ワシントン (BB-56)

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USS Washington (BB-56) in Puget Sound, 10 September 1945 (color).jpg
艦歴
発注 1937年8月1日
起工 1938年6月14日
進水 1940年6月1日
就役 1941年5月15日
退役 1947年6月27日
その後 1961年5月24日にスクラップとして売却
性能諸元
排水量 基準:35,000トン、満載:42,330トン
全長 222.11m
全幅 33.03m
吃水 9.64m
機関 バブコック&ウィルコックス式重油専焼水管缶8基
GE式ギヤード・タービン4基4軸推進
最大速 27ノット
乗員 士官:108名 兵員:1,772名
兵装 45口径40.6cm砲:9門
38口径12.7cm砲:20門
56口径40mm対空砲:60門
70口径20mm対空砲:36門

ワシントン (USS Washington, BB-56) はアメリカ海軍戦艦ノースカロライナ級戦艦の2番艦。艦名はアメリカ合衆国42番目の州にちなむ。その名を持つ艦としては9隻目[1]。8代目は未完成に終わったコロラド級戦艦。愛称はトムじいさん[2]

ワシントンは太平洋戦争を通じ日本海軍の攻撃で乗組員を失わなかった武運の強い艦である。一方、イギリス派遣時には司令官が転落死し、1943年1月31日には戦艦インディアナの右舷三番砲塔付近に衝突し、衝突事故を起こして本国修理に1ヶ月を要した。この際は数人の水兵が死亡している。

艦歴[編集]

ワシントンは1938年6月14日フィラデルフィア海軍工廠で起工された。1940年6月1日にヴァージニア・マーシャル(ジョン・マーシャルの直系の子孫)によって命名、進水した[3]。1941年5月15日にはフィラデルフィア海軍工廠内で就役し、艦長にハワード・H・J・ベンソンが就任した。日本の大和型戦艦と同じく、16インチ砲、自動砲撃管制装置、12万馬力28ノット発揮可能なタービンを搭載した新世代の戦艦だったが、パン焼き場の器材配置が悪く食事担当兵にとって働きにくいという些細な欠点もあった[4]。だが、それ以上に深刻な欠陥が明らかとなった。全力公試で22ノットを出した瞬間、艦内のプロペラ軸に通じるスケッグが震動し、艦全体が大きく震動するトラブルに見舞われたのである[5]。新しいスクリューに換装し、7月12日には28.5ノットを発揮したが、依然震動に悩まされた[6]。その後ドッグ入りし、スクリューを調整して震動問題は一応の解決を見たが、ワシントンが28.5ノットを発揮することは二度となかった[6]。     

太平洋戦争が始まる1941年12月までワシントンはアメリカ東海岸沿いやメキシコ湾で整備と訓練を行った。ワシントンと空母ホーネットは大西洋艦隊のジョン・W・ウィルコックス少将の指揮下に入り、ワシントンは第6戦艦部隊を編成し、旗艦となった。

1942年3月26日、ウィルコックス少将はイギリスに向かうため空母ワスプ、重巡洋艦ウィチタタスカルーサなどから構成される第39任務部隊を率いてポートランドメイン州)を発った。しかし、ポートランドを発った翌日に人が荒れ狂う大西洋に落ちたと警報が鳴り、間もなくウィルコックス少将が行方不明であることが判明した[7]。タスカルーサは救命ブイを投下し、天候が優れないにも関わらず空母ワスプから捜索のため航空機SBDドーントレスが発進して駆逐艦も捜索に加わった。駆逐艦ウィルソンの見張りが海面に目を落とすと、少し離れた距離の水中に少将を見つけたが、拾い上げることができなかった。旗艦のワシントンでは少将が海に落ちた原因について皆目わからず、一部の論者は心臓発作を起こしたか自殺したと考えた。

