秋雲 (駆逐艦)

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昭和一九年一月一九日
艦歴
計画 1939年度(マル4計画
起工 1940年7月2日
進水 1941年4月11日
就役 1941年9月27日竣工
その後 1944年4月11日戦没
除籍 1944年6月10日
性能諸元
排水量 基準:2,033トン
全長 118.5m
全幅 10.8m
吃水 3.8m
機関 ロ号艦本式缶3基
艦本式衝動タービン2基2軸
52,000馬力
速力 35.0ノット
航続距離 18ノットで5,000
乗員 239人
兵装(新造時) 50口径三年式12.7センチ砲連装×3
25mm機銃連装×2
61cm魚雷発射管4連装×2
爆雷16個

秋雲(あきぐも)は、日本海軍駆逐艦[1]陽炎型駆逐艦(不知火型)の最終19番艦である。

本艦は戦後長らく夕雲型駆逐艦とされていたが、1994年に陽炎型駆逐艦であるという研究が発表された(後述)。

艦歴[編集]

駆逐艦「秋雲」は1939年度(マル4計画)仮称第115号艦として浦賀船渠1940年(昭和15年)7月2日起工[2]1941年(昭和16年)3月25日、「秋雲(アキグモ)」と命名[1]。同日附で昭和16年度内令246号により一等陽炎型に分類される[3]横須賀鎮守府仮定[4]。同年4月11日進水[2]。同年9月27日に竣工[2]。竣工後の引渡式の際、岸壁にはロケーションのため浦賀船渠にいた女優の高峰三枝子桑野通子らがおり、盛んに声援を送られた[5]。同日附で正式に横須賀鎮守府所属となる[6]

真珠湾攻撃からガダルカナル島[編集]

竣工後は瀬戸内海に回航されて訓練に従事する[7]。同時に第五航空戦隊原忠一少将・海軍兵学校39期)に編入され、「」とともに空母翔鶴」「瑞鶴」の護衛を務める[8]。11月17日、来る真珠湾攻撃のために編成された第一航空艦隊南雲忠一中将・海兵36期)に参加する[8]。当初は加入の予定がなかったものの、前級の陽炎型駆逐艦より長い航続力が買われて急遽加入される事となった[9]。その後は真珠湾攻撃、1942年(昭和17年)に入ってからはラバウルニューギニアおよびビスマルク諸島方面の作戦に参加する。2月から3月にかけては第五航空戦隊とともに後方に下がって三菱横浜造船所で整備の後、セイロン沖海戦に参加することとなった[10]。しかし、ウィリアム・ハルゼー中将率いるアメリカ第16任務部隊がウェーク島南鳥島を奇襲攻撃するに及んで、第五航空戦隊とともに警戒行動に加わったため、前進根拠地への進出は遅れる事となった[11]。一連のセイロン島をめぐる海戦では、補給部隊の護衛に就いた[12]。4月10日、戦隊改編により第一航空艦隊の直衛に任ずる部隊として第十戦隊(木村進少将・海兵40期)が編成される。「秋雲」は「夕雲」、「巻雲」がいた第十駆逐隊(阿部俊雄大佐・海兵46期)に編入され、第十駆逐隊も第十戦隊に編入された[13]。これまでの第一水雷戦隊(大森仙太郎少将・海兵41期)に代わって機動部隊の直衛に就く第十戦隊は6月5日のミッドウェー海戦が初陣となったが、海戦は惨敗する。「秋雲」は海戦直前に機動部隊を離れて補給部隊の護衛に回っていた[14]。また直後のアリューシャン攻略作戦にも参加した。

