愛新覚羅溥儀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 宣統帝 / 康徳帝 | |
|---|---|
| 清国皇帝・満洲国皇帝 | |
満洲国皇帝時代
|
|
| 在位 | 清国皇帝:1908年12月2日-1912年2月12日 (張勲復辟:1917年7月1日-7月12日) 満洲国皇帝:1934年3月1日-1945年8月18日 |
| 別号 | 満洲国執政 |
| 全名 | 愛新覚羅溥儀 |
| 出生 | 1906年2月7日 |
| 死去 | 1967年10月17日 |
| 埋葬 | 1995年 |
| 配偶者 | 孝恪愍皇后 郭布羅婉容 |
| 淑妃 文繍 | |
| 祥貴人 譚玉齢 | |
| 福貴人 李玉琴 | |
| 李淑賢 | |
| 王家 | 愛新覚羅氏 |
| 王朝 | 清朝 |
| 王室歌 | 鞏金甌、滿洲國國歌 |
| 父親 | 醇親王 載灃 |
| 母親 | 醇親王妃 瓜爾佳幼蘭 |
愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ、満洲語名:アイシンギョロ - [1]、簡体字:爱新觉罗溥仪、漢語拼音:Àixīnjuéluó Pǔyí=アイシンジュエルオ・プーイー、1906年2月7日 - 1967年10月17日)は、清朝の第12代皇帝宣統帝(せんとうてい、1908年 - 1912年)。「最後の皇帝」として広く知られる[2]。清朝崩壊後に日本政府および軍の支援を受け、満洲国の執政、満洲国が帝政に移行すると皇帝として即位、康徳帝(1934年 - 1945年)を名乗る。字(あざな)を「浩然」あるいは「耀之」という。
廟号は恭宗(2004年に与えられたが、公式ではない)。また、辛亥革命後の呼称としては、廃帝と国民党政府から呼ばれる一方、旧清朝の立場からは遜帝(「遜」は「ゆずる」の意)とも呼ばれた。末皇帝(末帝)と呼ばれる場合もある。
目次 |
[編集] 略歴
| 元謀・藍田・北京原人 | ||||
| 神話伝説(三皇五帝) | ||||
| 黄河・長江文明 | ||||
| 夏 | ||||
| 殷 | ||||
| 周 | 西周 | |||
| 東周 | 春秋 | |||
| 戦国 | ||||
| 秦 | ||||
| 漢 | 前漢 | |||
| 新 | ||||
| 後漢 | ||||
| 三国 | 魏 | 呉 | 蜀 | |
| 晋 | 西晋 | |||
| 東晋 | 十六国 | |||
| 南北朝 | 宋 | 北魏 | ||
| 斉 | ||||
| 梁 | 西魏 | 東魏 | ||
| 陳 | 北周 | 北斉 | ||
| 隋 | ||||
| 唐 | ||||
| 五代十国 | ||||
| 宋 | 北宋 | 遼 | 西夏 | |
| 南宋 | 金 | |||
| 元 | ||||
| 明 | 北元 | |||
| 後金 | ||||
| 清 | ||||
| 満州 | 中華民国 | |||
| 中華人民共和国 | 中華民国(台湾) | |||
- 1906年:醇親王載灃の子として北京に生まれる
- 1908年:第12代清朝皇帝(宣統帝)に即位
- 1912年:退位し「大清皇帝」となる
- 1917年:張勲復辟により清朝皇帝に復位するも、10日あまりで再び退位
- 1919年:イギリス人のレジナルド・ジョンストンを帝師として招聘
- 1922年:正妻の婉容、側室の文繍と結婚
- 1924年:クーデターにより紫禁城から退去
- 1925年:天津市内張園の日本租界に移転
- 1931年:側室の文繍と離婚
- 1932年:満洲国の建国に伴い満洲国執政に就任
- 1934年:満洲国皇帝(康徳帝)に即位
- 1935年:初の外国訪問として日本を公式訪問
- 1937年:関東軍の薦めで譚玉齢を側室とする
- 1940年:日本を再び公式訪問、最後の外国訪問となる
- 1942年:側室・譚玉齢死去
- 1943年:関東軍の薦めで李玉琴(en)を側室とする
- 1945年:満洲国の崩壊に伴い皇帝を退位し、その後ソ連軍の捕虜になる
- 1946年:東京裁判にソ連の証人として出廷させられる、正妻・婉容死去
- 1950年:中華人民共和国に身柄を移され政治犯収容所に収容される
- 1959年:模範囚として釈放され、その後北京文史資料研究委員会に勤務
- 1962年:李淑賢(en)と再婚
- 1964年:中国共産党政治協商会議全国委員に選出される
- 1967年:北京で死去
[編集] 経歴
[編集] 生誕
1906年に、清朝の第11代皇帝光緒帝の弟である醇親王載灃と、光緒帝の従兄弟で、西太后の母方の甥の栄禄の娘である幼蘭の子として、清国(大清帝国)の首都である北京に生まれる。なお、祖父は愛新覚羅 奕譞、曽祖父は道光帝となる。
[編集] 第12代清朝皇帝
