叡p.128
  52. ^ #吉田比叡p.129
  53. ^ #吉田比叡p.132
  54. ^ #吉田比叡p.134
  55. ^ #吉田比叡p.146
  56. ^ #吉田比叡p.149
  57. ^ #吉田比叡p.151
  58. ^ #11戦隊詳報(2)pp.40、61
  59. ^ #11戦隊詳報(2)p.48
  60. ^ #11戦隊詳報(3)p.3、33
  61. ^ #11戦隊詳報(3)p.4、36
  62. ^ #吉田比叡p.183、#11戦隊詳報(4)p.7・13
  63. ^ #11戦隊詳報(4)p.39
  64. ^ #吉田比叡p.186
  65. ^ #吉田比叡p.189
  66. ^ #11戦隊詳報(5)p.3
  67. ^ #吉田比叡p.195
  68. ^ #吉田比叡p.196、#怒りの海p.47
  69. ^ #戦藻録(九版)p.229、#吉田比叡p.199、#11戦隊詳報(4)p.44、#11戦隊詳報(5)pp.4-5
  70. ^ #怒りの海pp.77-78
  71. ^ #戦藻録(九版)p.219、#豊田撃沈p.129、
  72. ^ #怒りの海p.92、#戦藻録(九版)p.230
  73. ^ #怒りの海p.93、#戦藻録(九版)p.231
  74. ^ #怒りの海pp.74-76
  75. ^ #豊田撃沈p.131、#五月雨p.137、#11戦隊詳報(5)p.8
  76. ^ #怒りの海p.85
  77. ^ #怒りの海pp.86-88
  78. ^ #豊田撃沈p.132、#主計大尉p.84、#11戦隊詳報(5)p.8-9
  79. ^ #怒りの海pp.81-83
  80. ^ #豊田撃沈p.133、#怒りの海p.90、#主計大尉p.85
  81. ^ #怒りの海p.91、#戦藻録(九版)p.230、#11戦隊詳報(5)p.9-10
  82. ^ #怒りの海pp.105-106
  83. ^ #怒りの海pp.111-112
  84. ^ #怒りの海pp.111-112、#豊田撃沈p.137-138、#11戦隊詳報(5)p.10
  85. ^ #豊田撃沈p.139、竹内大四郎(兵長、一番主砲五番砲手)談。
  86. ^ #怒りの海p.121、#豊田撃沈p.140、#11戦隊詳報(5)p.10
  87. ^ #豊田撃沈p.142、#主計大尉p.88、#11戦隊詳報(5)p.11,p.48
  88. ^ #怒りの海p.127
  89. ^ #怒りの海p.123、#豊田撃沈pp.142-144
  90. ^ #五月雨p.138
  91. ^ #五月雨p.139
  92. ^ #怒りの海p.136、#吉田比叡p.240、#11戦隊詳報(5)p.11
  93. ^ #怒りの海pp.129-134
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  95. ^ #吉田比叡p.246、#11戦隊詳報(5)p.12
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参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)
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    • Ref.A06031048400「週報 第322号」(昭和17年12月9日)「征戦第二年をかく戦はう」
    • Ref.A10110041000「14 紀元二千六百年特別観艦式 天皇陛下御召艦「比叡」ニ乗御」
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    • Ref.C05034731300「11.9. 特別任務中の室割其の他案内書の件(1)」
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    • Ref.C08030041000 『昭和17年1月1日~昭和17年9月30日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第3戦隊(1)』。
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    • Ref.C08030051400 『昭和17年7月14日~昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
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    • Ref.C08051583500 『昭和17年6月~昭和18年1月 隼鷹飛行機隊戦闘行動調査(2)』。

関連項目[編集]