嵐 (駆逐艦)

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艦歴
計画 マル4計画
起工 1939年5月4日
進水 1940年4月22日
就役 1941年1月27日竣工
その後 1943年8月6日戦没
除籍 1943年10月15日
性能諸元
排水量 基準:2,490トン
全長 118.5m
全幅 10.8m
吃水 3.8m
機関 ロ号艦本式缶3基
艦本式衝動タービン2基2軸
52,000馬力
速力 35.0ノット
航続距離 18ノットで5,000
乗員 240人
兵装 50口径三年式12.7センチ砲連装×3
25mm機銃連装×2
61cm魚雷発射管4連装×2
爆雷36個

(あらし)は、日本海軍駆逐艦[1]一等陽炎型の16番艦である[2]。太平洋戦争緒戦時は第4駆逐隊司令艦として同駆逐隊隊司令有賀幸作大佐が乗艦、ミッドウェー海戦では空母「赤城」を雷撃で処分した。1943年(昭和18年)8月上旬のベラ湾夜戦で「萩風、江風」と共に戦没。

艦歴[編集]

仮称第112号艦として舞鶴海軍工廠1939年(昭和14年)5月4日起工[3]。舞鶴海軍工廠で建造された陽炎型は「嵐」以外に「陽炎、親潮、天津風、野分」が存在する。1940年(昭和15年)2月23日、陽炎型17番艦「萩風」と同日附で命名された[1]。同年4月22日進水、1941年(昭和16年)1月27日に竣工[3]横須賀鎮守府籍。登録上は舞鶴工廠で建造された姉妹艦「野分」が陽炎型15番艦で「嵐」が16番艦だが[2]、起工・進水・竣工のいずれも「野分」より「嵐」の方が早い[4]。 3月31日、姉妹艦「萩風」が竣工すると、「嵐、萩風」は新編の第4駆逐隊に所属することになった[5]。15番艦「野分」は4月28日に編入されたが[6]、7月1日に一旦外された[7]。7月15日、陽炎型18番艦「舞風」が竣工[8]。8月1日、第4駆逐隊(嵐、萩風)は第四水雷戦隊に編入される[9]。10月31日附で「野分、舞風」は第4駆逐隊に編入された[10]。開戦に備え、各隊・各艦は台湾海南島へ進出する。南方へむかう第4駆逐隊は豊後水道で試験航海をおこなう大和型戦艦1番艦「大和」と遭遇、最初は島と間違えたという[11]

太平洋戦争緒戦[編集]

太平洋戦争開戦時、陽炎型新鋭艦4隻(野分萩風舞風)は第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将:旗艦「那珂」)・第4駆逐隊(司令有賀幸作大佐:司令艦「嵐」)を編成していた。第四水雷戦隊には第4駆逐隊のほかに第2駆逐隊(村雨、夕立、春雨、五月雨)、第9駆逐隊(朝雲、山雲、夏雲、峯雲)、第24駆逐隊(海風、山風、江風、涼風)が所属していた[12]。しかし第4駆逐隊は南方部隊本隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官:愛宕/旗艦、高雄、金剛、榛名、第4駆逐隊、第6駆逐隊第1小隊《響、暁》、第8駆逐隊《朝潮、大潮、満潮、荒潮》)に所属、南方作戦を支援しており[13]、第四水雷戦隊とは基本的に別行動だった。

1942年(昭和17年)2月下旬、第4駆逐隊第1小隊(嵐、野分)以下南方部隊本隊はセレベス島スターリング湾を出発してジャワ機動作戦に参加[14]、南雲機動部隊に編入された第4駆逐隊第2小隊(萩風、舞風)とは別行動を取った[15]。「嵐、野分」は重巡洋艦「愛宕高雄摩耶」と共に行動し、ジャワ島南方へ進出[16]3月1日以降、「野分」と共同で商船6隻を撃沈、オランダ商船「ビントエーハン号」を拿捕する[17]3月2日、「摩耶、嵐、野分」は共同で駆逐艦「ストロングホールド」を撃沈[18]。「愛宕、高雄」は駆逐艦「ピルスバリー」を撃沈した(日本側は軽巡「マーブルヘッド」と誤認)[19][20]3月3日、「野分」と共にアメリカの砲艦「アッシュビル」を撃沈するなど戦果をあげた[21]。またこの作戦で、砲撃で開いたタンカーの穴に爆雷を放り込んで撃沈すると言う珍しい攻撃法を行っている[22]。3月7日、スターリング湾に帰投[23]。4月4日、「愛宕、嵐、野分」はペナン島を出撃、インド洋に進出する[24]。ベンガル湾機動作戦を支援したのち、4月11日シンガポールへ帰投した[25]

「愛宕、嵐、野分」は4月17日に横須賀へ帰投。翌4月18日ジミー・ドーリットル中佐指揮下のB-25爆撃機16機によるドーリットル空襲があった。「嵐」は横須賀港を襲撃した1機のB-25爆撃機に対空射撃をおこなう[26]。この機は潜水母艦から空母へ改造中の「龍鳳」に爆弾を命中させ、中国本土へ離脱していった。 一方、米空母「ホーネットエンタープライズ」追撃の指揮をとる第二艦隊司令長官(前進部隊指揮官)近藤信竹中将は、まず横須賀在泊中の重巡「愛宕《旗艦》、高雄」、第10駆逐隊(夕雲巻雲風雲)、第7駆逐隊()、第8駆逐隊(朝潮荒潮)、第4駆逐隊(嵐、野分)、東京湾で訓練中の空母「祥鳳」に出撃を命じる[27][28]。同時に三河湾に停泊中の重巡「摩耶」、桂島泊地の重巡「妙高羽黒」、呉の軽巡「神通」に前進部隊への合流を指示した[28]。だが米軍機動部隊を補足できないまま4月20日夕刻の作戦中止通達を迎え、各隊・各艦は母港への帰路についた[28]。 この頃、「祥鳳」は護衛に指定された第7駆逐隊と合流できないまま単艦で外洋を航海していた。近藤長官は第7駆逐隊のかわりに第4駆逐隊(嵐、野分)を派遣[28][29]。「嵐、野分」は「祥鳳」と合流、同艦を護衛して横須賀へ帰投した[30]

ミッドウェー海戦以後[編集]