1900年に発生した義和団の乱を乗り越え、当時強い権力を持っていた西太后が周囲の強硬な反対意見を押し切り自ら推薦することで、1908年12月にわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代宣統帝となった。即位式は紫禁城太和殿で行われ、その後溥儀は多くの宦官とともに紫禁城で暮らすこととなる。
溥儀が即位すると西太后は、醇親王を監国摂政王に任命して政治の実権を委ね、実質的な院政を敷いたものの、その甲斐もなく同年11月14日に光緒帝が崩御した翌日に74歳で崩御した。
光緒帝の死に関して、当初から毒殺されたのではないかという説があり、2007年に行われた調査では、光緒帝の遺髪から大量の砒素が検出されたため、毒殺の可能性がより濃厚になった。誰が光緒帝を暗殺したかについては、西太后と光緒帝の死亡時期が近いため、西太后が光緒帝を自分よりも長生きさせないために暗殺したとする説がある一方で、戊戌変法で光緒帝を裏切っている袁世凱が、光緒帝が復権して自身に報復するのを恐れて暗殺したという説もあり、溥儀は自伝『わが半生』で袁世凱による殺害という見方を示している。しかしいずれも証拠がなく、誰が光緒帝を暗殺したかは不明である。
[編集] 清朝崩壊と退位
その翌年の1909年初めに醇親王は、兄である光緒帝を裏切って戊戌変法を潰したとして憎んでいた、北洋大臣兼直隷総督の袁世凱を失脚させ、さらに袁世凱を殺害しようとしたが、内部情報を得た袁世凱はかろうじて北京を逃れ河南省彰徳に蟄居することとなった。
その後袁世凱は、清国政府による民間資本鉄道の国有化とその反対運動をきっかけに起きた1911年10月の辛亥革命において、孫文の中国革命同盟会が湖北省の武昌で起こした反乱(武昌起義)の鎮圧を目的に、清国政府の第2代内閣総理大臣と湖広総督に任命されたものの、清国政府の不利を確信した後に孫文から自らの臨時大総統就任の言質を取るや寝返り、清国政府の要路者に政権の交代をうながし清朝を崩壊に導く。
清朝崩壊を受けて1912年1月には孫文を臨時大総統に中華民国臨時政府が成立し、同年2月に袁世凱は孫文に代わり自らを大総統とする共和制国家の中華民国(北洋軍閥政府)を設立した。これを受け溥儀は、同月に隆裕皇后と袁世凱の間で交わされた清帝退位詔書を受けて退位することとなるものの、袁世凱との間に交わされた「清帝退位優待条件」に基づき「大清皇帝」の尊号を名乗ることになり、また、引き続き隆裕皇后や多くの宦官とともに紫禁城(と頤和園)で生活することが許された。またこの頃、弟の溥傑と初対面を果たす。
その後、袁世凱は溥儀に代わり自らが「皇帝」となるべく奔走し、1915年12月12日に帝政復活を宣言して皇帝に即位した。その後1916年1月1日より年号を洪憲と定め、国号を「中華帝国」に改めた。だが、北洋軍閥や日本政府などの各方面からの反対により即位直後の同年3月に退位し、失意の中で同年6月に死去した。
[編集] 張勲復辟事件
袁世凱が死去した翌年の1917年に、対ドイツ問題で黎元洪大総統と政敵の段祺瑞の確執が激化し、同年5月23日には黎元洪大総統が段祺瑞を罷免に追い込んだものの、民国期になっても辮髪を止めないほどの保守派で、革命後も清朝に忠節を尽す張勲が、この政治的空白時に乗じて王政復古によって政権を奪還しようと、中華民国の立憲君主制を目指す康有為を呼び寄せて、すでに退位していた溥儀を再び即位させて7月1日に帝政の復古を宣言。いわゆる「張勲復辟事件」に発展した。
張勲は幼少の溥儀を擁して自ら議政大臣と直隷総督兼北洋大臣となり、国会及び憲法を破棄し、共和制廃止と清朝の復辟を成し遂げるも、仲間割れから段祺瑞に敗れオランダ公使館に避難。最終的に溥儀の復辟は13日間で挫折した。その後中国大陸は馮玉祥や蒋介石、張作霖などの軍閥による勢力争いという、混沌とした状況を迎えることとなる。
[編集] ジョンストンとの出会い
その後、溥儀の後見役的立場になっていた醇親王載灃と、西太后の側近であった李鴻章の息子で、清国の欽差全権大臣を務め、駐イギリス特命全権大使でもあった李經方の勧めによって、1919年5月から1924年までの間、紫禁城内にイギリス拓務省の官僚で、中国語に堪能であったスコットランド人のレジナルド・フレミング・ジョンストンを帝師(家庭教師)として招聘し、近代的な西洋風の教育と併せて英語の教育を受けた。なお、ヨーロッパ人の帝師を招聘したのは史上初めてのことであった。
溥儀は当初、見ず知らずの外国人であるジョンストンを受け入れることを拒否していたものの、ジョンストンとの初対面時にその語学力と博学ぶりに感心し、一転して受け入れることを決断した。
その後ジョンストンより洋服や自転車、電話や雑誌などのヨーロッパの最新の輸入品を与えられ、「洋服には似合わない」との理由で辮髪を切るなど、紫禁城内で生活をしながらも、ジョンストンがもたらしたヨーロッパ(イギリス)風の生活様式の影響を受けることとなる。
なおこの頃溥儀はキリスト教徒のジョンストンより、「ヘンリー(Henry)」というイングリッシュ・ネームを与えられ、その後もこの名前を好んで使用した。なお溥儀はイングリッシュ・ネームを持ったものの、イングリッシュ・ネームを持つ多くの中国人と同じくキリスト教徒にはならなかった。
