ポーギー (潜水艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
USS Pogy;0826616.jpg
艦歴
発注
起工 1941年9月15日[1]
進水 1942年6月23日[1]
就役 1943年1月10日[1]
1943年2月12日[1]
退役 1943年2月1日[1]
1946年7月20日[2]
除籍 1958年9月1日[2]
その後 1959年5月1日にスクラップとして売却[2]
性能諸元
排水量 1,525トン(水上)[3]
2,424トン(水中)[3]
全長 307 ft (93.6 m)(水線長)
311 ft 9 in (95.02m)(全長)[3]
全幅 27.3 ft (8.31 m)[3]
吃水 17.0 ft (5.2 m)(最大)[3]
機関 ゼネラル・モーターズ248型16気筒6,500馬力ディーゼルエンジン 4基[3]
ゼネラル・エレクトリック2,740馬力発電機2基[3]
最大速 水上:21 ノット (39 km/h)[4]
水中:9 ノット (17 km/h)[4]
航続距離 11,000カイリ(10ノット時)
(19 km/h 時に 20,000 km)[4]
試験深度 300 ft (90 m)[4]
巡航期間 潜航2ノット (3.7 km/h) 時48時間、哨戒活動75日間[4]
乗員 (平時)士官6名、兵員54名[4]
兵装 (竣工時)3インチ砲1基、20ミリ機銃、小口径機銃2基[5]
(1944年2月)4インチ砲1基、20ミリ機銃2基、小口径機銃2基[6]
(1945年3月)5インチ砲1基、40ミリ機関砲、20ミリ機銃、小口径機銃2基[7]
(1945年7月)5インチ砲1基、40ミリ機関砲、20ミリ連装機銃、小口径機銃2基[8]
21インチ魚雷発射管10基

ポーギー (USS Pogy, SS-266) は、アメリカ海軍潜水艦ガトー級潜水艦の番艦。艦名はタホ湖に生息するマスの一種に因む。

艦歴[編集]

ポーギーは1941年9月15日にウィスコンシン州マニトワックマニトワック造船で起工する。1942年6月23日にユリウス・A・フューアー夫人によって進水し、艦長ジョージ・H・ウォーレス少佐(アナポリス1929年組)の指揮下1943年1月10日に就役する。ポーギーは2月1日に河川はしけニューオーリンズに運搬されるため一時的に退役し、2月12日に到着すると再就役した。整調と公試および訓練が完了すると、ポーギーは4月5日に真珠湾に到着した。

第1の哨戒 1943年4月 - 6月[編集]

4月15日、ポーギーは最初の哨戒で日本近海に向かった。本州東岸海域で哨戒。5月1日8時45分ごろ、ポーギーは北緯37度03分 東経141度05分 / 北緯37.050度 東経141.083度 / 37.050; 141.083塩屋埼灯台54度6海里の地点で5隻の輸送船と1隻の護衛艦からなる輸送船団を発見し、魚雷を3本発射[9]。魚雷は特設砲艦京津丸阿波国共同汽船、1,434トン)に命中してこれを撃沈し、他に艦船を破損させたと判断された[10]。その夜、ポーギーは北緯37度14分 東経141度30分 / 北緯37.233度 東経141.500度 / 37.233; 141.500の地点で駆逐艦と目される艦影を発見し、魚雷を3本発射して1本が命中したとする[9]。翌5月2日夕刻には、北緯37度11分 東経143度40分 / 北緯37.183度 東経143.667度 / 37.183; 143.667の地点で100トン級サンパンを砲撃で撃沈[11]。5月4日には北緯38度26分 東経141度39分 / 北緯38.433度 東経141.650度 / 38.433; 141.650の地点で輸送船と水雷艇を発見し、魚雷を3本発射したが命中しなかった[12]。5月9日には北緯37度05分 東経141度06分 / 北緯37.083度 東経141.100度 / 37.083; 141.100の地点で4隻の輸送船からなる輸送船団を発見し、護衛艦の制圧をものともせず魚雷を3本発射、輸送船宇洋丸(東洋汽船、6,376トン)に1本を命中させて撃破した[13][14]。ポーギーはこの後もこの海域に留まり、5月11日朝に北緯37度52分 東経143度12分 / 北緯37.867度 東経143.200度 / 37.867; 143.200の地点で100トン級サンパンを撃沈したあと[15]、5月13日には北緯38度16分 東経141度36分 / 北緯38.267度 東経141.600度 / 38.267; 141.600の地点で2隻の輸送船を発見して魚雷を3本発射し、1本の命中を確認する[16]。5月26日には北緯37度03分 東経141度09分 / 北緯37.050度 東経141.150度 / 37.050; 141.150の地点で塩屋埼灯台沖で2隻の輸送船団を発見し、魚雷を3本発射して輸送船太南丸(太興汽船、1,989トン)に2本命中させて撃沈した[17]。6月5日、ポーギーは51日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。

