コッド (潜水艦)

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USS Cod;0822430.jpg
艦歴
発注 1940年7月1日[1]
起工 1942年7月21日[2]
進水 1943年3月21日[2]
就役 1943年6月21日[2]
退役 1946年3月22日[2][3]
除籍 1971年12月15日[3]
その後 1975年1月25日からオハイオ州クリーブランドで博物館船として公開[4]
性能諸元
排水量 1,526トン(水上)
2,424トン(水中)
全長 307 ft (93.6 m)(水線長)
311 ft 9 in (95.02 m)
全幅 27.3 ft (8.31 m)
吃水 17.0 ft (5.2 m)
機関 ゼネラル・モーターズ278A16気筒ディーゼルエンジン 4基
ゼネラル・エレクトリック発電機2基
最大速 水上:20.25 ノット (37 km/h)
水中:8.75 ノット (16 km/h)
航続距離 11,000カイリ(10ノット時)
(18.5 km/h 時に 20,000 km)
試験深度 300 ft(90 m)
乗員 士官、兵員70名(平時)
士官、兵員80 - 85名(戦時)
兵装 (竣工時)3インチ砲1基、機銃
(1944年2月)4インチ砲1基、20ミリ機銃2基[5]
(終戦時)5インチ砲1基、40ミリ機関砲、20ミリ機銃[6]
21インチ魚雷発射管10基

コッド (USS Cod, SS/AGSS/IXSS-224) は、アメリカ海軍潜水艦ガトー級潜水艦の13番艦。艦名は北大西洋及び北太平洋に生息するタラに因む。

艦歴[編集]

コッドは1942年7月21日にコネチカット州グロトンエレクトリック・ボート社で起工する。1943年3月21日にG・M・マホニー夫人によって進水し、艦長ジェームズ・C・デンプシー少佐(アナポリス1931年組)の指揮下1943年6月21日に就役する。コッドは作戦準備のためブリスベンに、次いでダーウィンに回航された[7]

第1、第2の哨戒 1943年10月 - 1944年3月[編集]

10月14日、コッドは最初の哨戒で南シナ海に向かった[7]バンダ海モルッカ海を抜けて[8]中沙諸島近海の哨戒海域に到着[9]。コッドは敵を求めて海南島トンキン湾にまで足を伸ばした[10]。11月29日朝、コッドは北緯11度42分 東経118度30分 / 北緯11.700度 東経118.500度 / 11.700; 118.500の地点で輸送船とタンカーで構成された輸送船団を発見し、7,000トン級輸送船に向けて魚雷を4本、4,700トン級輸送船に向けて魚雷を2本発射し、7,000トン級輸送船に2本が命中して撃沈、4,700トン級輸送船に1本が命中して撃破したと判定される[11]。コッドはモルッカ海を通ってダーウィンに寄港[12]。12月16日、コッドは63日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した[13]

1944年1月11日、コッドは2回目の哨戒でハルマヘラ島ジャワ島、南シナ海方面に向かった。哨戒期間の前半は南シナ海で行動し、1月29日には北緯13度16分 東経109度21分 / 北緯13.267度 東経109.350度 / 13.267; 109.350の地点で輸送船団に接触したが、よい攻撃位置を占めることが出来なかった[14]。2月9日夕刻、コッドは北緯14度50分 東経109度20分 / 北緯14.833度 東経109.333度 / 14.833; 109.333の地点で単独で航行する5,000トン級輸送船を発見し、深夜に入ってから魚雷を4本発射したが命中しなかった[15]。2月16日には北緯12度38分 東経112度33分 / 北緯12.633度 東経112.550度 / 12.633; 112.550ミンドロ海峡サンパンを発見し、4インチ砲と20ミリ機銃の射撃で破壊した[5]。コッドは南に下り、サンギヘ諸島近海に到着[16]。2月23日朝、コッドは北緯03度53分 東経129度17分 / 北緯3.883度 東経129.283度 / 3.883; 129.283ハルマヘラ島北東海域で輸送船団を発見[17]。夜まで追跡の上、タンカーに向けて魚雷を4本、護衛官に向けて魚雷を2本それぞれ発射し、魚雷は特設運送船(給油)第三小倉丸(共同企業、7,350トン)に2本命中して撃沈した[18]。4日後の2月27日には、北緯01度48分 東経127度32分 / 北緯1.800度 東経127.533度 / 1.800; 127.533の地点で輸送船大速丸大阪商船、2,473トン)を発見し、魚雷を4本発射して2本を命中させて撃沈した[19]。2月29日午後にも北緯04度07分 東経123度54分 / 北緯4.117度 東経123.900度 / 4.117; 123.900の地点で輸送船を発見して魚雷を3本発射したが、「千鳥型水雷艇」と「照月型駆逐艦」からの爆雷攻撃に遭い、深深度潜航を余儀なくされた[20]。3月13日、コッドは62日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。

