レッドフィン (潜水艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
USS Redfin;0827230.jpg
艦歴
発注
起工 1942年9月3日[1]
進水 1943年4月4日[1]
就役 1943年8月31日[1]
1953年1月9日[1]
退役 1946年11月1日[1]
1967年5月15日[1]
除籍 1970年7月1日[1]
その後 1971年3月31日にスクラップとして売却[1]
性能諸元
排水量 1,525トン(水上)[2]
2,424トン(水中)[2]
全長 307 ft (93.6 m)(水線長)
311 ft 9 in (95.02m)(全長)[2]
全幅 27.3 ft (8.31 m)[2]
吃水 17.0 ft (5.2 m)(最大)[2]
機関 ゼネラル・モーターズ248型16気筒6,500馬力ディーゼルエンジン 4基[2]
ゼネラル・エレクトリック2,740馬力発電機2基[2]
最大速 水上:21 ノット (39 km/h)[3]
水中:9 ノット (17 km/h)[3]
航続距離 11,000カイリ(10ノット時)
(19 km/h 時に 20,000 km)[3]
試験深度 300 ft (90 m)[3]
巡航期間 潜航2ノット (3.7 km/h) 時48時間、哨戒活動75日間[3]
乗員 (平時)士官6名、兵員54名[3]
兵装 (竣工時)4インチ砲1基、20ミリ機銃
(1945年)5インチ砲1基、40ミリ機関砲、20ミリ連装機銃[4]
21インチ魚雷発射管10基

レッドフィン (USS Redfin, SS/SSR/AGSS-272) は、アメリカ海軍潜水艦ガトー級潜水艦の一隻。艦名は北アメリカに生息する赤みがかった尾を持つ魚のレッドフィンに因む。

艦歴[編集]

レッドフィンは1942年2月16日にウィスコンシン州マニトワックマニトワック造船で起工する。1943年4月4日にB・B・ワイガント夫人によって進水し、艦長ロバート・D・キング少佐(アナポリス1931年組)の指揮下8月31日に就役する。レッドフィンは10月15日にニューオーリンズを出航し、ガラパゴス諸島[5]ミルン湾[6]を経て、1944年1月3日にオーストラリアダーウィンに到着した[6]

第1の哨戒 1944年1月 - 3月[編集]

1月4日、レッドフィンは最初の哨戒で南シナ海方面に向かった。1月9日未明、レッドフィンは北緯03度23分 東経121度55分 / 北緯3.383度 東経121.917度 / 3.383; 121.917の地点で2隻の輸送船と2隻の護衛艦からなる輸送船団を発見し、魚雷を3本発射したが命中しなかった[7]。1月16日夕刻には、北緯15度08分 東経114度58分 / 北緯15.133度 東経114.967度 / 15.133; 114.967の地点でレーダーで4つの目標を探知[8]。そのころ、インドシナ半島クイニョンキノン東方470キロ地点でシンガポールに向かっていたヒ31船団は、対潜掃討のため駆逐艦天津風を分離し、探索を行わせていた。レッドフィンは夜に入り、北緯14度40分 東経113度50分 / 北緯14.667度 東経113.833度 / 14.667; 113.833の地点にいたったところで天津風に対して魚雷を4本発射し、魚雷は天津風の艦首に命中して艦体前部を大破させ、航行不能に陥らせた[9][10][11]。レッドフィンでは、「魚雷はすべて命中して目標は撃沈」と判断していた[12]。2月17日、レッドフィンは45日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がマーシャル・H・オースティン少佐(アナポリス1935年組)に代わった。

第2の哨戒 1944年3月 - 5月[編集]