7月14日、臨時編成の第一航空艦隊が解散して第三艦隊が編成され、南雲中将が司令官となった。戦備が整うまでの間は「風雲」とともに佐世保鎮守府協力部隊として行動し、7月25日馬公発の第239船団の護衛を途中より行った[14][15]。この間の8月7日、ガダルカナル島にアメリカ軍が上陸してガダルカナル島の戦いが始まった。8月16日、第三艦隊は柱島泊地を出撃してトラック諸島に向かうが、アメリカ機動部隊が出現した事によりソロモン諸島東方海域に急行した[16]第二次ソロモン海戦に参加後、9月29日からは第三水雷戦隊(橋本信太郎中将・海兵41期)の指揮下に入り[17][18]ショートランドへ進出して[19]ガダルカナル島に対する「鼠輸送」を10月3日、6日および9日の3回にわたって行う[20]。いずれもタサファロング沖に進入し、陸兵や糧食、武器弾薬を揚陸[20]。10月6日の作戦でカッターを一隻処分した以外に損害はなかった[20]

「ホーネット」撃沈[編集]

乗員を退艦させる「ホーネット」

10月26日の南太平洋海戦では前衛部隊に配される。日米両機動部隊の激闘の末、アメリカ空母ホーネット (USS Hornet, CV-8) は爆弾5発と魚雷3本が命中して大破し、損害は甚大で復旧不能と判断したアメリカ軍はホーネットの曳航を断念。鹵獲を避けるべく「ホーネット」の処分を試み、駆逐艦「マスティン英語版」 (USS Mustin, DD-413) および「アンダーソン英語版」 (USS Anderson, DD-411) に処分をゆだねた。「マスティン」と「アンダーソン」は魚雷9本と400発に及ぶ5インチ砲の砲撃を行ったが、ホーネットは沈まなかった。そうこうしている内に、前衛部隊が迫ってきたので「マスティン」と「アンダーソン」は避退していった[21]

「事情許さば、拿捕曳航されたし」と連合艦隊参謀長であった宇垣纏少将(海兵40期)の命令を受け、「巻雲」とともに「ホーネット」追跡の命を受けて、前衛部隊から分離した。日が暮れようとする海原を前進すると、彼方から遠雷のような砲声を聞いた[22]。これは、先に「マスティン」と「アンダーソン」がホーネットに砲弾と魚雷を撃ち込んでいた音だったと考えられた[22]。やがて、前方の水平線上が赤味を帯びているのが見えた[22]。接近してみると炎上して漂流中の「ホーネット」だった[22]。「ホーネット」はいたるところから火を噴き、艦首からは曳航されていたことを物語るロープが数本垂れ下がっていた[23]。また、甲板上には戦死した兵員の遺体がいくつか横たわっているのが確認された[24]。駆逐艦長相馬正平少佐は、まず砲撃により「ホーネット」を撃沈しようと決心し、備砲の照準を吃水線下に合わせて砲撃を開始した[23]。しかし、砲弾は命中するもののホーネットは微動だにしなかったので、24発撃ち込んだところで砲撃は打ち切られた[23]。次に爆雷投下で穴を開けて「ホーネット」を撃沈しようと試みるも、爆雷の投射距離が50メートル程度で炎上中の「ホーネット」に接近する事が危険であったので断念し[23]、魚雷での処分に切り替えられた。「ホーネット」の右舷側に移っておよそ2,000メートルの間合いを取り[23]、深度5メートルに調整された酸素魚雷を2本発射[23]。「巻雲」も2本発射し、4本のうち3本が命中した[25]

