セイロン沖海戦

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セイロン沖海戦
HermesSinking.jpg
沈没する空母ハーミーズ
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1942年4月5日~4月9日
場所インド洋セイロン島
結果:日本の勝利
交戦勢力
日本の旗 大日本帝国 イギリスの旗 イギリス
オーストラリアの旗 オーストラリア
オランダの旗 オランダ
指揮官
南雲忠一中将 J・サマヴィル中将
戦力
空母6
戦艦4
重巡洋艦7
軽巡洋艦3
駆逐艦19
潜水艦5
航空機350
空母3
戦艦5
重巡洋艦2
軽巡洋艦4
駆逐艦15
航空機180
損害
零戦4機
九九式艦爆10機
九七式艦攻2機
空母1
重巡洋艦2
駆逐艦2沈没
航空機50機
南方作戦
ベンガル湾南西に位置するセイロン島

セイロン沖海戦(セイロンおきかいせん)とは、1942年4月5日から4月9日インド洋セイロン島沖で日本海軍空母機動部隊イギリス海軍東洋艦隊の間で行われた海戦連合国軍側の呼称はインド洋空襲(Indian Ocean raid[要出典]

背景[編集]

日本[編集]

3月9日、日本軍はジャワ島を攻略し、第一段作戦(南方作戦)の主な作戦目的である南方資源地帯占領は想定より早期に終了、作戦もビルマ方面をのぞき最終段階にあった。第二段作戦の検討は始められていたが、セイロン島に進出してインド・中国方面を攻略し、ドイツ・イタリアと連携作戦(西亜打通作戦)を目指す陸軍側と、オーストラリア大陸攻略またはサモア諸島まで進出して米豪遮断作戦を目指す海軍側(特に軍令部)とが対立し、最終目標が決まらない状態であった。さらに、日本と日独伊三国同盟を結ぶナチス・ドイツは、インド洋に日本海軍の戦力を投入してイギリスの後方を撹乱することを期待、海軍軍事委員会の野村直邦海軍中将と何度か協議している[1]連合艦隊司令部では2月20日から23日にかけてインド洋侵攻作戦の図上演習を行い、セイロン島の占領・英国東洋艦隊の撃滅という計画をたてる[2]。しかしセイロン攻略作戦に自信を持てない日本陸軍や、米豪遮断を目指す海軍軍令部の反対により連合艦隊のインド洋方面作戦計画は後退を余儀なくされた[2]

この状況において、日本軍虎の子の空母機動部隊(第一航空艦隊基幹の南雲機動部隊)をインド洋に転用し、戦力の復活しつつあったイギリス海軍東洋艦隊を撃滅すべく行われたのが、インド洋作戦である。しかし、作戦を行う現地の状況がほとんどわからない状態で行われたこの作戦は、作戦目標もあまり明確でなかった。

連合国[編集]

イギリスは存亡の危機にあった。1941年12月のマレー沖海戦で英国東洋艦隊旗艦戦艦プリンス・オブ・ウェールズ」が沈み、極東の最重要拠点だったシンガポールも失陥した。大損害を被ったイギリス海軍東洋艦隊はインド洋セイロン島(現在のスリランカ)のコロンボ基地並びにトリンコマリー軍港に退避していた。しかし、本国艦隊からの増援を受け戦艦5隻空母3隻の大艦隊となっていた。日本軍の最大の敵はアメリカ太平洋艦隊であったが、日本にとりインド洋のイギリス海軍は日本への資源供給地となったオランダ領東インドの安全を脅かす存在であった。仮にセイロン島が日本軍の手に落ちた場合、インド洋の交通網が遮断され、中東の連合国軍補給ルートの遮断、スエズ運河の陥落、アフリカにおける枢軸国軍の勝利が現実のものとなる可能性が高かった[3]

連合国はイギリス軍が従来よりコロンボを拠点として現存艦隊主義をとってビルマ方面に進攻する日本軍に睨みを効かせていた。イギリスはシンガポールの陥落が避けられなくなったため、新たな拠点の整備にせまられた。セイロン島西岸のコロンボは施設は充実していたが商業港のため混雑しており、東岸のトリンコマリーとモルディブ諸島南部のアッドゥ環礁を重要な候補地とした[4]

連合軍から見て、日本軍は広い行動選択の自由を持っており、次の侵攻が何処に対して行われるかを特定するのは重要な問題であった。イギリス首相ウィンストン・チャーチルダドリー・パウンド第一海軍卿より3月8日にはセイロンが脅威に晒されていると言う情報を受け取っていた。この問題に対処する為イギリス海軍は東洋艦隊司令長官をジェームズ・サマヴィル中将に交代する人事を行い、インド洋に展開する空母インドミタブル」、戦艦リヴェンジ」・「ロイヤル・サブリン」に対し、空母「フォーミダブル」、戦艦「ラミリーズ」、「レゾリューション」、「ウォースパイト」等の増派をはじめた[5]。サマヴィルは27日に「ウォースパイト」に将旗を掲げた。

イギリス軍は当時コロンボにあった極東連合部(FECB)という組織により、通信解析、方位測定、符丁等の暗号解読に努めており、日本海軍の主要な作戦用暗号であるJN-25の解読を行い、地点符号の特定に成功した。これにより3月22日には4月1日にセイロン島を攻撃する予定である事を知った。サマヴィルは待避の為30日にコロンボから艦隊を出港させ、アッドゥ環礁に向かわせたが、日本艦隊の規模は不明であった。彼の情勢分析では、コロンボを占領を企図していた場合、それへの対処は絶望的であるとし、中東に至る交通線の維持にも大きな悪影響を与えるというものだった。そのため、規模の大きくない攻撃にのみ対処する為、艦隊を洋上に展開してコロンボの東方で陽動に当たり、艦隊現存主義を維持する方針が決められた。3月28日、戦艦「ウォースパイト」、空母「フォーミダブル」、巡洋艦「エンタープライズ」、「コーンウォール」、「ドラゴン」、「キャルドン」、駆逐艦6隻がコロンボを出港、翌日空母「ハーミーズ」、巡洋艦「エメラルド」、駆逐艦2隻が出港し、洋上でR級戦艦6隻と合流した[6]。英艦隊は4月2日まで艦隊の連携を高めるための演習を繰り返した[6]

戦闘経過[編集]

3月26日スラウェシ島(セレベス島)南東岸スターリング湾Staring-baai)から出撃した第一航空艦隊は、オンバイ海峡を通過しジャワ島の南方からインド洋に入った。対するイギリス軍の問題点は色々あったが、その一つにリヴェンジ級戦艦など旧式艦の航続力・真水が作戦期間を支えるに十分ではない事があり、4月2日には戦艦群が帰港を具申していた[7]

暗号解読は上記のように行っていたもののそれは完璧ではなかった。依然として日本軍の動きがつかめず、誤報・作戦延期の可能性も考えられたため、東洋艦隊は作戦を中止して帰港することになった[7]。問題は何処の港で補給を行うかであった。商業港で混雑したコロンボ、防空施設の貧弱なトリンコマリーに帰港して真珠湾攻撃における米太平洋艦隊の二の舞を恐れたサマヴィルは2日、艦隊主力をアッドゥ環礁に待避の方針を決定した[7]。同時に、改装工事中急遽出撃した「ドーセットシャー」にコロンボでの工事再開を命じ、その護衛に8日到着予定の船団護衛を控えた「コーンウォール」をつけた。また、空母「ハーミーズ」をトリンコマリーに向かわせ、5月に予定されているフランス植民地のマダガスカル島攻撃準備をなすように命じた。

アッドゥ環礁に到着してまもなく、セイロン島南東海上に日本軍機動部隊発見との報告が入った[8]。サマヴィルは燃料補給中であり、かつ速力の遅いリヴェンジ級戦艦を分離せざるを得なくなった[8]。東洋艦隊は空母「フォーミタブル」、「インドミタブル」、戦艦「ウォースパイト」、「コーンウォール」、「エメラルド」、「エンタープライズ」を主力とするA部隊と、リヴェンジ級戦艦4隻と他の巡洋艦のB部隊にわかれ、B部隊の指揮は次席指揮官アルガノン・ウィリス少将がとった[8]。サマヴィルはA部隊を率い、19ノットで進撃を開始した[8]

4月5日の空襲[編集]

空襲下のドーセットシャーとコーンウォール

1942年4月5日、南雲機動部隊はコロンボ南方200海里に進出し、艦載機180機でコロンボを空襲した。コロンボ周辺の天候はあまり芳しくなかったが、攻撃隊は、迎撃のイギリス戦闘機を排除しつつ港湾施設と飛行場を攻撃し、駆逐艦テネドスと仮装巡洋艦ヘクターを撃沈した。また攻撃途上でイギリスのフェアリー ソードフィッシュ雷撃機隊と遭遇し、数十機撃墜を報じた(イギリス側記録6機喪失)。しかし、攻撃隊に巡洋艦発見の報が届き、港湾には東洋艦隊の主力は存在せず、小型船を除くと目標が乏しく概に攻撃が完了していたこともあって撤退した。

5日午前9時、サマヴィルはコロンボ空襲の連絡を受け、「ドーセットシャー」と「コーンウォール」にA部隊合流を命じた[8]。2隻は5日の午後、南雲機動部隊に発見され、江草隆繁少佐率いる九九式艦爆隊の急降下爆撃により撃沈された[9]。南雲機動部隊は南東に退避した。英巡洋艦生存者は、サマヴィルが派遣した巡洋艦「エンタープライズ」と駆逐艦2隻によって30時間後に救助された[10]

5日15時30分、サマヴィルは敵艦隊が北方100マイルにあるとの報告を受けていた。上記のように東洋艦隊は日本軍に対して交戦を企図しているように見せかけながら、実際にはそれを避けると言う難しい方針の下にあった。さらに現実問題として、南雲機動部隊は東洋艦隊より圧倒的に優勢であった[11]。そのため、雷撃機による夜襲を行うため索敵を行う。18時17分敵機発見の報があり、艦隊は北西に針路をとった。A部隊とB部隊は6日の払暁に合同し、針路を南東に向けた[11]。この時点では日本艦隊がアッドゥ環礁まで追撃をかけてくる可能性を考慮していた。この日の夜、本国の海軍省は電報を送り、東洋艦隊の増強圧力が日本軍に対して効果を持たなかった事が明らかになったと告げた。同時にセイロン島への帰港禁止と、R級戦艦の東アフリカ派遣を命令した[10]。その後もセイロン - アッドゥ間に居るとされた日本艦隊を避けるため、東洋艦隊は索敵警戒を行いながら迂回航路を取って8日23時にアッドゥ環礁に入り、燃料補給を行った。日本側も索敵は行っており、5日から8日にかけて日英双方が互いを捜し求めたが、接触することはなかった。

4月9日の空襲[編集]

イギリス側の方位測定班は8日朝、赤城の符丁を観測した。15時17分、カタリナがセイロン島東方400マイルに敵艦隊を認め、この情報によりトリンコマリーの艦船は脱出を始めた。9日、南雲機動部隊は再びセイロン島北部のトリンコマリーを空襲した。攻撃隊は飛行場と港湾を強襲し、迎撃機のほか飛行場の地上機、港湾施設を破壊したが、在泊の輸送船数十隻には攻撃がまわらず、「第二次攻撃の要あり」と打電した。しかし、攻撃隊の帰投中に「空母一、駆逐艦一、南下中」と発見の報告が知らされた。これは再び退避中のイギリス空母「ハーミーズ」であった。山口多聞は「攻撃隊発進の要ありと認む」と赤城へ信号を送った。しかし、これは容れられず、兵装転換がなされ、第二次攻撃隊に用意されていた艦爆隊67機が出撃した。

この間、イギリス空軍のウェリントン爆撃機9機が南雲機動部隊を奇襲攻撃した。このとき日本側ではトリンコマリー攻撃から第一次攻撃隊が帰還しており、これも「ハーミーズ」攻撃に向かわせるべく補給を行い、攻撃機に魚雷を積んでいる最中で、英軍機に全く気付いていなかった[12]。イギリス空軍機は南雲機動部隊旗艦「赤城」を狙って編隊爆撃を行い、投下された爆弾は挟叉したものの命中しなかった。日本軍は直掩の零式艦上戦闘機により爆撃機5機を撃墜したが、指揮官機(飛龍分隊長)が防御砲火で撃墜された。

空母「ハーミーズ」とオーストラリア駆逐艦「ヴァンパイア」は逃走を試みたが、間もなく艦爆隊に発見され撃沈されたほか、同じく退避中のタンカー2隻とコルベットホリホック」も撃沈された。なお「ハーミーズ」は修理中だったため、搭載機は陸上基地に展開していた。「赤城」では「ハーミーズ」がハリケーンの救援を求める電報を傍受している[13]。沈みゆく「ハーミーズ」の写真(本記事冒頭ほか)は写真週報第219号に掲載され、日本国民も広く知るところとなった[14]

作戦終了後、南雲機動部隊は内地に帰還した。途中、第五航空戦隊はMO作戦のため珊瑚海に派遣され、珊瑚海海戦に参加した。日本海軍は下記のようにイギリス東洋艦隊を後退させはしたものの、その主力撃滅に失敗した。連合軍がこの攻撃が一過性のものであり、コロンボの占領を目的としたものではないと知ったのは戦闘の後になってからだった。

ベンガル湾作戦[編集]

第一航空艦隊のインド洋進出に合わせて、第一南遣艦隊(いわゆる馬来部隊)も行動を開始していた。この目的はインド洋→ベンガル湾→カルカッタに至る通商路を攻撃する事で、ビルマ方面の連合軍を牽制し、アンダマン諸島への反攻企図を阻止することにあった。

馬来部隊は下記の3隊に分けられ、通商破壊に努めた(艦種については戦闘序列等を参照)。後年批判の目で見られることが多い栗田健男少将も第七戦隊司令官として参陣している。

  • 北方隊:熊野 鈴谷 白雲
  • 中央隊:鳥海 由良 龍驤 夕霧 朝霧
  • 南方隊:三隈 最上 天霧

馬来部隊は4月9日まで攻撃に当たり、23隻を撃沈した。このうち4月6日は航行中の商船を次々と攻撃し21隻、137,000トン撃沈、その他8隻大破という空前の大戦果を挙げている[2]。撃沈した21隻について各隊別の内訳は下記の通りである。これにより、インド東部沿岸の通商路は一時完全に遮断された。

  • 北方隊:商船8隻
  • 中央隊:商船8隻
  • 南方隊:商船5隻

潜水艦作戦[編集]

南方部隊指揮官近藤信竹中将は3月14日に発令したインド洋機動作戦要領の中で、丙潜水部隊に対してもセイロン西方海面の哨戒と通商路攻撃を指示していた。これによっても貨物船6隻・小型帆船4隻を撃沈した[2]。4月10日の第二段作戦第一期兵力部署が発動され、丙潜水部隊は先遣部隊に戻され、本土に向かった。以後、新設の第八潜水戦隊などがインド洋に展開することとなる。

影響[編集]

日本軍大本営は、作戦全体として空母1隻、甲巡2隻、乙巡2隻、駆逐艦1隻、哨戒艇1隻、船舶27隻撃沈、乙巡1隻、船舶23隻大破、航空機撃墜120機と華々しい大本営発表を行った[15]。実際の英軍被害は若干小さいものの、コロンボ基地並びにトリンコマリー軍港を破壊された東洋艦隊はセイロン島、アッドゥ環礁のいずれも危険であると判断、A部隊をボンベイに、B部隊を船団護衛のためアフリカ東岸モンバサキリンディニ港に向かわせた[16]。さらにインド洋東側での展開を断念し、アフリカ東岸のマダガスカル島まで退避した。英国艦隊の主力が避退していたため大きな戦果は上げられなかったものの、この攻撃によって英国はインド洋方面における日本海軍への評価を高め、大戦末期に至るまで同方面で積極的な行動に出られなかった。戦略的な効果という面からこの海戦のもたらした意義は大きい。佐藤和正は「予期していた以上の大成功」だったと述べている。

本作戦は第一段作戦、南方作戦に付随した最後の作戦にあたる。以後、日本海軍は第二段作戦に短期決戦と米豪遮断作戦を並行して推し進め、インド洋方面では海軍による大規模攻勢は行われることはなかった。その後インド洋では、フランスを占領下に置いていたドイツからの依頼を受けて、小規模な潜水艦隊で仏領マダガスカル島ヴィシー・フランス軍イギリス軍の間で行われたマダガスカルの戦いに参戦した。甲標的が戦艦「ラミリーズ」を雷撃して大破する戦果をあげるなど、イギリス連邦の通商遮断作戦を行った。

その一方、東洋艦隊主力の撃滅に失敗したため、連合国軍全体に与えた影響は限定されていた[16]ラッセル・グレンフェル英軍海軍大佐によれば『それ故、敵がコンウォール(引用者注:コーンウォール)、ドーセットシャー、そして、ヘルメス(引用者注:ハーミーズ[17])を捕捉し得た小さな成功により、遂に東洋艦隊の主力を発見し、壊滅に至らしめるだけの勢力集中が出来なかったことは、到底償いのつかぬ大失敗であった。』と評価している[18]。グレンフェルは、東洋艦隊が二度目の壊滅を喫した場合にはウィンストン・チャーチルの政治家生命がその時点で終わり、イギリスは戦争から脱落、日本は大東亜共栄圏の確立に成功して第二次世界大戦の結末が変わっていた可能性を指摘した[19]

ドイツとイタリアでは、この作戦以降有力な艦隊をインド洋に投入しない日本に不満が高まった。クルト・フリッケ中将/作戦部長が野村直邦海軍中将に幾度もインド洋方面への戦力投入を要請、ついにはテーブルを叩きながら悲壮な様子で訴えている[20]。野村は『北阿作戦の現状は、更に有力な艦隊をもって一層積極的な協力を与えなければ敗退の他なし再考を求む』と報告した[20]。イタリアのベニート・ムッソリーニ首相も、『更ニ一層密接ナル協力ヲ希望ス』として、日本海軍が英国東洋艦隊を撃滅することを希望した[20]。同盟国の要請に対し、日本海軍は6月下旬に「海上交通破壊戦(B・作戦)」の実施を南西方面艦隊に下令、7月31日には大川内傳七海軍中将・第一南遣艦隊司令長官を指揮官とし、第七戦隊(鈴谷、熊野)、第十六戦隊、第三水雷戦隊がマレー半島のメルギーに進出した[21]。連合艦隊司令部は、水上部隊が輸送船20隻、潜水艦部隊が50隻を撃沈すると予想[21]。しかし8月になるとガダルカナル島に米軍が襲来、ガダルカナル島の戦いによってソロモン・ニューギニア方面が不安定となると、インド洋方面に投入される戦力は激減した[22]。ドイツとイタリアは日本が作戦を中止した事に不満を高め、真珠湾攻撃で米国を戦争に引きずり込んだ事や同盟国のアフリカ戦線の苦戦に協力しない利己主義を批判、ついには「こんなことなら米国に対して宣戦布告を行うべきではなかった」と非難された[22]。このため、日独経済協定の締結や技術交流にも悪影響を及ぼしている[22]

その反面、日本の戦争遂行にとって最大かつ唯一致命的となりうる脅威であるアメリカ太平洋艦隊の撃滅という最重要戦略目標とは何の関連もない本作戦に日本の主戦力である南雲機動部隊を投入したことは、アメリカに体制立て直しの時間を与え、来るべき決戦を前に機動部隊を消耗させただけという評価も成り立つ。例えば、淵田美津雄は当時よりインド洋での作戦自体に不満を抱いていた。淵田の持論は戦力の回復していない太平洋艦隊主力を早期に撃滅することであり、そのために再び真珠湾攻撃のような積極攻勢を早期に実施することを望んでいた[23]。一つ作戦をこなす度に神業を持つ熟練搭乗員が少しずつ失われ、見慣れぬ新人が配乗されてくる状況をつくった上層部に対し苦々しく思っていたという。

ミッドウェー海戦の前触れ[編集]

しかし、後の目から見て、この海戦で機動部隊の弱点を感じさせる場面があり巷間指摘される。暗号が解読され英国東洋艦隊がセイロン島海域で待ち伏せていたこと、偵察が不徹底で東洋艦隊を発見できなかった事、上記のトリンコマリー・イギリス艦隊攻撃の際に兵装転換を行い迅速な攻撃を行わなかったこと、第一航空艦隊がイギリス空軍機の接近に気づかず空母「赤城」が攻撃換装中にウェリントン爆撃機9機に空襲されたことである。「週報第288号」では『わが方の電撃戦の前にイギリスインド洋方面の主力艦隊は杳として姿を現はさず』『イギリスが宣伝していた戦艦、航空母艦数隻を主力とする、いはゆる「大英インド艦隊」は、果たして今いづこに健在するのであろうか』と揶揄しているが、実際には英東洋艦隊は南雲機動部隊のごく近距離で行動していた[24]。日本海軍はこれらの教訓を生かせず、後にミッドウェー海戦でも同じミスを繰り返し、大敗北を喫する事になる。

日本軍の急降下爆撃[編集]

南雲機動部隊は「ハーミーズ」に対する攻撃の際、艦爆隊を攻撃に送ったが、その急降下爆撃は45機が投弾に成功し、命中弾は37発にものぼった。「ハーミーズ」に対する内訳は下記の通りである。

ハーミーズに対する攻撃成果
赤城 艦爆隊 投弾2発 命中2発
飛龍 艦爆隊 投弾11発 命中9発
瑞鶴 艦爆隊 投弾14発 命中13発
翔鶴 艦爆隊 投弾18発 命中13発

このためまだ投弾を終えていなかった機体は周囲の艦船を目標とした。その結果駆逐艦バンパイアー、哨戒艇ホーリー、商船2隻(タンカー)を撃沈した。これらに対する命中率は下記の通り。

  • バンパイアー:投弾16発、命中13発
  • ホーリー:投弾6発、命中1発
  • 大型商船:投弾12発、命中11発
  • 小型商船:投弾6発、命中5発

攻撃全体での母艦ごとの命中数は下記の通りである。

セイロン沖での攻撃全体の成果
赤城 艦爆隊 投弾17発 命中16発(1機投下不能)
蒼龍 艦爆隊 投弾18発 命中11発
飛龍 艦爆隊 投弾18発 命中13発
瑞鶴 艦爆隊 投弾14発 命中13発
翔鶴 艦爆隊 投弾18発 命中13発

急降下爆撃の成功率は熟練搭乗員でも25パーセントとされている。南方作戦支援時にセレベス島ケンダリー基地での訓練の効果も相まって、その時点の日本海軍航空隊が恐ろしいほど高い技量を持っていたことを証明するものである。梅野和夫はこの他に、気象条件、攻撃隊指揮官の指揮、敵に回避の時間を与えなかった事が要因として挙げている。

また、当時の日本海軍の急降下爆撃法は単縦陣となって順次急降下して投弾していく方法であった。この方法は先頭機の着弾を見て後続機が照準を修正できるため命中率が上がりやすい反面、編隊が必ず同じ場所を通るために対空砲火の餌食になりやすいという致命的欠点があった。従って後の南太平洋海戦等で急降下爆撃隊が大損害を蒙ったのはこの戦法にも一因があるといわれている。戦争後期になると、日本軍もアメリカ軍と同じく、編隊が一斉に急降下に入る一斉急降下爆撃法に変更することとなった。この方法は命中率は落ちるが対空砲火が分散しやすく生存率が高かったのである。

戦闘序列[編集]

日本軍[編集]

南雲機動部隊の主力空母「加賀」は2月9日にパラオで座礁したため参加していない。また金剛型戦艦が4隻とも参加している。

第一航空艦隊[編集]

司令長官:南雲忠一中将

第一南遣艦隊[編集]

司令長官:小沢治三郎中将

連合軍[編集]

当時既に戦没していたロイヤル・オークを除くリヴェンジ級戦艦が全艦参加している。

東洋艦隊[編集]

司令長官:ジェームズ・サマヴィルen:James Fownes Somerville)中将

損害[編集]

日本軍[編集]

零戦4機、九九式艦爆10機、九七式艦攻2機喪失。

連合軍(イギリス軍)[編集]

軽空母ハーミーズ、重巡コーンウォール、ドーセットシャー、駆逐艦ヴァンパイア、テネドス沈没喪失。基地航空機喪失約50機(イギリス軍記録:27機以上喪失)。

映像記録[編集]

本海戦の日本側艦隊には日本ニュースの撮影陣が乗り組んでおり、機動艦隊の洋上航行風景、空母上で零戦が発艦準備を行う様子、零戦や九七式艦攻が空母から発艦して攻撃に向かう様子、飛行中の九九式艦爆、セイロン島上空で爆撃を行う様子、商船に対して砲撃を行う様子、軽空母ハーミーズに対し爆撃を行う様子などがフィルムに収められた。

フィルムは6分20秒に編集され、1942年4月28日にニュース映画「日本ニュース第99号<凱歌高しインド洋>」として日本国民に向け公開された。

現在この「日本ニュース第99号」は、NHKにより「戦争証言プロジェクト」の一環として全編が公開されておりネット視聴することが可能である。

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)
    • Ref.A06031045000「週報 第288号」(昭和17年4月15日)「インド洋作戦の大展開」
    • Ref.A06031081400「写真週報219号」(昭和17年5月2日)「英航母ハーミス号、ベンガル湾深く轟沈す」
    • Ref.A06031081500「写真週報220号」(昭和17年5月13日)「身の置き所もなしインド洋」
    • Ref.C08030041200「昭和17年1月1日~昭和17年9月30日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第3戦隊(3)」
    • Ref.C08030041300「昭和17年1月1日~昭和17年9月30日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第3戦隊(4)」
    • Ref.C08030047200「昭和17年4月1日~昭和18年8月31日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」
    • Ref.C08030047300「昭和17年4月1日~昭和18年8月31日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)」
    • Ref.C08030048300「昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(2)」
  • 『丸スペシャル 95 蘭印攻略作戦 インド洋作戦』1985年
    • インド洋作戦関係は佐藤和正、梅野和夫が執筆。写真多数掲載。ベンガル湾作戦、潜水艦作戦、艦爆隊の命中率の出典はこれによる。
  • 福田誠伊藤健太郎牧啓夫石橋孝夫「第1章」『太平洋戦争海戦ガイド』 新紀元社 ISBN 4-8831-7230-9(1994年)
  • ジョン・ウィントン左近允尚敏訳「第二章」『米国秘密情報文書ウルトラin the パシフィック』ISBN 4-7698-0738-4 (邦訳初出1995年)
    • 連合軍側、特に情報戦関連の記述は本書による。
  • 淵田美津雄、奥宮正武著『ミッドウェー』PHP研究所、1999年 ISBN 4-569-57292-8
  • 淵田美津雄中田整一解説 『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝講談社2007年ISBN 978-4-06-214402-5
  • 平間洋一 『第二次世界大戦と日独伊三国同盟 海軍とコミンテルンの視点から』 錦正社、2007年5月。ISBN 978-4-7646-0320-2
  • ラッセル・グレンフェル著・田中啓眞訳 『プリンス オブ ウエルスの最期 主力艦隊シンガポールへ 日本勝利の記録錦正社2008年ISBN 978-4-7646-0326-4
    • 『印度洋上の作戦』 昭和28年啓明社版を再出版したもの。

関連項目[編集]