[編集] 結婚
その後の1922年には、満洲の上流貴族の娘に生まれた婉容を正妻に、側室として文繍と結婚し、紫禁城において盛大な結婚式を挙げる。結婚後に婉容の家庭教師として北京生まれのアメリカ人のイザベル・イングラムが就任した。なお、結婚後婉容にはイングラムより「エリザベス(Elizabeth)」のイングリッシュ・ネームが与えられた。
この頃溥儀はジョンストンや、清国の大阪総領事や総理衙門章京、湖南布政使等を歴任した後に1924年に総理内務府大臣(教育掛)となった鄭孝胥の薦めを受けて、紫禁城内の経費削減と近代化を推し進めるとともに、宦官の汚職や紫禁城内の美術品の横領を一掃するために、中華民国政府の力を借りて約1,200名いた宦官のほとんどを一斉解雇し、女官を追放するなどの紫禁城内の近代化を図り議論を呼んだりした。しかし、溥儀自身は中華民国内の混沌とした政情の中にあって正妻と側近、残された宦官らとともに紫禁城の中で平穏な日々を過ごした。
[編集] 紫禁城追放と日本との接近
その後も中国の武力統一を図る軍閥同士の戦闘はますます活発化し、1924年10月には馮玉祥と孫岳が起こした第二次奉直戦争に伴うクーデター(北京政変)が発生し、直隷派の曹錕が監禁され馮玉祥と孫岳が北京を支配することとなった。この結果、もはや過去の人物となった袁世凱との間に交わされた「清帝退位優待条件」は反故にされ、軍閥にとって利用価値のなくなった溥儀とその一族は長年住み慣れた紫禁城を追われることとなった。
当初溥儀は醇親王の王宮である北府へ一時的に身を寄せ、その後ジョンストンが総理内務府大臣の鄭孝胥と陳宝琛の意向を受けて上海租界や天津租界内のイギリス公館やオランダ公館に庇護を申し出たものの、ジョンストンの母国であるイギリス公館からは内政干渉となることを恐れ受け入れを拒否された。しかし、日本の芳沢謙吉公使は即座に受け入れを表明し、すぐに北京の日本公使館の庇護を受けることになった。
翌1925年に鄭孝胥と日本の支那駐屯軍、駐天津日本国総領事館の仲介で、溥儀一行の身柄の受け入れを表明した日本政府の勧めにより天津市内張園の日本租界に移ることとなる。この事をきっかけに、1905年の日露戦争の勝利によるロシア権益の移譲以降、満洲への本格進出の機会を狙っていた日本陸軍(関東軍)と緊密な関係を持ち始める。
その後溥儀と別れたジョンストンは天津港よりP&Oの汽船でイギリスに帰国した。帰国後はロンドン大学の東洋学及び中国語教授に就任し、溥儀の家庭教師時代を綴った「紫禁城の黄昏」(原題:『Twilight in the Forbidden City』)を著した後、イギリスの租借領であるポート・エドワード(威海衛)の植民地行政長官(弁務官)に就任したが、すでに日本と密接な関係を持っていた溥儀との再会は果たせなかった。
[編集] 内戦と東陵事件
なお、この頃も中華民国国内の政治的状況は混とんとしたままで、1927年4月には「上海クーデター」が勃発し、蒋介石率いる中国国民党右派が対立する中国共産党を弾圧した。その後蒋介石は南京にて「南京国民政府」を設立し、党および中華民国政府の実権を掌握するものの、同年7月に国共合作を破棄したことで、ソビエト連邦からの支援を受けた中国共産党の残党が反発し国共内戦がはじまる。
また、溥儀を紫禁城から追放するきっかけとなった北京政変後の1926年に政権を掌握した張作霖の政権も磐石なものではなかった。張作霖は、孫文の没後にその後を継いだ中国国民党右派の蒋介石が1928年に開始した「北伐」により、からくも北京より脱出したものの、同年6月「満州某重大事件」により命を落とすことになった。その後張作霖の息子の張学良は蒋介石に降伏し、その後両者は相通じて関東軍に対し挑発行動を繰り返すこととなる。
このような政治的混乱のなかで、1928年に国民党の軍閥孫殿英の軍隊が河北省の東陵を略奪するという事件が発生した(東陵事件)。なかでも乾隆帝の裕陵と西太后の定東陵は墓室を暴かれて徹底的な略奪を受けた。溥儀は国民政府に抗議したが、孫殿英は国民党の高官に賄賂を贈っていためになんら処罰されることはなく、溥儀を大いに憤慨させた。東陵事件は溥儀にとって紫禁城を退去させられた時以上に衝撃的な事件であり、これによって清朝復辟の念を一層強くしたという。
[編集] 文繍との離婚
溥儀の住んでいた天津は、この頃の国共内戦の主な戦闘地域から離れていたことや、日本やイギリス、フランスなどの列強をはじめとする外国租界が多かったため両軍が諸外国に刺激を与えることを恐れたこと、さらに「満洲某重大事件」により張作霖が暗殺されて以降、急速に関東軍の支配が強まっていたこともあり、国共内戦の影響を受けることはなかった。このため溥儀はその後も天津の日本租界、さらに協昌里の静園で婉容と文繍、鄭孝胥をはじめとする少数の側近らとともに静かに暮らしていた。