3月19日、レッドフィンは2回目の哨戒でセレベス海方面に向かった。4月8日、レッドフィンは「那智型巡洋艦」、「名取型軽巡洋艦」および「吹雪型駆逐艦」からなる小艦隊を発見するが、目標までおよそ7キロも離れていたので攻撃はできなかった[13]。3日後の4月11日午後には、北緯06度45分 東経122度41分 / 北緯6.750度 東経122.683度 / 6.750; 122.683ミンダナオ島サンボアンガ灯台東方27海里地点で、ダバオに向かう特設運送艦聖川丸川崎汽船、6,882トン)を出迎えるために、同じくダバオに向かっていた駆逐艦秋雲を発見[14]。18時17分、秋雲に対し魚雷を4本発射し、2本が命中した秋雲は左に45度倒れ、40度の角度をつけながら沈没していった[15][16]。翌4月12日、レッドフィンは北緯05度12分 東経123度57分 / 北緯5.200度 東経123.950度 / 5.200; 123.950の地点で「球磨型軽巡洋艦」と駆逐艦を遠方に発見し、徐々に差を詰めていった末に魚雷を4本発射したが、当たらなかった[17]。4月15日午後には、北緯06度41分 東経123度40分 / 北緯6.683度 東経123.667度 / 6.683; 123.667のミンダナオ島南西端でハルマヘラ島からマニラに向かっていたM17船団を発見し、激しい雨に遭いながらも接近して魚雷を6本発射[18]。うち1本が陸軍輸送船神祐丸(栗林商船、4,621トン)に命中したが、沈没は免れた[19][注釈 1]。レッドフィンはM17船団を追跡し続け、翌4月16日未明に北緯07度04分 東経123度27分 / 北緯7.067度 東経123.450度 / 7.067; 123.450の地点で再度魚雷を6本発射する[20]。魚雷は陸軍輸送船山形丸日本郵船、3,807トン)に1本命中し、山形丸は北緯06度51分 東経123度37分 / 北緯6.850度 東経123.617度 / 6.850; 123.617の地点で沈没した。4月22日から23日にかけては、ボルネオ島デントヘヴン付近にイギリスの諜報員を上陸させたが、日本軍の射撃を受けて数名の諜報員はすぐさまレッドフィンに引き返してきた[21]。しかし、残りは6月9日にハーダー (USS Harder, SS-257) が迎えに来るまで取り残されたままとなった。5月1日、レッドフィンは41日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。

第3の哨戒 1944年5月 - 7月[編集]

5月26日、レッドフィンは3回目の哨戒でセレベス海およびスールー海方面に向かった。6月8日、レッドフィンはシブツ海峡英語版にフィリピン人ゲリラを揚陸させた[22]。その後、タウィタウィに集結していた日本艦隊に対する監視を実施するよう命令を受けた。その最中の6月11日未明、レッドフィンは北緯06度00分 東経120度50分 / 北緯6.000度 東経120.833度 / 6.000; 120.833の地点で特設運送船(給油)あさなぎ丸(日本海運、5,141トン)を発見[23]。魚雷を6本発射して、最初の魚雷を命中させ撃沈した[24]。6月13日、レッドフィンは当時アメリカ軍が進めつつあったマリアナ諸島攻撃にかかわる重要な発見をした。この日、マリアナ諸島に向けて第一機動艦隊小沢治三郎中将)がタウィタウィを出撃し、レッドフィンは9時ごろに北緯05度04分 東経119度40分 / 北緯5.067度 東経119.667度 / 5.067; 119.667の地点で第一機動艦隊の出撃を目撃した[25]。その内訳は、「空母6隻、戦艦4隻、重巡洋艦5隻、夕張型軽巡洋艦」1隻、駆逐艦2隻」であった[26]。レッドフィンは攻撃の機会こそ得られなかったが、反撃の様子がないと見るや浮上して、司令部に日本艦隊出撃の報告を行った[27]。報告後は通常の哨戒任務に戻り、6月21日には北緯09度53分 東経125度14分 / 北緯9.883度 東経125.233度 / 9.883; 125.233リマサワ島英語版近海で2隻の「7,000トンないし8,000トン級輸送船」と「掃海艇」を発見し、魚雷を4本発射したものの効果はなかった[28]。6月24日朝、レッドフィンは北緯09度56分 東経125度06分 / 北緯9.933度 東経125.100度 / 9.933; 125.100の地点で2隻の輸送船を発見し、魚雷を3本発射[29]。魚雷は陸軍輸送船阿蘇丸東亜海運、3,028トン)に命中してこれを撃沈した[30]。レッドフィンはもう1隻の目標に対しても魚雷を4本発射し、1本が命中したと判定された[31]。7月1日、レッドフィンは47日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。

第4、第5、第6、第7の哨戒 1944年8月 - 1945年9月[編集]