6月上旬、「嵐」はミッドウェー作戦参加。「嵐」以下第4駆逐隊は警戒隊(指揮官木村進第十戦隊司令官:警戒隊旗艦/十戦隊旗艦「長良」、第10駆逐隊《風雲、夕雲、秋雲、巻雲》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》)に編入され、南雲機動部隊の主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)の直衛として米軍と交戦する[31]。空母4隻は輪形陣の中央で一辺8000mの正方形を形成し、右列(赤城/嵐、加賀/萩風)、左列(飛龍/野分、蒼龍/舞風)という配置であった[32]。6月5日の戦闘序盤、「嵐」は、撃墜されて漂流する空母「ヨークタウン」雷撃隊生存者ウェスリー・フランク・オスマス(オスムス)海軍予備少尉を救助、艦内に収容している。またゴードン・ウィリアム・プランゲ博士は著書『ミッドウェーの奇跡』の中で、「嵐」は米潜水艦「ノーチラス」を爆雷で攻撃したのち本隊に戻るべく増速、これを空母「エンタープライズ」艦爆隊が発見・追跡して南雲機動部隊本隊を発見した…としている[33]。ただし前述のとおり第4駆逐隊司令艦「嵐」は空母「赤城」の直衛であり、同艦の傍から離れることはなかったという[34]

エンタープライズ艦爆隊によって「赤城」は被弾炎上すると、第4駆逐隊第1小隊(嵐、野分)は「赤城」至近にあって消火活動や脱出者の救助に従事した。「嵐」は「赤城」に横付して消火作業を行うが駆逐艦による消火には限界があり、漸次赤城乗組員の収容を行う[35]。このとき有賀司令は青木泰二郎赤城艦長を説得し「嵐」に移乗させたが、のちに青木は予備役に編入された[36]。空母「加賀」沈没後、同艦乗組員を救助した第2小隊(萩風、舞風)が合流、有賀司令は連合艦隊司令部に赤城処分許可を求めるが却下され、『今夜は赤城の警戒に任じ、敵艦来たらば刺違え戦法をもってこれを撃滅せんとす』との命令を発した[35]。第4駆逐隊は「赤城」警戒にあたるが、水平線上に敵影を発見し、これに対し突撃する一幕もあった[37]。この頃山本五十六連合艦隊司令長官(大和座乗)より「赤城」処分命令が下る[37]。これを受けて「嵐」以下第4駆逐隊4隻は「赤城」を雷撃により処分した[38]。 6月6日、「嵐」では先に救助されていたオスムス海軍予備少尉が何者かに斬殺されて水葬された[39]。戦後、嵐生存者は捕虜殺害の責任者として、戦争中に戦死した有賀司令(戦艦「大和」艦長として)、渡辺(当時駆逐艦長)、松浦勉(砲術長)の名前をあげている[40]

その後、第4駆逐隊は赤城・加賀生存者を戦艦「長門陸奥」等に移乗させた[41]。またアリューシャン攻略作戦の支援および米軍機動部隊北方出現時に対処するため、6月6日附で戦艦「榛名、霧島」、空母「瑞鳳」、重巡「利根、筑摩」、第10駆逐隊(秋雲、夕雲、巻雲、風雲)、第4駆逐隊(嵐、野分、萩風、舞風)、特設水上機母艦「神川丸」は北方部隊(第五艦隊)に編入され、それぞれ北方海面に進出する[42]。6月中旬以降の第二機動部隊(指揮官角田覚治第四航空戦隊司令官)区分は、第一空襲部隊(龍驤《第四航空戦隊旗艦》、隼鷹、高雄、潮、漣、曙、浦風、東邦丸)、第二空襲部隊(瑞鶴《第五航空戦隊旗艦》、瑞鳳、摩耶、嵐、野分、萩風、舞風、富士山丸)だったが、米軍との交戦は生起しなかった[43]

日本帰還後の7月14日、第4駆逐隊は第三艦隊・十戦隊(長良、第4駆逐隊、第10駆逐隊、第16駆逐隊《雪風、時津風、天津風、時津風》、第17駆逐隊)に編入される。7月30日、「嵐、萩風」はミッドウェー攻略部隊に指定されていた陸軍一木支隊約2400名を内地に帰還させるべく、輸送船「ぼすとん丸、大福丸」を護衛してグアム島へ向かった[44]。8月5日グァム着[45]。8月7日-8日)、グアムを出港して内地へ向かうが、既に大本営は一木支隊のガダルカナル島投入を決定していた[45]。軍令部からの緊急命令を受けてトラック泊地へ向かい、12日着[46]

ソロモン海の戦い[編集]

8月7日、米軍ガダルカナル島フロリダ諸島上陸によりガダルカナル島の戦いがはじまる。8月16日、陽炎型6隻(指揮官/有賀第4駆逐隊司令:嵐、萩風、陽炎谷風浦風浜風)は陸軍一木支隊約900名を乗せてトラック泊地発、8月18日深夜にガダルカナル島北東部のタイボ岬へ揚陸した[47]。17駆3隻(谷風、浦風、浜風)はラバウル基地へ向かい、「嵐、萩風、陽炎」の3隻で米軍小型艦艇や陸地の米海兵隊を攻撃する[48]。翌日、米軍機B-17の空襲を受けた「萩風」が大破[49]。「嵐」は「萩風」を掩護して退避する[50]。8月21日、「嵐」以下が輸送した陸軍一木支隊はイル川渡河戦で全滅した[51]。トラック泊地到着直前の23日午後1時、「嵐、萩風」は山本五十六長官座乗の戦艦「大和」、空母「春日丸(大鷹)」、第7駆逐隊()と遭遇した[52]。「萩風」は修理のため日本本土に向かう。「嵐」はラバウルに向かい、27日に入港した[53]

「嵐」は一時的に第十八戦隊(司令官松山光治少将:軽巡天龍龍田)の指揮下に入ると、ラビの戦いに投入された[54]。8月28日14時、「天龍、浦風」に護衛された駆逐艦「嵐、叢雲弥生」・哨戒艇3隻は、呉鎮守府第三特別陸戦隊(海軍陸戦隊)約770名を乗せてラバウルを出撃、29日18時にパプアニューギニアミルン湾ラビ東方に到着して陸戦隊を揚陸する[55]。9月1日16時、「嵐」は横五特約200名が分乗する哨戒艇2隻を護衛してラバウル発、途中で「浜風」と合流した[56]。2日10時25分、米軍軽巡洋艦1隻および輸送船1隻ミルン湾入港との情報を得て「嵐、浜風」のみミルン湾へ急行、だが米艦は既に撤収しており、水上戦闘は起きず、悪天候のため陸上との連絡にも失敗した[57]。9月3日午前7時、松山少将より陸戦隊の負傷者収容と敵陣地砲撃命令を受けて2隻は反転、再びラビへ向かう[58]。午後10時以降「浜風」は対地砲撃を実施、「嵐」は陸戦隊と連絡を取ったのち、負傷した呉三特司令を乗せて9月4日午前2時にミルン湾を出発、同日午後7時にラバウルへ帰着した[59]。撤退作戦従事中の9月6日午後10時前後、「龍田、嵐」はニューギニア島ミルン湾ラビに突入、港湾に停泊していた連合国軍貨物船1隻を撃沈した[60]。翌日15時に米軍機とB-17の空襲を受け「嵐」に負傷者1名が出る。夜間、「龍田、嵐」は再びミルン湾に突入して対地砲撃を行うが、陸戦隊の収容は出来なかった[61]

