時津風 (陽炎型駆逐艦)

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時津風
基本情報
建造所 浦賀船渠
運用者  大日本帝国海軍
艦種 駆逐艦
級名 陽炎型駆逐艦
艦歴
計画 1937年度(③計画
起工 1939年2月20日
進水 1939年11月10日
竣工 1940年12月15日
最期 1943年3月4日戦没
除籍 1943年4月1日
要目
基準排水量 2,033トン
全長 118.5m
最大幅 10.8m
吃水 3.8m
ボイラー ロ号艦本式缶3基
主機 艦本式衝動タービン2基2軸
52,000馬力
速力 35.0ノット
航続距離 18ノットで5,000
乗員 239人
兵装 50口径三年式12.7センチ砲連装×3
25mm機銃連装×2
61cm魚雷発射管4連装×2
爆雷16個
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時津風(ときつかぜ)は、大日本帝国海軍駆逐艦[1]陽炎型駆逐艦の10番艦である[2]。 この名を持つ帝国海軍の艦船としては3隻目{書類上は2隻目}(初代は磯風型駆逐艦時津風)。

艦歴[編集]

浦賀船渠で建造され、1939年(昭和14年)2月20日起工。同年8月25日、姉妹艦の天津風と共に「時津風(トキツカゼ)」と命名される[1]。11月10日に進水、1940年(昭和15年)9月1日附で駆逐艦天霧駆逐艦長中原義一郎中佐は、時津風艤装員長に任命される[3]。なお中原は、白露型駆逐艦4番艦夕立艤装員長[4]および初代駆逐艦長[5]だった。 時津風は12月15日に竣工[6]。同日附で中原艤装員長も制式に時津風初代駆逐艦長となる[7]呉鎮守府籍。浦賀船渠で建造された陽炎型としては3隻目。

当時、第二水雷戦隊(司令官五藤存知少将)第16駆逐隊(駆逐隊司令島崎利雄大佐)は陽炎型3番艦黒潮、7番艦初風、8番艦雪風で構成されており、紀元二千六百年記念行事に伴う紀元二千六百年特別観艦式にも第16駆逐隊はこの3隻で参加している。その後、陽炎型9番艦天津風(12月15日附)及び10番艦(本艦)の就役と第16駆逐隊加入に伴い、黒潮は第15駆逐隊に転出した[8]

1941年(昭和16年)7月25日、島崎司令は軽巡洋艦川内艦長へ転任、渋谷紫郎大佐(前職第7駆逐隊司令)が第16駆逐隊新司令として着任した[9]。 9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将も第六戦隊(青葉加古衣笠古鷹)司令官へ転任、後任の二水戦司令官は田中頼三少将となった[10]

太平洋戦争開戦時、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)は第15駆逐隊(夏潮、黒潮、親潮、早潮)、第8駆逐隊(大潮、朝潮、満潮、荒潮)、第16駆逐隊、第18駆逐隊(不知火、霞、陽炎、霰)をもって構成されており、第16駆逐隊は第1小隊(司令艦:雪風、時津風)/第2小隊(天津風、初風)という編成であった[11]。なお第8駆逐隊は南方部隊本隊、第18駆逐隊は南雲機動部隊に所属しており、第二水雷戦隊の直接指揮下になかった。

太平洋戦争緒戦[編集]

太平洋戦争緒戦、第16駆逐隊を含む第二水雷戦隊は南方攻略作戦に投入され、各方面で順調に活動を続けた。フィリピン攻略に目途がつくと、第二水雷戦隊は蘭印作戦に投入された。日本軍の快進撃が続く中、数隻の駆逐艦が沈没した。1942年(昭和17年)2月9日、二水戦/第15駆逐隊より夏潮が米潜水艦の雷撃により沈没し、陽炎型駆逐艦最初の喪失艦となった。 2月27日、時津風はスラバヤ沖海戦に参加。戦闘後、時津風は沈没した連合軍艦艇将兵を救助した[12]

3月15日に「時津風」や水上機母艦「千歳」、軽巡洋艦「鬼怒」、駆逐艦「雪風」などからなるN攻略部隊が編成され、同部隊は3月末から西部ニューギニア戡定作戦に従事した[13]

6月上旬のミッドウェー作戦では陸軍一木支隊及び海軍陸戦隊輸送船団護衛のため、アメリカ軍艦隊と直接交戦する機会はなかった。

7月11日、第16駆逐隊第1小隊(時津風、雪風)は輸送船南海丸を護衛して呉を出発[14]。航海中の7月14日、艦隊再編成により時津風以下第16駆逐隊は第十戦隊(司令官木村進少将:旗艦長良)に編入された[15][16]。16駆加入までの第十戦隊は、第7駆逐隊の吹雪型駆逐艦3隻()、第10駆逐隊の夕雲型駆逐艦4隻(秋雲夕雲巻雲風雲)、第17駆逐隊の陽炎型駆逐艦4隻(浦風磯風谷風浜風)で編制されていた[17]。 7月15日、3隻(時津風、雪風、南海丸)は台湾高雄市に到着[18]。21日に出発してラバウルに向かう[19]。28日ラバウルに到着[20]。 帰路、ラバウルへ進出中の第八艦隊(司令長官三川軍一中将)旗艦鳥海と合同した[21]。7月29日、第9駆逐隊第1小隊(朝雲夏雲)は鳥海護衛任務を16駆1小隊(時津風、雪風)に引き継ぐと横須賀へ帰投した[22]。3隻(鳥海、雪風、時津風)は30日15時ラバウル着[23]。鳥海を残して1小隊(雪風、時津風)はトラック泊地に戻った[24]。 8月1日、第16駆逐隊司令は渋谷大佐から荘司喜一郎大佐に交代[25]。8月5日、「時津風」は工作艦「明石」およびミッドウェー海戦での損傷の応急修理を終えた重巡洋艦「最上」を護衛してトラック発[26]。8月12日に「時津風」は呉に入港した[26]

