丹後 (戦艦)

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Poltava1892-1904.jpg
竣工当時の「ポルタヴァ」
艦歴
発注 サンクトペテルブルク、ニュー・アドミラルティ海軍造船所
起工 1892年5月1日
進水 1894年11月6日
就役 1897年竣工、1900年6月就役。
退役
その後 1905年に旅順港で鹵獲後、8月22日に「丹後」として日本海軍で就役。
性能諸元(()内は「丹後」のもの)
排水量 常備:11,500トン(10,960トン)
満載:11,400トン
全長 114.6m
112.5m(水線長)
全幅 21.3m(21.34m)
吃水 8.6m(7.77m)
機関 形式不明石炭専焼円缶14基
(丹後:宮原式石炭専焼水管缶16基)
+直立型三段膨脹式三気筒レシプロ機関2基2軸推進
最大出力 竣工時:11,213hp
丹後:10,600hp
最大速力 竣工時:18.0ノット
丹後:16.2ノット
航続距離 竣工時:10ノットで3,500海里(満載)
丹後:10ノット/10,000海里
燃料 竣工時:石炭:700トン(常備)、1,000トン(満載)
丹後:2,056トン
乗員 668名
兵装 竣工時:
Pattern 1895 30.5cm(40口径)連装砲2基
Pattern 1892 15.2cm(45口径)連装速射砲4基&同単装速射砲4基
オチキス 4.7cm(43.5口径)単装速射砲12基
オチキス 3.7cm(23口径)ガトリング機砲28基
38.1cm水上魚雷発射管単装4門
45.7cm水中魚雷発射管単装2門
パラノフシキー 6.35cm(19口径)野砲2基
機雷50個
丹後:
30.5cm(40口径)連装砲2基
アームストロング 15.2cm(45口径)連装速射砲4基&同単装速射砲4基
アームストロング 7.6cm(40口径)単装速射砲10基
オチキス 4.7cm(43.5口径)単装速射砲4基
45.7cm水上魚雷発射管単装2門
装甲 クルップ鋼
舷側:185〜368mm(水線部主装甲)、185~305mm(主砲弾薬庫)、127mm(水線上部主装甲)、-mm(水線下隔壁)
主甲板:51mm(機関区・弾薬庫上面)
主砲塔:254mm(前盾・側盾)、51mm(天蓋)
主砲バーベット部:254mm(甲板上部)、102mm(甲板下部)
副砲塔:127mm(前盾・側盾)、25.4mm(天蓋)
副砲バーベット部:127mm
司令塔:229mm(側盾)、-mm(天蓋)

丹後(たんご)とは、かつて大日本帝国海軍に所属した戦艦である。

元は、ロシア帝国海軍が建造したペトロパブロフスク級戦艦(ポルタヴァ級艦隊装甲艦)の1隻ポルタヴァ(Полтава)である。姉妹艦にペトロパブロフスクセヴァストポリがあるが、ともに日露戦争において沈没し、戦没を免れた本艦のみ日露戦争時に日本海軍によって鹵獲された8隻の戦利艦の1隻として「丹後」と改名してから再就役した。

艦歴[編集]

ポルタヴァ時代の武装・装甲配置を示した図。

のちに丹後となるポルタヴァロシア語:Полтаваパルターヴァ)はポルタヴァ級艦隊装甲艦ネームシップとして建造され、1898年ロシア帝国海軍に編入された。ロシア海軍における類別は艦隊装甲艦Эскадренный броненосец)で、いわゆる前弩級戦艦と評価される。

ポルタヴァは日露戦争で日本海軍の旅順口攻撃に対応して戦っている。マカロフ中将がペトロパブロフスクの触雷沈没で戦死した4月23日には後続艦であったため同じく触雷で被害を受けた。旅順攻囲戦において黄海海戦に参戦したが、この戦いは日本側の勝利に終わり、本艦はウラジオストクへの離脱に失敗して旅順に戻った。203高地陥落後、同地に設置された日本陸軍の「28cm榴弾砲」からの曲射砲撃を受けて前部弾薬庫において炎上・弾薬庫爆発により艦底部に穴が開き浸水。旅順港内に大破着底したが、浅瀬に停泊していたために水没は免れた。

