霰 (朝潮型駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
Insert image here.svg
艦歴
計画 マル2計画
起工 1937年3月5日
進水 1937年11月16日
就役 1939年4月15日
その後 1942年7月4日戦没
除籍 1942年7月31日
性能諸元
排水量 基準:約2,000t、公試:2,400t
全長 118.00m
全幅 10.386m
吃水 3.71m(平均)
機関 艦本式オール・ギアードタービン2基2軸
ロ号艦本式重油専焼缶3基
51,000hp
最大速力 34.85kt
航続距離 18ktで5,190浬
燃料 重油580t
乗員 230名
武装(新造時) 50口径12.7cm連装砲 3基6門
25mm機銃 Ⅱ×2
(または13mm機銃 Ⅱ×2)
61cm4連装魚雷発射管 2基8門
(九〇式魚雷16本)
九一式爆雷×36

(あられ)は、日本海軍駆逐艦朝潮型の10番艦(最終艦)である。この名を持つ日本海軍の艦船としては春雨型駆逐艦「霰」に続き2隻目。朝潮型は速力と航続距離の性能不足の面から本艦をもって建造が打ち切られ、以降は新設計の陽炎型が建造された。

艦歴[編集]

舞鶴海軍工廠1937年(昭和12年)3月に起工、1939年(昭和14年)4月に竣工し、同時に第18駆逐隊に編入され、11月15日、第2艦隊第2水雷戦隊に編入された。

太平洋戦争開戦時には、同型艦「霞」、陽炎型の「陽炎」「不知火」と共に第18駆逐隊に属し、機動部隊の警戒隊として行動した。1941年(昭和16年)11月26日、ハワイ攻撃機動部隊の護衛として単冠湾を出港、ハワイ作戦(真珠湾攻撃)に参加、このとき航続距離の短さを心配して燃料を入れた大量の18リットル缶を艦内に積み上げていたと「霰」の緒方艦長は証言している[1]。12月14日から呉海軍工廠で修理を行った。

1942年(昭和17年)1月8日、を出港し機動部隊とラバウル攻撃に従事、以後、2月には第2航空戦隊ポートダウィン攻撃、ジャワ南方機動作戦、4月のセイロン沖海戦に参加し、4月24日、呉に入港し入渠整備を行った。5月にサイパンに進出、6月のミッドウェー海戦に攻略隊の護衛として参加、6月14日に第7戦隊を護衛してトラックに帰投した。6月28日、横須賀から水上機母艦「千代田」、「あるぜんちな丸」の護衛としてキスカに向かった。

7月5日、キスカ島沖で濃霧のため仮泊中に、米潜水艦「グロウラー」(USS Growler, SS-215)の発射した魚雷1本が左舷前檣下に命中した。前部魚雷発射管を吹き飛ばされた「霰」は主砲と残された魚雷発射管で反撃を試みたが逆にもう1本魚雷を打ち込まれ船体をV字に折られて沈没、104名が戦死した。その際、僚艦「霞」「不知火」も雷撃により大破した。「霰」は7月31日に除籍された。

時が流れた2006年8月に、沈没した米潜グラニオン(SS-216)捜索チームがソナーで水深100mに沈没している「霰」を発見した。ソナー画像によると、「霰」は前部魚雷発射管が装備されていた部分で船体が分断され、折れ口には機関や缶の残骸がある。その近くの海底には前部魚雷発射管の残骸がある。艦尾側は正立状態で、艦首側は約170度ほど右に回転し、艦橋が艦尾側に重なって横転した状態で沈んでいる。「霰」の1番砲塔は直立していて、「グロウラー」にむけて砲撃していたことを示している。

歴代艦長[編集]

艤装員長[編集]

  1. 大原利通 少佐:1938年3月15日 -

艦長[編集]

  1. 大原利通 中佐:1939年4月15日 -
  2. 緒方友兄 少佐:1941年9月10日 -

脚注[編集]

  1. ^ #佐藤 艦長たちp108

参考文献[編集]

  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
  • 佐藤和正著 『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』 光人社、1983年ISBN 4-7698-0207-2
    p107~110に、1980年8月25日に行われた霰艦長緒方友兄へのインタビューを掲載。真珠湾攻撃やキスカでの沈没について語られている。