第2の哨戒 1943年6月 - 8月[編集]

6月26日、ポーギーは2回目の哨戒でトラック諸島方面に向かった。7月いっぱい続いた哨戒期間中、ポーギーは日本本土とトラックの航路を重点的に哨戒した。7月5日、ポーギーは北緯07度25分 東経149度35分 / 北緯7.417度 東経149.583度 / 7.417; 149.583プンナップ島東方海面で発見した2隻の輸送船に対して魚雷を計5本発射し、3,000トン級輸送船に1本が命中したと判断した[18]。ポーギーを含む、トラックの周囲で哨戒するアメリカ潜水艦がこの頃最も重視していたのは、トラックに出入りする空母戦艦、重要船団の動向であった。7月15日には空母や重巡洋艦からなる艦隊を発見したが、艦隊は攻撃の範囲外にいた[19]。7月20日、ポーギーは北緯08度14分 東経149度48分 / 北緯8.233度 東経149.800度 / 8.233; 149.800の地点で4隻の輸送船団を発見し、魚雷を4本発射したが命中しなかった[20]。7月31日午後、ポーギーは北緯11度08分 東経153度18分 / 北緯11.133度 東経153.300度 / 11.133; 153.300のトラック北北東240海里の地点で第3724船団を発見し、日付が8月1日になった直後に魚雷を4本発射、特設航空機運搬艦最上川丸(東洋海運、7,496トン)に2本命中してこれを撃沈した[21]。その後ポーギーは哨戒領域を離れ、8月14日にジョンストン島で給油を行った。8月16日、ポーギーは53日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。

第3、第4の哨戒 1943年9月 - 12月[編集]

9月9日、ポーギーは3回目の哨戒でパラオ方面に向かった。9月23日未明、ポーギーは北緯08度15分 東経138度35分 / 北緯8.250度 東経138.583度 / 8.250; 138.583の地点でレーダーにより2隻の輸送船を探知し、二番目の輸送船に対して魚雷を3本発射したが命中しなかった[22]。9月28日午後、ポーギーは北緯07度11分 東経134度36分 / 北緯7.183度 東経134.600度 / 7.183; 134.600の地点でパラオからラバウルに向かうソ805船団を発見し、魚雷を4本発射するが命中しなかった[23]。ポーギーは追跡を続け、2日後の9月30日6時40分に北緯06度02分 東経139度27分 / 北緯6.033度 東経139.450度 / 6.033; 139.450の地点にいたったところで魚雷を4本発射し、魚雷は陸軍輸送船前橋丸(南洋海運、7,005トン)の左舷後方船倉に命中貫通して右舷船倉で爆発[24][25]。前橋丸は浸水甚だしく6時45分に沈没した[24]。10月6日には、北緯05度03分 東経134度42分 / 北緯5.050度 東経134.700度 / 5.050; 134.700の地点で2隻のタンカーに対し魚雷を4本発射したが、命中しなかった[26]。10月28日、ポーギーは49日間の行動を終えて真珠湾に帰投[27]。艦長がラルフ・M・メトカーフ少佐(アナポリス1935年組)に代わった。