しかし、正妻の婉容との確執が深まった側室の文繍と別居の末に、1931年に離婚することとなる。このことにより溥儀は中国の歴史上初の離婚歴を持つ皇帝となった。離婚後文繍は溥儀に対して慰謝料を求めて告訴した上で、溥儀の性癖や家庭内および宮廷内の内情をマスコミに暴露し話題を呼んだ。この事を受けて文繍は離婚後すべての位を剥奪され平民となり、小学校の教師として1950年に一生を終える。
[編集] 満洲事変
1931年9月18日に、中華民国の領土内を含む中国大陸に展開する関東軍を含む日本陸軍が、中華民国の奉天郊外の柳条湖で発生した南満州鉄道の線路の爆破事件を、「張学良ら東北軍による破壊工作」と断定し(いわゆる「柳条湖事件」日本陸軍は満洲を根城にしていた張学良軍との間の戦い、いわゆる「満州事変」を開始した。
すぐさま関東軍は奉天や長春、営口などの近隣都市を占領したばかりか、その後21日に、林銑十郎中将の率いる朝鮮駐屯軍が独断で越境し満洲地域一帯に侵攻した上、関東軍は軍司令官本庄繁を押し切ったばかりか、不拡大方針を進めようとした日本政府の決定を無視して、「自衛のため」と称して戦線を拡大する。その後関東軍はわずか5ヶ月の間に全満洲地域を占領したが、張学良は蒋介石率いる中華民国政府の指示によりまとまった抵抗をせずに満洲地域から撤退し、間もなく満洲一帯は関東軍の支配下に入った。
その後関東軍は、国際世論の批判を避けるため、満洲地域に対して永続的な武力占領や植民地化ではなく、日本の影響力を残した国家の樹立を目論み、親日的な軍閥による共和国の設立などを画策した。しかしこの様な形での共和国の設立は国際連盟加盟国をはじめとする国際社会の支持を得にくいと判断したことから、国家に正当性を持たせるために清朝の皇帝で満洲民族出身であった溥儀を元首に擁くことを画策した。
[編集] 満洲国建国
この様な目論みを受けて、関東軍の特務機関長であった土肥原賢二が同年11月2日に溥儀の説得にかかった。土肥原ら関東軍による「清朝の復辟」を条件に満洲国執政への就任を同意した溥儀は、天津の「自宅」を出て湯崗子温泉を経て11月13日に営口に到着、旅順のヤマトホテルに留まった。なお溥儀が旅順へ向かった後、粛親王善耆第十四王女で、「東洋のマタ・ハリ」、「男装の麗人」と呼ばれ、当時関東軍に協力していた川島芳子が、天津に残された婉容を連れ出すことを関東軍から依頼され、実際に婉容を天津から旅順へ護送する任務を行っている。
その後、遼寧(当時は奉天省)、吉林、黒竜江省の要人が関東軍との協議を開始し、1932年2月18日に、後に満洲国の国務院総理となる張景恵を委員長とする東北行政委員会が蒋介石率いる中国国民党政府からの分離独立を宣言し、「大同」元年(1932年)3月1日に、新京に首都を置く満洲国が建国された。なおこの建国に至る協議に溥儀は参加しなかったばかりか、その内容さえも伝えられることはなかった。
[編集] 「執政」就任
満洲国の建国を受け溥儀は同年3月9日に満洲国の「執政」に就任した。この際に溥儀は、かつて皇帝であったこともあり、格下である「執政」への就任を嫌がり、あくまで皇帝への即位を主張するが、関東軍から「時期尚早」として撥ねつけられてしまう。なお、「執政」となった溥儀は、関東軍の日本人将校から、皇帝へ対する敬称である「陛下」ではなく、執政に対する呼び方である「閣下」と呼ばれ激怒したと伝えられている。
なお、溥儀が「執政」に就任した直後の3月に、国際連盟から柳条湖事件及び満洲事変と満洲国、および日本の調査のために派遣されたイギリスのヴィクター・リットン卿率いる、いわゆる「リットン調査団」が満洲国を訪問し、5月には溥儀にも調査の一環として調査団を謁見した。
[編集] 皇帝即位
その後1934年3月1日には満洲国皇帝の座に就き、康徳帝となる。なお、溥儀の皇帝即位に併せて正式国名が満洲帝国に改名され、元号も「康徳」に変更された(満洲国側によって当初は「啓運」を予定していたが、関東軍の干渉によって変更を余儀なくされた)。また、同時に紫禁城時代からの教育掛で総理内務府大臣でもあり、溥儀と日本陸軍との間を取り持った鄭孝胥が国務院総理に就任した。
なお、同日に新京市内で行われた皇帝即位式の際に溥儀は、満洲国のスローガンの1つである「日、滿、朝、蒙、漢」の「五族協調」を掲げる上で、満洲族の民族色を出すことを嫌った関東軍からの強い勧めで満洲国軍の軍服(大総帥服)着用で行われたが、溥儀の強い依頼により、新京市内の順天広場に置かれた特設会場にて、即位式に先立って即位を清朝の先祖に報告する儀式である「告天礼」が行われ、この際に溥儀は満洲族の民族衣装である龍袍を着用した。しかし同時に満洲国政府からは「これは清朝の復辟を意味しない」旨の声明が出されていた。
溥儀の皇宮は「執政」当時と同様に満洲国の首都の新京(現在の長春)中心部に置かれた。当初溥儀夫妻は内廷の緝煕楼(しゅうきろう)に住んでいたが、「皇宮とするには狭く威厳が足りない」と考えた満洲国政府により、1938年に新たに同徳殿(どうとくでん)が皇宮として建てられた。しかし、関東軍による盗聴を恐れて溥儀自身は一度も皇宮として利用しなかった。
