スコーピオン (潜水艦)

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Scorpion SS-278.jpg
艦歴
発注
起工 1942年3月20日[1]
進水 1942年7月20日[1]
就役 1942年10月1日[1]
退役
除籍
その後 1944年1月6日以降に戦没
1944年3月6日に喪失宣告
性能諸元
排水量 1,525トン(水上)[2]
2,424トン(水中)[2]
全長 307 ft (93.6 m)(水線長)
311 ft 9 in (95.02m)(全長)[2]
全幅 27.3 ft (8.31 m)[2]
吃水 17.0 ft (5.2 m)(最大)[2]
機関 フェアバンクス・モース38D8 1/8型9気筒6,500馬力ディーゼルエンジン 4基[2]
ゼネラル・エレクトリック2,740馬力発電機2基[2]
最大速 水上:21 ノット (39 km/h)[3]
水中:9 ノット (17 km/h)[3]
航続距離 11,000カイリ(10ノット時)
(19 km/h 時に 20,000 km)[3]
試験深度 300 ft (90 m)[3]
巡航期間 潜航2ノット (3.7 km/h) 時48時間、哨戒活動75日間[3]
乗員 (平時)士官6名、兵員54名[3]
兵装 (竣工時)3インチ砲1基、20ミリ機銃2基、50口径機銃2基、30口径機銃2基[4]
(1943年5月)4インチ砲1基、20ミリ機銃2基
21インチ魚雷発射管10基

スコーピオン (USS Scorpion, SS-278) は、アメリカ海軍潜水艦ガトー級潜水艦の一隻。艦名はサソリに因む。その名を持つ艦としては5隻目。

艦歴[編集]

スコーピオンは1942年3月20日にメイン州キタリーポーツマス海軍造船所で起工した。1942年7月20日にエリザベス・T・モナグルによって命名、進水し、1942年10月1日に艦長ウィリアム・N・ワイル少佐(アナポリス1930年組)の指揮下就役する。艤装が完了すると、スコーピオンは1943年1月にニューイングランド南部で整調を行い、2月後半にパナマへ向かう。パナマ運河を通過し3月半ばに真珠湾に到着する。真珠湾でスコーピオンはバチサーモグラフ英語版を含む海洋測定機器の装備が行われ、ソナーの効果を低減させる温水層の探知が可能になった。

第1の哨戒 1943年4月 - 5月[編集]

4月5日、スコーピオンは最初の哨戒で日本近海に向かった。4月19日に那珂湊の東方25マイルから35マイルの沖合に達し、午後に海岸周辺の調査を実施して夜に機雷を22個敷設した[5]。その後は通常の哨戒に戻り、翌4月20日に北緯37度10分 東経141度25分 / 北緯37.167度 東経141.417度 / 37.167; 141.417金華山灯台沖で特設砲艦明治丸(日之出汽船、1,934トン)を発見し、魚雷を3本発射して1本を命中させて撃沈した[6]。4月21日未明1時ごろには北緯37度40分 東経141度30分 / 北緯37.667度 東経141.500度 / 37.667; 141.500の地点で浮上砲戦で50トンサンパンを撃破[7]。続いて塩屋埼灯台周辺の海岸や航路を哨戒。4月22日夜にも北緯37度08分 東経141度28分 / 北緯37.133度 東経141.467度 / 37.133; 141.467の地点を中心に70トン級と50トン級の3隻のサンパンを砲撃で撃破した[8]。4月23日未明には北緯37度03分 東経142度11分 / 北緯37.050度 東経142.183度 / 37.050; 142.183の地点で2つの目標と護衛艦を探知し、魚雷を4本発射し、1本が7,500トン級輸送船に命中して損傷を与えたと判断された[9]。その後も金華山灯台近海で引き続き哨戒したが、意外と獲物には恵まれなかった[10]。しかし、4月27日朝に北緯38度08分 東経143度03分 / 北緯38.133度 東経143.050度 / 38.133; 143.050の地点で護衛艦がついた4隻の輸送船を発見し、魚雷を6本発射[11]。最も大型の輸送船勇山丸(山本汽船、6,380トン)に魚雷を命中させ、攻撃後は深深度潜航で退避した。5時5分になって護衛艦が爆雷攻撃を行ったが、被雷した勇山丸救援のため程なく攻撃を切り上げた。スコーピオンは軽微な損傷を負ったのみで逃げ切り、勇山丸は沈没していった。4月28日に帰還命令を受領し[12]、4月29日には北緯38度00分 東経147度30分 / 北緯38.000度 東経147.500度 / 38.000; 147.500の地点で100トンの小船を発見し、3インチ砲と機銃で炎上させた[13]。4月30日早朝、スコーピオンは北緯37度34分 東経155度00分 / 北緯37.567度 東経155.000度 / 37.567; 155.000南鳥島北方海域で、第二監視艇隊所属の特設監視艇第五恵比寿丸(東海遠洋漁業、131トン)を発見[12][14][15]。第五恵比寿丸は1942年5月10日にシルバーサイズ (USS Silversides, SS-236) と交戦して、死傷者を多く出しながらもシルバーサイズを追い散らした戦歴を持っていた。第五恵比寿丸はスコーピオンの方に突進し、約1時間あまり交戦。第五恵比寿丸は搭載の7.7ミリ機銃で機銃掃射し、9時24分にR・M・レイモンド少佐が戦死[16]。他にも負傷者が出た。スコーピオンは北緯37度20分 東経149度50分 / 北緯37.333度 東経149.833度 / 37.333; 149.833の地点まで交戦した後、残っていた魚雷を第五恵比寿丸に向けて発射し命中[17]。弾薬が尽きていた第五恵比寿丸は「機械故障」の無電を発した後沈没したものと考えられる[18]。第五恵比寿丸と交戦した後、航空機が出現したのでスコーピオンは潜航して逃げ切った。帰途、スコーピオンはミッドウェー島に寄港。5月8日、スコーピオンは33日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。スコーピオンは整備により、備砲を3インチ砲から4インチ砲に換装した[19]