ラビ方面の戦いが失敗すると、「嵐」は再びガダルカナル島の戦いおける駆逐艦輸送作戦(鼠輸送)に投入された。9月13日20時30分、「嵐」は輸送船「佐渡丸」(第二師団所属青葉支隊:支隊長那須弓雄少将)を護衛してラバウル発、14日午後4時ショートランド泊地着[62]。同地で橋本信太郎少将(第三水雷戦隊司令官)の外南洋部隊奇襲隊に編入された[63]。軽巡「川内」、駆逐艦7隻(海風、江風、浦波、敷波、嵐、叢雲、白雲)は陸兵約1100名、連隊砲6、速射砲4、弾薬糧食等を搭載して午後11時にショートランド出撃したが、米軍機が活発に行動しているため15日朝の揚陸は中止、「川内」はショートランド泊地へ避退した[64]。駆逐艦7隻のみで揚陸作戦を続行、9月15日午後8時頃にガダルカナル島北西カミンボ弯に到着して物資揚陸に成功した[64]。ショートランドへの離脱中、輸送隊は米軍機の攻撃を受ける。「嵐」は急降下爆撃機9機、雷撃機4機に襲撃されたが、魚雷1本が艦底を通過して回避に成功、他艦も被害を受けることなく9月16日午後1時過ぎにショートランド泊地へ戻った[65]。9月18日8時30分、有賀司令は駆逐艦4隻(嵐、海風、江風、涼風)を指揮してショートランド泊地発[66]。またガ島ルンガ泊地に米軍輸送船団侵入の報告を受け、「川内、浦波、白雪、叢雲、浜風」が急遽ショートランド泊地を出撃、ルンガ泊地へ向かうが米軍輸送船団は素早く撤収し、会敵できなかった[66]。「川内」隊はルンガ泊地桟橋附近を砲撃、輸送隊(嵐、海風、江風、涼風)は夜10時以降ガ島カミンボ弯に到着して陸兵約170名、野砲4門、軍需品を揚陸した[66]。9月23日附で「嵐」は第三艦隊に復帰し、25日にトラック泊地に到着。

10月下旬、第4駆逐隊(嵐、舞風、野分)は南太平洋海戦に参加、「嵐、舞風」は第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)直衛、「野分」は燃料補給船団に配備されていた[67]。10月25日、南雲機動部隊は無線封止中のため、命令を受けた「嵐」は艦隊から分離して単艦で東方へ向かい、機動部隊の行動と情勢を発信した[68]10月26日、米軍機動部隊艦載機の空襲により空母「翔鶴」被弾後、4駆司令艦「嵐」は旗艦「翔鶴」の通信を代行した[69]。その後、「嵐」には南雲忠一司令長官や草鹿龍之介参謀長など第三艦隊司令部が移乗、一時的に「嵐」を南雲機動部隊旗艦とした[70]。損傷した「翔鶴、瑞鳳」は「初風、舞風」に護衛されてトラック泊地へ避退[71]。南雲長官は17時30分になって『本職嵐ニ将旗ヲ移揚セリ、嵐ヲ率ヰ二航戦及瑞鶴所在ニ急行ス』を通知して南下を開始した[71]。旗艦の変更が遅れた事、「瑞鶴」ではなく「嵐」になった事について関係者は幾つかの回想を残している[71]。中島通信参謀によれば、南雲司令部は駆逐艦「照月」に移乗するつもりだったが、打ち合わせ不備のため「照月」が離れてしまい、「嵐」に変更されたという[71]。 翌日、「嵐」は「瑞鶴、隼鷹」以下機動部隊と合流、南雲司令部を「瑞鶴」に送り届けた[72]。11月2日、「翔鶴、嵐、野分」はトラック泊地を出発、11月6日横須賀帰投、8日から18日までドックで修理整備を行う[73]

11月21日、「嵐、野分」は横須賀を出港して大分回航。23日、陸軍特務艦「あきつ丸」を護衛して内地を出発し[74]、12月1日ラバウルへ到着した[75]。「嵐」乗組員は有賀司令と渡辺駆逐艦長に大きな信頼を寄せており、士気も高かったという[76]。 「嵐、野分、有明」は外南洋部隊増援部隊に編入されショートランド泊地へ進出、再び「鼠輸送」に従事する[77]。12月3日、田中頼三第二水雷戦隊司令官の指揮下、第二次輸送作戦(親潮、黒潮、陽炎、巻波、長波、江風、涼風、嵐、野分、夕暮)を実施するが、駆逐艦「巻波」が空襲により損傷した[78][77]。22時以降ガダルカナル島タサファロング泊地にドラム缶1500個を投入したが、回収されたのは310個だけであった[79]

12月7日午前11時、駆逐艦11隻(指揮官/第15駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐:嵐、野分、長波、親潮、黒潮《旗艦》、陽炎、浦風、谷風、江風、涼風、有明)による第三次輸送作戦に参加してショートランド泊地発[80]。午後4時以降の空襲で4駆僚艦「野分」が被弾し航行不能となった[81]。「嵐」も小破した[82]。「野分」は「長波」に曳航され、「嵐、有明」に護衛されてショートランド泊地へ避退した[83]。それ以外の駆逐隊は揚陸作戦を続行したが、米軍魚雷艇や米軍機に妨害され、揚陸を中止してショートランドへ戻った[80]。 なお第三次輸送作戦、第四次作戦に参加した初春型駆逐艦2隻(有明夕暮)について田中司令官は『夕暮と有明は他艦に比べて速度が出ないので取扱いに困った』と評価している[84]