[編集] 「傀儡」
関東軍の主導によって作られた満洲国の憲法上では、皇帝は国務院総理を始めとする大臣を任命することができたが、次官以下の官僚に対しては「日満議定書」により、関東軍が日本人を満洲国の官吏に任命、もしくは罷免する権限を持っていたので、関東軍の同意がなければ任免することができなかった。実際に、関東軍の高級将校で「御用掛」である吉岡安直や工藤忠が常に溥儀とともに行動し、その行動や発言に対し「助言」するなど、皇帝の称号こそあるにしろ、事実上日本の(というより関東軍の)「傀儡政権」であった。
また、国体に関わるような重要事項の決定には、皇帝の溥儀だけでなく関東軍の認証が必要であり、また満洲国の官職の約半分が日本人で占められ、建国当初は満洲国独自の軍隊や国籍法が存在しないことなど、関東軍の影響力は大きかった。
1937年2月には、溥儀と関東軍の植田謙吉司令官の間で「念書」が交わされ、「満洲国皇帝に男子が居ない場合、日本の天皇の叡慮によりそれを定める」とされ[3]、実際に溥儀に男子がいなかったことから、事実上溥儀の後継者は日本(関東軍)が定めることとなった。これ以降溥儀は、以前に比べて関東軍による暗殺(と溥儀の暗殺による親日本的な志向を持つ皇帝への交代)を恐れるようになって行ったと言われている。
さらに、1940年7月に溥儀が2度目の訪日を行い伊勢神宮を訪れた後には、満洲国内に「建国新廟」が作られ、神体として天照大神が祀られ満洲国の国民は東方遙拝や天照大神への崇拝が強制されることとなった。
なお、満洲国建国に際しても溥儀と一緒に満洲入りし、満洲国の初代国務院総理として溥儀を支えた鄭孝胥は「我が国はいつまでも子供ではない」と実権を握る関東軍を批判する発言を行ったことから、溥儀の皇帝即位のわずか1年後の1935年5月に辞任に追い込まれた。また、1937年に関東軍の薦めで譚玉齢と李玉琴を側室とするが、譚玉齢は1942年に死去した。なお溥儀はこの死について東京裁判において「関東軍による暗殺」と証言したが、遺族はそれを戦後否定しており、実際に単なる病死であったと証明されている。
[編集] 日本国皇室との関係
満洲国において日本(というより関東軍)との関係はこの様な状況ではあったものの、日満友好を促進する狙いと、満洲国並びに溥儀の威信を高めることを目的として、1935年4月に溥儀が昭和天皇の招待により日本を公式訪問する。両国の深い関係を表すように、溥儀が初訪日した際には昭和天皇自らが東京駅まで溥儀を迎えに行くという、日本の歴史上無い異例の歓待を行なった(同様の歓待は現在に至るまで他に行われたことがない)。
また、溥儀の訪日を記念して日本政府は記念切手を4種発行したほか、訪日中は新聞やラジオ、雑誌やニュース映画など日本中のマスコミが溥儀の行動や発言を逐一報道し、いわゆる「追っかけ」も発生するなど、溥儀自身の人柄もあいまって日本の皇室や指導者層のみならず日本国民からも高い人気を集めた。また皇太后節子は溥儀を「満州殿」と呼び、我が子のように接した他、多くの皇族が訪日した溥儀を温かく迎えた。
1940年6月に皇紀2600年記念行事が東京で行われた際にも、タイ王国や南京国民政府(汪兆銘政府)などの日本の友好国の首脳陣同様に奉祝のために再び訪日し、満洲国から横浜港に到着した際に高松宮宣仁親王の出迎えを受けた後、再度昭和天皇と会見するなど国を挙げての歓待を受けた。
なお当時の溥儀は、年齢が近い(昭和天皇の方が5歳年長)上に自分と同じ国家元首であった昭和天皇の「兄弟分」であるという気持ちが強かったとされている。また、溥儀が初来日から帰国した際には「もし満洲国皇帝に不忠であれば、それは日本天皇に不忠であり、日本天皇に不忠であれば満洲皇帝に不忠となる」と満洲国政府首脳部に対して訓示を行った他、2度目の訪日の際に伊勢神宮を訪問した際には「日満一神一崇」を表明するなど、満州国皇帝としての自らの地位を強固にする為日本国の皇室との親しい関係を表明していた。
なお溥儀は、1935年と1940年の2回の訪日ともに、この頃よりアヘン中毒などいくつかの病気が伝えられた婉容を同伴せず単独で訪日を行った。
1937年には、当時日本の陸軍士官学校を卒業し千葉県に住んでいた溥傑と、嵯峨侯爵家の令嬢で天皇家の親戚(先代侯爵嵯峨公勝の夫人仲子は、明治天皇の生母の中山慶子の実弟、忠光の娘)に当たる嵯峨浩の縁談が関東軍の主導で進められ、1938年2月6日に駐日満洲国大使館の発表で2人の結婚が内定し、同年4月3日に東京の軍人会館で挙式が行われ大きな話題を呼んだ。
[編集] 支那事変と第二次世界大戦
溥儀が皇帝に就任した4年後の1937年7月7日に、北京西南の盧溝橋で起きた盧溝橋事件を契機として日本軍と中華民国軍の間で支那事変(日中戦争)が勃発した。その後、内戦状態にあった中国国民党と中国共産党は、日本軍に対抗するための抗日民族統一戦線である国共合作(第二次国共合作)を構築した。
