黒島亀人

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黒島 亀人
Kuroshima Kameto.jpg
生誕 1893年10月10日
日本の旗 大日本帝国 広島県安芸郡(現呉市)
死没 1965年10月20日(満72歳没)
所属組織 大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍
軍歴 1916年 - 1945年
最終階級 海軍少将
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黒島 亀人(くろしま かめと、1893年10月10日 - 1965年10月20日)は、広島県安芸郡出身の大日本帝国海軍軍人海兵44期卒業。最終階級は海軍少将

生涯[編集]

1893年10月10日広島県安芸郡(現呉市)吉浦町で石工の亀太郎のもとに生まる。亀人が3歳のとき、実父は出稼ぎに行ったロシアで急死し、実母ミネは離縁されて実家に帰った[1]。亀人は石工鍛冶屋の叔父・黒島重郎の養子となる[2]

小学校を卒業後は旧制海城中学夜間部に通っていたが[3]広島市私立明道中学の夜学4年に編入した。昼は養父の仕事を手伝い、夜は学校に通った。勤勉で頭もよかったが、風変わりと陰口も叩かれていた。養父母は黒島が医者になることを希望したが、亀人は一生官吏として生活できる軍人になるために海軍兵学校の受験を選んだ[4]。1913年9月3日、海軍兵学校44期に100人中60番の成績で入学[5]。海兵時代は禅・宗教・哲学に熱中していた。1916年11月22日、95名中34番の成績で卒業[6]、少尉候補生。練習艦隊「常盤」乗組、近海航海に出発。1917年3月3日帰着。4月5日練習艦隊で遠洋航海に出発。8月17日帰着。戦艦「山城」乗組。1917年12月少尉任官。1918年7月2日亀人が大切にしていた養母ミツが腸チフスで死去。亀人は乗艦である戦艦山城」から病院に急行、面会禁止の規制を無視して看病をおこなっていた[7]。11月9日装甲巡洋艦「八雲」乗組。

1919年12月1日中尉、水雷学校普通科学生。1920年5月31日砲術学校普通科学生。1921年12月1日巡洋戦艦「金剛」分隊長心得。1922年12月大尉、海軍砲術学校高等科学生。1923年12月1日卒業、「波風」乗組。1925年7月広島市西条町の旅館「大正館」の長女・森マツノと結婚。1925年12月月1日日砲術学校教官。

1926年12月1日海軍大学校(甲種26期)に入校する[8]、1928年12月卒業。少佐。海軍少佐。第二遣外艦隊参謀。1929年11月30日、戦艦陸奥」副砲術長。「鉄砲屋」としてのコースを歩む[9]。1930年12月1日佐世保海兵団分隊長。1931年11月2日重巡洋艦「羽黒」砲術長。妙高型重巡洋艦の主砲命中率向上に成功する。1932年11月15日高雄型重巡洋艦愛宕」砲術長[10]

1933年11月15日海軍省軍務局一課局員[11]。兼海軍技術会議議員。1934年11月15日中佐。

1937年3月10日、第四戦隊首席参謀。重巡洋艦「足柄」乗艦。5月イギリスで行われたジョージ6世戴冠記念観艦式に参加する[12]。その帰途である5月25日から31日、ドイツのキール軍港に停泊、総統官邸を訪問してアードレル三等勲章を受領した[13]。7月15日軍令部出仕。7月28日第九戦隊参謀。11月20日第二艦隊首席参謀[14]

1938年11月15日大佐。12月20日海大教官。戦略の講義内容は太平洋戦争初期の作戦についてであった。

連合艦隊首席参謀[編集]

南方作戦[編集]

1939年10月20日、連合艦隊首席(先任)参謀。兼第一艦隊首席参謀(1941年8月11日免兼)。8月に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六による抜擢であり、黒島は山本長官に寵愛され4年以上という異例の長期間、連合艦隊の首席参謀を務めた[15]