ガダルカナル島の戦況は悪化する一方であり、山本五十六連合艦隊司令長官は『今次ノ駆逐艦輸送ニ期待スルトコロ極メテ大ナリ、アラユル手段ヲ講ジ任務達成ニ努メヨ』と激励する[85]。12月11日13時30分、「嵐」は駆逐艦11隻(指揮官/田中二水戦司令官)による第四次輸送作戦に参加してショートランド発[86]。田中司令官は最新鋭の秋月型駆逐艦「照月」を旗艦としていたほか、「嵐、長波、江風、涼風」、輸送隊(陽炎、黒潮、親潮、谷風、浦風、有明)という戦力を揃える[87]。だがガダルカナル島揚陸中、警戒隊(長波→嵐→照月の単縦陣)は米軍魚雷艇の雷撃を受け、被雷した「照月」は沈没する[88]。田中二水戦司令官は「長波」に移乗、「嵐」が「照月」の救援に当たった[85]。「嵐」は「照月」に接舷して乗組員約140名を救助[85]。「照月」は艦長以下の手により自沈[89]。司令・艦長以下156名はガ島へ上陸した[85]。一方、「嵐」が「照月」を救援している最中に「長波」以下他艦はガダルカナル島海域を離脱したため、「嵐」は単艦で現場を退避、主隊から約6時間以上遅れた午後4時頃にショートランド泊地に到着した[90]。投下されたドラム缶1200個のうち回収されたのは220個にすぎなかったという[85]

1943年(昭和18年)1月11日、駆逐艦8隻(黒潮《小柳第二水雷戦隊司令官座乗、旗艦》、巻波、江風、嵐、大潮、荒潮、初風、時津風)による第五次輸送が実施される[91]。警戒隊(江風、黒潮、初風、時津風)、輸送隊(嵐、巻波、大潮、荒潮)、待機隊(長波)という区分だった[91]。作戦中、米軍魚雷艇の攻撃で第16駆逐隊の姉妹艦「初風」が大破、有賀司令の指揮下、「嵐、江風時津風」はガダルカナル島からショートランド泊地まで「初風」を護衛した[91]。同作戦指揮官の第二水雷戦隊司令官小柳富次少将は「初風」を護りきった有賀(4駆司令)と中原義一郎(24駆司令)、「嵐、江風、時津風」を賞賛している[92]

1月12日夕刻、第十戦隊司令官木村進少将を指揮官とする9隻(秋月《第十戦隊旗艦》、時津風、嵐、黒潮、谷風、浦風、浜風、磯風、舞風)は、第六次輸送作戦を実施べくラバウルを出撃[93]。警戒隊(秋月、黒潮、時津風、嵐)、輸送隊(谷風、浦風、浜風、舞風)という区分だった[93]。13日朝ショートランド進出、14日朝に出撃した[93]。揚陸作戦成功後の15日朝、「嵐」はガダルカナル島からの帰路で米軍機の攻撃を受け、航行不能となる[94]。他に「谷風」駆逐艦長の勝見中佐が戦死、「浦風」も小破した[93]。有賀司令は第15駆逐隊「黒潮」による曳航の申し出を断り、第4駆逐隊「舞風」に「嵐」を曳航させている[95]零式水上観測機の護衛も受け、ショートランド泊地へ避退した。なお午後1時30分頃に零観10機がB-17型10機・P-39エアコブラ12機と空戦を行い、5機(6機)喪失と引き替えにP-39を1機撃墜したという[96]トラックで応急修理し、2月のガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)に支援隊として参加する[97]。この第二次撤退作戦で第4駆逐隊「舞風」、第三次撤退作戦で17駆姉妹艦「磯風」が損傷して長期修理となった。

作戦終了後の2月15日、空母2隻(隼鷹冲鷹)は第三戦隊(金剛榛名)、水上機母艦「日進」、重巡2隻(鳥海利根)、護衛駆逐艦(時雨、大波、黒潮、陽炎、嵐)はトラック泊地を出港するが、悪天候のため航空隊収容不能だった「隼鷹」と護衛艦「陽炎、黒潮」のみトラックへ引き返した[98]。「嵐」は20日に横須賀到着[99]。母港で修理を実施した。

ニュージョージア島の戦い[編集]

修理完了後は瀬戸内海で空母「翔鶴」の訓練警戒艦となった。7月8日、第八戦隊(利根筑摩)、水上機母艦「日進」、航空巡洋艦「最上」、軽巡洋艦「大淀」、第十戦隊(旗艦阿賀野、第4駆逐隊《萩風、嵐》、第17駆逐隊《磯風》、第61駆逐隊《涼月初月》)等と共に呉を出港。さらに「日進、利根、筑摩、最上、大淀、阿賀野」以下第十戦隊はラバウルに進出し、ブーゲンビル島ブイン輸送を行う。当時、ニュージョージア島の戦いにおける日本軍の劣勢は明らかであり、地上軍の補充と増強が強く求められていた[100]。ラバウルで「嵐」は「利根」に、「萩風」は「筑摩」に、「磯風」は「大淀」に、それぞれ燃料補給を受けた[101]。準備完了後、秋月型2隻(涼月、初月)はブカ輸送を実施[100]。また第十戦隊司令官大杉守一少将は「阿賀野」から「萩風」に移乗して同艦に将旗を掲げた[102]。不知火型3隻(萩風、嵐、磯風)は、戦車等の軍需物資を満載した水上機母艦「日進」を護衛しつつブインへ向かうが、7月22日ブイン到着直前(ショートランド北口北方20浬)で空襲を受け「日進」は沈没する[100]。「萩風、嵐、磯風」は生存者の救助に奔走した[103]

ラバウルに帰投後、第十戦隊旗艦は「萩風」から「阿賀野」に戻る[103]。ここで「萩風、嵐」のみ南東方面部隊・外南洋部隊(第八艦隊)・増援部隊(第三水雷戦隊)に編入され、ソロモン諸島に残ることになった[103]。外南洋部隊増援部隊はニュージョージア島の戦いにともなうクラ湾夜戦コロンバンガラ島沖海戦で旗艦2隻(新月《第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将戦死、三水戦司令部全滅》、神通《第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将戦死、二水戦司令部全滅》)、駆逐艦「長月初雪清波夕暮」を喪失し、他の駆逐艦も軒並み損傷、着任したばかりの第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐が軽巡洋艦「川内」を旗艦として、増援部隊の指揮を執っていた[103]。「萩風、嵐」以外の艦(利根、筑摩、最上、阿賀野、大淀、磯風、涼月、初月)はトラックへ帰投したが、その際「磯風」は魚雷と弾薬を「萩風、嵐」に供与している[104]。第十戦隊の主力がラバウルを去ってしまうと湾内は閑散とし、それまで目立たなかった「川内」の姿が急に大きく見えたという[103]

