黒島亀人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
黒島亀人
1893年10月10日 - 1965年10月20日
生誕地 広島県安芸郡(現呉市)
軍歴 1916年1945年
最終階級 海軍少将
除隊後 (不明)

黒島 亀人(くろしま かめと、1893年10月10日 - 1965年10月20日(肖像)は、大正昭和期の軍人海軍少将太平洋戦争期の連合艦隊先任参謀広島県呉市出身。海兵44期。山本五十六懐刀として真珠湾攻撃を立案、また特攻を発案した異能の参謀[1]ゴードン・ウィリアム・プランゲ博士は「精力的な思索家」「山本の牧羊犬」と評した[2]

目次

[編集] 生涯

[編集] 生い立ち

広島県安芸郡吉浦町(現在の呉市吉浦町)生まれ[3]。3歳の時、石工の父・亀太郎が出稼ぎに行ったロシアで急死[4]。母ミネは離縁され実家に帰り、孤児同然となった亀人は叔父夫婦に育てられた。このことがトラウマとなり内向的性格を生んだとも言われる[5]。叔父は鍛冶屋で、小学校を卒業すると旧制海城中学夜間部に通う[6]。その後、広島市私立明道中学の夜学4年に編入した。昼は鍛冶屋の仕事を手伝い夜は学校に通い、帰ってからも寝食を忘れて勉強に熱中した。このころから近所の人たちに風変わりと陰口をたたかれたが、頭はずば抜けてよかった。養父母は黒島が医者になることを希望したが、出した答えは一生官吏として生活できる軍人生活・海軍兵学校への入学だった[7]。兵学校入試の成績は100人中60番目で[8]、海兵時代は禅・宗教・哲学に熱中、卒業順次は95名中34番である[9]。黒島は養母ミツを大切にし、養母が腸チフスで死亡した際には乗艦である戦艦山城」から病院に急行、面会禁止の規制を無視して看病をおこなっている[10]

[編集] 連合艦隊首席参謀

海軍兵学校を卒業後、海軍砲術学校を卒業、1926年12月に海軍大学校(甲種26期)に入校する[11]。1928年12月の卒業後は、戦艦陸奥」の副砲術長など「鉄砲屋」としてのコースを歩む[12]。重巡洋艦「羽黒」砲術長時代、妙高型重巡洋艦の主砲命中率向上に成功し、続いて妙高型を改良した高雄型重巡洋艦愛宕」の砲術長を拝命する[13]。この頃から砲術家として能力を認められ、1933年11月に海軍省軍務局一課局員へ転じた[14]中佐進級後の1937年、第四戦隊先任参謀として重巡洋艦「足柄」に乗艦し、イギリスで行われたジョージ6世戴冠記念観艦式に参加する[15]。ドイツでアードレル三等勲章を受領した[16]。第九戦隊先任参謀に転じた後11月に第二艦隊先任参謀となり、参謀としての経験を積んだ[17]1938年に大佐に進級、海大教官となる。海大教官時代の戦略の講義内容は太平洋戦争初期の作戦だったという。翌1939年8月、山本五十六連合艦隊司令長官に就任。同年10月、山本に連合艦隊の実質最高位ポストである先任(首席)参謀に抜擢された。日米開戦の二年二ヶ月前だった。山本はそれまでの伝統的発想の持ち主でなく、当時から異端と揶揄されても新しいアイデアを創造できる黒島を起用したのではないか、と言われている[18]。まわりからは先任参謀に引っ掛け「変人参謀」[19]、「仙人参謀」、「ガンジー」、あるいは秋山真之の再来と呼ばれた[20]。禿頭で年より老けて見えたため、山本と同宿した時、旅館の女中が山本より9歳年下の黒島を長官と思い込み対応した、という逸話も残る[21]。黒島は無言で顔色一つ変えず、山本は面白がっていたという。