第3、第4の哨戒 1944年4月 - 8月[編集]

4月6日、コッドは3回目の哨戒でスールー海、南シナ海、ルソン島方面に向かった。5月10日朝、コッドは北緯16度16分 東経119度28分 / 北緯16.267度 東経119.467度 / 16.267; 119.467マニラ湾口北西海域で、レーダーで輸送船団の接近を探知[21]。観測し続け、ほどなく輸送船と護衛艦総計32隻にも及ぶミ03船団の姿を発見。コッドは船団の中に割って入り、北緯14度50分 東経119度20分 / 北緯14.833度 東経119.333度 / 14.833; 119.333の地点に至った所で前部と後部の発射管から魚雷を計9本発射[22]。後部からの3本の魚雷のうち2本が駆逐艦刈萱に命中して撃沈[23]。前部からの6本の魚雷は笠戸丸級輸送船、阿蘇山丸級輸送船、ぶりすべん丸級輸送船に向けられ[24]、3本が阿蘇山丸級輸送船、すなわち特設運送船昌平丸三井船舶、7,255トン)に命中してこれを撃沈[25]。他の目標にも1本ずつ命中したと判断された[22]。6月1日、コッドは56日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がジェームズ・A・"キャディ" アドキンス少佐(アナポリス1926年組)に代わった。

7月3日、コッドは4回目の哨戒で南シナ海、ルソン、ジャワ方面に向かった。7月16日朝、コッドは北緯12度53分 東経119度43分 / 北緯12.883度 東経119.717度 / 12.883; 119.717カラミアン諸島近海で3隻の輸送船団を発見[26]北緯12度25分 東経119度19分 / 北緯12.417度 東経119.317度 / 12.417; 119.317の地点に至り、2,000トン級輸送船に対してまず艦首発射管から魚雷を6本発射したが命中せず[27]、艦尾発射管からも魚雷を4本発射したがこれも命中せず、逆に反撃を食らって2基のエンジンに軽度のダメージがあった[28]。コッドは一度はこの船団との接触を失うが、夜に入って再び発見し、日付が7月17日になった直後に北緯10度59分 東経118度17分 / 北緯10.983度 東経118.283度 / 10.983; 118.283の地点で三度目の攻撃を仕掛ける[29]。この攻撃では魚雷を3本発射したが命中せず、近在のレイポン (USS Lapon, SS-260) にこの船団の始末を委ねて攻撃を打ち切った[30]。コッドは西進し、同じ日の夜に北緯12度24分 東経116度32分 / 北緯12.400度 東経116.533度 / 12.400; 116.533の地点で7隻の輸送船団を発見し、魚雷を6本発射して1つの不正確な命中を確認する[31]カブラ島英語版近海、マニラ湾口に引き返し、7月20日未明には北緯14度23分 東経119度41分 / 北緯14.383度 東経119.683度 / 14.383; 119.683の地点で4隻の輸送船団を発見し、5,000トン級輸送船に対して魚雷を4本発射したが、命中しなかった[32]。コッドは早くも魚雷が残り1本となったので、一旦ダーウィンに引き返すこととなった[33]。その途中の7月25日、コッドは南緯01度41分 東経126度32分 / 南緯1.683度 東経126.533度 / -1.683; 126.533スラ諸島英語版リフマトラ島近海で3隻の輸送船団を発見[34]。夜に入り、南緯01度06分 東経125度33分 / 南緯1.100度 東経125.550度 / -1.100; 125.550の地点にて輸送船団に対して最後の魚雷を発射したが、命中しなかった[35]。コッドは、補給のため7月29日にダーウィンに寄港し、魚雷、燃料、食料品を搭載して8月1日にブルーフィッシュ (USS Bluefish, SS-222) とともに再出撃した[36]