8月6日、レッドフィンは4回目の哨戒で南シナ海に向かった。8月19日夜に推定位置北緯02度22分 東経109度45分 / 北緯2.367度 東経109.750度 / 2.367; 109.750サラワク・シリク岬近海に機雷を敷設[32]。翌8月20日午後には、北緯02度43分 東経110度39分 / 北緯2.717度 東経110.650度 / 2.717; 110.650の地点で8隻の輸送船団を発見し、浮上攻撃により三度にわたって魚雷を計7本発射したが、いずれも命中しなかった[33]。このあと、レッドフィンは特別任務の命を受けた。これより少し前の8月12日、バラバク海峡フライアー (USS Flier, SS-250) が触雷沈没し、艦長のジョン・D・クローリー少佐(アナポリス1931年組)以下の生存者や他の難民が、パラワン島の一角にアメリカに友好的なゲリラの手で保護されていた。レッドフィンは8月30日にクローリー少佐以下と接触、救出するため行動したが、あいにく会合予定地点に商船らしきものが停泊しており、むやみやたらと行動すれば事が露見する可能性もあった。そこで、レッドフィンは無線でクローリー少佐らと連絡を取り、予定日に会合予定地点の北緯08度48分 東経117度54分 / 北緯8.800度 東経117.900度 / 8.800; 117.900で浮上して、停泊していた200トン級海上トラックを砲撃で撃破してからクローリー少佐以下フライアーの乗員を収容した[34]。レッドフィンはゲリラに対し、クローリー少佐以下を保護してくれたお礼として食物、潤滑油、医療用品、携帯兵器、弾薬および予備の靴、衣料を与えた[35]。9月5日にダーウィンに到着してクローリー少佐以下のフライアー乗員を上陸させたあと、翌9月6日に出港して哨戒を再開した[36]。9月12日午後、レッドフィンは南緯05度29分 東経120度29分 / 南緯5.483度 東経120.483度 / -5.483; 120.483の地点で「5,000トン級輸送船」と「タンカー」からなる輸送船団を発見し、魚雷を4本発射して1本が命中したと判定[37]。爆雷攻撃と甲高いスクリュー音が聞こえたため、レッドフィンは退避した[38]。9月19日朝には、南緯05度36分 東経122度16分 / 南緯5.600度 東経122.267度 / -5.600; 122.267のカバエナ島近海で「小型哨戒艇」を発見し、浮上砲戦で撃ち沈めた[39]。生存者を救助後尋問したところ、船の名前は「Nanko Maru」と言った[40]。2日後の9月21日未明、レッドフィンは南緯05度26分 東経120度46分 / 南緯5.433度 東経120.767度 / -5.433; 120.767の地点で小型輸送船と捕鯨船改装の警備艇を発見し、魚雷を4本発射して2つの爆発があったものの、相手に損害を与えなかった[41]。9月24日には南緯04度31分 東経118度26分 / 南緯4.517度 東経118.433度 / -4.517; 118.433の地点で20トン級セイルボートを発見し、これも浮上砲戦で撃沈した[42]。9月25日午後にも南緯01度06分 東経118度01分 / 南緯1.100度 東経118.017度 / -1.100; 118.017の地点で5,000トン級タンカーを発見して魚雷を4本発射し、その撃沈を報じた[43]。10月7日、レッドフィンは57日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した[44]

10月26日、レッドフィンは5回目の哨戒でルソン島近海に向かった。期間のはじめはバリクパパンを空襲する爆撃機の援護任務に従事。11月8日午後、レッドフィンは北緯13度00分 東経116度48分 / 北緯13.000度 東経116.800度 / 13.000; 116.800のマニラ西方440キロ地点でマシ03船団を発見[45]。魚雷を6本、4本、再び6本と計16本発射し、浮上して砲撃も行った[46]。タンカー第二日南丸飯野海運、5,226トン)はレッドフィンに気づいてすぐに反撃したが、ほどなく魚雷が命中し沈没した[47]。11月12日には、北緯13度00分 東経118度13分 / 北緯13.000度 東経118.217度 / 13.000; 118.217の地点で航空機の直衛を配する輸送船団を発見し、追跡の上で夜に入ってから浮上攻撃を仕掛ける[48]。魚雷を4本発射し、「9,000トン級輸送船」に魚雷が1本命中したことを確認した[49]。護衛艦に対しても魚雷を3本発射したが、こちらは命中しなかった[50]。その後レッドフィンはアメリカ本国に向かうこととなった。12月29日にサイパン島タナパグ港英語版に寄港し、翌日出港[51]。1945年1月7日、レッドフィンは68日間の行動を終えて真珠湾に帰投。メア・アイランド海軍造船所に回航されてオーバーホールに入った。オーバーホール中に、レッドフィンには水中に敷設してある機雷も探知できる特殊なソナーが設置された。艦長がチャールズ・K・ミラー少佐(アナポリス1939年組)に代わった。