山本は宇垣纏参謀長を嫌い、宇垣の頭越しに黒島ら幕僚に直接命令したり、報告を受けたりした[15][16]山本五十六は「黒島は人の考えが及ばぬところ気づかぬところに着眼して深く研究する。奇想天外なところもあるしかもそれを直言してはばからない美点がある。こういう人がいなければ天下の大事なせぬ。だから手放さない」と話している[17]。連合艦隊作戦参謀三和義勇大佐は「黒島は天才。自分はその潤滑油のようになろう」と日記に残している[18]

1941年(昭和15年)山本五十六長官は、第十一航空艦隊参謀長大西瀧治郎真珠湾作戦の航空攻撃案の作成を極秘に依頼して原案を作成、山本はそれを黒島に提示した[19][20]。黒島は旗艦「長門」の私室にこもり心血を注いで全体成案を練った[16][20]

1941年10月19日、黒島は山本長官に派遣され、軍令部に真珠湾攻撃決行の同意を取り付けに行き、「山本長官はハワイ作戦を職を賭しても断行すると主張しておられる。もし、この案が容れられなければ、皇国の防衛に対し責任が持てないと伝えよと言われた。長官はその職を辞するほかない。われわれ全幕僚も同様である」と切り出し説得に成功した[21]

1941年12月、真珠湾攻撃に成功。連合艦隊司令部では、黒島ら幕僚が山本長官に第一航空艦隊にさらなる反復攻撃の命令をすべきと意見具申したが、山本長官は「南雲はやらんだろう」「機動部隊指揮官(南雲)に任せよう」と言い、宇垣纏参謀長も今から下令しても時機を失し攻撃が翌朝になると反対した。南雲忠一第一航空艦隊長官もさらなる攻撃は行わなかった[22]

1942年3月、連合艦隊作戦参謀三和義勇大佐から第四艦隊を航空艦隊にする改組案が提出されたが、それを受けた黒島は却下した[23]

1942年4月1日、連合艦隊司令部では黒島と渡辺安次参謀を中心に山本の望むハワイ攻略をにらんだミッドウェー島攻略作戦が独自に作成され、早く認めさせるため大本営の望むFS作戦を組み入れてまとめられた。連戦連勝の驕りから成功を前提にスケジュールが組まれ、敵勢力を事前に調べることもしなかった。また航空関係者が不在のまま立案が進められた。FS作戦を進めたい軍令部作戦課はこれに反対したが、渡辺が協議しFS作戦に修正を加えて合意した[24]

1942年(昭和17年)5月6-8日珊瑚海海戦では、井上成美が指揮する第五航空戦隊(空母翔鶴瑞鶴)が主力となって戦った。アメリカは損害を受け撤退しはじめるが、日本艦隊も多数の航空機と搭乗員を失い、燃料不足もあって追撃を中止して北上した。戦線後方の黒島ら連合艦隊司令部は「第四艦隊は敗戦思想に陥っている」として参謀長の名で追撃するよう宇垣纏連合艦隊参謀長に迫った[25]

ミッドウェー作戦[編集]

黒島らの立案したミッドウェー作戦は十余りに分けられた艦隊、船団が別の場所から異なった時間にミッドウェーを目指すという精緻かつ複雑な作戦であったが[26]、ミッドウェー上陸の日を1942年6月7日下弦の月の月出の午前0時と固定したため、作戦の柔軟性を失った[27]

黒島と渡辺は、事前に制空権を獲得するためミッドウェー基地を攻撃する実行部隊である第一航空艦隊の南雲忠一長官と草鹿龍之介参謀長に批判的であり山本五十六長官に南雲長官の交代を要望したが聞き入れられなかった[28]また第一航空艦隊には敵機動部隊撃滅も命令しており、攻撃隊の半数を待機させるように山本長官は南雲に指示したが、黒島は命令として書き込む必要はないとしたため命令には加えられなかった[29]。実行部隊からは準備が間に合わないと反対の声が大きかった。黒島は、研究会で源田実第一航空艦隊航空参謀から兵力を集中できるようになるまで待ちアメリカ艦隊撃滅に重点を置くべきと反対されたが、「連合艦隊長官は一度決めた方針に邪魔が入ることを望まれない。機動部隊の主要任務はミッドウェー攻略支援だ」と答えた[30]