11月25日、ポーギーは4回目の哨戒でパラオ方面に向かった。12月7日昼、ポーギーは北緯13度30分 東経155度20分 / 北緯13.500度 東経155.333度 / 13.500; 155.333サイパン島東方400キロ地点で輸送船2隻と海防艦2隻からなる第4205乙船団を発見し、2隻の目標に対して魚雷を4本発射して2本が命中[28]。次いで魚雷をもう2本発射して1本を命中させる[29]。魚雷は特設運送船(給炭油)総洋丸東洋汽船、6,081トン)に3本命中し火災を発生させた。海防艦が爆雷攻撃に入る前に、ポーギーは巧みにこれをかわした。ポーギーは夜になって浮上し、消火に成功したものの航行不能の総洋丸に対して魚雷を2本発射して、2本とも命中させてようやく撃沈した[30]。この時、日付は12月8日になっていた。12月13日には、北緯07度06分 東経134度30分 / 北緯7.100度 東経134.500度 / 7.100; 134.500のパラオ南方で輸送船団を発見して魚雷を3本発射、陸軍輸送船福海丸明治海運、3,829トン)に2本命中させて撃沈した[31]。しかし、直後に護衛艦から27発もの爆雷攻撃を受けた。うち3発がポーギーのすぐそばで爆発し、魚雷発射管用のジャイロスコープとエンジン用温度計が破壊された[32]。ポーギーは損傷のため哨戒を切り上げた。12月22日、ポーギーは29日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。

第5の哨戒 1944年1月 - 3月[編集]

駆逐艦峯風(1932年)

1944年1月15日、ポーギーは5回目の哨戒で台湾近海に向かった[33]。2月9日午後、ポーギーは北緯23度20分 東経121度30分 / 北緯23.333度 東経121.500度 / 23.333; 121.500の台湾東方で2隻の護衛艦に護衛され、7隻の輸送船からなるモタ01船団を発見[34]。追跡の上2月10日未明より攻撃を開始し、まず魚雷を3本発射するが命中しなかった[35]。3時間後、駆逐艦に対して魚雷を2本、輸送船に対して魚雷を3本発射[36]。魚雷は、駆逐艦峯風の艦橋直下と後部に命中して撃沈し、輸送船まるた丸(日本海運、5,499トン)にも2本が命中して撃沈した[37]。ポーギーは台湾東方で哨戒を続け、2月13日朝には北緯25度46分 東経121度43分 / 北緯25.767度 東経121.717度 / 25.767; 121.717彭佳嶼近海で3隻の輸送船を発見し、浮上攻撃で魚雷を2本発射したが命中した様子はなく、攻撃後に17発の爆雷攻撃を受けたが切り抜けた[38]。2月20日未明、ポーギーは北緯24度15分 東経123度15分 / 北緯24.250度 東経123.250度 / 24.250; 123.250の、北回帰線と交差する八重山諸島の近海でナ180船団を発見[39]。魚雷を2本発射し、2本とも命中したを確認[40]。3時間半後に再び魚雷を3本発射し、1本の命中を確認する[41]。最初の攻撃で輸送船大仁丸(太洋海運、5,154トン)を[39][42]、二度目の攻撃で輸送船南洋丸運輸通信省、3,614トン)を撃沈した[43][44]。3日後の2月23日未明にも、北緯26度20分 東経126度11分 / 北緯26.333度 東経126.183度 / 26.333; 126.183久米島近海でモタ05船団を発見し、先頭と二番目の輸送船に対して魚雷を4本発射し、30分後にもう4本発射[45]。魚雷は2隻の輸送船、宝嶺丸東亜海運、5,588トン)と帝坤丸(帝国船舶、5,113トン)に命中し、宝嶺丸は帝坤丸とともに那覇港に曳航されたが、2月25日に港外で荒天を避けるべく避泊中、船体が切断し座礁沈没した[46]。翌2月25日未明には雨の中で沖大東島を艦砲射撃し、見張所に損害を与えた[47][48]。3月8日、ポーギーは54日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。