大日本帝国海軍戦艦「丹後」となった本艦。復旧時に上部構造物が簡略化された。

講和後の1905年5月に日本の業者によって浮揚処理開始、7月に浮揚されたポルタヴァは未修理のまま8月に日本海軍籍に編入され一等戦艦「丹後」と改名され、同月29日に舞鶴海軍工廠に回航後に応急修理を受けた。1907年に修理が完了する間に一等・二等の等級の区別が廃止され、単に戦艦「丹後」として大日本帝国海軍に編入された。 この折に海水に浸かったボイラーは国産の宮原式石炭専焼缶16基に換装され、それに伴って2本煙突も形状を変えた。前後のマスト上部に付くアンテナ用ポールも十字型のクロスツリーへと変更された。武装面では主砲と副砲はロシア製からイギリスのアームストロング社製の物に換装し、戦訓から対水雷艇迎撃用の「7.6cm(40口径)速射砲」を単装砲架で片舷5基ずつ計10基を追加し、艦首尾部の45.7cm水中魚雷発射管2基は全て撤去され、替わりに38.1cm水上魚雷発射管は使用する魚雷を大型の45.7cm魚雷に替えて使用した。

第一次世界大戦が勃発すると日本とロシアは同盟国になったため、1916年4月4日に日本海軍から除籍後、ロシア海軍側に返還された。返還後、元の艦名はガングート級戦艦で使用されていたためにチェスマЧесмаチスマー)と改称されてウラジオストック艦隊に所属した。その後は白海に移された。

1917年2月3日に白海艦隊に編入された。1917年10月、乗員はソヴィエト軍に参加することを決定。 1918年より始まったロシア内戦中の3月に、連合軍がムルマンスクに到着した時、本艦は同地に在泊しており、そのまま連合軍に捕獲された。

本艦は座礁状態であったためにイギリスの判断でボルシェビキ40人を収容するハルク兼刑務所として使用された。1919年10月、イギリス軍が撤退した後、1920年4月24日、チェスマはボルシェビキの白海艦隊に所属。1921年6月16日に保管のためにアルハンゲリスクに移され、検査を受けたがイギリス軍により修理の限度を超えた損傷を受けたため1923年に廃棄処分とされ、1924年7月3日に解役、その後アルハンゲリスクで解体された。

年譜[編集]

艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

日本海軍
  • (兼)茶山豊也 大佐:1908年8月28日 - 9月15日
  • 羽喰政次郎 大佐:1908年9月25日 - 11月5日
  • 山縣文蔵 大佐:1909年4月17日 - 回航中
  • (兼)上村翁輔 大佐:1911年3月1日 - 4月1日
  • 笠間直 大佐:1911年4月1日 - 11月1日
  • (兼)広瀬順太郎 大佐:1911年11月1日 - 12月1日
  • (兼)向井弥一 大佐:1911年12月1日 - 1912年6月29日
  • (兼)山崎米三郎 大佐:1912年6月29日 - 9月27日
  • (兼)松岡修蔵 大佐:1912年9月27日 - 1913年4月1日
  • (兼)水町元 大佐:1913年4月1日 - 12月1日
  • (兼)荒西鏡次郎 大佐:1913年12月1日 - 1914年4月17日
  • (兼)松岡修蔵 大佐:1914年4月17日 - 5月27日
  • (兼)秋沢芳馬 中佐:1914年5月27日 - 1914年8月18日
  • 秋沢芳馬 中佐:1914年8月18日 - 1914年12月1日
  • (兼)本田親民 大佐:1914年12月1日 - 1916年2月17日
  • (兼)久保来復 大佐:1916年2月17日 - 1916年12月1日

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『官報』第6619号、明治38年7月24日。

参考文献[編集]

  • 「Conway All The World's Fightingships 1860-1905」(Conway)
  • 「Conway All The World's Fightingships 1906–1921」(Conway)
  • 世界の艦船増刊第79集 日本戦艦史」(海人社)
  • 「世界の艦船増刊第35集 ロシア/ソビエト戦艦史」(海人社)
  • 「泉 江三 「軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上巻」(グランプリ出版)
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 官報

関連項目[編集]