同27日12時28分にウィルコックス少将の捜索が中止され、次席指揮官であるロバート・C・ギフェン少将がウィチタを旗艦に任務部隊の指揮を引き継いだ。ドーントレス1機が着艦に失敗し、搭乗員は死亡した[8]。4月4日に任務部隊はオークニー諸島スコットランド)のスカパ・フロー泊地に到着し、ジョン・トーヴィー大将率いるイギリス海軍本国艦隊の指揮下に入った。

欧州での活動[編集]

ワシントンは本国艦隊で演習と訓練に加わり、4月7日の演習では英国戦艦「デューク・オブ・ヨーク」と対空演習射撃を行った[9]。第39任務部隊は第99任務部隊に再編される。第99任務部隊は1942年4月28日にソビエト連邦のムルマンスクに向かう船団の護衛をするため出撃した[10]

5月1日にトライバル級駆逐艦パンジャブと戦艦キングジョージ5世が衝突した。パンシャブは真っ二つに分断された[11]。ワシントンは船体が二つに折れたパンジャブとの衝突を回避すべく転舵したが、ワシントンの甲板に搭載されていた爆雷が水中に落ち、爆発した[12]

その間に2隻の駆逐艦がパンジャブ艦長、士官4名および182名の兵士を救助した。キングジョージ5世は修理のため駆逐艦マーチン、オリビに護衛されてスカパ・フローへ戻り[13]、ワシントンと護衛艦艇は5月5日までその場に留まる。このとき第99任務部隊はアイスランドのクバルフィヨルド(Hvalfjördur) に向かい、クバルフィヨルドで補給艦ミザール(USS Mizar, AF-12)から食糧の供給を受けた[14]。また潜水調査が行われたが、艦水線下に損傷なしという結果が得られ、一同を満足させた[15]。クバルフィヨではアメリカ及びデンマークの高官がギフェン提督を表敬訪問し、5月12日に彼の旗艦に乗艦した。

第99任務部隊はその後本国艦隊と合流のため5月15日に編成替えが行われ、6月3日にスカパ・フローに戻る。翌日ヨーロッパ方面艦隊の司令官ハロルド・スターク提督がワシントンに乗艦、その司令官旗を掲揚し、ワシントンには臨時司令部が置かれた。6月7日にはキングジョージ6世がワシントンを視察した[16]

スターク提督が艦を離れた後、ワシントンはソ連の港に通じる北極海の航路を哨戒した。7月にはビスマルク級戦艦ティルピッツが輸送船団PQ-17を攻撃するため出撃する可能性があったが、結局ワシントンとティルピッツが交戦することはなかった[17]。PQ-17船団は33隻のうち22隻が空襲とUボートの攻撃で沈没し、米国はワシントンを有効に活用できないイギリスに失望した[18]。7月14日にギフェン少将は旗艦をウィチタへ移し、ワシントンは駆逐艦ウェインラント、メイラント、リンドを伴ってアイスランドを離れた[19]。7月21日、ワシントンはニューヨークグレーヴズエンドに到着し、オーバーホールのため2日後にニューヨーク海軍工廠へ入渠した。


西太平洋の戦い[編集]

1942年8月初旬、米軍はウォッチタワー作戦を発動し、第一海兵師団がガダルカナル、ツラギ島、フロリダ島を占領した。日本軍は即座に反応した。第一次ソロモン海戦を筆頭に海戦が頻発し、「アイアンボトム・サウンド(鉄底海峡)」と両軍が呼ぶほどの激戦が繰り広げられた。8月29日、ワシントンはパナマ運河を通って太平洋に進出した。9月13日、トンガ諸島トンガタプ島、ヌクアロファ錨地に投錨[20]。10月7日、巡洋艦アトランタ、駆逐艦ベンハム、ウォークと共にガダルカナル島へ赴く。10月27日、伊-15号潜水艦から雷撃を受けたが回避に成功[21]。30日、仏領ニューカレドニア首都ヌメア、ダンビア湾に停泊した。11月11日、ワシントンはダンビア湾を出港し、空母エンタープライズ、戦艦サウスダコタ、重巡洋艦ノーザンプトン、軽巡洋艦サンディエゴ、駆逐艦8隻と、日本軍の輸送船団「東京急行」を迎撃するために出動した[22]。サウスダコタには”艦隊の疫病神”という評判が立っていた[23]