第6の哨戒 1944年4月 - 5月[編集]

4月7日、ポーギーは6回目の哨戒で日本近海に向かった。本州海域で哨戒中の4月28日夜、ポーギーは北緯32度07分 東経133度03分 / 北緯32.117度 東経133.050度 / 32.117; 133.050豊後水道沖の島沖で、から出てきた伊号第一八三潜水艦(伊183)を発見した[49]。ポーギーは3時間かけて伊183の出方を見たが、伊183がこちらを発見した素振りがないので魚雷を4本発射[50]。1本が伊183に命中し、4つないし5つの爆発を起こして沈没していった[51]。攻撃後確認すると、周囲にはガソリンのような匂いが漂っていた。直後に司令部から、豊後水道を往来する輸送潜水艦を攻撃するよう命令が入ったので、ポーギーは「すでに完了」との返信を送った[52]。その後、ポーギーは東に哨区を移動させ、5月5日朝には北緯33度20分 東経135度32分 / 北緯33.333度 東経135.533度 / 33.333; 135.533潮岬沖290度12海里の地点で第8504船団を発見し、魚雷を3本発射[53]。海軍徴傭船白根丸日本郵船、2,825トン)に1本が命中してこれを撃沈し、白根丸から逸れた2本が陸岸に命中して爆発した[54]。5月11日夜には北緯34度36分 東経138度04分 / 北緯34.600度 東経138.067度 / 34.600; 138.067大王崎沖で「古めかしい大型貨客船」と2隻の護衛艦を発見し、魚雷を4本発射したが命中しなかった[55]。5月13日夜には北緯34度31分 東経138度33分 / 北緯34.517度 東経138.550度 / 34.517; 138.550石廊崎南南西25キロ地点で輸送船と護衛艦を発見し、魚雷を3本発射[56]。魚雷は海軍徴傭船安房丸大阪商船、4,524トン)に2本が命中し、可燃物を満載していた安房丸は瞬時に火の海と化して沈没した[57]。5月16日には北緯33度56分 東経139度50分 / 北緯33.933度 東経139.833度 / 33.933; 139.833八丈島近海で20トン級サンパンを20ミリ機銃の射撃だけで撃沈し、50代の船員を捕虜とした[58]。5月20日にも北緯31度21分 東経140度03分 / 北緯31.350度 東経140.050度 / 31.350; 140.050の地点で40トン級サンパンを撃沈して5名を捕虜とする[59]。5月29日、ポーギーは52日間の行動を終えて真珠湾に帰投。6月1日にサンフランシスコハンターズ・ポイント海軍造船所オーバーホールに入るため真珠湾を出港し、6月8日に到着した[60]。休み中に艦長がピーター・G・モルテーニ・ジュニア少佐(アナポリス1937年組)に代わり、ポーギーはオーバーホール後の9月17日に真珠湾に向けて出港した[60]。真珠湾に到着後、ポーギーは短期の訓練を行った。

第7、第8の哨戒 1944年10月 - 1945年2月[編集]

10月13日、ポーギーは7回目の哨戒で南西諸島方面に向かった。しかし、この哨戒では味方潜水艦とサンパンは見たものの、敵艦船とは一度も遭遇せず、攻撃機会もなかった[61]。12月2日、ポーギーは48日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。

12月27日、ポーギーは8回目の哨戒で小笠原諸島方面に向かった。1945年1月14日未明、ポーギーは3隻の輸送船からなる輸送船団を発見し、北緯29度41分 東経140度44分 / 北緯29.683度 東経140.733度 / 29.683; 140.733の地点で魚雷を6本発射したが命中しなかった[62]。敵以外では哨戒中の事故で九死に一生を得たポンポン (USS Pompon, SS-267) と会合し、ポンポンとともにミッドウェー島に針路を向けた。2月11日、ポーギーは46日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。艦長がジョン・B・バワーズ少佐(アナポリス1938年組)に代わった。