ガダルカナル島の戦い[編集]

第16駆逐隊第1小隊(雪風、時津風)が護衛任務に従事している間にアメリカ軍はガダルカナル島フロリダ諸島に上陸を開始、8月7日以降ガダルカナル島の戦いがはじまる。第16駆逐隊は第三艦隊(司令長官南雲忠一中将)と合流すると、第一航空戦隊の空母3隻(翔鶴瑞鶴、龍驤)を護衛し、ガダルカナル島へ向かった。

8月24日〜25日の第二次ソロモン海戦で、時津風は空母龍驤及び第八戦隊(司令官原忠一少将)の重巡洋艦利根、16駆僚艦の天津風と共に機動部隊支隊(龍驤、利根、天津風、時津風)を編制し、機動部隊本隊(南雲長官直率。翔鶴、瑞鶴等)とは別行動をとった[27]。24日、アメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃で龍驤が沈没した[28]。3隻(利根、時津風、天津風)は共同で龍驤乗組員および不時着機搭乗員の救助を行った[29]。 9月2日、消極的な行動により連合艦隊第八艦隊から批判されていた第24駆逐隊(海風江風涼風)司令村上暢之助大佐は同職を解任された[30][31]。9月3日、時津風駆逐艦長中原義一郎中佐は第24駆逐隊司令に抜擢される(9月10日着任)[31][32][33]。それにともない、吹雪型駆逐艦夕霧艦長本倉正義中佐が本艦二代目駆逐艦長に任命された[32]

10月上旬、時津風は駆逐艦と共に空母大鷹(9月28日被雷して損傷中)を護衛して内地へ帰投する。3隻(大鷹、時津風、漣)は10月4日にトラックを出発し、14日呉に着いた[34]。到着と共に時津風は大鷹の指揮下を離れた[35]。再びトラック泊地へ戻ると、10月26日の南太平洋海戦に南雲機動部隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)の直衛艦として参加[36]。重巡熊野、駆逐艦部隊(照月、嵐、舞風、浜風、時津風、雪風、初風、天津風)は空母3隻を護衛してアメリカ軍機動部隊艦載機と交戦した[36]

11月4日、第16駆逐隊(時津風、初風)は空母瑞鶴と重巡洋艦妙高を護衛してトラックを出港し、日本本土へ向かった[37]。9日午前9時、豊後水道で瑞鶴隊(瑞鶴、初風)と分離、下関海峡通過後、佐世保入港前の午後6時に妙高と分離した[38]。なお佐世保には既に重巡羽黒、第17駆逐隊第2小隊(磯風浜風)が修理に従事しており、時津風の龍鳳護衛任務直前に横須賀を経由してトラックへ向かっている[39]

12月上旬、空母2隻(龍鳳冲鷹)が横須賀からトラック泊地へ航空機(陸軍の九九式双発軽爆撃機)と物資を輸送する事になり[40]、駆逐艦2隻(時津風、卯月)は空母2隻の護衛に指定された[41]。時津風は途中で龍鳳と分離しサイパンへ向い[42]、トラック泊地からは四水戦の駆逐艦2隻(朝雲時雨)が龍鳳を出迎える予定であった[43]。だが沖鷹は機械故障のため出港がおくれ、龍鳳隊のみ先行する[40]。 12月11日、龍鳳と時津風は横須賀を出港したが、翌日になり米潜水艦ドラムの雷撃により龍鳳が中破[44][45]。2隻は横須賀に引き返した[46][47]。結局、冲鷹、卯月のみがトラック泊地に向かい、朝雲、時雨と合同した。また龍鳳が運搬するはずだった九九式軽爆20余機を輸送する空母として翔鶴型2番艦瑞鶴が指定される[40][48]。12月31日、第16駆逐隊(時津風、初風)は秋月型駆逐艦1番艦秋月と共に瑞鶴を護衛して横須賀を出発、1月4日トラック泊地に到着[49]。駆逐艦3隻(秋月、時津風、初風)は前進部隊に編入され、瑞鶴は戦艦陸奥等と共に内地へ戻った[49]