5月30日、レッドフィンは6回目の哨戒で日本近海に向かった。この哨戒では艦船攻撃より日本近海に敷設された機雷の状況を探索するのが主任務となっており、レッドフィンは6月23日から29日と7月2日から6日にかけて、北海道から本州沿岸部に敷設されていると目される機雷を調査した[52][53]。7月10日、レッドフィンは36日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。

7月30日、レッドフィンは7回目の哨戒で日本近海に向かった。この哨戒でも九州沿岸部における機雷の敷設状況を調査するのが主任務であり、8月11日から実施していたが、4日後の8月15日に終戦を迎えた[54]。9月5日、レッドフィンは34日間の行動を終えてグアムアプラ港に帰投した[55]

戦後・レーダー哨戒潜水艦[編集]

レーダー哨戒潜水艦としてのレッドフィン

レッドフィンはコネチカット州ニューロンドンに回航され、1946年11月1日にで予備役となった。その後1951年4月にフィラデルフィア海軍工廠でレーダー哨戒潜水艦への改修が行われる。SSR-272 に艦種変更されたレッドフィンは1953年1月9日に再就役し、続く6年にわたって本国沿岸、北ヨーロッパ、地中海でレーダー哨戒任務に当たった。

実験潜水艦[編集]

1959年4月にレッドフィンはフィラデルフィア海軍工廠で慣性誘導システムが装着された。レッドフィンはポラリス運用潜水艦で使用される慣性誘導システムをテストするための実験艦となった。レッドフィンは最初の弾道ミサイル潜水艦であるジョージ・ワシントン (USS George Washington, SSBN-598) に先立って第14潜水艦隊の旗艦となった。

1963年4月に事故を起こしたスレッシャー (USS Thresher, SSN-593) の探索後、レッドフィンは6月28日に AGSS-272 (実験潜水艦)へ艦種変更された。レッドフィンは大西洋で特別調査及び開発実験を行い、実験終了後の1967年5月15日に予備役となりメリーランド州ボルチモアで予備役訓練艦となる。レッドフィンは1970年7月1日に除籍され、1971年3月3日にデラウェア州ウィルミントンのノース・アメリカン・スメルティング社に売却された。