右舷への傾斜が強まった「ホーネット」の姿を見た相馬艦長は、この光景を軍令部に報告提出すべく写真撮影するよう命じるが、航海長に「夜ですから写真は無理ではないですか」と意見されたため、スケッチで「ホーネット」の姿を記録する事となった[25]。スケッチは絵の上手な中島斎信号員が行う事となった[25]。中島信号員が「細部が見えない」と申し出ると、相馬艦長はスケッチの助けにしてやろうと「探照燈照射用意」と令して、「ホーネット」に向けて何度もサーチライトを照射した[25]。この行為は自らの存在を敵潜水艦に知らしめることにもつながりかねず、事情を知らない他の「秋雲」乗組員は驚き、「巻雲」からは「如何セシヤ」の発光信号を送った[26]。相馬艦長は周囲の驚きをよそに5回、6回もサーチライトの照射を行い、「大胆というか、無謀というか」[27]所業の助けを得た中島信号員は、無事にホーネットの最後の姿を描ききることが出来た[27]。中島信号員が描いたスケッチは後世に残された[28]。やがて「ホーネット」は傾斜と火勢が増し、10月26日22時34分[29]サンタクルーズ諸島沖に沈んでいった。乗組員の中には、「東京空襲の仇を取ったぞ」と喝采をあげる者もいた[24]。海戦終了後、10月30日にトラック諸島に帰投したが、その際に推進器を損傷したため、巻雲に魚雷と弾薬を譲ってトラックを出港し、11月9日にに帰投[29]。このため、第三次ソロモン海戦など、11月から12月にかけてのガダルカナル島をめぐる戦いには参加しなかった。

昭和18年の戦い[編集]

呉海軍工廠での修理の後、1943年(昭和18年)1月18日に岩国沖を出撃して、初陣の戦艦武蔵」を含む艦隊に合流し、1月23日にトラックに到着[30]。3度にわたるガダルカナル島からの撤退作戦である「ケ号作戦」には全て参加。2月1日からの第一次作戦では692名の人員を収容してショートランドに帰投[31]。2月4日からの第二次作戦、2月7日からの第三次作戦でも被害を受けることなく作戦を遂行した。同作戦中、「巻雲」が沈没して第十駆逐隊は3隻(夕雲、秋雲、風雲)となる。 「ケ号作戦」終了後はパラオに移動し、ニューギニアの戦いに投入される第四十一師団阿部平輔中将)主力を青島からウエワクまで輸送する丙号輸送作戦のうち、「丙三号輸送」に協力[32]。3月にはウエワクとマダンの間にあるハンサへ第二十師団青木重誠中将)の将兵を輸送する輸送船団の護衛を行った。その後はラバウルへ進出し、「夕雲」、「風雲」、「五月雨」とともにコロンバンガラ島への輸送作戦[32]、「夕雲」とともにニューブリテン島ツルブへの輸送作戦に従事した後、5月9日に横須賀に帰投した[33]。5月23日には、木更津沖に停泊する「武蔵」に横付けして、4月18日に機上戦死を遂げた連合艦隊司令長官山本五十六元帥(海兵32期)の遺骨を引き取り、横須賀に上陸させるという大任も仰せつかった[34]。5月31日から6月5日までは横須賀海軍工廠で整備を行い、電波兵器の新設工事等を実施した[35]

整備後は北方へ向かい、幌筵島に到着した6月13日付で第一水雷戦隊(木村昌福少将・海兵41期)に編入される[36]。7月に行われたキスカ島撤退作戦には途中反転の第一次作戦、成功した第二次作戦ともに収容駆逐隊として参加。463名の人員を収容して幌筵島に帰投した[37]。撤退作戦を終えた後は8月3日付で機動部隊に復帰し、横須賀を経て再び南方へと向かった[37]。9月5日付で第三水雷戦隊(伊集院松治大佐・海兵43期)に編入され[38]、ラバウル進出後は「セ号作戦」の旗艦を務め[39]、二度にわたるコロンバンガラ島からの撤退作戦を成功させた。コロンバンガラ島からの日本軍の撤退は、同時に隣接するベララベラ島守備隊の役割が終わった事を意味していたので、ベララベラ島からの撤退も急遽行われる事となった[40]