その後の1941年12月7日の大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦により、日本が連合国と交戦状態に入ると、満洲国も日本に併せて連合国各国に対し宣戦布告をし、事実上枢軸国の1員として第二次世界大戦に参戦することとなった。しかし、日本軍とイギリス軍やアメリカ軍、中華民国軍との戦闘地域から離れていることや、満洲国の事実上の宗主国である日本と隣国ソビエト連邦との間に日ソ中立条約が存在することから、中華民国軍や中国共産党軍によるゲリラ攻撃がたびたび行われていたものの、戦争状態にはならず平静が続いた。
1943年には溥傑が日本陸軍大学校の教官として配属されたため、溥傑とその一家は東京に居を移すこととなった。この頃日本軍は同年頭頃まで破竹の勢いを保っていたものの、事実上1国だけでイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国と対峙していたこともあり、1944年に入ると各地で次第に敗戦の色を濃くしてゆく。なお、同年溥傑は学習院に入学した長女の慧生を東京に残し、妻や次女と新京に戻った。
1945年に入ると、満洲国内の工業地帯や軍の基地などが、イギリス領インド経由で中華民国内陸部の成都基地から飛来したアメリカ軍の爆撃機などの攻撃をたびたび受けるようになってゆく。
[編集] 満洲国解体と退位
その後1945年8月8日に、先立って行われたヤルタ会議でのイギリスやアメリカなどのほかの連合国との密約により、突如ソ連政府はモスクワに終戦仲介依頼に来ていた佐藤尚武駐ソ連日本特命全権大使に対して1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約の一方的な破棄を通告し、まもなくソ連軍の大部隊が北西の外蒙古(現在のモンゴル国)及び北東の沿海州、北の孫呉方面及びハイラル方面の3方向からソ満国境を越えて、ソ連が国家として承認していなかった(日本とみなしていた)満洲国に侵攻した。
日ソ中立条約の存在に頼り1942年以降増強が中止され、主力を南方戦線にとられていた関東軍は、同年5月のドイツの敗北以降、対日侵攻に備えてヨーロッパ戦線から転進しソ満国境付近に集結していたソ連軍に対してに敗走し、溥儀やその家族、満洲国の閣僚や関東軍の上層部たちは、ソ連軍の進撃が進むと8月10日に首都の新京の放棄を決定し、8月13日に朝鮮との国境に程近い通化省臨江県の大栗子に特別列車で避難していた。
しかし、事実上1国で連合国と戦っていた日本が8月15日に連合国に対して降伏したことにより、その2日後の8月17日に国務院が満洲国の解体を決定、8月18日未明に大栗子で満洲国解体を自ら宣言するとともに満洲国皇帝を退位した。
[編集] ソ連への抑留
満洲帝国皇帝を退位した溥儀は、日本政府より日本への亡命を打診されたこともあり、 8月19日朝に満洲軍の輸送機で大栗子から奉天へ向かい、奉天の飛行場で岐阜基地からソウル、平壌経由で送られてくる日本陸軍の救援機(四式重爆撃機)を待機していた[4]。しかし同日昼に、日本陸軍の救援機の到着に先立ち奉天に進軍して来たソ連軍の空挺部隊に捕らえられた。その後溥儀や溥傑、毓嶦及び吉岡ら満洲帝国宮中一行は直ちにソ連領内に移送され、さらにソ連極東部のチタとハバロフスクの強制収容所に収監された。
婉容や嵯峨浩は溥儀や溥傑の日本への亡命に同行せず、わずかな親族や従者と共に満洲国内に取り残された。その後婉容は侵攻して来た中国共産党軍に逮捕され各地を転々連れまわされた後、吉林省延吉の監獄内でアヘン中毒の禁断症状と栄養失調のために死亡したといわれるが、詳細な死去時期や場所は今なお不明である。
[編集] 東京裁判
ソ連の強制収容所に収監された翌年の1946年に開廷した極東軍事裁判(東京裁判)には、証人として連合国側から指名され、ソ連の監視下において空路東京へ護送され、同年8月16日よりソ連側の証人としてソ連に有利な証言を強要された。その際、板垣征四郎(当時は大佐)から「本庄繁司令官の命令として満洲国における領軸になって欲しい」、という依頼があった事を証言し、「自分の立場は日本の傀儡以外何ものでもない」ことを主張した。
後に彼の信憑性が低下した要因に、溥儀は法廷において興奮することが多く、「顧問の話では、板垣はもしもこの申し出を拒絶すれば、生命の危険があると脅迫した。それで、両名と顧問の1人の羅振玉は、板垣の申し出を受諾するようにと私に勧めた」、「本当の気持ちは拒絶したかった。しかし4人の顧問は受諾を勧めた。当時、日本軍の圧迫を如何なる民主国家も阻止しなかった。私だけでは抵抗出来なかった」、「私の意志は拒絶するにあったが、武力圧迫を受け、しかも一方に顧問から生命が危険だから応諾せよと勧められて、遂にやむを得ず受諾したのだ」、「日本は満洲を植民地化し、神道による宗教侵略を行おうとした」と証言した。