8月3日未明、コッドは南緯01度45分 東経126度14分 / 南緯1.750度 東経126.233度 / -1.750; 126.233マンゴリ島英語版近海で特設捕獲網艇星光丸三光汽船、708トン)を発見し、魚雷を4本発射して3本を命中させて撃沈[37]。8月10日午前には、南緯05度14分 東経121度35分 / 南緯5.233度 東経121.583度 / -5.233; 121.583の地点で特設駆潜艇東石丸日本海洋漁業、89トン)に対して魚雷を4本発射し、うち3本を命中させて撃沈した[38]。夜には南緯05度43分 東経120度49分 / 南緯5.717度 東経120.817度 / -5.717; 120.817の地点で輸送船第六新生丸林兼商店、260トン)を発見し、魚雷を4本発射して1本を命中させるが、沈む気配は見せなかった[39]。日付が8月11日に変わってすぐ、南緯05度37分 東経120度36分 / 南緯5.617度 東経120.600度 / -5.617; 120.600のサラヤル海峡近海で再度の攻撃を行い、魚雷を4本発射して1本を命中させ、第六新生丸は2つの爆発を起こした後沈没していった[40][41][42]。8月13日昼ごろ、コッドは南緯05度28分 東経125度08分 / 南緯5.467度 東経125.133度 / -5.467; 125.133の地点で船舶を発見し、浮上して4インチ砲と20ミリ機銃で砲撃して1発の不確実な命中を確認する[43]。相手は戦車揚陸艦のようではあったが、味方が得ていた日本海軍艦船情報に戦車揚陸艦に関する情報はなかったため、その姿をスケッチに描いた後、月夜下での攻撃を期して潜航した[44]。日付変わって8月14日未明、コッドは南緯04度17分 東経126度46分 / 南緯4.283度 東経126.767度 / -4.283; 126.767の地点で、未知の戦車揚陸艦、すなわち第129号輸送艦に対して魚雷を4本発射し、3本を命中させて撃沈した[45]。8月18日にも南緯05度03分 東経121度21分 / 南緯5.050度 東経121.350度 / -5.050; 121.350の地点で、レーダーを使って探知した目標に対して魚雷を4本発射したが、いずれも命中しなかった[46]。8月25日、コッドは53日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。

第5の哨戒 1944年9月 - 11月[編集]

9月18日、コッドは5回目の哨戒でブルーギル (USS Bluegill, SS-242) 、アングラー (USS Angler, SS-240) とウルフパックを構成し、ルソン島、ミンダナオ島方面に向かった[47]。ダーウィンに寄港の後[48]、哨区に到着。10月5日午後、コッドは北緯13度01分 東経120度15分 / 北緯13.017度 東経120.250度 / 13.017; 120.250ミンドロ島近海でマミ11船団[49]を発見し、最初の攻撃で魚雷を6本発射[50]。うち3本が2隻のタンカーに命中したと判断される[51]。2時間後の二度目の攻撃では、最初の攻撃で速力が落ちた輸送船辰城丸(辰馬汽船、6,886トン)に対して魚雷を4本発射し、全て命中させて辰城丸を撃沈した[52]。10月7日未明には僚艦レイ (USS Ray, SS-271) からの情報に基づいて目標に接近し、北緯13度39分 東経119度24分 / 北緯13.650度 東経119.400度 / 13.650; 119.400マニラ北西方で特務艦知床を発見して魚雷を4本発射、うち2本を命中させて撃破した[41][53]。翌10月8日にもレイの情報に基づき、北緯13度42分 東経119度24分 / 北緯13.700度 東経119.400度 / 13.700; 119.400の地点で1,500トン級輸送船に対して魚雷を6本発射したが、目標が推定18ノットで走り回っていたためか命中しなかった[54]。10月22日朝、コッドは北緯16度30分 東経119度49分 / 北緯16.500度 東経119.817度 / 16.500; 119.817の地点で100トン級海上トラックを発見し、浮上して4インチ砲の射撃と機銃掃射を行ったが、命中弾を与えたものの取り逃がす[55]。10月23日から25日のレイテ沖海戦では引き続きルソン島西岸部で待機。10月25日にはマニラに接近しつつある輸送船団の情報が入り、その輸送船団、フィリピンの戦いに投入される第一師団片岡董中将)の将兵、軍需品を満載したモマ04船団には浅間丸日本郵船、16,975トン)の名前もあった。コッドは浮上したままレーダーを使用してモマ04船団に接近していき、北緯17度34分 東経120度02分 / 北緯17.567度 東経120.033度 / 17.567; 120.033の地点にて浅間丸に対して魚雷を4本発射したが命中しなかった[56]。10月30日からはサイパン島からの指令を受けるようになり、フィリピン東方海上で行動する[57]。11月20日、コッドは59日間の行動を終えて真珠湾に帰投。メア・アイランド海軍造船所に回航されてオーバーホールに入った[58]。オーバーホールを終えたコッドは、1945年3月7日に真珠湾に戻った。