10月5日朝5時、第三水雷戦隊司令官伊集院大佐は夜襲隊(秋雲《旗艦:伊集院司令官座乗》、風雲夕雲磯風時雨五月雨)を率いてラバウルを出撃。ブーゲンビル島北方海域で輸送部隊と合流の後ベララベラ島に接近する。この時、両部隊はアメリカ軍偵察機によって発見されており、これに基づいてフランク・R・ウォーカー英語版大佐率いる第4駆逐部隊がベララベラ島近海に急行した。夜半過ぎにウォーカー大佐率いる第4駆逐部隊がレーダーで夜襲部隊あるいは輸送部隊と思われる目標を探知し、日本側も「風雲」、「時雨」、「五月雨」が相次いで敵影を発見した。引き続き旗艦を務める「秋雲」も見張り員や水雷長、砲術長が少なくとも3隻の巡洋艦および駆逐艦を発見していたが、第三水雷戦隊の先任参謀に「味方の間違いではないか」と問いただされた[41]。相馬艦長は見張り員や水雷長、砲術長の言い分を総合して相手が敵であると確信し、伊集院大佐に「司令官、敵ではありませんか」と助言し終えた瞬間、第4駆逐部隊からの先制攻撃を受けた[42]。こうして始まった海戦、後に第二次ベララベラ海戦と呼ばれる戦いは、日本側は「夕雲」を失ったもののベララベラ島からの人員撤収には成功し、アメリカ側は「シャヴァリア」 (USS Chevalier, DD-451) が大破処分されたほか、ウォーカー大佐が座乗した「セルフリッジ」 (USS Selfridge, DD-357) も魚雷命中で艦首を失って大破し、「オバノン」 (USS O'Bannon, DD-450) は航行不能となった「シャヴァリア」に追突して損傷。撤収作戦を阻止する事ができなかった。

海戦後はトラック方面に下がって、機動部隊とともにエニウェトク環礁方面を行動した他、トラックと横須賀間の護衛任務に従事する。10月31日、「夕雲」の代艦として朝潮型駆逐艦朝雲」が第十駆逐隊に加入(朝雲は第九駆逐隊からの転出)、第十駆逐隊は3隻編制(風雲、秋雲、朝雲)となる[43]。11月24日、クェゼリン環礁へ向かう特設運送船(給油)「東亜丸」(飯野海運、10,052トン)を護衛してトラックを出港するが、翌11月25日にポンペイ島北方海域でアメリカ潜水艦「シーレイヴン」 (USS Searaven, SS-196) の攻撃を受け、「東亜丸」が沈没する。ただちに爆雷攻撃を行ったものの、「シーレイヴン」を取り逃がした[44]。その後はトラックとパラオ間の護衛任務を行った後、「秋雲」「風雲」「山雲」は空母「翔鶴」、戦艦「大和」を護衛して横須賀に向かい、12月17日に横須賀に帰投した。

昭和19年の戦い[編集]

横須賀での二度にわたる整備ののち、「風雲」、「若月」とともに「翔鶴」を護衛して瀬戸内海に向かう[45]。訓練の後、2月6日に「風雲」、「若月」、「秋月」、軽巡洋艦矢矧」とともに「翔鶴」、「瑞鶴」、重巡洋艦筑摩」を護衛して洲本沖を出撃し、リンガ泊地へ進出する[46]。一旦「瑞鶴」とともに呉に戻った後[47]、3月に入って「瑞鶴」、戦艦「金剛」、「榛名」、重巡洋艦「最上」を護衛して再度リンガ泊地へ進出し[48]、各種訓練に参加した。