11月13日、阿部弘毅少将率いる第三戦隊、第四水雷戦隊、第十水雷戦隊から編成された第三艦隊前進部隊と、ダニエル・キャラガン少将率いる第67機動部隊第4群の巡洋艦部隊が交戦。日本側は戦艦比叡を失い、米軍はキャラガン少将が戦死し、相撃ちに近い形で海戦は終わった。戦略的には、ガダルカナル島ヘンダーソン基地砲撃を阻止したという意味で米軍の勝利である[24]。14日、ヘンダーソン基地から発進した急降下爆撃機と、エンタープライズ艦載機が日本軍艦隊を発見し、巡洋艦衣笠撃沈、摩耶五十鈴大破という戦果をあげる。田中頼三少将率いる輸送船団も6隻を失った。日本軍は大損害を受けたが、戦艦霧島を中心に部隊を再編し、再びガダルカナル島砲撃を企図した[25]

米軍は潜水艦トラウトの情報から近藤中将率いる艦隊の南下を察知し、第64機動部隊からワシントン、戦艦サウスダコタ、駆逐艦ウォーク、ベンハム、プレストン、グインを分離させ、鉄底海峡に配備した。11月14日深夜、ワシントンはサウスダコタとともにガダルカナル島砲撃のために接近してきた日本海軍艦艇を待ち伏せ、23時17分に軽巡洋艦川内に対して最初の砲撃を行った[26]。この砲撃は命中しなかった。日本軍の砲撃によりサウスダコタが大破する中、ワシントンは戦艦霧島とサウスダコタの区別をつけかねていた[27]。霧島が探照灯をつけたことで日本軍と判断し、午前零時から主砲75発を発射[28]。霧島に9発の命中弾を与え、撃沈している(第三次ソロモン海戦)。これは太平洋戦争における初の戦艦同士の砲戦であった。また重巡洋艦や駆逐艦からの魚雷攻撃を受けるが、信管が過敏に設定されていた為、ワシントンの艦首波によって魚雷が自爆してしまい、命中しなかった。ワシントンは「勇敢で熟練した操艦技術」で魚雷回避に成功したと報告している[29]。この夜戦でワシントンの受けた損傷は、艦橋に5インチ砲1発が命中したのみだった[30]

ワシントンとサウスダコタはダンビア湾で修理を行った。ここで「ワシントンはサウスダコタを見殺しにして逃げた」という噂が広まり、留置場が一杯になる程の喧嘩が繰り広げられた[31]。サウスダコタの艦長は本国に戻ると「1943年5月サタデー・イブニング・ポスト」誌でサウスダコタの活躍を誇張し、ワシントンが逃走したと宣伝したので、両艦乗組員の間に戦後にまで禍根を残した[32]

戦艦同士の砲撃戦が終わると、ワシントンは対空・対地砲撃に活躍するようになる。マリアナ沖海戦では撤退する日本艦隊の追撃命令がワシントンに下され、誰もが「大和」のことを噂したという[33]。しかし「大和」との砲戦のチャンスはなかった。1944年9月にワシントンはその主砲でパラオペリリュー州アンガウル州に対する艦砲射撃を行い、10月10日には沖縄攻撃(十・十空襲)を行う空母部隊の支援を行った。11日から14日までルソン島北部および台湾に対する攻撃を行い、21日にはヴィサヤ諸島への空襲支援に参加している。レイテ沖海戦ではハルゼーの命令に従って小沢機動部隊を追撃し、「大和」との決戦を望んでいたワシントン将兵は落胆した[34]。また戦艦伊勢と日向まで42kmの地点まで接近していたが、南に引き返した[35]。1944年11月5日から1945年2月17日までワシントンは高速空母機動部隊の護衛として琉球諸島、台湾、ルソン島、カムラン湾仏領インドシナサイゴン香港広東海南島南西諸島、そして日本の首都である東京への攻撃に参加した。