[編集] 真珠湾攻撃を立案

山本長官の下で参謀長は次々交代したが、黒島だけは唯一不動で山本に寵愛された[19][22]。こうして黒島も初めて己の才能を理解してくれる人物に出会い、ますますその異能を発揮することとなった。時代は日米開戦必至の雲行きで、山本の頭に開戦劈頭のハワイ攻撃という奇想が宿る。 1940年(昭和15年)2月-3月にかけて大西瀧治郎(第十一航空艦隊参謀長)と源田実(第一航空戦隊参謀)は真珠湾攻撃の航空作戦草案を作成、源田実の案は大西瀧冶郎が手を加えて提出される。同じころ山本五十六は自らの幕僚たちにさらに検討させている。[23] 黒島は旗艦「長門」の私室にこもり心血を注いで全体成案を練った。大西・源田案はハワイに参加させる空母を、航続距離の長い赤城・加賀・翔鶴・瑞鶴の4空母にしていたが、黒島はそれでは攻撃力が足りないと判断し、蒼龍・飛龍を加えた6空母による攻撃計画を立案した。これに関しては黒島自身も航続距離の短い空母に対し、荒れた洋上での燃料補給をいかに上手くできるかということが問題であり、黒島はこれを解決するために心血を注いだと言われている。1941年夏、ハワイ奇襲攻撃を巡る軍令部と実戦部隊である連合艦隊との交渉では「山本長官はハワイ作戦を職を賭しても断行すると主張しておられる。もし、この案が容れられなければ、皇国の防衛に対し責任が持てないと伝えよと言われた。長官はその職を辞するほかない。われわれ全幕僚も同様である」と切り札を出し、黒島は軍令部の説得に成功した[24]。この後、永野修身軍令部総長の許可により真珠湾攻撃は実行され太平洋戦争が開始された。

真珠湾攻撃はめざましい成果を挙げたが、山口多聞や黒島が訴えた反復攻撃の主張は南雲忠一長官と草鹿龍之介参謀長に退けられた。[要出典]山本五十六も、南雲に命令することはなかった。結果的にオアフ島の軍事施設や燃料タンクは温存され、また米軍空母エンタープライズ」はオアフ島西方360、「空母レキシントン」はミッドウェー南東720浬の洋上といずれも近距離におり、このことが太平洋艦隊の立ち直りを非常に早めることとなった。

1942年(昭和17年)5月6-8日の珊瑚海海戦では、井上成美指揮下の第五航空戦隊(空母翔鶴瑞鶴)が主力となって戦い、軽空母「祥鳳」が沈没し「翔鶴」が大破するが、米軍も空母「レキシントン (CV-2)」が沈没、「ヨークタウン (CV-5)」も損傷して撤退をはじめた。だが日本艦隊も多数の航空機と搭乗員を失っており、燃料不足もあって追撃を中止。戦線後方の黒島達は「第四艦隊は敗戦思想に陥っている」として参謀長の名で追撃するよう宇垣に迫っている[25]

[編集] ミッドウェー海戦立案

真珠湾攻撃を巡る戦術で大きく貢献した黒島は、1942年6月のミッドウェー海戦でも作戦を立案する。十余りに分けられた艦隊、船団が別の場所から異なった時間にミッドウェーを目指すという精緻かつ複雑な作戦を立てた[26]。 軍令部が作戦に反対すると、黒島と渡辺安次戦務参謀は再び「作戦が却下された場合は山本以下連合艦隊司令部は辞任する」と主張し、作戦を認可させた[27]。 だが米軍側に暗号を解読されていたこともあり、圧倒的に有利だった戦力差を生かすことができなかった。これは作戦を複雑にしすぎた結果、戦力を分散させてしまうという戦術の致命的な誤りだったとの指摘もある[28]。 黒島ら連合艦隊幕僚は南雲忠一草鹿龍之介に批判的であり山本五十六に第一航空艦隊長官の交代を要望しているが聞き入れられなかった[29] 山本五十六も、愛人の河合千代子に「今回の出撃では多分あまり面白いことはないだろう」と楽観視して機密を漏らすなど、連合艦隊司令部そのものの緊張感が緩んでいた[30]。さらに米軍機動部隊出現の徴候ありという情報を黒島が無視し、山本が追認したことも日本軍敗北の一因とされる[31]南雲機動部隊が米軍艦載機の奇襲で壊滅すると黒島や参謀達はパニックになり、それまで連合艦隊司令部で山本や黒島から無視されていた宇垣参謀長が事態を収拾している[32]。黒島は空母「赤城」が炎上しつつ沈んでいないことを知ると、米軍が鹵獲してワシントンD.C.で展示されることを恐れる一方「といって陛下の御艦を魚雷で沈めるのは、私にはできません」と混乱する[33]。結局、山本が決断し、「赤城」は随伴駆逐艦の魚雷で自沈処理された。

敗退後、戦艦大和」に報告にきた南雲機動部隊のメンバーを黒島はかれらが下手なことを言おうものなら艦橋でブッタ斬ってやるような気持ちで舷梯から揚がってくるかれらを睨んでいたが即時待機していた半数の飛行機はどうしたという黒島の問いに彼らはただすみませんでしたと謝るばかりだったという。 [34]。 その後、ミッドウェー海戦の作戦研究会が開かれることはなかった[35]