4月1日、「風雲」、重巡洋艦「利根」、「筑摩」とともに航空基地物件輸送のため昭南(シンガポール)を出撃してダバオに向かうが、途中で輸送任務が中止となったため昭南に引き返した[49]。「利根」、「筑摩」、「風雲」とはここで別れ、別途物件輸送のため4月5日に昭南を出撃して再度ダバオに向かう[50]。4月9日にダバオに到着して燃料や航空魚雷などを陸揚げした後[51]、翌4月10日にダバオを出撃してリンガ泊地に向かう。しかし、その道中でバリクパパンからダバオに単独向かう途中の特設運送船「聖川丸」(川崎汽船、6,862トン)と会合し、ダバオからサンボアンガまで護衛するよう命じられる[52]スールー海から引き返し[51]、訓練と警戒を行いつつバシラン海峡を東航してダバオに向かった[51]。その頃、アメリカ潜水艦「レッドフィン」 (USS Redfin, SS-272) はバリサン海峡東方で哨戒を行っていた。夕刻、レッドフィンは約10,000ヤードの距離でマストを発見する[53]。引き続き観測すると、目標「秋雲」は吹雪型駆逐艦と目されジグザグ航行を行っており、18ノットの速力で航行していると推定された[53]。「レッドフィン」は艦尾発射管で攻撃を行う事とし[53]、18時15分、艦尾発射管から4本の魚雷を発射した[53]。間もなく、最初の魚雷は「秋雲」の一番砲塔付近に命中し、続いて二番目の魚雷はメインマスト付近に命中[53]。三番目の魚雷も命中したが[53]、四番目の魚雷は外れたと考えられた[54]。「秋雲」側では4本が命中したと判断された[55]。魚雷の命中を受けた「秋雲」はたちまち船体が45度に傾き、艦尾は海中に没していた[51]。駆逐艦長入戸野焉生少佐は「総員退艦」を令した後、艦橋予備室に入って戸を閉め、艦と運命をともにした[51]。18時17分、「秋雲」は北緯06度45分 東経122度41分 / 北緯6.750度 東経122.683度 / 6.750; 122.683のサンボアンガ灯台の112度26.7海里地点において沈没した[56]。この光景は付近を航行中の漁船が目撃しており[55]、漁船からの通報を受けた「第35号駆潜艇」が救助にあたって生存者救助を行ったが、乗員のうち入戸野艦長以下133名が戦死し、准士官以上8名[注釈 1]と下士官兵108名の計116名が生還した[57]。第十駆逐隊は「風雲」「朝雲」の2隻に減少した。

同年6月10日、駆逐艦「秋雲」は 不知火型駆逐艦[58] 帝国駆逐艦籍[59]。 第10駆逐隊[60]のそれぞれから除籍された。 なお「秋雲」除籍の2日前、「風雲」も米潜水艦により撃沈され、第十駆逐隊は「朝雲」1隻を残すのみとなった。7月10日、第十駆逐隊は解隊され「朝雲」は第四駆逐隊(野分満潮山雲)に編入される[61]。10月25日、レイテ沖海戦に参加した第四駆逐隊は全滅、第十駆逐隊に所属した駆逐艦は全隻沈没した。

夕雲型から陽炎型へ[編集]

本艦は、艦艇研究の第一人者である福井静夫夕雲型に分類していた[62][63]こともあり、長らく夕雲型とみなされてきた。

海上自衛隊一等海佐で艦艇研究家の田村俊夫は、「夕雲型駆逐艦の中で、なぜ「秋雲」だけが二番砲塔の撤去と機銃増設を行ったのか」という疑問から「秋雲」に関する調査を行い、その結果を『世界の艦船』1994年4月号で公表した。田村が提示した根拠のうち「昭和16年3月25日付の内令第246号で『秋雲』は一等陽炎型に類別されている」[3]は、少なくとも日本海軍が「秋雲」を陽炎型駆逐艦として類別していたという一つの根拠である。また、「秋雲」の准士官以上と第十駆逐隊司令部の集合写真に写っていた艦橋の形状が決定的な証拠とされた[注釈 2]。 なお、上記の図面では秋雲の船体寸法は陽炎型と同一(秋雲が夕雲型であれば0.5m長いはずである)となっている。 他に証拠として挙げられるものに昭和17年5月24日付内令第840号「艦艇要目表中」の項目がある[64]。「秋雲」の艦性能値は陽炎型「舞風」と同じ数値になっている。 上記の内令第246号に関連した艦艇類別等級表(昭和16年12月31日現在版)でも、「秋雲」は一等陽炎型の項目に登録されている[65]。 さらに旧海軍公式図「横廠兵秘砲18第180号」の増備機銃関係図の表題があり、こちらには明確に「陽炎型秋雲」の記載がある。 艦艇研究家の遠藤昭氏の主催する戦前船舶研究会では「陽炎型に採用予定の島風という名前が丙型に回され、空いた部分へ秋雲が順送りされた。あるいは天津風を高圧機関試作艦としたため、島風が夕雲型と同じ予算にずれこんだ。このため本来秋雲型と呼ばれる筈だったものが夕雲が一番艦となり、雲の付く名前が別クラスになった事で福田造船官が間違えたのではないだろうか」と推測している[66]