それ以外にも、「私の妻は日本軍に毒殺された」と興奮しながら語り、日本軍を糾弾するとともに、満洲問題に関する責任は全て日本にあると強調した。これに対して、被告側の弁護団は、反対尋問において、満洲国建国当時の南次郎陸相に送られた、日満提携を認める「宣統帝新書」を証拠として提出して溥儀の証言内容の信憑性を追及した。溥儀の証言は、信憑性が低いとみなされ、判決文において引用されることはなかった。
後に認めた自叙伝『わが半生』では、「今日、あの時の証言を思い返すと、私は非常に残念に思う。私は、当時自分が将来祖国の処罰を受ける事を恐れ」、「自分の罪業を隠蔽し、同時に自分の罪業と関係のある歴史の真相について隠蔽した」と記している。ちなみに、東京裁判において、検察陣から直接尋問を受けた証人は溥儀のみだった。
[編集] 戦犯
その後の1950年には、ソ連と同じく連合国の1国であった中華民国ではなく、国共内戦にソ連の援助を受けて勝利した中国共産党によって前年に中国大陸に建国された中華人民共和国の中国共産党政府へ身柄を移された。
その後、裁判で裁かれる事すらないままに、第二次世界大戦当時には存在すらしていなかった同国の「戦犯」として、撫順の政治犯収容所(「戦犯管理所」と称される)に弟の溥傑や同じくソ連軍にとらえられた満洲国の閣僚や軍の上層部61人、さらに1000人を超える日本軍の捕虜らとともに収監され、「再教育(中国共産党による共産主義の洗脳教育)」を受けることとなった。その後同年10月にハルビンの政治犯収容所に移動させられ、1954年には再び撫順の政治犯収容所に移動させられた。なお収監中の溥儀は「模範囚」と言われるような礼儀正しい言動を行っていたと伝えられている。
[編集] 一市民へ
1959年12月4日に、当時の劉少奇国家主席の出した「戦争犯罪人」に対する特赦令を受け、12月9日に模範囚として特赦された。なお、溥儀とともに収容所に収監されていた溥傑も1960年11月20日に釈放された。
釈放後の1960年1月26日に、溥儀が政治犯収容所に収監されている際も溥儀に対して何かと便宜を図っていた周恩来首相と中南海で会談し、釈放後の将来について話し合った結果、周恩来の薦めで中国科学院が運営する北京植物園での庭師としての勤務を行うこととなった[5]なおその後の1962年には看護婦をしていた一般人の李淑賢と再婚したものの、彼女は強妻であり、溥儀は恐妻家となった[6]。
[編集] 政治協商会議全国委員
1964年には、政協第4期全国政治協商会議文史研究委員会専門委員になり文史資料研究を行う傍ら、多民族国家となった中華人民共和国内において、満洲族と漢族の民族間の調和を目指す周恩来の計らいで、満洲族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出された。
なお、毛沢東や多くの中国共産党幹部らと違って教育程度が高く、しかも文化程度の高い家柄の出身であった周恩来は、清朝皇帝であった溥儀に対して常に同情的だったと言われている。
[編集] 死去
しかしその後、1960年代半ばに発生した中国共産党内部の権力闘争に端を発する「文化大革命」の波が中華人民共和国全土を吹き荒れる中、癌の治療を「元皇帝である」との理由で受けられなかったことにより、1967年に北京の病院で死去した。
死ぬ間際には、晩年に好物となった「日本のチキンラーメンを食べたい」と言っていたことが弟、溥傑の夫人である浩の伝記」[7]により伝えられている。清朝皇帝という「反革命的」な出自であったことから「文化大革命により粛清された」という説も存在しており、実際に末期症状により病院に搬送されたものの、「反革命」とのレッテルを紅衛兵たちに張られることを恐れた医師らが、積極的に溥儀の治療行為を行わなかったという証言もある。
[編集] 死後
墓は北京郊外の八宝山墓地に埋葬されたが、後年、溥儀は生前「皇帝であったことを誇りに思っていた」と李淑賢夫人の証言が明らかになると、改革開放の時代の空気と相俟って、1995年に「皇帝」として改葬することになった。現在の墓所は北京郊外の易県にある、清朝の歴代皇帝の陵墓のある清西陵の近くの「華龍皇園」に新たに「献陵」という陵墓が作られた。
それに関連して2004年に「愍皇帝」の謚号と「恭宗」の廟号が贈られた。ただし、これらは公式に認められたものではなく、愛新覚羅家の遺族などの関係者から承認されているものではない。改葬に関しても愛新覚羅家の遺族からの反対も受けている。
[編集] 家族
正妻である婉容と側室である文繍と1922年に結婚するが、後に文繍と離婚、その後アヘン中毒になった婉容とも満洲国崩壊を受け逃亡する中生き別れになる。なお、満洲国時代に北京出身の譚玉齢(他他拉氏、祥貴人)、長春出身の李玉琴(福貴人)を側室として迎えたが、それぞれ死別、離婚している。
1959年に特赦された後、1962年に看護婦をしていた李淑賢(1924年 - 1996年)と再婚し、その後の生涯を沿い遂げることになる。しかし生涯で子はもうけていない。また、宮中の召使いの少年を寵愛するなど、同性愛傾向があったとも言われている。