ミッドウェー作戦は、真珠湾に米機動部隊が在泊していることを前提として計画しており、そのため連合艦隊は、真珠湾の動静確認が重要で知敵手段として潜水艦哨戒配備と二式飛行艇での敵情偵察を行うK作戦を計画したが、失敗した。この報告を受けた連合艦隊は計画が崩れたことに何ら対策を取らなかった。戦後、連合艦隊参謀黒島亀人は「海軍の常識からいえば、この場合の散開線構成は、西方で散開隊形を概成したのち東進して、所定配備に潜水艦をつけるべきである。ところが私の敵情判断の間違いなどから、あんな配備のつき方を計画してしまった。そのうえ、連合艦隊の指導が至らず潜水艦の準備が遅れてしまった。また、今次作戦は連合艦隊の主兵力を使って行なう作戦であるから、潜水部隊は連合艦隊の全兵力を集中すべきであった」と語っている[31]K作戦失敗で完全に日本は敵機動部隊の知敵手段を失ったが、黒島は「わが機動部隊は無敵で、敵を圧倒できると信じていたので、このため特別な処置は考えなかった」という[32]

真珠湾にいるはずである敵機動部隊の動向の情報を南雲艦隊から機を逸せず知らせてほしいと出撃前に頼まれ、作戦の転換は連合艦隊から知らせることになっていたが、連合艦隊司令部は敵機動部隊が真珠湾を出たらしいことを察知したにもかかわらず南雲艦隊へ伝えることを怠った[33]。連合艦隊は5月中旬から敵通信が増加したことに気に止めなかったが、6月3日までに入手した情報から我が動静偵知し活発に動いている、警戒すべきも好ましいと考えていた[34]。4日ごろには敵機動部隊が存在する兆候をつかみ、山本は「南雲艦隊に知らせるか?」と幕僚に相談したが、黒島参謀は攻撃隊の半数を迎撃に備えているはず、向こうも兆候つかんでいるだろうし、無線封止のためやめておくべきという進言で一航艦へは伝わらなかった。南雲艦隊はそれを受けておらず黒島は戦後自分のミスであったと反省している[35]。また連合艦隊は全部隊へ東京からの甘い状況判断を流し続けたままであった[36]。そのため南雲艦隊は周囲に敵機動部隊はいないものとして行動しており、攻略のための攻撃が不十分と知ると待機を指示された攻撃隊を使用した。

1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー海戦において、日本軍はミッドウェー島攻撃中に敵機動部隊から攻撃を受け、南雲機動部隊の主力空母4隻他を喪失する大敗北を喫する。南雲機動部隊が米軍艦載機の奇襲で壊滅すると黒島ら連合艦隊司令部はパニックになり、それまで山本や黒島から無視されていた宇垣纏参謀長が事態を収拾した[37]。黒島は空母「赤城」が炎上しつつ沈んでいないことを知ると、米軍が鹵獲してワシントンD.C.で展示されることを恐れる一方「といって陛下の御艦を魚雷で沈めるのは、私にはできません」と混乱する[38]。結局、山本が決断し、「赤城」は随伴駆逐艦の魚雷で自沈処理された。翌日昼ミッドウェー島を砲撃する案を渡辺が作り黒島はそれに同意して提出したが、山本はそれを却下した[39]

黒島によれば、敗退後、戦艦大和」に報告にきた南雲艦隊のメンバーが下手なことを言おうものなら艦橋でブッタ斬ってやるような気持ちで舷梯から揚がってくるかれらを睨んでいたが即時待機していた半数の飛行機はどうしたという黒島の問いに彼らはただすみませんでしたと謝るばかりで、連合艦隊の作戦計画や指導に触れなかったという[40]

ガダルカナル島の戦い[編集]