第9の哨戒 1945年3月 - 5月[編集]

3月12日、ポーギーは9回目の哨戒で日本近海に向かった。この哨戒では東京湾口方面での艦船攻撃の他に、海上に不時着したB-29のクルーを救助する任務も請け負っていた。4月1日朝、ポーギーは北緯30度35分 東経138度04分 / 北緯30.583度 東経138.067度 / 30.583; 138.067の地点で2隻の特設監視艇に対して5インチ砲で砲撃を行ったが、脅かしただけに終わる[63]。4月5日には北緯33度29分 東経139度58分 / 北緯33.483度 東経139.967度 / 33.483; 139.967の地点で海防艦を発見し、魚雷を3本したが回避され、逆に爆雷攻撃を受けた[64]。4月9日午後にも、北緯32度31分 東経139度28分 / 北緯32.517度 東経139.467度 / 32.517; 139.467の地点で2隻の輸送船を発見して、小型タンカーに対して魚雷を4本発射したが、これも命中しなかった[65]。4月19日、ポーギーは救助配備中にB-24(あるいは海軍型のPB4Y-1 シーリベレーター)誤爆を受け、艦橋に被弾した[66][67]。4月29日、ポーギーは担当海域で不時着したB-29のクルー10名を救助し、彼らをサイパン島タナパグ港英語版まで輸送した[68]。タナパグ港でクルーを下ろしたあと、5月6日に出港[69]。5月15日、ポーギーは61日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。

第10の哨戒 1945年7月 - 8月[編集]

7月2日、ポーギーは10回目の哨戒で日本海に向かった。日本海はかつて「ヒロヒト浴槽」などと称していたが、6月のバーニー作戦以降は何ら恐れる海域ではなくなった。ポーギーは対馬海峡の機雷海域を通り抜け、終戦まで日本海を哨戒することとなった。7月14日にグアムアプラ港に進出し、7月15日から16日にかけては太平洋艦隊潜水部隊司令官チャールズ・A・ロックウッド中将の巡閲を受ける[70]。7月25日に日本海に入り[71]、2日後の7月27日夜には、北緯37度06分 東経134度31分 / 北緯37.100度 東経134.517度 / 37.100; 134.517経ヶ岬沖で輸送船筑前丸(東亜海運、2,448トン)を発見し、魚雷を4本発射して2本を命中させこれを撃沈[72]。7月31日未明には北緯38度47分 東経138度30分 / 北緯38.783度 東経138.500度 / 38.783; 138.500の地点で、レーダーで探知した小型タンカーに対して魚雷を4本発射したが、命中した様子はなかった[73]。8月2日未明にも北緯37度31分 東経135度45分 / 北緯37.517度 東経135.750度 / 37.517; 135.750の地点で「10,000トン級タンカー」を発見し、魚雷を4本発射してに損傷を与えたと判断された[74]。8月5日未明には、北緯39度40分 東経138度55分 / 北緯39.667度 東経138.917度 / 39.667; 138.917男鹿半島船川の西方沖で発見した輸送船琴平山丸(三井船舶、2,220トン)に対し魚雷を2本発射、2本とも命中させて撃沈した[75]。8月10日、ポーギーは北緯43度23分 東経140度38分 / 北緯43.383度 東経140.633度 / 43.383; 140.633積丹半島沖で沿岸輸送船を発見して魚雷を4本発射したが、命中しなかった[76]。その後、終戦を択捉島近海で迎えた[77]。8月21日、ポーギーは47日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。第二次世界大戦での経歴を終えた。

戦後[編集]

ポーギーは9月5日にミッドウェー島を出航し、パナマ運河を経由して東海岸へ向かい、10月3日にニューヨークに到着した。その後、1946年7月20日にニューロンドンで予備役となり、大西洋予備役艦隊入りする。ポーギーは1958年9月1日に除籍され、1959年5月1日に売却された。