1943年(昭和18年)1月上旬、日本海軍はガダルカナル島からの撤収作戦を準備していた。同時期、最前線で常に活動していた駆逐艦部隊(陽炎、親潮、長波、涼風)の修理が必要となり、代艦として3隻(秋月、初風、時津風)の南東方面部隊編入を命じた[50]。第16駆逐隊(初風、時津風)は1月7日トラックを出発、9日ショートランド泊地着[50]。1月10-11日、第六次ガダルカナル島輸送作戦(鼠輸送)に参加する[50]。駆逐艦8隻(黒潮巻波江風大潮荒潮、初風、時津風)が参加しており、輸送隊は小発動艇2隻を曳航しドラム缶150個を積み込んでいた[51]。指揮官は第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将で、第15駆逐隊黒潮から指揮をとった[52]。駆逐艦8隻は、警戒隊(江風→黒潮→初風→時津風)と、輸送隊(嵐→巻波→大潮→荒潮)に分離し、それぞれが単縦陣を形成していた[53]。 午後10時以降、輸送隊はガダルカナル島エスペランス岬周辺海域でアメリカ軍魚雷艇と交戦した。22時47分、初風が魚雷1本を被雷して大破[54]。通信装置と操舵装置が故障した[55]。時津風はアメリカ軍魚雷艇2隻撃沈、飛行艇1隻撃墜を報告した[56]。 その後、第1組(黒潮、巻波、大潮、荒潮)は速力30ノットでガダルカナル島海域を離脱[57]。第4駆逐隊司令有賀幸作大佐(嵐座乗)は、3隻(嵐、時津風、江風)を率いて最大発揮速力10-16ノット限度の初風の護衛にあたり、11日夕刻にショートランド泊地へ到着した[58][50]。時津風以下4隻の帰還は小柳司令官に大きな感銘をあたえ、護衛した3隻の艦名を記載したうえで『特に嵐(第4駆逐隊司令)、江風(第24駆逐隊司令)、時津風は損傷艦初風を護衛し友軍機の協力と相俟って長途離脱に成功し功績極めて顕著なりと認む』と直々に言及している[59][60]

1月12日夕刻、第十戦隊司令官木村進少将を指揮官とする駆逐艦9隻(秋月《第十戦隊旗艦》、時津風、嵐、黒潮、谷風、浦風、浜風、磯風、舞風)は、ガ島輸送作戦を実施するためラバウルを出撃[61]。警戒隊(秋月、黒潮、時津風、嵐)、輸送隊(谷風、浦風、浜風、磯風、舞風)という区分だった[61]。13日朝ショートランド進出、14日朝に出撃した[61]。揚陸作戦成功後の15日朝、空襲により嵐が一時航行不能、谷風駆逐艦長勝見中佐が戦死、浦風が小破という損害を受けた[61]。嵐は舞風に曳航されて避退した[62]。それ以上の損害を受けることなく、各艦は夕刻までにショートランド泊地へ戻った[61]。 1月19日、第十戦隊旗艦秋月が米潜水艦(ノーチラス)の雷撃で大破、その際に十戦隊司令官木村進少将が負傷したため、1月21日附で第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将が第十戦隊司令官に任命された[63]。1月24日、時津風、黒潮は輸送船2隻を護衛してサンタイサベル島レカタ基地への輸送を実施した[64]

1月下旬〜2月上旬、第16駆逐隊2隻(時津風、雪風)はイザベル島沖海戦(ケ号作戦)に参加した(参加した隊に関しては後述)。

ダンピール海峡の悲劇[編集]

1943年昭和18年)2月上旬、ガダルカナル島からの撤退に伴い、日本陸海軍は作戦の見直しを行った。2月13日に結ばれた陸海軍中央協定により、ニューギニア方面の防備を固めるべく戦力の移動がはじまった[65]。その一環として南東方面艦隊はパプアニューギニアの小都市ラエへの増援作戦「八十一号作戦」を立案した[66][67]。当時の第16駆逐隊分隊(時津風、雪風)は、外南洋部隊主隊/第八艦隊(司令長官三川軍一中将) - 増援部隊/第三水雷戦隊(司令官木村昌福少将:旗艦「川内」)の指揮下に行動していた[68]。輸送人員は、軍司令官安達二十三陸軍中将の第十八軍司令部および師団長中野英光陸軍中将の第五十一師団約6900名、火砲・車輌・各種軍需品、海軍が第23防空隊を含む約400名である[69]

2月27日午前4時、護衛部隊指揮官木村少将が駆逐艦白雪と共にラバウルに到着し、各隊司令官・艦長が集合して打ち合わせを行う[70]。2月28日深夜、輸送船団(神愛丸、帝洋丸、愛洋丸、旭盛丸、大井川丸、太明丸、「海トラ」1隻、野島)は、第三水雷戦隊(木村少将:旗艦/第11駆逐隊 白雪)・第8駆逐隊(朝潮、荒潮)・第9駆逐隊(朝雲)・第16駆逐隊(雪風、時津風)・第19駆逐隊(浦波、敷波)に護衛されてラバウルを出撃、速力9ノットで西方へ向かう[71]。第16駆逐隊司令荘司喜一郎大佐座乗の時津風は輸送船団左列先頭を航行し、安達陸軍中将が乗船していた[72]3月1日1600時、船団はアメリカ軍機に発見されると触接を受けた。3月2日B-17爆撃機による爆撃で輸送船旭盛丸が沈没、給炭艦野島が損傷し、駆逐艦2隻(朝雲、雪風)は船団に先行してラエへ向かい、旭盛丸の人員や物資を揚陸すると再び船団へ戻った[73]