1942年11月第三次ソロモン海戦で、宇垣がガダルカナル島飛行場砲撃に向かう「日本軍挺身艦隊」と米艦隊が遭遇することを危惧すると、黒島は「夜になったらいつもどおり米軍は逃げる」と主張して作戦を発動した[41]。その結果待ち構えていた米艦隊と夜間艦隊戦となり、戦艦比叡」が舵の故障を起こしてしまう[42]。「比叡」を敵に捕獲されることを恐れ第11戦隊司令官は処分許可を山本に求めた。その自沈処分を巡って処分すべきとする山本に同意した宇垣に対し「比叡が浮いている限り輸送船団に対する攻撃を吸収する可能性がある」と黒島は反論し、最終的に山本は処分待てと命令した[43]

1943年4月初旬、山本はい号作戦のためラバウルに行った。その際小沢治三郎第三艦隊長官に黒島に代わる人材の推挙を依頼していた[44]

1943年4月、山本五十六連合艦隊長官の乗機が撃墜され死亡した(海軍甲事件)。黒島はたまたま腹を下して乗り合わせなかった[45]小沢治三郎は山本の視察計画に不安を感じ、護衛の零式艦上戦闘機を増やすよう黒島に伝えているが、結局護衛は6機しか配備されていなかった[46]

1943年6月20日軍令部出仕。

軍令部第二部長[編集]

1943年7月19日、軍令部第二部部長に就任[47]。黒島の軍令部第二部長就任は海軍特攻の採用に決定的な意義を持つことになる[48]。第一部長中澤佑少将によれば、特攻のイニシアティブを握っていたのは黒島と特攻部長大森仙太郎であったという[49]

黒島は連合艦隊首席参謀のころからすでに同僚や軍令部に爆装したモーターボートによる体当たり攻撃(後の特攻兵器震洋)の構想を語っており[50]、軍令部着任後も1943年8月6日軍備考査部会議の席で黒島は必死必殺の戦を行なう必要があるとし、その一例として、戦闘機による衝突撃(航空特攻)の戦法を挙げた。また1943年8月11日の戦備考査部会議では今後の戦備方針として必死必殺法とあいまつ不敗戦備を確立を主張する[51]

1944年2月初め、アメリカ軍の侵攻により重要拠点だったマーシャル諸島クェゼリン環礁などの守備隊が全滅(クェゼリンの戦い)。それを受けた黒島は、大発に魚雷を積んでリーフを越えて攻撃する作戦を提案する。構想は潜水艦9隻に特四式内火艇を各2隻づつつみマーシャル在伯の米艦隊への奇襲攻撃をするもの。軍令部潜水艦部員藤森康男中佐が同様の構想で1943年より進めていた水陸両用車特四式内火艇案が取り上げられて実験が進められた。積み込む潜水艦を4隻試作、甲標的の搭乗員を充当して、基地を作り訓練が進められた[52]竜巻作戦として雄作戦あ号作戦の中での実行が計画されたが、実現はせずに終わった[53]

1944年2月15日兼第四部長(8月19日免兼)。

1944年4月4日、黒島は「作戦上急速実現を要望する兵力」と題する特攻兵器を含む各種提案を行った。内容は、飛行機増翼(民間の佐藤五郎考案、航続力増加で戦力4倍を見込むとするもの)、体当たり戦闘機、小型潜水艇(水中での戦闘機)、局地防備用可潜艇(甲標的丙型)、装甲爆破艇(震洋[54]、自走爆雷艇、1名速力50節航続4万米の大威力魚雷(回天)であり、軍令部で検討後、海軍省へ各種緊急実験を要望し艦政本部は特攻兵器の特殊緊急実験を開始した[55]。後に大田正一発案の 桜花が海軍省航空本部より持ち込まれると黒島はそれも承認して研究が開始した[56]

1945年5月27日軍令部出仕兼部員。11月20日予備役。

戦後[編集]