[編集] ミッドウェー海戦以降

ミッドウェー以降も黒島は同じ失敗を繰り返したものの「黒島だけが思いもつかぬ発想をする」と山本五十六は黒島をかばい寵愛を続けた。だが、当初連合艦隊司令部で疎外されていた宇垣纏連合艦隊参謀長が山本の信頼を得るようになっていった。第三次ソロモン海戦では、宇垣がガダルカナル島飛行場砲撃に向かう「日本軍挺身艦隊」と米艦隊が遭遇することを危惧すると、黒島は「夜になったらいつもどおり米軍は逃げる」と主張して作戦を発動した[36]。その結果待ち構えていた米艦隊と夜間艦隊戦となり、戦艦比叡」が舵の故障を起こしてしまう[37]。この「比叡」の自沈処分を巡っても黒島と宇垣は対立している[38]小林久三は著作の中で「比叡処分問題は黒島と宇垣の性格の違いを浮き彫りにした」と述べ、黒島は合理主義・機械的な効率至上主義、宇垣は性格的に見て人情家と評している[39]

1943年4月、山本五十六の乗機が撃墜された(海軍甲事件)。黒島はたまたま腹を下して乗り合わせなかったとされるが、デング熱から回復したばかりの宇垣纏は同行している[40]。末期の山本は恣意的に黒島を排除していたとする意見もある。戦死の直前、山本は小沢治三郎第三艦隊長官に黒島に変わる人材の推挙を依頼したが、実現せずに終わった[41]。また小沢は視察計画に不安を感じ、護衛の零式艦上戦闘機を増やすよう黒島に伝えているが、結局護衛は6機しか配備されなかった[42]

[編集] 軍令部第二部部長

1943年7月、黒島は4年以上も務めた連合艦隊首席参謀から軍令部第二部部長に就任する。[43] 当時の軍令部総長は永野修身、次長は伊藤整一。軍令部は海軍の全ての作戦の構想を練る大本営の中核組織で、 軍令部第二部は戦備、兵器を担当する第三課と出動、動員を担当する第四課から成る。[44] 黒島亀人の軍令部第二部部長就任は海軍特攻採用に決定的な意義を持つと言われる[45]。(特攻との関係は後述) 小型潜水艇を用いてサンゴ礁内の泊地にあるアメリカ艦隊を潜水艦防止柵を越えて攻撃する竜巻作戦藤森康男の案を黒島が支持したものである。[46] 台湾沖航空戦において米軍巡洋艦2隻大破の損害に対し空母10隻・戦艦2隻・巡洋艦3隻・駆逐艦1隻撃沈という誤認戦果が報告され、黒島は「ミッドウェー海戦での敗北を今度は米軍が再現し、1年間時間を稼げた」と高笑いしている[47]

1944年4月4日黒島は「作戦上急速実現を要望する兵力」と題する特攻兵器を含む以下の各種提案を行う。

  1. 飛行機増翼(民間の佐藤五郎考案、航続力増加で戦力4倍を見込むとするもの)
  2. 体当たり戦闘機
  3. 小型潜水艇(水中での戦闘機)
  4. 局地防備用可潜艇(甲標的丙型)
  5. 装甲爆破艇(震洋
  6. 自走爆雷艇
  7. 1名速力50節航続4万米の大威力魚雷(回天

[48]

[編集] 戦後

1945年5月、軍令部第2部部長を辞し、その後は大本営の海軍参謀兼軍令部先任として終戦までを過ごした。多くの軍人と同様、本土決戦を主張し一億玉砕を唱えた。しかしデスクワーカーとなっていた黒島は、敗戦後も戦争犯罪を問われず、自決するわけでもなくその後天寿を全うした。

「白樺商事」という顕微鏡を扱う会社の常務となったが、同社の副社長は山本五十六の未亡人山本礼子である[49]。黒島は礼子の厳しい生活を聞き、副社長の座を提供することで援助の手をさしのべたとされる[50]。その後、麹町の広大な旧鍋島侯爵邸に住み哲学、宗教の研究に没頭したが生きる屍同然であったと言われる。旧友が訪ねてくると「今、俺は宇宙、人間、生命の研究をしているのだ。最近ついに『零の研究』をして悟ったよ」と言って煙に巻いたが、居候していた木村邸には膨大な研究ノートが残されている[51]。1965年、肺癌のため没[52]。享年72。その遺言は「南の島に飛行機が行く」であったという[53]