7月25日、第4駆逐隊(萩風、嵐)と第27駆逐隊の白露型駆逐艦時雨」の3隻で、レカタ(サンタイサベル島)輸送を実施[105]。揚陸に成功し28日ラバウルへ帰投した[106]。この時、駆逐艦2隻(三日月有明)はニューブリテン島ツルブ輸送作戦中、27日同島へ座礁、さらに空襲を受け28日に両隻とも沈没した[100]8月1日、駆逐艦4隻(萩風、嵐、時雨、天霧)はコロンバンガラ島輸送作戦を実施中、米軍魚雷艇群と交戦する[107]。夜間水上戦闘の最中、警戒隊「天霧」はジョン・F・ケネディ中尉を艇長とする魚雷艇「「PT-109英語版」を体当たりによって撃沈した[108]。8月2日夕刻ラバウル帰投[107]。損傷した「天霧」の代艦として白露型「江風」が輸送作戦に加わる[109]。8月2日、外南洋部隊指揮官鮫島具重中将(第八艦隊司令長官)は、「川内、萩風、嵐、江風、時雨」によるブインとコロンバンガラ島輸送を下令、第4駆逐隊側としては綱渡りのような作戦に危機感を覚えたが、実施するしかなかった[110]

ベラ湾夜戦[編集]

1943年(昭和18年)8月6日、ブインおよびコロンバンガラ島への輸送のため、増援部隊はラバウルを出港。第三水雷戦隊旗艦(司令官伊集院松治少将)の軽巡「川内」(陸兵450名、物資130トン)はブインへ向かい、駆逐艦4隻(萩風《杉浦嘉十駆逐隊司令座乗》、嵐、江風、時雨)でコロンバンガラ島へ向かう[107]。警戒隊は「時雨」(第27駆逐隊司令原為一大佐)、輸送隊は第4駆逐隊(萩風、嵐)、第24駆逐隊(江風)で、輸送兵力は陸兵950名と物資90トンである[107]。日中の時点で輸送隊は米軍哨戒機に補足され、行動を報告されていた[111]。 同日夜、コロンバンガラ輸送隊はソロモン諸島コロンバンガラ島沖(ベラ湾)にて、フレデリック・ムースブラッガー中佐指揮下の米水上部隊(駆逐艦6隻)と交戦する(ベラ湾夜戦[112]。「萩風」-「嵐」-「江風」-「時雨」の単縦陣は米軍のレーダーに補足され、先制雷撃を受けた[113]。敵艦隊に気付いたものの回避は間に合わず、「江風」は轟沈、その後の砲撃により「嵐、萩風」は相次いで沈没した[114]。「嵐」は左舷への被雷と共に主砲も魚雷発射管も使用不能となり、前部に残っていた25mm機銃で最後まで反撃に努めた[115][116]。「嵐」では艦長以下178名が戦死(艦長は脱出したものの生還せず)、生存者は「嵐、萩風」約70名、「江風」約40名[117]。三隻が分乗させていた陸軍兵は940名中約820名が戦死した[118]。生還した日本側駆逐艦は「時雨」のみ(艦底魚雷通過2本、魚雷命中不発1)であり、米艦隊の追撃を振り切った同艦はブイン輸送を終えた「川内」と合流後、ラバウルへ帰投する[119]。8月9日、大本営は「飛行機、魚雷艇と協同する敵水雷戦隊と交戦、駆逐艦1隻を撃沈、わが方もまた駆逐艦1隻沈没、1隻大破」と発表した[120]

第4駆逐隊(嵐、萩風、野分、舞風)は「萩風、嵐」の喪失により戦力が半減したため、9月15日附で満潮型山雲」を編入した[121]

駆逐艦「嵐、萩風」は10月15日附で不知火型駆逐艦[122] 第4駆逐隊[123]、 帝国駆逐艦籍[124]、 それぞれから除籍された。

公試成績[編集]

時期 排水量 出力 速力 実施日 実施場所 備考
新造時 2,526t 52,253shp 34.76kt 1940年(昭和15年)12月16日 宮津湾北方 10/10全力

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』335-336頁による。

艤装員長[編集]

  1. 渡辺 保正 中佐:1940年9月16日 -

駆逐艦長[編集]

  1. 渡辺保正 中佐:1940年11月25日 -
  2. 杉岡幸七 中佐:1942年11月15日 - 1943年8月6日戦死

脚注[編集]

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  1. ^ a b #達昭和15年2月pp.44-45『達第三十一號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十三年度及同十四年度ニ於テ建造ニ着手ノ敷設艦一隻、海防艦二隻、驅逐艦二隻、潜水艦二隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十五年二月二十三日 海軍大臣吉田善吾|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 敷設艦 津軽(ツガル)|鶴見製鉄造船株式會社ニ於テ建造 海防艦 国後(クナシリ)|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 海防艦 八丈(ハチジャウ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 嵐(アラシ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 萩風(ハギカゼ)|三菱重工業株式會社神戸造船所ニ於テ建造 伊號第二十五潜水艦|呉海軍工廠ニ於テ建造 伊號第二十七潜水艦|鶴見製鉄造船株式會社ニ於テ建造 第十三號驅潜艇』
  2. ^ a b #昭和16年12月31日現在艦艇類別等級p.8『驅逐艦|一等|陽炎型|陽炎、不知火、黒潮、親潮、早潮、夏潮、初風、雪風、天津風、時津風、浦風、磯風、濱風、谷風、野分、嵐、萩風、舞風、秋雲』
  3. ^ a b #昭和16年6月30日現在艦船要目公表範囲p.20『艦名:嵐|艦種:一等駆逐艦|(性能略)|製造所:舞鶴工廠|起工年月日14-5-4|進水年月日15-4-22|竣工年月日16-1-27|(兵装略)』
  4. ^ #昭和16年6月30日現在艦船要目公表範囲p.20『艦名:野分|艦種:一等駆逐艦|(性能略)|製造所:舞鶴工廠|起工年月日14-11-8|進水年月日15-9-17|竣工年月日16-4-28|(兵装略)』
  5. ^ #内令昭和16年3月(3)p.2『内令第二百七十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十六年三月三十一日海軍大臣及川古志郎|第三驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ||第四驅逐隊|嵐、萩風|』
  6. ^ #内令昭和16年4月(5)pp.44-45『内令第四百四十八號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十六年四月二十八日海軍大臣及川古志郎|第四驅逐隊ノ項中「萩風」ノ下ニ「、野分」ヲ加フ』
  7. ^ #内令昭和16年7月(1)pp.8-9『内令第七百五十三號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十六年七月一日 海軍大臣及川古志郎|第四驅逐隊ノ項中「、野分」ヲ削ル』-『内令第七百五十四號|横須賀鎮守府練習兼警備驅逐艦 驅逐艦 野分 右警備驅逐艦ト定メラル(以下略)昭和十六年七月一日 海軍大臣及川古志郎』
  8. ^ #内令昭和17年5月(2)p.22『舞風|一等駆逐艦|(艦諸元略)|藤永田造船所|15-4-22|16-3-15|16-7-15|(兵装略)』
  9. ^ #陽炎型、2014109頁
  10. ^ #内令昭和16年10月(4)p.19『内令第千三百七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十六年十月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第四驅逐隊ノ項中「萩風」ノ下ニ「、野分、舞風」ヲ加フ』
  11. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録212頁
  12. ^ #戦艦大和最後の艦長96頁
  13. ^ #戦艦大和最後の艦長104頁
  14. ^ #愛宕奮戦記53頁
  15. ^ #戦艦大和最後の艦長119頁
  16. ^ #撃沈戦記137頁
  17. ^ #戦艦大和最後の艦長120頁
  18. ^ #撃沈戦記141-142頁
  19. ^ #愛宕奮戦記60-63頁
  20. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦512頁『対英駆、米巡合戦図』
  21. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦513頁
  22. ^ #戦艦大和最後の艦長124頁
  23. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦515頁
  24. ^ #愛宕奮戦記76頁
  25. ^ #戦艦大和最後の艦長127頁
  26. ^ #戦艦大和最後の艦長130頁
  27. ^ #祥鳳日誌(5)p.7『18日1605前進部隊指揮官(略)前進部隊本日ノ出撃要領左ノ通定ム 一.愛宕出港時刻1700/二.出撃順序(イ)一〇駆七駆八駆四戦隊ノ順序(以下略)』
  28. ^ a b c d #戦史叢書北東方面海軍作戦184-185頁『前進部隊の作戦』
  29. ^ #祥鳳日誌(5)p.15『21日0630 2F長官→祥鳳艦長7dg司令|2F機密第5611番電 一.祥鳳艦長ノ7dgニ對スル指揮ヲ解ク7dgハ單独横須賀ニ回航セヨ/二.4dgハ祥鳳ニ合同横須賀入港迄同艦長指揮ヲ受ケ警戒ニ任ズベシ』-『21日0955祥鳳→2F長官|0955嵐野分本艦ニ合同1142十八節1300針路200度速力九節1400』
  30. ^ #祥鳳日誌(8)p.2『(イ)敵軍一般ノ情勢 十八日0700敵機動部隊(空母三隻ヲ含ム部隊)犬吠埼ノ東600浬ニ現レタルニ依リ18日1500二艦隊機密(タナ878)電ニ依リ前進部隊本隊編入直ニ訓練ヲ中止シ出撃準備ヲ完成シ19日0400前進部隊ニ合同ノ爲横須賀出撃飛行機隊ノ一部ヲ収容爾後前進部隊ニ續行敵情ヲ得ズ20日2140二艦隊機密第557番電(前進部隊電令作第16號)ニ依リ23日0835横須賀皈着』
  31. ^ #戦艦大和最後の艦長132.143頁
  32. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録39頁
  33. ^ #戦艦大和最後の艦長149頁
  34. ^ #戦艦大和最後の艦長150頁
  35. ^ a b #駆逐艦隊悲劇の記録73頁
  36. ^ #戦艦大和最後の艦長163頁
  37. ^ a b #駆逐艦隊悲劇の記録75-78頁(嵐より『艦影見ゆ、われこれに向かう』)
  38. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録80-83頁(萩風砲術長によれば、野分魚雷不発、舞風発射せず)
  39. ^ #戦艦大和最後の艦長166頁
  40. ^ #戦艦大和最後の艦長167頁
  41. ^ #戦艦大和最後の艦長170頁
  42. ^ #戦史叢書北東方面海軍作戦252頁
  43. ^ #戦史叢書北東方面海軍作戦260-261頁
  44. ^ #戦艦大和最後の艦長173頁
  45. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)84頁『陸軍一木支隊の「ガ」島派遣決定』
  46. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録96頁
  47. ^ #戦史叢書49ガ島以前519頁
  48. ^ #戦史叢書49ガ島以前534頁
  49. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録117頁
  50. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録118頁
  51. ^ #戦史叢書49ガ島以前539頁
  52. ^ #戦藻録(1968)170頁
  53. ^ #戦艦大和最後の艦長180頁
  54. ^ #戦艦大和最後の艦長181頁
  55. ^ #戦史叢書49ガ島以前620-621頁
  56. ^ #戦史叢書49ガ島以前626頁
  57. ^ #戦史叢書49ガ島以前627-628頁
  58. ^ #戦艦大和最後の艦長184頁
  59. ^ #戦艦大和最後の艦長185頁
  60. ^ #戦艦大和最後の艦長188頁
  61. ^ #戦史叢書49ガ島以前633頁
  62. ^ #戦艦大和最後の艦長189頁
  63. ^ #戦史叢書83ガ島戦105頁
  64. ^ a b #戦史叢書83ガ島戦106頁
  65. ^ #戦艦大和最後の艦長190頁
  66. ^ a b c #戦史叢書83ガ島戦138-139頁
  67. ^ #戦史叢書83ガ島戦273-274頁
  68. ^ #戦史叢書83ガ島戦276頁
  69. ^ #戦史叢書83ガ島戦296頁
  70. ^ #戦艦大和最後の艦長194頁
  71. ^ a b c d #戦史叢書83ガ島戦301-302頁『「翔鶴、瑞鳳」の戦場離脱と二航戦の作戦』
  72. ^ #戦史叢書83ガ島戦306頁
  73. ^ #戦艦大和最後の艦長197頁
  74. ^ #S1709呉鎮日誌(5)p.29『23日0735呉防戦司令官(略)一.あきつ丸(陸軍重要船舶)嵐、野分24日0830深島南下針路158度速力17節(略)』
  75. ^ #戦史叢書83ガ島戦409頁
  76. ^ #戦艦大和最後の艦長205-206頁
  77. ^ a b #戦史叢書83ガ島戦440頁『十二月三日』
  78. ^ #S1712外南洋部隊詳報(2)p.6『第二次「ガ」島輸送|2sd司令官|15dg(親潮黒潮陽炎)、31dg(巻波長波)、24dg(江風涼風)、4dg(嵐野分)、夕暮|三日|巻波空爆ニ依リ損傷』
  79. ^ #戦艦大和最後の艦長199頁
  80. ^ a b #戦史叢書83ガ島戦441頁『十二月七日』
  81. ^ #S1712外南洋部隊詳報(2)p.6『第三次「ガ」島輸送|15dg司令|15dg(d×3)長波有明24dg(d×2)、4dg(d×2)|七日|野分空爆ニ依リ大破魚雷艇ノ妨害ニ依リ揚陸セズ』
  82. ^ #S1709八艦隊日誌(3)p.60『4dg(嵐、野分)長波、15dg(親潮黒潮陽炎)、17dg(浦風谷風)、24dg(江風涼風)有明|12-7|第三次「ドラム」罐輸送ヲ実施セントセシモ途中敵機ノ来襲及泊地ニ於ケル魚雷艇ノ為遂ニ揚陸ヲ断念ス、戦果艦爆5艦戦1魚雷艇1、被害野分航行不能、嵐小破』
  83. ^ #戦艦大和最後の艦長200頁
  84. ^ #S1712外南洋部隊詳報(4)p.17『有明及夕暮ヲ一時當部隊ニ編入セラレタルモ速力出デザル為特別ノ取扱ヲ要セリ、同時ニ行動スベキ各艦ノ運動力ハ成可ク齋一ナルヲ可トス』
  85. ^ a b c d e #戦史叢書83ガ島戦446-447頁『第四次ガ島ドラム缶輸送』
  86. ^ #戦艦大和最後の艦長201頁
  87. ^ #S1712外南洋部隊詳報(2)p.6『第四次「ガ」島輸送/2sd司令官/15dg(d×3)、長波、17dg(谷風浦風)、24dg(d×2)、4dg(嵐)、照月、有明/11日/照月魚雷艇ノ雷撃ニ依リ沈没』
  88. ^ #S1712外南洋部隊詳報(2)p.30『12月11日夜戦合戦図』
  89. ^ #主計大尉157-158頁、宮内通行(機関中尉)談。
  90. ^ #戦艦大和最後の艦長202頁
  91. ^ a b c #戦史叢書83ガ島戦512-513頁『一月十日』
  92. ^ #S1801二水戦日誌(2)(2)p.40『輸送部隊ハ遠ク敵制空権下ニ進出シ敵水上部隊ノ出現ヲ厳戒シツツ既ニ泊地ニ潜入待機中ノ魚雷艇7隻及哨戒機2機ト交戦シ混戦中ノ輸送ヲ強行シテ前記ノ如キ成果ヲ収メ其ノ功績顕著ナリ。特ニ嵐(司4dg)、江風(司24dg)時津風ハ損傷艦初風ヲ護衛シ友軍機ノ協力ト相俟ッテ長途離脱ニ成功シ功績極メテ顕著ナリト認ム』
  93. ^ a b c d #戦史叢書83ガ島戦513-514頁『一月十四日』
  94. ^ #S1709八艦隊日誌(4)pp.26-27『秋月時津風嵐黒潮谷風浦風浜風磯風舞風|1-14.15|「エスペランス」ニ揚陸ヲ実施ス。輸送物件:各艦陸兵163「ドラム」罐30ゴム嚢40 小発2、折畳式浮舟10 鳥海羽黒熊野機ハ「サボ」島ノ南西5浬ニ於テ魚雷艇6隻ト交戦1隻撃破2隻炎上セシム。15日敵機延B-17 10、fc15小型十数機来襲嵐至近弾ニ依リ航行不能、谷風浦風浜風至近弾ニ依リ若干ノ被害アリ、谷風艦長以下数名ノ戦死二十数名ノ傷者ヲ出セリ、嵐上空警戒ノR方面航空部隊観測機20ハB-17 10・P-39 12ト交戦P-39 1撃墜被害自爆6』
  95. ^ #戦艦大和最後の艦長210頁
  96. ^ #戦艦大和最後の艦長211頁
  97. ^ #戦艦大和最後の艦長212頁
  98. ^ #S1811二水戦日誌(3)p.20『15日1100 3S時雨(佐世保ニ向ケ)、鳥海冲鷹嵐大波(横須賀)、2sf(飛鷹缺)日進黒潮陽炎(呉)、8S(筑摩缺)(舞鶴)各軍港ニ向ケ「トラック」発|四.1700 2sf(飛鷹缺)陽炎黒潮、天候不良ノ為Y収容不能ニ付「トラック」入泊』
  99. ^ #戦艦大和最後の艦長220頁
  100. ^ a b c d #戦史叢書96ガ島撤収後249-250頁『経過概要と南東方面部隊等の作戦指導』
  101. ^ #S1701八戦隊日誌(6)p.36『…21日1500「ラバウル」ニ入泊直ニ乙部隊ニ対スル積換補給(嵐ハ利根、萩風ハ筑摩、磯風ハ大淀ヨリ燃料補給満載)並ニ「ラバウル」ニ於ケル揚搭作業ヲ開始シ…』
  102. ^ #陽炎型、2014190-191頁
  103. ^ a b c d e #陽炎型、2014192-193頁
  104. ^ #S1701八戦隊日誌(6)p.40『…出撃前日(23日附)4dg南東方面部隊編入ノGF電令ニ接シタルヲ以テ不取敢第一部隊ヨリ除キ第十戦隊司令官所定ニ依リ磯風ノ魚雷弾薬等ヲ同隊ニ移載ノ上第一部隊ハ24日0915「ラバウル」ヲ出撃セリ…』
  105. ^ #陽炎型、2014194頁
  106. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後254頁『外南洋部隊の作戦』
  107. ^ a b c d #戦史叢書96ガ島撤収後259-261頁『外南洋部隊の作戦』
  108. ^ #陽炎型、2014194-195頁『敵魚雷艇を踏みつぶす』
  109. ^ #撃沈戦記214頁
  110. ^ #陽炎型、2014196-198頁『司令官の苦衷』
  111. ^ #陽炎型、2014200-201頁
  112. ^ #撃沈戦記217頁
  113. ^ #撃沈戦記219頁
  114. ^ #S1709八艦隊日誌(8)p.46『2150「ショールダーヒル」ノ310度19浬ニテ巡洋艦2隻駆逐艦3隻ヨリ成ル隊ト魚雷艇飛行機ノ協同攻撃ヲ受ケ時雨ノ外各艦ニ魚雷2本以上命中江風ハ瞬時ニシテ沈没萩風嵐又航行不能トナリ爾後敵ノ集中砲火ヲ受ケ両艦トモ共沈没セリ』
  115. ^ #陽炎型、2014206-27頁
  116. ^ #S1807三水戦日誌(2)p.20『各艦直チニ戦闘ヲ開始セントセル時各艦共至近ニ雷跡(計12)ヲ認メタルモ2146萩風ヨリ相続デ魚雷命中江風ハ船体切断直チニ沈没、萩風.嵐又通信航行不能一部機銃ノ外全攻撃兵器使用ニ堪ヘズ萩風嵐ハ一部機銃ヲ以テ応戦ニ努メタルモ二方面ヨリ集中砲火ヲ蒙リ爆発各所ニ起リ全艦火災戦闘力全ク喪失セルヲ以テ2215総員退去間モナク沈没ス』
  117. ^ #陽炎型、2014208-210頁『ベラ湾に散る』
  118. ^ #撃沈戦記221頁
  119. ^ #S1807三水戦日誌(2)p.20『時雨(略)状況極メテ我ニ不利ナルヲ以テ人員救助ニ関シ八聯特ニ依頼シ戦場ヲ離脱北上0800 3sd(川内)ニ合同1430「ラバウル」帰着』
  120. ^ #陽炎型、2014211-212頁『夜戦の真相』
  121. ^ #内令昭和18年9月(4)p.28『内令第千九百三十六號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年九月十五日海軍大臣嶋田繁太郎|第四駆逐隊ノ項中「舞風」ノ下ニ「、山雲」ヲ加フ』
  122. ^ #内令昭和18年10月(3)p.46『内令第二千百四十四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十八年十月十五日海軍大臣嶋田繁太郎|驅逐艦、一等卯月型ノ項中「、三日月」ヲ、同初雪型ノ項中「初雪、」ヲ、同初春型ノ項中「、有明、夕暮」ヲ、同白露型ノ項中「、江風」ヲ、同不知火型ノ項中「、嵐、萩風」ヲ、同夕雲型ノ項中「、清波」ヲ削ル|潜水艦、一等伊百六十八型ノ項中「伊號第百六十八、」ヲ削ル』
  123. ^ #内令昭和18年10月(4)p.8『内令第二千百五十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月十五日海軍大臣嶋田繁太郎|第四驅逐隊ノ項中「嵐、萩風、」ヲ、第十一驅逐隊ノ項中「初雪、」ヲ、第二十四驅逐隊ノ項中「江風、」ヲ、第二十七驅逐隊ノ項中「有明、夕暮」ヲ、第三十驅逐隊ノ項中「三日月、」ヲ、第三十一驅逐隊ノ項中「、清波」ヲ削ル』
  124. ^ #内令昭和18年10月(4)pp.9-10『内令第二千百六十一號|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 嵐、驅逐艦 萩風|呉鎮守府隻 驅逐艦 初雪|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 三日月、驅逐艦 有明、驅逐艦 夕暮、驅逐艦 江風|舞鶴鎮守府籍 駆逐艦 驅波|右帝国驅逐艦籍ヨリ除カル|呉鎮守府籍 伊号第百六十八潜水艦 右帝国潜水艦籍ヨリ除カル|昭和十八年十月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎』