黒島は終戦時に宇垣纏の日記『戦藻録』の一部を勝手に処分している。『戦藻録』は、昭和16年から昭和20年まで、宇垣纏によってほぼ毎日書かかれた太平洋戦争当時の連合艦隊の当事者の心の推察や作戦の内幕を知る上で貴重な資料である。しかし、昭和17年11月から昭和18年2月頃までの日記は欠落している。黒島は極東国際軍事裁判証人として出廷するために借りたいと遺族から受け取り、該当部分のみ電車に置き忘れたとしているが、黒島は軍事裁判に出席していなかった[57]。また、軍令部からも重要書類を借り受けて紛失させている。連合艦隊通信参謀市来崎秀丸からも連合艦隊電令作綴を受け取り焼却処分している[58]。何らかの保身のため、黒島にとって都合の悪い部分が書いてある箇所を処分したのではないのかという指摘されている[59]

戦後は、顕微鏡を扱う「白樺商事」の常務となる。黒島は山本五十六の未亡人山本礼子の厳しい生活を聞き、副社長の座を提供することで援助の手をさしのべた[60]

その後、麹町の広大な旧鍋島侯爵邸に住み哲学、宗教の研究に没頭した。旧友が訪ねてくると「今、俺は宇宙、人間、生命の研究をしているのだ。最近ついに『零の研究』をして悟ったよ」と言って煙に巻いた。居候していた木村邸には膨大な研究ノートが残されている[61]。1965年、肺癌のため没[62]。享年72。その遺言は「南の島に飛行機が行く」であった[63]

人物[編集]

黒島はヘビースモーカーで作戦を考案する際、素っ裸で部屋にこもり、想を練り始めると時間の観念も忘れ、ひたすらタバコを吸いながら、食事も取らず風呂にも入らず没頭した[64][65]

周囲は先任参謀に引っ掛け「変人参謀」[64]、「仙人参謀」、「ガンジー」、あるいは秋山真之の再来[66]と呼んだ。ゴードン・ウィリアム・プランゲ博士は黒島を「精力的な思索家」「山本の牧羊犬」と評した[67]

禿頭で年より老けて見えたため、山本と同宿した時、旅館の女中が山本より9歳年下の黒島を長官と思い込み対応した、という逸話も残っている[68]

演じた俳優[編集]

脚注[編集]