1945年2月19日から22日までワシントンは硫黄島への上陸部隊支援として艦砲射撃を行った。その16インチ主砲と5インチ副砲による砲撃は硫黄島の日本軍拠点、砲兵陣地および将兵を撃破した。続く2月23日から3月16日まで硫黄島での支援活動を行い、2月25日には東京に対する空襲を行う空母の護衛を行った。3月18日、3月19日および3月29日には本州の航空基地を含む重要拠点に対する空襲を行う空母部隊の護衛を務め、3月24日におよび4月19日には沖縄島の日本軍に対する砲撃を行っている。

絶え間なく続いた任務の後、1945年6月1日にレイテ島サンペドロ湾に錨泊したワシントンは6月6日にピュージェット・サウンド海軍工廠にむけて出航する。途中グアムと真珠湾に立ち寄り、ピュージェット・サウンドに到着したのは6月28日のことであった。

結局ワシントンは太平洋戦線の前線に再び参加することはなかった。ワシントンの最後の軍役は8月中旬の東京湾での活動及び9月2日の降伏調印式への参加であった。その後カリフォルニア州サンペドロで修理後の公試を行い、パナマ運河を通過して大西洋に戻る。10月6日にフレデリック・C・シャーマン中将率いる11.6任務群に加わり、10月17日にフィラデルフィア海軍造船所に到着、10月27日に海軍記念式典に参加した。

戦後[編集]

1945年11月2日マジック・カーペット作戦の一環として陸上部隊の輸送に駆りだされることになり、その日から造船所で寝台の増設を行った。工事は11月15日に完了し、乗組員の構成は士官84名、水兵835名まで減らした。ワシントンは11月16日にイギリスへ向けて出発し、11月22日にサウザンプトンに到着した。

その後、陸軍の士官185名と下士官兵1,479名をニューヨークに輸送した。ワシントンは輸送任務を終えると1947年6月27日に予備役入りとなり、大西洋予備役艦隊のニューヨーク部隊に加わり、1960年6月1日には海軍籍から除籍された。1961年5月24日に売却、解体された。

ワシントンはノルウェー沖の北極海での活動を始め、太平洋の南から西まで駆け回った。第二次世界大戦中、13個の従軍星章を授与された。

脚注[編集]

  1. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』18頁
  2. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』408、410頁
  3. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』22頁
  4. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』27頁、ジョン・バーンズ2等兵曹(パン焼き班)
  5. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』31-33頁
  6. ^ a b ミュージカント『戦艦ワシントン』34頁
  7. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』52-53頁
  8. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』55頁
  9. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』59頁
  10. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』63-64頁
  11. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』67頁
  12. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』68頁
  13. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』69頁
  14. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』70頁
  15. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』71頁
  16. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』75-76頁
  17. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』85頁
  18. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』86頁
  19. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』87頁
  20. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』102頁
  21. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』130-131頁
  22. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』136頁「やつらはここへ来る」
  23. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』131頁
  24. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』146頁
  25. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』150頁
  26. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』158頁
  27. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』168頁
  28. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』173頁
  29. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』176頁
  30. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』177頁
  31. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』183頁
  32. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』184-185頁
  33. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』325頁
  34. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』359頁
  35. ^ ミュージカント『戦艦ワシントン』366頁

参考文献[編集]

  • イヴァン・ミュージカント著『戦艦ワシントン 米主力戦艦から見た太平洋戦争』中村定、訳(光人社、1988年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]