ところで、当事者たる「秋雲」の元乗組員はどう思っていたのか。田村の研究発表より前に、「駆逐艦秋雲会」によって上梓された『栄光の駆逐艦 秋雲』において、元乗組員である立山喬は次のような説明を行っている。

秋雲は夕雲型二十隻中の初竣工艦である。秋雲はマル四[注釈 3]計画で基本計画番号F五〇、仮称艦名第一一五号艦として建造され、夕雲の方は仮称艦名第一一六号艦で秋雲の竣工より遅く開戦三日前の十二月五日に舞鶴工廠で竣工している。本来ならば秋雲が仮称番号艦名が先番号で且つ完成も早いのであるから夕雲型は秋雲型と呼称すべきである。しかし当時の海軍では東京の艦政本部が新造駆逐艦の基本計画を作成し、海軍工廠造船部が詳細計画を担当した。民間造船所で建造する場合は、それらの図面を基にして工事用図や一部改正図、完成図を作成していた。夕雲は舞鶴工廠で建造されたため、秋雲より後に就役したが、海軍艦艇類別等級別表では陽炎型の次に夕雲型と決められたのである。

立山喬、『栄光の駆逐艦 秋雲』23-24ページ

立山は「秋雲在艦当時一番若い士官で」[67]「僅か九ヶ月の秋雲乗艦歴しか持たない身」[68]であり、「手元には駆逐艦秋雲関係の資料はほとんど皆無に等し」[67]い状況で資料収集や情報収集などを行い[67]、編集委員長の大任をよく果たして『栄光の駆逐艦 秋雲』を世に送り出した人物である。

田村の発表は「若干の不確定要素」があるとみられる[注釈 4]。また、田村の発表に対する「秋雲」の元乗組員などの反応は定かではない。

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』338頁による。

艤装員長[編集]

  1. 有本輝美智 中佐:1941年 6月15日 - 1941年 9月27日

駆逐艦長[編集]

  1. 有本輝美智 中佐:1941年 9月27日 - 1941年12月23日
  2. 相馬正平 中佐:1941年12月23日 - 1943年11月11日
  3. 入戸野焉生 少佐:1943年11月11日 - 1944年4月11日戦死

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 機関長、砲術長、隊軍医長、通信士、隊付、四分隊士、掌砲長、缶長(#秋雲p.61)
  2. ^ #秋雲pp.53-56 にも艦橋部が写っている集合写真(1944年1月19日撮影)が掲載されており、#秋雲p.53 の写真が『世界の艦船』にも掲載された、准士官以上と第十駆逐隊司令部の集合写真である。
  3. ^ オリジナルでは丸の中に「四」(#秋雲p.23)
  4. ^ 艦艇研究家の岩重多四郎は、M・J・ホイットレーの『第二次大戦駆逐艦総覧』を訳出した際、「若干の不確定要素はあるようだが」という表現を使った上で、「思い切って新説に従い」「秋雲」を陽炎級の項目に入れた(#ホイットレーp.321)。

出典[編集]