[編集] 評価

[編集] 特攻

黒島亀人の軍令部第二部部長就任は海軍特攻採用に決定的な意義を持つと言われる[54] 山本の死を境に黒島は人間を武器にするという「特攻」という手段を発案したと言われる[55]黒島亀人は連合艦隊主席参謀のころから同僚に爆装したモーターボートによる体当たり攻撃の構想を語っていた。後の震洋である。[56] また第二部部長就任前に、黒島は軍令部に出向き同様のことを語っている。[57]。 1943年8月6日軍備考査部会議の席で黒島は必死必殺の戦を行なう必要があるとし、その一例として、戦闘機による衝突撃(航空特攻)の戦法を挙げている。[58] 黒島が特攻の提案を最初にしたのは1943年6月11日に開催された軍令部の「戦備考査部会」という証言もある[59]。 1943年8月11日の戦備考査部会議では今後の戦備方針として必死必殺法とあいまつ不敗戦備を確立を主張する。[60] 1944年4月4日黒島は「作戦上急速実現を要望する兵力」と題する提案(特攻兵器である震洋回天なども含まれている)を行い軍令部で検討後、海軍省へ各種緊急実験を要望し艦政本部は特攻兵器の特殊緊急実験を開始する。[61]

黒島の登場によって海軍の戦備は総特攻化に向かって歯車の回転が始まる[62]中澤佑によれば特攻のイニシアティブを握っていたのは黒島亀人大森仙太郎であったという。[63] 海軍反省会でも中澤佑鳥巣健之助との間で言い争いがあった際、黒島亀人が熱心だったと中澤は話していたという。[64]

[編集] 人物

黒島はヘビースモーカーで作戦を考案する際、素っ裸で部屋にこもり、想を練り始めると時間の観念も忘れ、ひたすらタバコを吸いながら、食事も取らず風呂にも入らず没頭した[19][65]。だがこの奇人ぶりは日露戦争時の秋山真之(天才肌で奇人として有名)を意識して故意にまねていたのではないかと千早正隆は指摘している。

黒島亀人は終戦時に『戦藻録』の一部を勝手に処分したとされる。『戦藻録』とは、黒島と連合艦隊先任参謀時代に対立していた宇垣纏が昭和16年から昭和20年まで、ほぼ毎日書いていた一種の陣中日記であるが、これは太平洋戦争当時の連合艦隊の当事者の心の推察や作戦の内幕を知る上で貴重な資料である。しかし、昭和17年11月から昭和18年2月頃までの日記は欠落している。これは宇垣自身が書かなかったのではなく、黒島が勝手に処分した可能性が高い。この時期は連合艦隊長官山本五十六が黒島の作戦能力に疑問を抱き始め、ひそかに代わりの先任参謀の人選を行っていた時期である。宇垣の遺族によれば、ある日黒島が宇垣の戦藻録を全冊借りに来て、しばらく後返却に来た。しかし、後に判明したことだが、ちょうどその時期の部分だけ欠落しており、宇垣の性格からして日記を止めていた可能性は低いことから、一種の保身のために自分にとって都合の悪い部分が書いていた箇所を処分したのではないのかと疑いが持たれている[66]。『戦藻録』の編者は、極東国際軍事裁判証人として出廷する黒島が遺族から借りた後、該当部分のみ電車に置き忘れたとしているが、黒島は軍事裁判に出席していない[67]


[編集] 黒島が登場する作品

  • 遙かなり真珠湾 山本五十六と参謀・黒島亀人 阿部牧郎著 祥伝社
  • 太平洋の覇者2 比島攻防戦 中岡潤一郎著 ベストセラーズ
  • 蒼穹の覇者 青山智樹著 コスミックインターナショナル