3月3日ダンピール海峡において輸送船団および時津風以下護衛艦隊はアメリカ軍機およびオーストラリア軍機の空襲を受けた。護衛の零式艦上戦闘機(空母瑞鳳派遣部隊を含む)はB-17を迎撃しようとしたろころ連合軍護衛戦闘機群との空戦に巻き込まれ、低空で反跳爆撃を行うブリストル ボーファイターB-25型爆撃機を阻止できなかった[74]。8時9分頃、時津風の機械室右舷に爆弾(16駆側は魚雷と誤認)が命中し浸水、航行不能となる[75][76]。時津風の乗組員および安達中将以下陸軍将兵を姉妹艦雪風に収容された[77]。その後、時津風はキングストン弁を開いての自沈処置がとられたという[78]。雪風による雷撃処分という証言もある[79]。 この戦闘で時津風の他に駆逐艦3隻(白雪、朝潮、荒潮《3日時点で漂流中》)が沈没、輸送船は全隻撃沈された[75][80]。浦波と救援にかけつけた初雪は救助者と共にラバウルへ回航、木村司令官(敷波座乗)は3隻(敷波、朝雲、雪風)と共に救助活動を行ったのち避退[81]。この時、初雪はカッターボートで脱出していた時津風乗組員20数名を救助している[82]。木村司令官は第八艦隊に対し『0100捜索ヲ打切リ北上ス。本捜索中荒潮ヲ発見170名救出シタル外輸送船駆逐艦其ノ他人員等発見スルニ至ラズ』と報告した。

ところが自沈処理が行われたはずの時津風は沈没しておらず、翌日にクレチン岬南東方向タミ島の143度50浬を漂流中の時津風を日本軍が発見[75]。時津風艦内に将来使用予定の暗号書がある事が問題になる[83]。アメリカ軍に鹵獲されぬよう零戦14機と九九式艦上爆撃機9機が出撃、九九艦爆が爆撃を行うが撃沈できなかった(南東方面艦隊の報告では艦尾に爆弾1命中、左舷に至近弾1)[75][84]。アメリカ側の記録によると、同日午後に第五空軍所属の爆撃機が漂流する時津風を攻撃、撃沈した[85]。時津風処分のために日本軍潜水艦が派遣され[86]伊号第十七潜水艦は捜索中に船団生存者34名を救助するが、アメリカ軍の魚雷艇2隻に来襲されて短艇2隻の乗組員は救助できなかったという[87]

同年4月1日、ビスマルク海海戦で沈没した僚艦や、3月5日ビラ・スタンモーア夜戦で沈没した駆逐艦村雨峯雲と共に時津風の除籍が決定された。 時津風は陽炎型駆逐艦[88]、 第16駆逐隊[89]、 帝国駆逐艦籍[90]、 のそれぞれから除籍された。

主な戦歴[編集]

  • スラバヤ沖海戦 - 第二水雷戦隊・第16駆逐隊に、雪風、初風、天津風とともに所属。
  • 第二次ソロモン海戦 - 第三艦隊支隊に、空母龍驤、重巡洋艦利根、天津風と共に所属。龍驤沈没後、乗組員救助。
  • 南太平洋海戦 - 第三艦隊(南雲機動部隊)本隊に所属[36]。第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)、第4駆逐隊(嵐、舞風)、第16駆逐隊(初風、雪風、天津風、時津風)、第17駆逐隊(浜風)、第61駆逐隊(照月)
  • ケ号作戦[91]
    • 陽動上陸戦 - 警戒隊(時津風《旗艦》、黒潮、白雪)、輸送隊(浦風、浜風、江風)[92]
    • 第一次輸送 - 第16駆逐隊(時津風、雪風)、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)、第8駆逐隊(大潮、荒潮)、第10駆逐隊(風雲、《巻雲|沈没》、夕雲、秋雲)、《巻波|小破》、舞風、江風、黒潮、白雪、文月、皐月、長月、《カビエン待機|川内》
    • 第二次輸送 - 第16駆逐隊(時津風、雪風)、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)、第8駆逐隊同上2隻、第10駆逐隊(風雲、夕雲、秋雲)、白雪、黒磯、朝雲、五月雨、《舞風|中破》、江風、皐月、長月、文月、《カビエン待機|川内》、《ショートランド待機|巻波、夕霧》
    • 第三次輸送 - 第16駆逐隊(時津風、雪風)、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、《磯風|中破》)、第8駆逐隊同上2隻、第10駆逐隊同上3隻、白雪、黒潮、朝雲、五月雨、皐月、文月、長月

歴代艦長[編集]

艤装員長
  1. 中原義一郎 中佐:1940年9月1日[3] - 1940年12月15日[7]
駆逐艦長
  1. 中原義一郎 中佐:1940年12月15日[7] - 1942年9月3日[32]
  2. 本倉正義 中佐:1942年9月3日[32] - 1943年4月1日[93](後日、夕雲型駆逐艦「浜波」駆逐艦長[94]等)

脚注[編集]

