石見 (戦艦)

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Iwami1907Kure.jpg
竣工当時の
「石見」
艦歴
発注 サンクトペテルブルク海軍造船所
起工 1887年1月20日
進水 1888年7月19日
就役 1888年7月19日
除籍
その後 1899年11月2日に座礁沈没。
クラス名 ボロジノ級戦艦
所属 Naval Ensign of Russia.svg ロシア海軍


Naval Ensign of Japan.svg 大日本帝国海軍

性能諸元
排水量 常備:13,516トン
全長 121.0m
垂線長 114.6m
全幅 23.16m
吃水 7.96m
機関 ベルヴィール式石炭専焼水管缶20基
+直立型三段膨張式四気筒レシプロ機関2基2軸推進
最大出力 16,500hp
航続距離 10ノット/8,500海里
燃料 石炭:2000トン(満載)
最大速力 18.0ノット
乗員 350名
兵装 30.5cm(40口径)連装砲2基
20.3cm(45口径)単装速射砲6基
7.6cm(40口径)単装速射砲6基
山内式 4.7cm(40口径)単装速射砲2基
45cm水中魚雷発射管単装2基
装甲 クルップ鋼とニッケル・クローム鋼(甲板のみ)
舷側:194mm(機関部のみ)、165mm(弾薬庫部)、145mm(艦首・艦尾)、38mm(水雷壁)
水密隔壁:229mm(前面)、203mm(後面)
甲板:51mm(主甲板)、38mm(下甲板)
主砲塔:254mm(前盾・側盾)、63mm(天蓋)
バーベット:229mm(最厚部)
副砲:127mm(前盾・側盾)、25.4mm(天蓋)、127mm(基部)
司令塔:203mm(側盾)、37mm(天蓋)

石見(いわみ)は、かつて大日本帝国海軍に所属した前弩級戦艦である。艦名は現島根県西部にあった日本の旧国名石見国」に由来する。

概要[編集]

鹵獲後に舞鶴港内で撮られた本艦の写真。

本艦の前身はロシア帝国海軍ボロジノ級戦艦オリョール(Орёл)」で、同国海軍の最新・最大の主力艦であった。バルチック艦隊の主力として日本海海戦に参加したが大破の末に降伏、日本海軍に鹵獲された。鹵獲時の本艦の浸水は酷く、日本海軍は1905年5月30日に舞鶴海軍工廠へ回航させて応急修理を行いつつ本艦を6月に一等戦艦「石見」と改名した。その後、7月末から1907年11月にかけて呉海軍工廠で本格的な大修理と戦訓に基づいた改装を行い、1908年11月に艦隊へ編入させた艦である。

艦形[編集]

竣工時の「オリョール」時代の本艦

原設計であるボロジノ級戦艦はトップヘビーで復原性に問題が起き、重量増加に伴う船体の沈下により水線部分の装甲帯が海中に没するという欠陥があったため、それを改善する改良と、海戦で得られた戦訓に伴う改装も併せて行われることになった。外観上の変化としては乾舷形状の変更や上部構造物の簡略化、重量を食う副砲塔の撤去、船体側面下部にあったケースメイト(砲郭)式速射砲の撤去などがある。重心の低下と重量の軽減により吃水を設計時のものまで回復させ、復原性能と防御性能を向上させた。

本級の船体形状は乾舷の高い長船首楼型船体である。元々は「ツェサレーヴィチ」と同様の強く引き絞られた特徴的なタンブル・ホーム型船体となっていたが、改装でその特徴はほぼ無くなっている。

改装後の一等戦艦「石見」時代の本艦

ほぼ垂直に切り立った艦首から艦首甲板に30.5cm連装主砲塔が1基、その背後に司令塔の上に載る、両脇に船橋(ブリッジ)を持つ操舵艦橋の背後から簡素な単脚式の前部マストが立つ。船体中央部にはイギリス式の2本煙突が立ち、その周囲は艦載艇置き場となっており、2本1組のボート・ダビッドが片舷3組ずつ計6組と後部マストの基部に付いたクレーン1基により運用された。後部マストの後方に後部艦橋が設けられた所で船首楼が終了し、甲板一段分下がった後部甲板上に後部30.5cm連装主砲塔が後向きに1基配置された。

船首楼側面に在った副砲塔の跡地には副武装として20.3cm速射砲を防盾の付いた単装砲架で、舷側ケースメイト(砲郭)配置で等間隔に片舷3基ずつ計6基を配置した。前後のもの4基は下方に位置が変更されている。対水雷艇用の7.6cm速射砲を単装砲架で艦首側面部に片舷1基ずつ計2基と、艦上片舷2基ずつ計4基を分散配置した。他に艦尾側面に4.7cm速射砲を片舷1基ずつ計2基を配置した。