ポーギーは16隻の船を沈め、その総撃沈トン数は62,633トンに上る。ポーギーは第二次世界大戦の戦功で8個の従軍星章を受章した。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e #SS-266, USS POGYp.3
  2. ^ a b c #Friedman pp.285-304
  3. ^ a b c d e f g #Bauer
  4. ^ a b c d e f #Friedman pp.305-311
  5. ^ #SS-266, USS POGYp.12
  6. ^ #SS-266, USS POGYp.124
  7. ^ #SS-266, USS POGYp.243,249
  8. ^ #SS-266, USS POGYp.289
  9. ^ a b #SS-266, USS POGYp.11,17,19
  10. ^ #SS-266, USS POGYp.11, pp.17-18
  11. ^ #SS-266, USS POGYp.12,17
  12. ^ #SS-266, USS POGYp.12, pp.17-18
  13. ^ #SS-266, USS POGYp.13,19
  14. ^ Chapter V: 1943” (英語). The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II. HyperWar. 2012年6月25日閲覧。
  15. ^ #SS-266, USS POGYp.13,17
  16. ^ #SS-266, USS POGYp.13,17,19
  17. ^ #SS-266, USS POGYp.15,17,20
  18. ^ #SS-266, USS POGYp.32, pp.39-43
  19. ^ #SS-266, USS POGYp.33,37
  20. ^ #SS-266, USS POGYp.33,39, pp.44-45
  21. ^ #SS-266, USS POGYpp.34-35, pp.46-47
  22. ^ #SS-266, USS POGYp.61, pp.75-76
  23. ^ #SS-266, USS POGYp.62, pp.77-78
  24. ^ a b #駒宮p.93
  25. ^ #SS-266, USS POGYp.62, pp.79-80
  26. ^ #SS-266, USS POGYp.63, pp.81-82
  27. ^ #SS-266, USS POGYp.65
  28. ^ #SS-266, USS POGYp.91, pp.97-98
  29. ^ #SS-266, USS POGYp.91, pp.99-100
  30. ^ #SS-266, USS POGYp.92, pp.101-102
  31. ^ #SS-266, USS POGYp.93, pp.104-105
  32. ^ #SS-266, USS POGYpp.93-94
  33. ^ #SS-266, USS POGYpp.114-115
  34. ^ #SS-266, USS POGYp.116
  35. ^ #SS-266, USS POGYp.117, pp.130-131
  36. ^ #SS-266, USS POGYp.117, pp.132-133
  37. ^ #SS-266, USS POGYpp.117-118, pp.132-133
  38. ^ #SS-266, USS POGYpp.119-120, pp.134-135
  39. ^ a b #SS-266, USS POGYp.121
  40. ^ #SS-266, USS POGYp.121, pp.136-137
  41. ^ #SS-266, USS POGYpp.121-122, p.138-139
  42. ^ #佐鎮1902(3)p.37
  43. ^ #SS-266, USS POGYp.122
  44. ^ #佐鎮1902(3)pp.50-51
  45. ^ #SS-266, USS POGYp.123, pp.140-143
  46. ^ #佐鎮1902(4)p.10, pp.13-14
  47. ^ #SS-266, USS POGYp.124
  48. ^ #佐鎮1902(4)pp.10-12
  49. ^ #SS-266, USS POGYp.173
  50. ^ #SS-266, USS POGYp.160,
  51. ^ #SS-266, USS POGYp.160
  52. ^ #木俣潜p.511
  53. ^ #SS-266, USS POGYp.162, pp.175-176
  54. ^ #阪警1905pp.23-24
  55. ^ #SS-266, USS POGYp.165, pp.177-178
  56. ^ #SS-266, USS POGYp.166, pp.179-180
  57. ^ #野間pp.268-269
  58. ^ #SS-266, USS POGYp.167,181
  59. ^ #SS-266, USS POGYp.182
  60. ^ a b #SS-266, USS POGYp.195
  61. ^ #SS-266, USS POGYpp.203-205
  62. ^ #SS-266, USS POGYp.223, pp.233-234
  63. ^ #SS-266, USS POGYp.249,268,273
  64. ^ #SS-266, USS POGYp.251, pp.270-271
  65. ^ #SS-266, USS POGYp.254-255, pp.271-273
  66. ^ #SS-266, USS POGYpp.259-260, p.284
  67. ^ Chapter VII: 1945” (英語). The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II. HyperWar. 2012年6月25日閲覧。
  68. ^ #SS-266, USS POGYp.264,266
  69. ^ #SS-266, USS POGYp.266
  70. ^ #SS-266, USS POGYp.290
  71. ^ #SS-266, USS POGYp.293
  72. ^ #SS-266, USS POGYpp.294-295, pp.311-312
  73. ^ #SS-266, USS POGYp.296, pp.314-315
  74. ^ #SS-266, USS POGYpp.299-300, pp.316-317
  75. ^ #SS-266, USS POGYp.302, pp.318-319
  76. ^ #SS-266, USS POGYp.305, pp.320-321
  77. ^ #SS-266, USS POGYp.306