第6、第7の哨戒 1945年3月 - 8月[編集]

3月24日、コッドは6回目の哨戒で東シナ海に向かった。この哨戒では主に救助活動を担当することとなった。3人のパイロットを救助した後、4月17日には北緯31度51分 東経124度52分 / 北緯31.850度 東経124.867度 / 31.850; 124.867の地点で浮上砲戦でタグボートと木造のタンカーを撃沈した[59]。コッドは生存者を救助し、タグボートの名は "Choyo Maru" と言い、下関の船でコールサインは "JUVJ" であることが分かった[60]。木造のタンカーの生存者の方は、船の名前を "Baishi Maru" あるいは "Banshi Maru" と言った[61]。4月24日深夜、コッドは北緯25度42分 東経121度15分 / 北緯25.700度 東経121.250度 / 25.700; 121.250基隆港外で2隻の船を発見し、そのうちの1隻に対して魚雷を4本発射するが、この攻撃は失敗し、コッドは旋回して後部発射管から魚雷を3本発射して、うち1本が命中して目標は沈没した[62]。攻撃後、コッドは1人の下士官を救助し尋問した。尋問の結果、彼の名前は恐らく「アリマ」と思われ[注釈 1]、今しがた撃沈した、彼の乗っていた艦船は第41号掃海艇[注釈 2]だろうということが分かった[63][注釈 3]。4月25日朝には、北緯26度54分 東経121度10分 / 北緯26.900度 東経121.167度 / 26.900; 121.167の地点で小型警備艇に対して魚雷を6本発射したが命中しなかった[64]。4月26日夜、コッドは浮上中に後部魚雷発射管室で火災を起こし、その復旧に努めた。魚雷の誘爆を防ぐため、後部発射管に搭載された魚雷は手動発射で放棄されることとなった。乗組員は火災を冒して消火と放棄に務めたが、その作業中に魚雷積み込み用のハッチから L・E・フォーリーとアンドリュー・G・ジョンソンが海中に転落した。フォーリーは翌朝救助されたが、ジョンソンはそのまま行方不明となった[65]。5月29日、コッドは65日間の行動を終えてグアムアプラ港に帰投。艦長がエドウィン・M・ウエストブルック・ジュニア少佐(アナポリス1938年組)に代わった。

日積礁に乗り上げたオランダ潜水艦 O-19

6月26日、コッドは7回目の哨戒で南シナ海、タイランド湾方面に向かった。7月7日にカムラン湾を偵察した後、コッドはスービック湾に向かう予定だった[66]。その翌日、コッドは北緯08度40分 東経111度40分 / 北緯8.667度 東経111.667度 / 8.667; 111.667南沙諸島日積礁 "Ladd Reef" に乗り上げたオランダ海軍潜水艦 O-19英語版 (HNLMS O-19) 救援のため現場に急行した。同日夜に現場に到着したコッドは、O-19 の引き降ろし作業に取りかかった。しかし、艦はびくともせず作業は無駄に終わり、 O-19 の引き降ろしを断念して処分することとなった。7月10日、コッドは乗組員全員を収容した後、5インチ砲弾16発と魚雷を2本撃ちこんで O-19 を処分した[67]。コッドは O-19 乗組員を乗せてスービック湾に向かい、7月13日に彼らを上陸させた後、翌日に再出撃した[68]

7月19日、コッドは、ハッチェン英語版行きの輸送船団攻撃の際に護衛の駆逐艦神風の反撃で損傷したホークビル (USS Hawkbill, SS-366) に代わって船団を追跡[69]北緯06度12分 東経103度11分 / 北緯6.200度 東経103.183度 / 6.200; 103.183の地点で船団に追いついて魚雷を3本発射したが、攻撃は失敗した[70]。コッドは船団情報を発信し、それに基づいてバンパー (USS Bumper, SS-333) が船団に食いついた[71]。7月21日から8月1日までの間、コッドはマレー半島テンゴール岬沖で小物狩りに勤しんだ。この期間に、友好的な現地住民を助けた上で臨検して破壊した、総計23隻ものモーターサンパンスクーナージャンクはしけは、シンガポール方面の日本軍勢力に対する、この時期に唯一残された補給路であった。コッドの攻撃により、小船集団とともに砂糖ガソリンなど各種油類コーヒーなどの物資は海中に消え失せた[72]。8月1日の攻撃の際に哨戒機に発見されたためコッドは潜航し、サンパンの乗組員は後日、ブレニー (USS Blenny, SS-324) に救助された。

8月13日、コッドは47日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。この時、 O-19 乗組員一同が帰投したコッドを出迎え、コッドの乗組員のためにパーティーを開くこととなった。2人の乗組員は日本の降伏を知っていた。この忘れがたい記念として、コッドのバトルフラッグと艦橋には "O-19" の文字とマティーニが描かれた。

戦後[編集]

コッドは8月31日にフリーマントルを出港し、帰途にマイアミフィラデルフィアに寄港した後、11月3日にニューロンドンに到着。その後、1946年6月22日に予備役艦となった。

コッドはフランシス・E・リッチ艦長の指揮下1951年に再就役し、NATOの対潜水艦訓練演習に参加する。冷戦下における航海はニューファンドランド島沖で行われた。演習「LANTFLEX'52」でコッドはアメリカ軍の空母を撃沈し賞賛された。

コッドは1954年に予備役となり保管された。1959年にはオハイオ州クリーブランドで予備役訓練艦として使用するため、新たに作られたセント・ローレンス水路を通って曳航された。歴戦の武勲艦は遠足で訪れた児童達によって見学された。コッドは1962年12月1日に AGSS-224 (実験潜水艦)へ艦種変更され、1971年6月30日には IXSS-224 (非分類雑役潜水艦)へ再変更され、同年に除籍された。

コッドは12隻以上の敵艦を沈め、その総トン数は37,000トン以上になる。さらに36,000トンにおよぶ敵艦を破壊した。7回の哨戒は成功し、その戦功で7個の従軍星章を受章した。

博物館船[編集]

一部のクリーブランド市民がコッドを湖畔上の記念碑として保存するため、コッド保存委員会を組織した。1976年1月に海軍は委員会に潜水艦の後見の権利を与えた。1976年5月にコッドは浮かぶ記念碑としての経歴が始まり、間もなく観光名所としての地位を確立した。1986年には内務省がコッドをアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定した。

コッドは現在もクリーブランドで博物館船として、アメリカ海軍潜水艦部隊100年の歴史において殉職した3,900名以上の乗組員の記念碑として公開されている。また、毎年5月1日から9月30日の間に艦を訪れるよう宣伝が行われる。

コッドは非常に良く復元され、唯一公開展示のためドアや船体を切断したり階段を設置されなかった潜水艦である。コッドを訪れた見学者は乗組員が使用したのと同じ垂直梯子やハッチを使って艦内に入る。コッドの4基のディーゼルエンジンはゼネラル・モーターズのクリーブランド工場によって生産されたため、クリーブランドは艦の生誕地の一部であると主張することができる。

コッド記念碑は最近スティングレイ (USS Stingray, SS-186) で使用された2基のGMクリーブランド・モデル248エンジンを取得した。2基のエンジンはコッドの復元のために使用された。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ オリジナル表記は "Alyeema" (#U.S.S. Cod (SS-224)p.238)
  2. ^ オリジナル表記は "So-Kai'-te yo-en ju-itsu,gol" (#U.S.S. Cod (SS-224)p.238)
  3. ^ #日本海軍護衛艦艇史p.60 のように、「20年1月4日海南島海口で米空母機の攻撃を受け擱坐」とする書物もある。

出典[編集]

  1. ^ #海と空p.170
  2. ^ a b c d #U.S.S. Cod (SS-224)p.1
  3. ^ a b #Friedman
  4. ^ #Bauer
  5. ^ a b #U.S.S. Cod (SS-224)p.41,58
  6. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)p.305
  7. ^ a b #U.S.S. Cod (SS-224)p.4
  8. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)p.5
  9. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)p.7
  10. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)p.11
  11. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)pp.15-16, pp.22-24, p.29
  12. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)p.18
  13. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)p.19
  14. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)p.36,50
  15. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)p.39, pp.51-53
  16. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)pp.42-43
  17. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)p.43
  18. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)pp.53-55
  19. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)pp.55-56
  20. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)pp.46-47, pp.56-58
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  22. ^ a b #U.S.S. Cod (SS-224)p.90
  23. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)pp.88-91
  24. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)p.89
  25. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)pp.88-90
  26. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)p.104,125
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  28. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)pp.104-105, pp.138-139
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  31. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)pp.106-108, pp.140-141
  32. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)pp.108-109, pp.141-142
  33. ^ #U.S.S. Cod (SS-224)p.109
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参考文献[編集]

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  • 野間恒 『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』 野間恒(私家版)、2004年
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」、『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年

外部リンク[編集]