[編集] 自伝
『我が半生』(原題:我的前半生、英語題:The former half of my life)は、唯一の自伝である。執筆は、1957年後半から1年余りをかけて、20万字の初稿を完成させた。その後内容のいくつかの部分において専門家の意見が分かれるなどし、第一稿、第二稿が作られたのち、最終的に1964年3月に正式出版された。日本でも翻訳本が出版されている。また、残された日記の断片が『溥儀日記』として出版されている。
2007年、同書が中華人民共和国において大幅に加筆した完全版として出版されることとなった。極東国際軍事裁判での偽証を謝罪し、日本軍と満洲国との連絡役を務めた関東軍将校の吉岡安直に罪を擦り付けたと後に反省したことなど、1964年版当時に削除された16万字近い部分が今回盛り込まれている。
中華人民共和国国内での報道によると、今回1964年版前の第一稿、二稿から、序言≪中国人的骄傲(中国人の誇り)≫、第六章《伪满十四年》的第一节≪“同时上演的另一台戏——摘录一个参与者的记述”(第6章「満州国14年」の第1節“もう一人を同時に演じる ― 一参加者の記述より引用する”)≫、第七章《在苏联的五年》的第四节≪“远东国际军事法庭”(第7章「ソ連の5年」の第4節 “極東国際軍事法廷”)≫、第十章《一切都在变》的第四节≪“离婚”(第10章「新しい一章」の第4節“離婚”)≫、などを含んでいる。
溥儀には継承者がおらず死去した際に遺言書がなかったため、版元の群衆出版社から北京市の西城裁判所へ、同書を「相続人のない財産」とする認定請求を提出した。
[編集] 愛新覚羅溥儀を題材にした諸作品
- 映画
-
- 『悲劇の皇后 ラストエンプレス』(1985年、中華人民共和国・香港合作)
- 溥儀役:姜文
- 溥儀の皇后婉容を主人公として、満州国時代を描いている。
- 『ラストエンペラー』(1987年、イタリア・中華人民共和国・イギリス合作)
- 溥儀役:ジョン・ローン
- ベルナルド・ベルトルッチ監督。1987年度のアカデミー賞で、ノミネートされた9部門(作品賞、監督賞、撮影賞、脚色賞、編集賞、録音賞、衣裳デザイン賞、美術賞、作曲賞)全ての受賞を達成した。この映画は、幾つかの脚色された要素を含んでいる。
- 『火龍』(1987年 中華人民共和国・香港合作)
- 溥儀役:レオン・カーフェイ
- 収容所から出所してから病院で亡くなるまでの溥儀と再婚した李淑賢夫人との生活を描いている。
- テレビドラマ
- 宝塚歌劇
-
- 『紫禁城の落日』
- 書籍
-
- 『皇帝溥儀:私は日本を裏切ったか』(1952年、世界社 ISBN B000JBBCCK、絶版)
- 実際に溥儀に仕え信任厚かった工藤忠による回想録、歴史的価値が高い。
- 漫画
-
- 『その時歴史が動いた コミック版 世界英雄編』(2005年1月、ホーム社 ISBN 978-4-8342-7321-2)
- 『ラストエンペラー最後の日「満州国」と皇帝・溥儀』を収録。作画は狩那匠
- TV番組「そのとき歴史が動いた」2002年1月16日に放送したものをコミック化したもの。
[編集] 脚注
[編集] 参考図書
- 李淑賢 『わが夫、溥儀―ラストエンペラーの妻となって』(王慶祥編、林国本訳 学生社、1997年)ISBN 978-4-311-60326-6
- 入江曜子 『溥儀―清朝最後の皇帝』(岩波新書、2006年)ISBN 978-4-00-431027-3
- 賈英華 『愛新覚羅溥儀最後の人生』(日中文化学院監訳、時事通信社 1995年)
- 賈英華 『最後の宦官秘聞 ラストエンペラー溥儀に仕えて』(林芳/NHK出版監訳、日本放送出版協会 2002年)
- 凌海成/著 『最後の宦官 溥儀に仕えた波乱の生涯』(斌華/衛東共訳、旺文社 1988年、河出文庫 1994年)
- 王慶祥 『溥儀・戦犯から死まで 最後の皇帝溥儀の波瀾にみちた後半生』(王象一/徐耀庭共訳 学生社 1995年)
- 秦国経編著 『溥儀 1912‐1924 紫禁城の廃帝』(宇野直人/後藤淳一共訳 東方書店 1991年)
- レジナルド・ジョンストン 『紫禁城の黄昏―完訳』(祥伝社上下、2005年)(ISBN 978-4-396-65032-2ほか) 同文庫、2008年
- レジナルド・ジョンストン 『新訳 紫禁城の黄昏』(本の風景社、2007年)ISBN 978-4-939154-04-1
- 波多野勝 『昭和天皇とラストエンペラー 溥儀と満州国の真実』(草思社、2007年)
- 太平洋戦争研究会 『秘録東京裁判の100人』(ビジネス社、2007年)ISBN 978-4-8284-1337-2
- 『A級戦犯―戦勝国は日本をいかに裁いたか』(新人物往来社、2005年)ISBN 978-4-404-03323-9 (4-404-03323-0)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
|
|
|
|
|
|
|
|
|