[編集] 演じた俳優

[編集] 脚注

  1. ^ 日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦 161、255頁
  2. ^ #山本と黒島204、253頁
  3. ^ #山本と黒島28頁
  4. ^ #山本と黒島29頁
  5. ^ #山本と黒島30頁、#良い参謀良くない参謀88頁
  6. ^ 小林久三 『光と影 奇骨の参謀黒島亀人の生涯』 光人社 1989年
  7. ^ #山本と黒島32頁
  8. ^ #山本と黒島41頁
  9. ^ #山本と黒島34、43-44頁
  10. ^ #山本と黒島45-46頁
  11. ^ #山本と黒島50頁
  12. ^ #山本と黒島55頁
  13. ^ #山本と黒島58頁
  14. ^ #山本と黒島59頁
  15. ^ #山本と黒島37頁
  16. ^ #山本と黒島39頁
  17. ^ #山本と黒島61-62頁
  18. ^ #山本と黒島202頁
  19. ^ a b c 日本海軍400時間の証言 255-259頁
  20. ^ #山本と黒島208,221頁、#良い参謀良くない参謀84-85頁
  21. ^ #山本と黒島204頁
  22. ^ 日本海軍の戦略発想|プレジデント社
  23. ^ 戦史叢書10ハワイ作戦p91-93
  24. ^ #山本と黒島128-129頁
  25. ^ #良い参謀良くない参謀104頁
  26. ^ #山本と黒島212頁
  27. ^ #山本と黒島213-216頁
  28. ^ 瀬口晴義『人間機雷 「伏龍」特攻隊』82,83頁、#良い参謀良くない参謀93-94頁
  29. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦p537
  30. ^ #山本と黒島226頁
  31. ^ #山本と黒島258頁、#良い参謀良くない参謀101頁
  32. ^ #良い参謀良くない参謀65頁
  33. ^ #良い参謀良くない参謀112頁
  34. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦p537、#良い参謀良くない参謀99頁
  35. ^ #良い参謀良くない参謀69頁
  36. ^ #山本と黒島284頁、#良い参謀良くない参謀74頁
  37. ^ #山本と黒島285頁
  38. ^ #山本と黒島287-288頁、#良い参謀良くない参謀75頁
  39. ^ #山本と黒島289-290頁
  40. ^ 別冊宝島1430号 「太平洋戦争秘録 壮烈!日本海軍指揮官列伝」宝島社、2007年
  41. ^ #山本と黒島295-296頁、#良い参謀良くない参謀91頁
  42. ^ #山本と黒島312頁
  43. ^ #山本と黒島332頁
  44. ^ 戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 付属資料 大本営海軍部事務分担一覧表
  45. ^ 戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p322
  46. ^ 戦史叢書12 マリアナ沖海戦p431-432
  47. ^ #山本と黒島344-345頁
  48. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p326-327
  49. ^ #黒島379頁
  50. ^ #黒島380頁
  51. ^ #山本と黒島382頁
  52. ^ #山本と黒島383頁
  53. ^ #山本と黒島384頁
  54. ^ 戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p322、人間機雷 「伏龍」特攻隊 p88 瀬口晴義著 講談社
  55. ^ 遙かなり真珠湾 山本五十六と参謀・黒島亀人 p389-392 阿部牧郎著 祥伝社
  56. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 322、324頁
  57. ^ #山本と黒島350頁、遙かなり真珠湾 山本五十六と参謀・黒島亀人 p380-381 阿部牧郎著 祥伝社
  58. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p322
  59. ^ 燃 料 に 関 す る 回 想
  60. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p322
  61. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p326-327
  62. ^ #山本と黒島351頁
  63. ^ 戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦までp75
  64. ^ 日本海軍400時間の証言 134-179、253-277頁、[http://www.nhk.or.jp/special/onair/090810.html 日本海軍 400時間の証言 第二回 特攻 やましき沈黙 NHK総合2009年8月10日]
  65. ^ #山本と黒島122頁
  66. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群』上(中公文庫、1997年) ISBN 4-12-202992-9 第一章 自信から過信へ 山本の司令部内の対立、摩擦、亀裂 『戦藻録』の欠落部分 p140~p148
  67. ^ #良い参謀良くない参謀109-110頁

[編集] 参考文献

  • 小林久三 『連合艦隊作戦参謀 黒島亀人 一国の命運を分けた山本五十六と黒島亀人』 光人社NF文庫、1996年5月。ISBN 4-7698-2121-2
  • 吉田俊雄 『良い参謀、良くない参謀 8人の海軍サブリーダーを斬る!』 光人社、1996年9月。ISBN 4-7698-0786-4
  • 光と影 奇骨の参謀 黒島亀人の生涯 小林久三著
  • 四本の火柱 高速戦艦勇戦記 豊田穣著 集英社
  • 日本海軍を動かした人びと 勝海舟から山本五十六まで 半藤一利著 力冨書房
  • 指揮官と参謀 コンビの研究 半藤一利著 文藝春秋
  • 四人の連合艦隊司令長官 吉田俊雄著 文藝春秋
  • 山本五十六 阿川弘之著
  • 太平洋戦史シリーズ 第1巻 奇襲ハワイ作戦 学習研究社
  • 戦史叢書 大本営海軍部 聨合艦隊 
  • 人間機雷 「伏龍」特攻隊 瀬口晴義著 講談社
  • 運命の夜明け 真珠湾攻撃全真相 森史朗 光人社
  • 特攻 外道の統率と人間の条件 森本忠夫 文藝春秋
  • トラ トラ トラ ‐太平洋戦争はこうして始まった‐ ゴードン・プランゲ 並木書房 
  • 日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦 NHKスペシャル取材班 新潮社

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス