ヘリング (潜水艦)

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USS Herring (SS-233).jpg
艦歴
発注 1940年6月28日[1]
起工 1941年7月14日[2]
進水 1942年1月15日[2]
就役 1942年5月4日[2]
退役
除籍
その後 1944年6月1日に戦没
1944年7月13日に喪失宣告
性能諸元
排水量 1,526トン(水上)
2,410トン(水中)
全長 307 ft (93.6 m)(水線長)
311 ft 9 in (95.02 m)(全長)
全幅 27.3 ft (8.31 m)
吃水 17.0 ft (5.2 m)
機関 フェアバンクス・モース38D-1/8 10気筒ディーゼルエンジン 4基
エリオット・モーター発電機2基
最大速 水上:20.25 ノット (37 km/h)
水中:8.75 ノット (16 km/h)
航続距離 11,000カイリ(10ノット時)
(18.5 km/h 時に 20,000 km)
試験深度 300 ft (90 m)
乗員 士官、兵員70名(平時)
士官、兵員80 - 85名(戦時)
兵装 (竣工時)3インチ砲1基、機銃
21インチ魚雷発射管10基

ヘリング (USS Herring, SS-233) は、アメリカ海軍潜水艦ガトー級潜水艦の一隻。艦名は北大西洋に生息するニシン目の魚の一種に因む。

艦歴[編集]

ヘリングは1941年7月14日にメイン州キタリーポーツマス海軍造船所で起工する。1942年1月15日にレイ・スピア少将夫人によって進水し、艦長レイモンド・W・ジョンソン少佐(アナポリス1930年組)の指揮下5月4日に就役する。整調後ヘリングは他の潜水艦4隻[注釈 1]と共にヨーロッパ戦線に投入された。

第1から第5の哨戒・大西洋での作戦[編集]

10月21日、ヘリングは最初の哨戒で地中海に向かった[3]。北アフリカ沿岸のステーションでトーチ作戦に先立っての任務に従事。ヘリングは11月5日にカサブランカに到着し、侵攻作戦は11月8日の朝に始まった。その日、ヘリングは北緯33度34分 西経07度52分 / 北緯33.567度 西経7.867度 / 33.567; -7.867のカサブランカ近海で、ヴィシー・フランスの輸送船 Ville du Havre を発見し、魚雷を4本発射して2本命中させ撃破した[4][5]。その後、マデイラ諸島方面に移動し哨戒を続けた[6]。11月25日、ヘリングは35日間の行動を終えてスコットランドロスネース英語版に帰投した[7]

12月16日、ヘリングは2回目の哨戒でビスケー湾方面に向かった[8]。しかし、ビスケー湾では思いのほか接触が少なく、中立国スペインの船舶の他は、フランス沿岸に基地を持つUボートのための支援船1隻を見たのみであった[9]。1943年2月12日、ヘリングは58日間の行動を終えてロスネースに帰投[10]。艦長がジョン・コーブス少佐(アナポリス1930 年組)に代わった。

3月6日、ヘリングは3回目の哨戒でビスケー湾方面に向かった[11]。この哨戒でも、漁船には多数接触したが[12]、肝心の敵には、3月21日に北緯44度13分 西経08度23分 / 北緯44.217度 西経8.383度 / 44.217; -8.383の地点で、Uボートらしい物体に魚雷を2本発射して命中を報告した時[13]以外はほとんど接触しなかった。4月12日、ヘリングは37日間の行動を終えてロスネースに帰投[14]。ジョンソン少佐が艦長に復帰した。

5月4日、ヘリングは4回目の哨戒でアイスランド近海に向かった[14]。この海域を突破しようとするUボートに対する哨戒任務に就いたが[14]、Uボートはおろか、その他の敵艦船すら見なかった[15]。6月9日、ヘリングは35日間の行動を終えてロスネースに帰投した。この後、本国への帰途のついでに5回目の哨戒を行った[16][注釈 2]。7月26日、ヘリングは19日間の行動を終えてニューロンドンに帰投。整備後、8月9日にニューロンドンを出港。サンフランシスコハンターズ・ポイント海軍造船所でのオーバーホールの後、11月2日に真珠湾に到着した[17]

第6、第7の哨戒 1943年11月 - 1944年1月[編集]

11月15日、ヘリングは6回目の哨戒で東シナ海方面に向かった。12月14日未明、ヘリングは北緯33度10分 東経125度00分 / 北緯33.167度 東経125.000度 / 33.167; 125.000済州島西方でシ206船団を発見し、まず最初の目標に対して魚雷を2本発射し、2本とも輸送船筥崎丸日本製鐵、3,948 トン)に命中してこれを撃沈[18][19]。続いて別の目標に対して魚雷を2本発射するも、これは命中しなかった[20]。三番目の目標を7,000トン級タンカーに定め、魚雷を2本発射して1本が命中したものと判断された[21]。12月27日には病院船瑞穂丸(大阪商船、8,506 トン)を目撃[22]。12月31日から1944年1月1日、ヘリングは新年を跨いで第4222船団を追跡し[23]、まず12月31日深夜の攻撃で「千鳥型水雷艇」に対して魚雷を4本発射し、うち2本が命中したものと判断される[24]。続いて1月1日未明には北緯32度15分 東経138度02分 / 北緯32.250度 東経138.033度 / 32.250; 138.033青ヶ島沖で2つの目標に対して魚雷を3本ずつ計6本発射、うち2本が特設航空機運搬艦名古屋丸(南洋海運、6,072 トン)に命中して名古屋丸を撃沈し、1本がもう一つの目標に命中したと判断された[25]。1月8日、ヘリングは56日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投[26]。艦長がデイヴィッド・ザブリスキ・ジュニア少佐(アナポリス1936年組)に代わった。

2月14日、ヘリングは7回目の哨戒で日本近海に向かった[27]豊後水道九州沿岸を中心に哨戒し[28]、3月20日には北緯31度32分 東経133度01分 / 北緯31.533度 東経133.017度 / 31.533; 133.017の地点で推定23ノットで航行する2隻の駆逐艦を発見し、浮上攻撃で魚雷を6本発射するが命中しなかった[29]。3月23日夜にも北緯31度35分 東経133度10分 / 北緯31.583度 東経133.167度 / 31.583; 133.167の地点で初春型駆逐艦と思われる艦艇に向けて魚雷を3本発射し、1本命中させたと判断された[30][31]。翌3月24日にミッドウェー島に針路を向けるが[32]、その翌日の3月25日未明には、北緯31度50分 東経135度07分 / 北緯31.833度 東経135.117度 / 31.833; 135.117の地点で鹿児島から鈴鹿に向かう空母龍鳳と駆逐艦早霜に接触するが攻撃はできず、早霜も逆探でヘリングを探知して戦闘配置を令したが、双方とも何事も起こらなかった[33][34][35]。3月28日未明には北緯33度05分 東経140度03分 / 北緯33.083度 東経140.050度 / 33.083; 140.050の地点で7,000トン級輸送船に対して魚雷を4本発射したが、命中しなかった[36]。4月7日、ヘリングは54日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した[37]

最後の哨戒 1944年5月[編集]

5月16日、ヘリングは8回目の哨戒で千島列島方面に向かった[38]。5月21日にミッドウェー島に寄港して燃料を補給後出港[38]。10日後、ヘリングはバーブ (USS Barb, SS-220) と合流するが、その後の消息は不明となり、7月13日付で喪失が宣告された[39]。以下はバーブおよび日本側の記録からおおよそ掴めたヘリング最後の日の出来事である。

5月31日に北緯48度28分 東経151度04分 / 北緯48.467度 東経151.067度 / 48.467; 151.067の地点でバーブと合流したヘリングは[40]、濃霧の中松輪島の西方150マイルの地点でレーダーを使って輸送船団を発見した。この輸送船団は、松輪島から小樽へ回航する空船で構成された輸送船団であり、海防艦石垣[注釈 3]が先導していた[41]。ヘリングはバーブと船団攻撃の手順を打ち合わせた後別れた。ヘリングの方が先に船団を確認したらしく、バーブが船団を確認して攻撃態勢を整えようとした時、遠くで爆雷が炸裂する音が聴取された[42]。魚雷を3本発射した後に浮上すると1人の日本人が漂流しており[42]、救助の上尋問すると石垣の唯一の生存者であることが分かり、このことからヘリングが石垣を撃沈したことが分かった[43][44]。日本側の記録では11時30分ごろに石垣は雷撃を受け、艦首を亡失した石垣はそのまま爆雷攻撃を実施していたようだが[45]、程なく沈没した。石垣の沈没地点は北緯46度26分 東経151度36分 / 北緯46.433度 東経151.600度 / 46.433; 151.600と記録された[46]。バーブも敢然と船団に接近して輸送船を撃沈し、バーブが撃沈していない分、すなわち輸送船北洋丸栗林商船、1,590 トン)はヘリングが撃沈したことが分かった[41]。船団で生き残った海軍徴傭船岩木丸(大阪商船、3,125 トン)は急遽松輪島の大和湾に引き返した[41][注釈 4]