  1. ^ #山本と黒島28-30頁
  2. ^ 太平洋戦争研究会『47都道府県「日本陸海軍」人物ファイル』PHP文庫236頁
  3. ^ 小林久三 『光と影 奇骨の参謀黒島亀人の生涯』 光人社 1989年
  4. ^ #山本と黒島32頁
  5. ^ #山本と黒島41頁
  6. ^ #山本と黒島34、43-44頁
  7. ^ #山本と黒島45-46頁
  8. ^ #山本と黒島50頁
  9. ^ #山本と黒島55頁
  10. ^ #山本と黒島58頁
  11. ^ #山本と黒島59頁
  12. ^ #山本と黒島37頁
  13. ^ #山本と黒島39頁
  14. ^ #山本と黒島61-62頁
  15. ^ a b 週刊新潮、2011年12月22日号146-149頁
  16. ^ a b 黒野耐戸高一成戸部良一秦郁彦半藤一利平間洋一福田和也保阪正康『昭和陸海軍の失敗――彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか』、文藝春秋、2007年、193-201頁
  17. ^ 丸『山本五十六と連合艦隊司令部―悲劇の提督の生と死』光人社NF文庫32頁
  18. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫17-18頁
  19. ^ 戦史叢書10ハワイ作戦p91-93、千早正隆『日本海軍の驕り症候群上』中公文庫101-103頁
  20. ^ a b #春秋sp144-147頁
  21. ^ #山本と黒島128-129頁
  22. ^ 戦史叢書80大本営海軍部・聯合艦隊(2)昭和十七年六月まで78頁
  23. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫17-18頁
  24. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫21-31頁
  25. ^ #良い参謀良くない参謀104頁
  26. ^ #山本と黒島212頁
  27. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫85頁
  28. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦p537
  29. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫96頁
  30. ^ プランゲ『ミッドウェーの奇跡上』千早正隆訳 原書房51-52頁
  31. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦199頁
  32. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦246頁
  33. ^ 奥宮正武『太平洋戦争と十人の提督下』学研M文庫213頁、戦史叢書43ミッドウェー海戦251頁
  34. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦243-246頁
  35. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦249-250頁
  36. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦585-586頁
  37. ^ #良い参謀良くない参謀65頁
  38. ^ #良い参謀良くない参謀112頁
  39. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫198-200頁
  40. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦p537、#良い参謀良くない参謀99頁
  41. ^ #山本と黒島284頁、#良い参謀良くない参謀74頁
  42. ^ #山本と黒島285頁
  43. ^ #山本と黒島287-288頁、#良い参謀良くない参謀75頁、千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫143-144頁
  44. ^ #山本と黒島295-296頁、#良い参謀良くない参謀91頁、千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫147-148頁
  45. ^ 別冊宝島1430号 「太平洋戦争秘録 壮烈!日本海軍指揮官列伝」宝島社、2007年
  46. ^ #山本と黒島312頁
  47. ^ #山本と黒島332頁
  48. ^ 戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p322、人間機雷 「伏龍」特攻隊 p88 瀬口晴義著 講談社
  49. ^ 戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦までp75
  50. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 322、324頁、#山本と黒島350頁、遙かなり真珠湾 山本五十六と参謀・黒島亀人 p380-381 阿部牧郎著 祥伝社
  51. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p322
  52. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦431-432頁
  53. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦127-129頁
  54. ^ 辰巳 保夫さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス - NHKオンライン
  55. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p326-327
  56. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』66-67頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 333頁
  57. ^ #良い参謀良くない参謀109-110頁
  58. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫143頁
  59. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群』上(中公文庫、1997年) ISBN 4-12-202992-9 第一章 自信から過信へ 山本の司令部内の対立、摩擦、亀裂 『戦藻録』の欠落部分 p140~p148
  60. ^ #黒島379-380頁
  61. ^ #山本と黒島382頁
  62. ^ #山本と黒島383頁
  63. ^ #山本と黒島384頁
  64. ^ a b 日本海軍400時間の証言 255-259頁
  65. ^ #山本と黒島122頁
  66. ^ #山本と黒島208,221頁、#良い参謀良くない参謀84-85頁
  67. ^ #山本と黒島204、253頁
  68. ^ #山本と黒島204頁
  69. ^ 椎名桔平、「目と耳と心をオープンにして」感じてほしい ニュース-ORICON

参考文献[編集]

  • 小林久三 『連合艦隊作戦参謀 黒島亀人 一国の命運を分けた山本五十六と黒島亀人』 光人社NF文庫、1996年5月。ISBN 4-7698-2121-2
  • 吉田俊雄 『良い参謀、良くない参謀 8人の海軍サブリーダーを斬る!』 光人社、1996年9月。ISBN 4-7698-0786-4
  • 光と影 奇骨の参謀 黒島亀人の生涯 小林久三著
  • 四本の火柱 高速戦艦勇戦記 豊田穣著 集英社
  • 日本海軍を動かした人びと 勝海舟から山本五十六まで 半藤一利著 力冨書房
  • 指揮官と参謀 コンビの研究 半藤一利著 文藝春秋
  • 四人の連合艦隊司令長官 吉田俊雄著 文藝春秋
  • 山本五十六 阿川弘之著
  • 太平洋戦史シリーズ 第1巻 奇襲ハワイ作戦 学習研究社
  • 太平洋戦史シリーズ 第4巻 ミッドウェー海戦 
  • 戦史叢書 大本営海軍部 聨合艦隊 
  • 人間機雷 「伏龍」特攻隊 瀬口晴義著 講談社
  • 運命の夜明け 真珠湾攻撃全真相 森史朗 光人社
  • 特攻 外道の統率と人間の条件 森本忠夫 文藝春秋
  • トラ トラ トラ ‐太平洋戦争はこうして始まった‐ ゴードン・プランゲ 並木書房 
  • 日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦 NHKスペシャル取材班 新潮社
  • 戸高一成徹底検証 日本史を動かした10人の軍師(6) 秋山真之・黒島亀人 日本海開戦と真珠湾攻撃の栄光と挫折」、『文藝春秋special』第26巻、文藝春秋、2013年・冬、 144-147頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]