レッドフィンは第二次世界大戦の戦功で6個の従軍星章を受章した。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 神祐丸はマニラ到着後にバターン半島で浮き砲台になった(#駒宮 p.160)。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h #Friedman pp.285-304
  2. ^ a b c d e f g #Bauer
  3. ^ a b c d e f #Friedman pp.305-311
  4. ^ #SS-272, USS REDFIN p.266
  5. ^ #SS-272, USS REDFIN p.4
  6. ^ a b #SS-272, USS REDFIN p.5
  7. ^ #SS-272, USS REDFIN p.7, pp.17-18
  8. ^ #SS-272, USS REDFIN p.9,16
  9. ^ #SS-272, USS REDFIN pp.19-20
  10. ^ #森田 p.65
  11. ^ #駒宮 p.126
  12. ^ #SS-272, USS REDFIN p.10,19,24
  13. ^ #SS-272, USS REDFIN p.36
  14. ^ #SS-272, USS REDFIN p.37
  15. ^ #SS-272, USS REDFIN pp.37-38, pp.54-55
  16. ^ #秋雲 p.59
  17. ^ #SS-272, USS REDFIN pp.39-40, pp.56-57
  18. ^ #SS-272, USS REDFIN pp.41-43, pp.58-61
  19. ^ #駒宮 p.160
  20. ^ #SS-272, USS REDFIN pp.43-45, pp.62-65
  21. ^ #SS-272, USS REDFIN p.47
  22. ^ #SS-272, USS REDFIN p.82
  23. ^ #SS-272, USS REDFIN p.83
  24. ^ #SS-272, USS REDFIN p.83, pp.106-107
  25. ^ #SS-272, USS REDFIN p.85,103
  26. ^ #SS-272, USS REDFIN p.85
  27. ^ #SS-272, USS REDFIN pp.85-86
  28. ^ #SS-272, USS REDFIN p.88, pp.108-109
  29. ^ #SS-272, USS REDFIN p.90, pp.110-111
  30. ^ #SS-272, USS REDFIN pp.90-91, pp.110-111
  31. ^ #SS-272, USS REDFIN pp.112-113
  32. ^ #SS-272, USS REDFIN p.127
  33. ^ #SS-272, USS REDFIN pp.128-129、pp.159-161, pp.165-167
  34. ^ #SS-272, USS REDFIN p.156
  35. ^ #SS-272, USS REDFIN p.132
  36. ^ #SS-272, USS REDFIN pp.134-135
  37. ^ #SS-272, USS REDFIN p.138,162,168
  38. ^ #SS-272, USS REDFIN p.138
  39. ^ #SS-272, USS REDFIN pp.142-143, p.157
  40. ^ #SS-272, USS REDFIN p.157
  41. ^ #SS-272, USS REDFIN pp.14-146, p.163,169
  42. ^ #SS-272, USS REDFIN p.147,158
  43. ^ #SS-272, USS REDFIN pp.148-149, p.164,170
  44. ^ #SS-272, USS REDFIN p.151
  45. ^ #SS-272, USS REDFIN p.193
  46. ^ #SS-272, USS REDFIN p.194, pp.242-243, pp.247-248
  47. ^ #SS-272, USS REDFIN pp.194-195
  48. ^ #SS-272, USS REDFIN pp.201-203
  49. ^ #SS-272, USS REDFIN pp.203-204, p.245,250
  50. ^ #SS-272, USS REDFIN p.246,251
  51. ^ #SS-272, USS REDFIN p.224
  52. ^ #SS-272, USS REDFIN pp.270-271
  53. ^ #Roscoe pp.521-522
  54. ^ #Roscoe p.522
  55. ^ #SS-272, USS REDFIN p.290

参考文献[編集]

  • (issuu) SS-272, USS REDFIN. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-272_redfin?mode=a_p. 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030257500 『自昭和十九年一月一日至昭和十九年十月三十一日 第二海上護衛隊戦時日誌』、37-49頁。
    • Ref.C08030050400 『自昭和十九年四月一日至昭和十九年四月三十日 第十戦隊戦時日誌』。
  • Roscoe, Theodore. United States Submarine Operetions in World War II. Annapolis, Maryland: Naval Institute press. ISBN 0-87021-731-3. 
  • 財団法人海上労働協会(編) 『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』 財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6
  • Blair,Jr, Clay (1975). Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan. Philadelphia and New York: J. B. Lippincott Company. ISBN 0-397-00753-1. 
  • 木俣滋郎 『日本水雷戦史』 図書出版社、1986年
  • 駆逐艦秋雲会(編纂) 『栄光の駆逐艦 秋雲』 駆逐艦秋雲会、1986年
  • 駒宮真七郎 『戦時輸送船団史』 出版協同社、1987年ISBN 4-87970-047-9
  • 木俣滋郎 『敵潜水艦攻撃』 朝日ソノラマ1989年ISBN 4-257-17218-5
  • Bauer, K. Jack; Roberts, Stephen S. (1991). Register of Ships of the U.S. Navy, 1775-1990: Major Combatants. Westport, Connecticut: Greenwood Press. pp. 271-273. ISBN 0-313-26202-0. 
  • Friedman, Norman (1995). U.S. Submarines Through 1945: An Illustrated Design History. Annapolis, Maryland: United States Naval Institute. ISBN 1-55750-263-3. 
  • 森田友幸 『25歳の艦長海戦記 駆逐艦「天津風」かく戦えり』 光人社NF文庫、2004年ISBN 4-7698-2438-6
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」、『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]