6月1日朝7時43分ごろ、ヘリングは大和湾に侵入。魚雷を6本発射して、停泊していた岩木丸の右舷に魚雷を2本命中させて撃沈[41][47]。同じく停泊していた陸軍船日振丸(山下汽船、4,366 トン)にも魚雷を2本命中させて撃沈した[41][47]。ヘリングは更なる敵を求めて湾内に深く侵入してきたが、7時56分頃に島の南東端である多岩岬[44]あるいは鵜崎[47]に触礁し、浮上して後進を開始する[47]。これを見た陸上砲台はこの好機を逃さず距離1,200メートルで銃砲撃を開始し[47]、湾内に攻撃目標とならず残っていた陸軍船紅海丸(大阪商船、1,273 トン)も応戦してきた[41]。陸上砲台は12.7センチ高角砲8発、12センチ砲51発、8センチ高角砲63発、各種機銃弾2,986発を発射の上[47]、司令塔に二発命中させた[41]。ヘリングの姿は8時5分頃に、天蓋山の130度3,500メートルの地点で濃霧により見えなくなった[47]。記録には「水泡が5メートル幅の範囲を覆い、重油がおよそ15マイルを覆った」とあるが[41]、「潜航不能トナラシメタルコト確実ト認ムルモ撃沈スルニ至ラズ」とも記された[47]。 しかし、結果的にヘリングは司令塔への命中弾が致命傷となり、その場で沈没したものと考えられている。

ヘリングは最後の哨戒で4隻の日本船、総トン数13,202トンを撃沈し[注釈 5]、撃沈総トン数は19,959トンに上った。

ヘリングは第二次世界大戦の戦功で5個の従軍星章を受章した。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ バーブ、 ブラックフィッシュ (USS Blackfish, SS-221) 、ガンネル (USS Gunnel, SS-253) 、シャード (USS Shad, SS-235)
  2. ^ この哨戒の戦時日誌、戦闘報告は存在しない。
  3. ^ 1943年10月7日に、阿頼度島近海でS-44 (USS S-44, SS-155) を砲撃により撃沈している。
  4. ^ 岩木丸は、#駒宮pp.180-181 および#木俣敵潜1989pp.110-111 では、日振丸とともに松輪島に入港したものとしている。
  5. ^ 当初は神風型駆逐艦1隻と護衛艦1隻の戦果とされた(#SS-233, USS HERRINGp.151)。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • (issuu) SS-233, USS HERRING. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-233_herring?mode=a_p. 
  • (issuu) SS-220, USS BARB, Part 1. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-220_barb_part1?mode=a_p. 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030465900 『武装商船警戒隊戦闘詳報 第一五号』、pp. 45-46。
    • Ref.C08030374000 『自昭和十八年十二月一日至昭和十八年十二月三十一日 佐世保防備戦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030369600 『自昭和十九年三月一日至昭和十九年三月三十一日 呉防備戦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030126900 『自昭和十九年三月一日至昭和十九年三月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030279700 『自昭和十九年六月一日至昭和十九年六月三十日 千島方面根拠地隊戦時日誌』。
  • 深谷甫(編)「写真 米国海軍」、『増刊 海と空』、海と空社、1940年
  • Roscoe, Theodore. United States Submarine Operetions in World War II. Annapolis, Maryland: Naval Institute press. ISBN 0-87021-731-3. 
  • 財団法人海上労働協会(編) 『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』 財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6
  • Blair,Jr, Clay (1975). Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan. Philadelphia and New York: J. B. Lippincott Company. ISBN 0-397-00753-1. 
  • 海防艦顕彰会(編) 『海防艦戦記』 海防艦顕彰会/原書房、1982年
  • 駒宮真七郎 『戦時輸送船団史』 出版協同社、1987年ISBN 4-87970-047-9
  • 木俣滋郎 『敵潜水艦攻撃』 朝日ソノラマ1989年ISBN 4-257-17218-5
  • Friedman, Norman (1995). U.S. Submarines Through 1945: An Illustrated Design History. Annapolis, Maryland: United States Naval Institute. pp. pp .285–304. ISBN 1-55750-263-3. 
  • 野間恒 『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』 野間恒(私家版)、2004年
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」、『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]