  1. ^ a b #達昭和14年8月p.30『達第百三十八號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十三年度及同十四年度ニ於テ建造ニ着手ノ砲艦一隻及驅逐艦二隻ニ左ノ通命名ス 昭和十四年八月二十五日 海軍大臣 米内光政|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 砲艦 隅田(スミダ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 天津風(アマツカゼ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 時津風(トキツカゼ)』
  2. ^ #昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3p.8『驅逐艦|一等|陽炎型|陽炎、不知火、黒潮、親潮、早潮、夏潮、初風、雪風、天津風、時津風、浦風、磯風、濱風、谷風、野分、嵐、萩風、舞風、秋雲』
  3. ^ a b 昭和15年9月2日(発令9月1日付)海軍辞令公報(部内限)第521号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078800 
  4. ^ 昭和11年7月16日 官報第2861号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2959342 p.5
  5. ^ 昭和11年11月4日 官報第2953号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2959435 p.7
  6. ^ #昭和16年6月30日現在艦船要目公表範囲p.20『時津風|(艦性能略)|浦賀船渠會社|14-2-20|14-11-10|15-12-15|(艦兵装略)』
  7. ^ a b c 昭和15年12月16日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)第569号 p.16」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079900 
  8. ^ #陽炎型、2014115頁『第十六駆逐隊』
  9. ^ 昭和16年7月25日(発令7月25日付)海軍辞令公報(部内限)第678号 pp.41-42」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081600 
  10. ^ 昭和16年9月15日(発令9月15日付)海軍辞令公報(部内限)第713号 p.26」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082100 
  11. ^ #S1612二水戦日誌(1)pp.7-8『(ハ)十二月中ノ2sd艦隊区分』
  12. ^ #陽炎型、2014137頁
  13. ^ 戦史叢書第54巻 南西方面海軍作戦―第二段作戦以降―、32-33ページ
  14. ^ #S1705二水戦日誌(3)p.9『十一(天候略)三.一七〇〇時津風雪風南海丸ヲ護衛高雄経由「ラボール」ニ向ケ横須賀湊町沖發』
  15. ^ #戦隊行動調書pp.10, 35-36
  16. ^ #S1705二水戦日誌(3)p.10『十四(天候略)一.本日附前進部隊トナル/二.艦隊編制替ニ伴ヒ16dgハ10Sニ編入 24dg當隊ニ編入ス16dgハ當分ノ間甲掃蕩隊ニ編入セラル/三.15dg本日附甲掃蕩隊ヨリ除カレ南西方面艦隊司令長官ノ指揮下ニ入ル』
  17. ^ #ミッドウエー海戦日誌(1)p.3『聯合艦隊編制表(六月一日現在)』
  18. ^ #S1705二水戦日誌(3)p.10『十五(天候略)一.千歳〇七〇〇湊町沖發〇八〇〇横須賀着/二.〇八〇〇15dg桂島出撃/三.天津風一五〇〇横須賀發一六〇〇湊町沖着/四.一九〇〇時津風雪風南海丸ヲ護衛高雄着』
  19. ^ #S1705二水戦日誌(3)pp.12-13『二十一(天候略)一.〇九三〇初風江風健洋丸ヲ護衛シ湊町沖發/二.16dg(天津風初風缺)南海丸高雄發「ラバール」ニ向フ』
  20. ^ #S1705二水戦日誌(3)pp.14-15『二十八(天候略)一.初風涼風ハりおん丸ヲ護衛シ横須賀發「ラバール」ニ向フ/二.一二三〇16dg(2D缺)「ラバール」着/三.陽炎霞ヲ護衛シ「キスカ」發』
  21. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)71頁
  22. ^ #S1709八艦隊日誌(1)p.43『7月29日1306 直衛(1D/9dg)ハ1D/16dg(雪風時津風)ト交代、1D/9dgハ反転横須賀ニ向フ』
  23. ^ #S1709八艦隊日誌(1)p.44『7月30日1500鳥海雪風時津風ヲ率ヒ「ラバウル」着|1600将旗ヲ鳥海ヨリ陸上庁舎ニ移揚』
  24. ^ #S1705二水戦日誌(3)p.46『四(天候略)一.〇八〇〇海風修理ノ爲横須賀着/二.〇八三〇16dg(-2D)「トラック」着/三.警戒碇泊』
  25. ^ 昭和17年8月1日(発令8月1日付)海軍辞令公報(部内限)第910号 pp.3-4」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086500 
  26. ^ a b 戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降、74ページ
  27. ^ #海軍駆逐隊、2015228-230頁『龍驤攻撃隊ガ島にむけ発進』
  28. ^ #海軍駆逐隊、2015234-236頁『龍驤沈没と乗員救助』
  29. ^ #陽炎型、2014138-139頁『龍驤を直衛した南太平洋海戦』
  30. ^ 昭和17年9月2日(発令9月2日付)海軍辞令公報(部内限)第935号 p.20」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086800 
  31. ^ a b #戦史叢書83ガ島戦59頁『九月七日』