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08051772000 『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。
    • Ref.C08030580900 『昭和16年12月1日~昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(5)』。
    • Ref.C08030022500 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030022600 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(2)』。
    • Ref.C08030022700 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(3)』。
    • Ref.C08030022800 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(4)』。
    • Ref.C08030022900 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(5)』。
    • Ref.C08030023200 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(8)』。
    • Ref.C08030100200 『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030100300 『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030100400 『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
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    • Ref.C08030099700 『昭和17年11月29日~昭和17年12月28日外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日誌(3)』。
    • Ref.C08030099800 『昭和17年11月29日~昭和17年12月28日外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日誌(4)』。
    • Ref.C08030099900 『昭和17年11月29日~昭和17年12月28日外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日誌(5)』。
    • Ref.C08030325900 『昭和17年9月1日~昭和17年12月31日 呉鎮守府戦時日誌(5)』。
    • Ref.C08030048700 『昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(6)』。
    • Ref.C08030105900 『昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C13071997700 『昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿:巻1追録/第6類機密保護』。
    • Ref.C13072003500 『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿2.3』。
    • Ref.C12070106700 『昭和15年1月~12月達/2月』。
    • Ref.C12070150000 『昭和16年1月~4月内令1巻/昭和16年3月(3)』。
    • Ref.C12070150500 『昭和16年1月~4月内令1巻/昭和16年4月(5)』。
    • Ref.C12070151900 『昭和16年5月~8月内令2巻/昭和16年7月(1)』。
    • Ref.C12070153600 『昭和16年9月~10月内令3巻/昭和16年10月(4)』。
    • Ref.C12070162800 『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年5月(2)』。
    • Ref.C12070181300 『昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年10月(3)』。
    • Ref.C12070181400 『昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年10月(4)』。
    • Ref.C12070180700 『昭和18年9~10月内令4巻/昭和18年9月(4)』。
  • 倉橋友二郎 『駆逐艦隊悲劇の記録 海ゆかば・・・』 徳間書店、1967年6月。 著者は1941年9月~1942年9月まで駆逐艦「萩風」砲術長勤務。
  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録 明治百年史叢書』 原書房、1968年1月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 朝雲新聞社、1969年5月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書29 北東方面海軍作戦』 朝雲新聞社、1969年8月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書49 南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』 朝雲新聞社、1971年9月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』 朝雲新聞社、1973年2月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』 朝雲新聞社、1975年8月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』 朝雲新聞社、1976年8月。
  • 永井喜之・木俣滋郎 『新戦史シリーズ 撃沈戦記』 朝日ソノラマ、1988年10月。ISBN 4-257-17208-8
    • 第二次大戦/日本編『4 アメリカ駆逐艦「ピルスバリィ」』、『11 駆逐艦「萩風」「嵐」「江風」』
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II』光人社、1990年 ISBN 4-7698-0461-X
  • 外山三郎 『図説 太平洋海戦史 第3巻 写真と図説で見る日米戦争光人社、1995年9月。ISBN 4-7698-0711-2 著者は海軍少佐、防衛大学教授等。
  • 生出寿 『戦艦「大和」最後の艦長 海上修羅の指揮官』 光人社、1996年12月。ISBN 4-7698-2143-3
  • 高戸顕隆 『私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部海軍主計大尉の太平洋戦争』 光人社、1999年ISBN 4-7698-2227-8
  • 種子島洋二 『ソロモン海「セ」号作戦―コロンバンガラ島奇蹟の撤収』 光人社NF文庫、2003年9月。ISBN 4-7698-2394-0
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年 ISBN 4-7698-1246-9
  • 小板橋孝策 『「愛宕」奮戦記 旗艦乗組員の見たソロモン海戦』 光人社NF文庫、2008年ISBN 978-4-7698-2560-9
  • 重本俊一ほか 『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』 潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8
    • 戦史研究家落合康夫『駆逐隊別「陽炎型駆逐艦」全作戦行動ダイアリィ 第四、第十五、第十六、第十七、第十八駆逐隊 太平洋奮迅録
    • 当時 四駆逐隊付・海軍少尉候補生戸田専一『乗艦「舞風」「萩風」ネズミ輸送の悲惨を語れ 駆逐艦の損傷相次ぎ風雲急を告げるソロモン戦線五ヶ月の体験
    • 当時「嵐」水雷長・海軍大尉宮田敬助『第四駆逐隊「嵐」「萩風」ベラ湾夜戦に死す 昭和十八年八月六日夜、コロンバンガラ輸送の途次に魚雷をうけて三隻沈没

関連項目[編集]