  1. ^ a b #達昭和16年3月p.33『達第七十三號 昭和十四年度及昭和十五年度ニ於テ建造ニ着手ノ一等驅逐艦一隻、一等潜水艦一隻及駆潜艇三隻ニ左ノ通命名ス|昭和十六年三月二十五日 海軍大臣及川古志郎|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 一等驅逐艦 秋雲(アキグモ)|三菱重工株式會社神戸造船所ニ於テ建造 伊號第四十一潜水艦(以下略)』
  2. ^ a b c #内令昭和17年5月(2)p.22『昭和十七年内令第八百四十號:秋雲|艦種:一等駆逐艦|長(米)110.96|幅(米)10.76|喫水(米)3.30|排水量(噸)(基準)2.000|速力(節)34.0|短艇数4|製造所:浦賀船渠會社|起工年月日15-7-2|進水年月日16-4-11|竣工年月日16-9-27(以下略)』
  3. ^ a b #内令昭和16年3月(2)pp.21-22『内令第二百四十六號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十六年三月二十五日 海軍大臣及川古志郎|駆逐艦、一等陽炎型ノ項中「舞風」ノ下ニ「、秋雲」ヲ加フ|潜水艦、一等伊十五型ノ項中「伊號第三十九」ノ下ニ「、伊號第四十一」ヲ加フ|駆潜艇第十三號型ノ項中「第十七號」ノ下ニ「、第十八號、第十九號、第二十二號」ヲ加フ』
  4. ^ #内令昭和16年3月(2)p.22『内令第二百四十七號 駆逐艦 秋雲 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト假定ス(中略)昭和十六年三月二十五日海軍大臣及川古志郎』
  5. ^ #秋雲p.76
  6. ^ #内令昭和16年9月(5)p.9『内令第千百四十二號 駆逐艦 秋雲 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル|昭和十六年九月二十七日 海軍大臣及川古志郎』
  7. ^ #秋雲p.24
  8. ^ a b #秋雲p.25
  9. ^ #秋雲p.26
  10. ^ #秋雲pp.28-29
  11. ^ #秋雲pp.29-30
  12. ^ #秋雲p.30
  13. ^ #内令昭和17年4月(4)p.3『内令第六百五十號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十七年四月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第十駆逐隊ノ項中「夕雲」ノ上ニ「秋雲、」ヲ加フ』
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  44. ^ #秋雲p.52
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  46. ^ #十戦1902pp.27-28
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  52. ^ #十戦1904p.30
  53. ^ a b c d e f #SS-272, USS REDFINp.37
  54. ^ #SS-272, USS REDFINp.55
  55. ^ a b #十戦1904p.34
  56. ^ #十戦1904p.32,34
  57. ^ #秋雲p.61
  58. ^ #内令昭和19年6月(2)p.10『内令第七百四十一號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十九年六月十日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等ノ部中夕張ノ項ヲ削ル|駆逐艦、一等初雪型ノ項中「天霧」「、雷、電」ヲ、同不知火型ノ項中「、秋雲」ヲ削ル、潜水艦、一等伊二型ノ項中「伊號第二、」ヲ、同伊十七型ノ項中「、伊號第三十二」ヲ、同伊百六十八型ノ項中「伊號第百六十九、」「、伊號第百七十四」ヲ削ル|掃海艇、第七號型ノ項中「第七號」ヲ削ル|敷設艇ノ部中「、鷗」ヲ削ル』
  59. ^ #内令昭和19年6月(2)pp.13-14『内令第七百四十六號 佐世保鎮守府軽微敷設艇 敷設艦鷗 右役務ヲ解カル|横須賀鎮守府在籍  軍艦夕張 右帝国軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍:駆逐艦 雷、駆逐艦 電、駆逐艦 秋雲|呉鎮守府在籍:駆逐艦 天霧|右帝国駆逐艦籍ヨリ除カル(後略)昭和十九年六月十日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  60. ^ #内令昭和19年6月(2)p.12『内令第七百四十三號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年六月十日海軍大臣嶋田繁太郎|第六駆逐隊ノ項ヲ削ル|第十駆逐隊ノ項中「秋雲、」ヲ削ル|第十九駆逐隊ノ項中「、天霧」ヲ削ル』
  61. ^ #内令昭和19年7月p.13『内令第八三八號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年七月十日海軍大臣|第四駆逐隊ノ項中「満潮」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第十駆逐隊ノ項ヲ削ル』
  62. ^ #福井pp.145-146
  63. ^ 桜と錨の気ままなブログ「福井静夫 『帝国海軍艦艇一覧表』」” (日本語). 桜と錨 (2011年3月7日). 2011年11月6日閲覧。
  64. ^ #内令昭和17年5月(2)p.13『内令第八百四十號 艦艇用目公表範囲別表中別表ノ通改正ス 昭和十七年五月十四日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  65. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.8『駆逐艦|一等|陽炎型|陽炎、不知火、黒潮、早潮、夏潮、初風、雪風、天津風、時津風、浦風、磯風、濱風、谷風、野分、嵐、萩風、舞風、秋雲』
  66. ^ #駆逐艦戦隊122頁
  67. ^ a b c #秋雲p.289
  68. ^ #秋雲p.291