第2の哨戒 1943年5月 - 7月[編集]

5月29日、スコーピオンは2回目の哨戒で東シナ海黄海方面に向かった。6月2日にミッドウェー島に到着して給油した後、担当海域に針路を向ける。6月21日にトカラ列島周辺に着き、台湾長崎間の航路を哨戒した。6月28日にトカラ列島の哨区を後にして黄海に向かい、6月30日に到着[20]山東半島付近を哨戒した。7月3日、スコーピオンは北緯38度21分 東経124度24分 / 北緯38.350度 東経124.400度 / 38.350; 124.400大同江河口沖で、1隻の護衛艦がついた5隻の輸送船からなる秦皇島行きの輸送船団を発見。9時55分に魚雷を三度にわたり計6本発射したあと、46メートルの深度でじっとしていた[21]。程なく爆雷攻撃が始まり、10時2分と6分、8分には比較的至近距離で爆雷が炸裂し危機が迫っていたが、1時間に及ぶ攻撃の間、スコーピオンは水中でうまく立ち回り、11時49分に潜望鏡深度に戻して探索したところ、護衛艦は6.4キロ先にいたがこちらには気付いていない様子であり、スコーピオンはその場を立ち去った[22]。スコーピオンが発射した魚雷は2隻の輸送船、鞍山丸大連汽船、3,690トン)と黒竜丸(大連汽船、6,112トン)に命中して両船を撃沈したことが戦後に判明したが[23]、当時スコーピオンは「4,000トン級輸送船3隻撃破」と判定していた[24]。爆雷攻撃で少なからず損傷を受けたスコーピオンは、トカラ列島周辺を航行して引き返していったが、7月7日に北緯29度23分 東経129度50分 / 北緯29.383度 東経129.833度 / 29.383; 129.833悪石島付近を航行中、九六式陸攻と思われる航空機の攻撃を受けた[25][26]。7月15日にミッドウェー島に寄港[25]。7月26日、スコーピオンは48日間の行動を終えて真珠湾に帰投[27]。修理と訓練に従事し、艦長がマクシミリアン・G・シュミット少佐(アナポリス1932年組)に代わった。

第3の哨戒 1943年10月 - 12月[編集]

10月13日、スコーピオンは3回目の哨戒でトラック諸島方面に向かった。10月17日にミッドウェー島で給油した後、まずマリアナ諸島周辺に向かい、10月25日と26日の2日間にわたってパガン島アグリハン島を偵察。11月2日、パハロス島近海で海図に載っていない暗礁に軽く座礁したが、損害はほとんどなく、すぐに離礁した[28]。11月5日には最上型重巡洋艦と思われる艦影を発見したが、スコールによって邪魔をされ、4時間追跡したが結局見失った[29]。11月7日にアグリハン島沖に戻り、11月8日には北緯20度40分 東経144度52分 / 北緯20.667度 東経144.867度 / 20.667; 144.867の地点で輸送船を発見して魚雷を3本発射したが、どうもQシップではないかと思われたため、スコーピオンはその場を去った[30]。その後この海域は悪天候が続き、なかなか敵船を発見できなかった。しかし、11月13日朝になって北緯18度20分 東経142度50分 / 北緯18.333度 東経142.833度 / 18.333; 142.833のパガン島近海で、3隻の護衛艦がついた特務艦知床を発見[31][32]。スコーピオンは魚雷を4本発射し、1本が知床のボイラー室に命中し航行不能となった[33][34][35]。護衛艦が威嚇のために爆雷攻撃をしてきたが、それ以上には攻撃してこなかった。スコーピオンは11月14日にはロタ島近海、15日にはサイパン島近海で哨戒をした。しかし、依然として悪天候は収まらず、11月22日に2隻の護衛艦がついた輸送船を発見し16時間も追跡したものの、結局攻撃できなかった。12月5日、スコーピオンは53日間の行動を終えて真珠湾に帰投した[36]