  32. ^ a b c d 昭和17年9月3日(発令9月3日付)海軍辞令公報(部内限)第936号 p.24」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086800 
  33. ^ 中原中佐/大佐は、1944年(昭和19年)8月7日、軽巡長良艦長として長良沈没時に戦死。
  34. ^ #S1709大鷹詳報(1)p.28『4日|一.駆逐艦曙漣警戒呉ニ向ケ出港 二.警戒航行|一.1045大鷹機密第040705番電(大鷹、時津風、漣)行動予定GF参謀長横鎮参謀長宛報告』、p.29『損傷箇所修理ノタメ4日トラック発呉ニ回航14日呉着』
  35. ^ #S1709大鷹詳報(1)p.29『8日|0850(略)大鷹内地帰着後時津風本艦警戒任務解除ノ命令受領』
  36. ^ a b c #戦史叢書83ガ島戦273-274頁『支援部隊の編制』
  37. ^ S1706五戦隊日誌(3)p.9『5S(羽黒欠)ハ「トラツク」ニ於テ警戒待機中ノ處命ニ依リ修理整備ノ為11月4日3F(瑞鶴時津風初風)ト共ニ「トラツク」発9日豊後水道ニ於テ瑞鶴初風ト分離下関海峡ヲ通リ同夕刻時津風ヲ分離セシメ10日朝佐世保着修理整備作業ニ従事ス』
  38. ^ S1706五戦隊戦隊日誌(3)p.16『11月9日/0900 豊後水道通過1sfト分離 時津風ヲ警戒艦ニ附ス 1430下関海峡通過 1800時津風ヲ解列 1900佐世保掃海水道ニ入ル』
  39. ^ S1706五戦隊戦隊日誌(3)p.10『11月27日妙高羽黒共ニ工事竝ニ出撃準備完成セルヲ以テ(略)5S、2D/17dgヲ率ヰ佐世保発29日横須賀着急速輸送物件搭載ノ上30日「トラック」ニ向ケ横須賀ヲ出撃ス』
  40. ^ a b c #戦史叢書83ガ島戦410頁
  41. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)217頁
  42. ^ #S1712四水戦日誌(2)pp.14-15『8日0615竜鳳→各隊/発竜鳳艦長 一.竜鳳沖鷹卯月ノ行動予定ヲ左ノ通定ム 12月10日1500横須賀発12日1200地点モヨコ44 15日1200地点ヲシタ43ヲ経テ16日0500「トラック」北水道着 二.時津風ハ×××?ノ警戒ニ任ジ14日1200地点ヤカツ33ニ於テ分離「サイパン」ニ回航セシム 三.3sdノ駆逐艦2隻ハ14日1200前記地点ニテ爾後「トラック」迄警戒ニ任ゼシム会合時ノ針路160°速力15節』
  43. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.16『11日1116龍鳳→各隊/発竜鳳艦長 一.竜鳳ハ時津風ヲ率ヒ竜鳳キデ101301番電通行動ス 二.冲鷹ハ主給水ポンプ故障ノ為出港ヲ延期シ12日復旧後卯月ヲ率ヒ艦長所定ニ依リ行動セシム 三.朝雲時雨ハ15日1200竜鳳ニ会合予定ノ通警戒ニ任ズ』
  44. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.17『12日1012竜鳳→各隊/竜鳳キデ121012番電 発竜鳳艦長 我雷撃ヲ受ケ魚雷一本命中地点ハノク19』
  45. ^ #日本空母戦史430-431頁『竜鳳の竣工(十一月三十日)』
  46. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.17『12日1058竜鳳→各隊/右舷中部ニ浸水アルモ単独航行ニ差支ナシ横須賀ニ引返ス 警戒ニ関シ御手配ヲ乞フ』
  47. ^ #高松宮日記5巻311-312、323頁
  48. ^ #高松宮日記5巻389頁
  49. ^ a b #戦史叢書83ガ島戦507頁
  50. ^ a b c d #戦史叢書83ガ島戦512-513頁
  51. ^ #S1709八艦隊日誌(4)p.25『江風黒潮嵐巻波大潮荒潮長波初風時津風|1-10|各艦「ドラム」罐150、小発2隻「エスペランス」揚陸ヲ実施ス 2300作業終了ス 戦果:魚雷艇3隻撃沈、飛行艇1機撃墜』
  52. ^ #S1801二水戦日誌(1)p.8『第六次「ガ」島輸送|10日11日|2sd司令部、黒潮巻波24dg(江風)4dg(嵐)8dg(大潮荒潮)16dg(初風時津風)|初風魚雷艇ノ雷撃ヲ受ケ大破』
  53. ^ #S1801二水戦日誌(1)pp.29-30『1月10日合戦図 天候曇 視界3乃至4粁 月出2010 月齢3.5』
  54. ^ #S1801二水戦日誌(1)p.17『三.2240同右「エスペランス」着魚雷艇7隻飛行艇2機ト交戦、魚雷艇3隻撃沈(時津風2、嵐1)同1撃破(荒潮)PBY飛行艇1撃墜(時津風)|2247初風ニ魚雷1命中大破、戦死8戦傷12』
  55. ^ #S1801二水戦日誌(2)p.57『16dg司令11日1132/初風10日2247サボ島ノ190度7.5浬ニ於テ敵魚雷艇2隻ノ襲撃ヲ受ケ魚雷1士官室下方ニ命中、2・4區浸水、操舵装置転輪羅針儀通信装置全部方位盤故障尚損害調査中、目下(嵐、江風、時津風護衛)速力18節ニテショートランドニ向ケ航行中味方機上空ニアリ、戦死者8名重傷者3名軽傷者士官以下8名』
  56. ^ #S1801二水戦日誌(2)p.35『2246時津風魚雷艇1隻砲撃々沈|2302時津風魚雷艇1隻照射砲撃撃沈|0002時津風PBY飛行艇1機撃墜』
  57. ^ #S1801二水戦日誌(2)p.37『0042/第一組(黒潮大潮荒潮巻波)速力30節』
  58. ^ #S1801二水戦日誌(1)p.18『五.2310揚陸作業終了(「ドラム」缶600個投入)黒潮外3隻先行、嵐・江風・時津風ハ護衛実速約16節ニテ「ショートランド」ニ向フ』-『11日/六.1830嵐、江風、初風、時津風「ショートランド」皈着』
  59. ^ #S1801二水戦日誌(2)p.40『輸送部隊ハ遠ク敵制空権下ニ進出シ敵水上部隊ノ出現ヲ厳戒シツツ既ニ泊地ニ潜入待機中ノ魚雷艇7隻及哨戒機2機ト交戦シ混戦中ノ輸送ヲ強行シテ前記ノ如キ成果ヲ収メ其ノ功績顕著ナリ。特ニ嵐(将旗4dg)、江風(将旗24dg)時津風ハ損傷艦初風ヲ護衛シ友軍機ノ協力ト相俟ッテ長途離脱ニ成功シ功績極メテ顕著ナリト認ム』