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030051400 『自昭和十七年八月一日至同年八月三十一日 第十一戦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030138000 『自昭和十七年七月一日至昭和十七年七月三十一日 第一海上護衛隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030049600 『丙号輸送部隊戦斗詳報 第九戦隊戦斗詳報第三号』、pp. 1-51。
    • Ref.C08030084400 『自昭和十八年六月一日至昭和十八年六月三十日 第一水雷戦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030084500 『自昭和十八年七月一日至昭和十八年七月三十一日 第一水雷戦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030084600 『機密水雷部隊命令作 第四号』。
    • Ref.C08030106000 『自昭和十八年九月一日至昭和十八年九月三十日 第三水雷戦隊戦時日誌』、pp. 37-51。
    • Ref.C08030106100 『自昭和十八年十月一日至昭和十八年十月三十一日 第三水雷戦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030050100 『自昭和十九年一月一日至昭和十九年一月三十一日 第十戦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030050200 『自昭和十九年二月一日至昭和十九年二月二十九日 第十戦隊戦時日誌』。
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    • Ref.C08030050400 『自昭和十九年四月一日至昭和十九年四月三十日 第十戦隊戦時日誌』。
    • Ref.C13072003500 『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3/巻3追録/第13類艦船(1)』。
    • Ref.C12070108900 『昭和16年1月~昭和16年6月達/3月』。
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  • (Issuu) SS-272, USS REDFIN. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-272_redfin?mode=a_p. 
  • 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後朝雲新聞社1976年
  • 木俣滋郎 『日本空母戦史』 図書出版社、1977年
  • 木俣滋郎 『日本水雷戦史』 図書出版社、1986年
  • 駆逐艦秋雲会(編纂) 『栄光の駆逐艦 秋雲』 駆逐艦秋雲会、1986年
  • 佐藤和正「南太平洋海戦/第三次ソロモン海戦」 『写真・太平洋戦争(第5巻)』 雑誌「」編集部(編)、光人社NF文庫、1995年ISBN 4-7698-2079-8
  • 福井静夫 『日本駆逐艦物語』 阿部安雄、戸高一成(編集委員)、光人社。ISBN 4-7698-0611-6
  • 田村俊夫「新事実発掘! 駆逐艦秋雲は陽炎型だった」、『世界の艦船』第479号、海人社、1994年4月、 150-153頁。
  • 遠藤昭・原進 『駆逐艦戦隊』 朝日ソノラマ、1994年7月。ISBN 4-257-17283-5
  • M・J・ホイットレー 『第二次大戦駆逐艦総覧』 岩重多四郎(訳)、大日本絵画、2000年ISBN 4-499-22710-0
  • 原為一 『帝国海軍の最後』 河出書房新社、2011年(原著1955年)。ISBN 978-4-309-24557-7
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II』光人社、1990年 ISBN 4-7698-0461-X
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年 ISBN 4-7698-1246-9

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