参考文献[編集]

  • (issuu) SS-266, USS POGY. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-266_pogy?mode=a_p. 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030376500 『横須賀防備隊 大東亜戦争戦時日誌 自昭和十八年四月 至昭和十八年五月』。
    • Ref.C08030251000 『自昭和十八年七月一日 至昭和十八年七月三十一日 第四根拠地隊司令部 第二海上護衛隊司令部戦時日誌』、33-44頁。
    • Ref.C08030142900 『自昭和十八年十二月一日 至昭和十八年十二月三十一日 第二海上護衛隊司令部戦時日誌』、40-75頁。
    • Ref.C08030351600 『自昭和十九年二月一日 至昭和十九年二月二十九日 佐世保鎮守府戦時日誌』。
    • Ref.C08030351800 『自昭和十九年二月一日 至昭和十九年二月二十九日 佐世保鎮守府戦時日誌』。
    • Ref.C08030351900 『自昭和十九年二月一日 至昭和十九年二月二十九日 佐世保鎮守府戦時日誌』。
    • Ref.C08030352000 『自昭和十九年二月一日 至昭和十九年二月二十九日 佐世保鎮守府戦時日誌』。
    • Ref.C08030374200 『自昭和十九年二月一日至昭和十九年二月十九日 佐世保防備戦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030500600 『自昭和十九年五月一日 至昭和十九年五月三十一日 大阪警備府戦時日誌』。
  • Roscoe, Theodore. United States Submarine Operetions in World War II. Annapolis, Maryland: Naval Institute press. ISBN 0-87021-731-3. 
  • 財団法人海上労働協会(編) 『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』 財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6
  • 日本郵船戦時船史編纂委員会 『日本郵船戦時船史』上、日本郵船、1971年
  • 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』 朝雲新聞社1973年
  • Blair,Jr, Clay (1975). Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan. Philadelphia and New York: J. B. Lippincott Company. ISBN 0-397-00753-1. 
  • 駒宮真七郎 『戦時輸送船団史』 出版協同社、1987年ISBN 4-87970-047-9
  • 木俣滋郎 『敵潜水艦攻撃』 朝日ソノラマ1989年ISBN 4-257-17218-5
  • Bauer, K. Jack; Roberts, Stephen S. (1991). Register of Ships of the U.S. Navy, 1775-1990: Major Combatants. Westport, Connecticut: Greenwood Press. pp. 271-273. ISBN 0-313-26202-0. 
  • Friedman, Norman (1995). U.S. Submarines Through 1945: An Illustrated Design History. Annapolis, Maryland: United States Naval Institute. ISBN 1-55750-263-3. 
  • 野間恒 『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』 野間恒(私家版)、2004年
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」、『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年

外部リンク[編集]