  60. ^ #S1801二水戦日誌(2)p.41『初風ガ敵地ニ於テ重大被害ヲ蒙リ而モ克ク危地ヲ脱シテ長途帰還シ得タルハ天佑ノ下同艦及護衛艦ノ奮闘努力ト直衛戦闘機及観測機ノ積極的協力ニ依ルモノニシテ深ク感銘シ居ル次第ナリ』、p.61『11日増援部隊指揮官→嵐、江風、時津風、初風/初風ノ敵地離脱同護衛ノ難作業ヲ完遂シタル司令、駆逐艦長以下乗員一同ノ労ヲ深ク多トシ潜没勇士ノ英霊ニ対シ謹ミテ弔意ヲ表ス』
  61. ^ a b c d e #戦史叢書83ガ島戦513-514頁『一月十四日』
  62. ^ #戦艦大和最後の艦長210頁
  63. ^ 昭和18年1月25日(発令1月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1040号 p.14」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089500 
  64. ^ #戦史叢書83ガ島戦516頁
  65. ^ #昭和17年12月〜南東方面艦隊日誌第2段作戦(2)p.33『「カ」号作戦ノ為ニ準備セル部隊ハ「ケ」号作戦ノ概成ト共ニ「ソロモン」方面ヘノ輸送ハ不必要トナリ陸海軍中央協定ニ基キ同兵力ヲ「ニューギニア」方面ニ転送シ該方面ニ於ケル戦略態勢ヲ強化スルコトトナリ輸送ニ関シ第八方面軍ト協定ス(「ニューギニア」方面ニ対スル兵力輸送ニ関スル陸海軍間協定覚書書2月13日)』
  66. ^ #S1709八艦隊日誌(6)p.3『第八艦隊戦時日誌 経過(イ)一般情勢』
  67. ^ #高松宮日記6巻24頁
  68. ^ #S1709八艦隊日誌(6)p.10『(二)兵力配備』
  69. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後51頁
  70. ^ #戦場の将器59頁
  71. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後55-57頁『船団の出撃』
  72. ^ #艦と乗員たちの太平洋戦争(文庫)235頁
  73. ^ #S1709八艦隊日誌(6)p.30『朝雲、雪風ハ「ラエ」先行第51師団司令部其ノ他兵力約800「ドラム」罐110ヲ揚陸ス0045終了』
  74. ^ #日本空母戦史446-448頁『船団出港(二月二十八日)』
  75. ^ a b c d #戦史叢書96ガ島撤収後60頁
  76. ^ #高松宮日記6巻86頁『第十六駆逐隊(四-〇六三〇)三日午前、敵大型機三二、中型機四〇、戦闘機三五ト交戦中、〇八〇九地点「ユヌカ」ニ於テ「時津風」、敵三機ノ雷撃ヲ受ケ、魚雷一、右舷前部機関室ニ命中、水線下ニ直径五米ノ破孔ヲ生ジ、同室満水、両舷機及艦橋後部操舵装置並ニ通信装置ノ大部使用不能トナル』
  77. ^ #戦場の将器62頁
  78. ^ #艦と乗員たちの太平洋戦争(文庫)246頁
  79. ^ #陽炎型、2014143-144頁『ビスマルク海の惨劇』
  80. ^ #高松宮日記6巻80-84頁
  81. ^ #S1709八艦隊日誌(6)p.31『初雪浦波ハ救助人員2700名ヲ収容「ラバウル」ニ回航、第三水雷戦隊司令官ハ敷波朝雲雪風ヲ率ヒ南下捜索ヲ実施ス 0100捜索ヲ打切リ北上ス。本捜索中荒潮ヲ発見170名救出シタル外輸送船駆逐艦其ノ他人員等発見スルニ至ラズ』
  82. ^ #海軍駆逐隊、2015253-257頁『あの船影は敵か味方か』
  83. ^ #高松宮日記6巻88頁
  84. ^ #高松宮日記6巻99頁
  85. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後67頁
  86. ^ #高松宮日記6巻89頁
  87. ^ #高松宮日記6巻91-92頁
  88. ^ #内令昭和18年4月(1)p.20『内令第五百六十八號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等ノ部中「白雪型」ヲ「初雪型」ニ改メ同項中「白雪、」ヲ、同白露型ノ項中「、村雨」ヲ削リ同「潮潮型」ヲ「満潮型」ニ改メ同項中「、朝潮、大潮」「、荒潮」「、峯雲」ヲ、同陽炎型ノ項中「時津風、」ヲ削ル』
  89. ^ #内令昭和18年4月(1)p.26『内令第五百七十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第二驅逐隊ノ項中「村雨、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、峯雲」ヲ「朝雲、薄雲、白雲」ニ改ム|第十一驅逐隊ノ項中「白雪、」ヲ削ル|第十六驅逐隊ノ項中「、時津風」ヲ削ル|第八驅逐隊、第二十九驅逐隊及第三十四驅逐隊ノ各項ヲ削ル』
  90. ^ #内令昭和18年4月(1)pp.28-29『内令第五百八十二號|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 村雨、驅逐艦 朝潮、驅逐艦 大潮、驅逐艦 荒潮、驅逐艦 峯雲|呉鎮守府在籍 驅逐艦 白雪、驅逐艦 時津風|右帝國駆逐艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 伊號第一潜水艦、伊號第十八潜水艦 右帝國潜水艦籍ヨリ除カル|昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  91. ^ #S1709八艦隊日誌(5)pp.21-24『(ホ)麾下及友軍ノ行動概要 (1)「ソロモン」方面』
  92. ^ #戦史叢書83ガ島戦538-539頁
  93. ^ 昭和18年4月1日(発令4月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1085号 p.15」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090400 
  94. ^ 昭和18年10月16日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1241号 p.41」 アジア歴史資料センター Ref.C13072093800 