第4の哨戒 1943年12月 - 1944年1月[編集]

12月29日、スコーピオンは4回目の哨戒で東シナ海、黄海方面に向かった。1944年1月3日にミッドウェー島に到着して給油を行った後、担当海域に向かった。1月5日の朝、スコーピオンは乗組員の一人が上腕を骨折したため、哨戒から帰還途中で付近にいたヘリング (USS Herring, SS-233) への移乗を要求した。その日の午後、推定位置北緯30度07分 東経167度30分 / 北緯30.117度 東経167.500度 / 30.117; 167.500で2隻は合流したが、荒天のため移乗は行えなかった[37][38]。スコーピオンは予定は順調であることを報告したが、ヘリングと別れた後消息不明となる。2月16日、スティールヘッド (USS Steelhead, SS-280) はスコーピオンと思しき潜水艦に接近しており、付近に敵の潜水艦がいると警告された。しかし、この潜水艦が本当にスコーピオンだったかどうかは不明である。2月24日[39]まで待ったもののスコーピオンの消息はつかめず、喪失が宣告された。

喪失[編集]

日本軍にはスコーピオンが戦闘の結果失われたという記録はなかった。しかしながら、スコーピオンが消息不明となった海域は、黄海の入り口を横切るいくつかの機雷敷設区域であった。これらの機雷敷設区域と「制限区域」の存在は、後に接収した日本軍の航路情報の中から発見された。1943年5月21日付で、この海域に機雷を敷設する命令が出されており、実際に1943年7月から9月にかけて、朝鮮半島南西部から158海里にも及ぶ機雷礁が構築されていた[40]。しかし一方で、いくつかの潜水艦はこの海域で偵察を行い、機雷敷設区域を横切り何事もなく帰還していた。実際、スコーピオン自身も2回目の哨戒でこの海域を航行しているし、タング (USS Tang, SS-306) もこの海域を航行した[41]。これらの機雷敷設区域では機雷の密度が薄く、潜水艦に対しては最高でも1割程度の脅威にしかならず、時間の経過と共に機雷の有効性が減少していた可能性が高い[40]。スコーピオンは機雷が敷設された直後、あるいは機雷の密度が一番高かったときに失われたのではないかと考えられる。スコーピオンは作戦活動の犠牲となったのかもしれないが、偵察海域の水深は浅く、何名かの乗組員が生存していたのではないかと考えられる。しかしながら生存者の情報は存在しないため、最も合理的な仮定はスコーピオンが触雷して沈没したということになる。後に、エスカラー (USS Escolar, SS-294) もこの海域で失われたと判断されることとなった。

スコーピオンは第二次世界大戦の戦功で3個の従軍星章を受章した。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • (issuu) SS-278, USS SCORPION. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-278_scorpion?mode=a_p. (注・マイクロフィルムの収録順序が逆なので、閲覧の際は最終ページより)
  • (issuu) SS-233, USS HERRING. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-233_herring?mode=a_p. 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030376400 『横須賀防備隊 大東亜戦争戦時日誌 自昭和十八年四月 至昭和十八年五月』。
    • Ref.C08030071500 『自昭和十八年四月一日 至昭和十八年四月三十日 北方部隊哨戒部隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030071600 『自昭和十八年五月一日 至昭和十八年五月三十一日 北方部隊哨戒部隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030346300 『自昭和十八年七月一日至昭和十八年七月三十一日 佐世保鎮守府戦時日誌』。
    • Ref.C08030465800 『武装商船警戒隊戦闘詳報 第三一一号』、9-15頁。
    • Ref.C08010530900 『鎮海警備府引渡目録その3 敷設機雷』。
  • Roscoe, Theodore. United States Submarine Operetions in World War II. Annapolis, Maryland: Naval Institute press. ISBN 0-87021-731-3. 
  • 財団法人海上労働協会(編) 『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』 財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6
  • 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書46 海上護衛戦』 朝雲新聞社1971年
  • 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』 朝雲新聞社1971年
  • Blair,Jr, Clay (1975). Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan. Philadelphia and New York: J. B. Lippincott Company. ISBN 0-397-00753-1. 
  • 駒宮真七郎 『戦時輸送船団史』 出版協同社、1987年ISBN 4-87970-047-9
  • 木俣滋郎 『敵潜水艦攻撃』 朝日ソノラマ1989年ISBN 4-257-17218-5
  • Bauer, K. Jack; Roberts, Stephen S. (1991). Register of Ships of the U.S. Navy, 1775-1990: Major Combatants. Westport, Connecticut: Greenwood Press. pp. 271-273. ISBN 0-313-26202-0. 
  • Friedman, Norman (1995). U.S. Submarines Through 1945: An Illustrated Design History. Annapolis, Maryland: United States Naval Institute. ISBN 1-55750-263-3. 
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」、『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年、 92-240頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]