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08051772000『昭和16年〜昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。 
    • Ref.C12070105800『昭和14年達完8月(防衛省防衛研究所)/達昭和14年8月』。 
    • Ref.C13071997700『昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿:巻1追録/第6類機密保護』。 
    • Ref.C13072003500『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3(防衛省防衛研究所) 巻3追録/第13類 艦船(1)』。 
    • Ref.C08030724700『昭和16年12月 第2水雷戦隊戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030620900『昭和16年11月20日〜昭和17年4月30日 第1号哨戒艇戦時日誌戦闘詳報(5)』。 
    • Ref.C08030040400『昭和17年6月1日〜昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)』。 
    • Ref.C08030094900『昭和17年5月1日〜昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。 
    • Ref.C08030095000『昭和17年5月1日〜昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。 
    • Ref.C08030095100『昭和17年5月1日〜昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。 
    • Ref.C08030095200『昭和17年5月1日〜昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。 
    • Ref.C08030044300『昭和17年6月1日〜昭和17年11月30日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。 
    • Ref.C08030022500『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)』。 
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    • Ref.C12070176200『昭和18年1月〜4月 内令1巻/内令昭和18年4月(1)』。 
  • 生出寿『戦艦「大和」最後の艦長 海上修羅の指揮官』光人社、1996年12月。ISBN 4-7698-2143-3 
  • 生出寿連合艦隊・名指揮官の生涯 戦場の将器 木村昌福』光人社、1997年12月。ISBN 4-7698-0835-6 
  • 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8 
    • 当時「時津風」主計科員・海軍上等主計兵曹芝田博之『八方破れ「時津風」が演じたガダルの奇蹟 ガ島撤収作戦に一役かった時津風に訪れたダンピール海峡の悲劇
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。 
  • 佐藤和正『艦と乗員たちの太平洋戦争 日本海軍と乗員はいかに戦ったか』光人社、2004年9月(原著1984年)。ISBN 4-7698-2432-7 
    • 最高の傑作 <駆逐艦「時津風」ダンピールに逝く>
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第五巻 昭和十七年十月一日〜昭和十八年二月十一日』中央公論社、1996年11月。ISBN 4-12-403395-8 
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第六巻 昭和十八年二月十二日〜九月』中央公論社、1997年3月。ISBN 4-12-403396-6 
  • 寺内正道ほか『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』潮書房光人社、2015年9月。ISBN 978-47698-1601-0 
    • 当時「天津風」艦長・海軍中佐原為一『十六駆逐隊の第二次ソロモン海戦 敵機動部隊牽制の別働隊として突入した天津風と時津風と龍驤の死闘
    • 当時「時津風」水雷科指揮所伝令・海軍一等水兵桝谷克彦『ラエ輸送の悲劇 炎と波とわが時津風と 反跳爆撃に斃れた第十六駆逐隊=時津風と雪風のビスマルク海海戦
  • 原為一『帝国海軍の最後』河出書房新社、2011年7月(原著1955年)。ISBN 978-4-309-24557-7 
  • 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第54巻 南西方面海軍作戦―第二段作戦以降―』朝雲新聞社
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1973年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』朝雲新聞社、1975年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年8月。 
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II』光人社、1990年 ISBN 4-7698-0461-X