この配置により艦首尾線方向に最大30.5cm砲2門・20.3cm砲2門が指向でき、左右方向には最大で30.5cm砲4門・20.3cm砲3門、7.6cm速射砲3門、4.7cm速射砲1門が指向できた。就役後に主砲塔上に7.6cm速射砲を1基ずつ計2基と前部マスト頂上部に射撃観測所を設けた。

武装[編集]

ボロジノ級の武装・装甲配置を示した図、石見の名もあるが改装は反映されていない

武装は15.2cm連装砲塔6基は防盾付き20.3センチ単装砲架6基に、7.5cm単装速射砲20基は数を減らし7.6cm単装速射砲6基に、主砲塔側面舷側部に片舷1基ずつあった水中魚雷発射管口径を38.1cmから45cmに変更し、艦首と艦尾部の水上魚雷発射管は廃止した。これらの改装で本艦は準弩級戦艦に近い能力を得た。

主砲[編集]

主砲は変更が行われずロシア式の「30.5cm(40口径)砲」のままであった。その性能は331.7kgの砲弾を、仰角15度で14,640mまで届かせられ、射程5,490mで201mmの舷側装甲を貫通できた。この砲を新設計の連装砲塔に収めた。俯仰能力は仰角15度、俯角5度である。旋回角度は単体首尾線方向を0度として左右135度の旋回角度を持つ、主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に蒸気ポンプ動力による水圧で行われ、揚弾機は電力で共に補助に人力を必要とした。発射速度は毎分1発の設計であった。

その他の備砲・水雷兵装[編集]

副砲には当時の日本海軍の防護巡洋艦高砂」や装甲巡洋艦の主砲に広く用いられていた「アームストロング 20.3cm(45口径)速射砲」を採用した。その性能は113.4kgの砲弾を、最大仰角30度で18,000mまで届かせられた。この砲を単装砲架で6基を搭載した。俯仰能力は仰角30度・俯角5度である。旋回角度は150度の旋回角度を持つ、砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に水圧で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は1分間に2発であった。

他に対水雷艇迎撃用にアームストロング社の7.6cm速射砲をライセンス生産した「四一式 7.6cm(40口径)速射砲」を採用した。その性能は1.5kgの砲弾を仰角40度で10,740mまで届かせられた。この砲を単装砲架で6基を搭載した。俯仰能力は仰角30度・俯角10度で旋回角度は360度であったが実際は上部構造物により射界に制限を受けた。砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に人力を必要とした。発射速度は毎分15発であった。その他に近接火器として山内式 4.7cm(40口径)速射砲を単装砲架で2基を搭載した。対艦攻撃用に45cm水中魚雷発射管を艦首の側面に片舷1門ずつ計2門装備した。

艦歴[編集]

ボロジノ級戦艦の3番艦として起工され竣工後すぐに第2太平洋艦隊(日本側の通称ではバルチック艦隊)に編入される。日本海海戦に参戦し1905年5月28日に大破状態で降伏した。他の鹵獲艦は佐世保港に回航されるが、損傷の激しい本艦のみが舞鶴港に回航され応急修理が施されることになった。6月6日付けで日本艦隊に編入され、「石見」と命名し一等戦艦に類別されたが12月12日には等級が廃止され戦艦となった。本艦の守護神として島根県大田市にある物部神社 (大田市)から宇摩志麻遅命の神像が奉られていた。この神像は後に物部神社へ奉納された。

1912年8月28日、一等海防艦に類別変更。第一次世界大戦では同盟国のロシアへ返還されず、青島攻略戦に参加した。シベリア出兵に際しては、1918年から1920年まで沿海州警備。1920年から1921年までカムチャツカ警備に従事した。

1922年9月1日に除籍され、1923年5月9日に武装撤去後に雑役船に編入され標的船に指定され魚雷攻撃の的となった。1924年7月に廃船となり、その後、横須賀及び三浦半島城ヶ島西方で5日から9日にかけて航空爆撃実験標的となり、7月10日に撃沈処分された。

なお、主砲の30.5cm砲身が京都府与謝野町(旧岩滝町)に残されている(外部リンク参照)。

艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 福井正義 大佐:1907年5月17日 - 1908年4月2日
  • 加藤定吉 大佐:1908年4月2日 - 5月15日
  • 石橋甫 大佐:1908年5月15日 - 1909年1月25日
  • 西山実親 大佐:1909年1月25日 - 12月1日
  • 山口九十郎 大佐:1909年12月1日 - 1910年6月22日
  • 花房祐四郎 大佐:1910年6月22日 - 1911年12月1日
  • 磯部謙 大佐:1912年5月22日 - 12月1日
  • 川浪安勝 大佐:1912年12月1日 - 1913年3月7日
  • 高島万太郎 大佐:1913年3月7日 - 10月14日
  • 小林恵吉郎 大佐:1913年10月14日 -
  • 丸橋彦三郎 大佐:1914年12月1日 - 1915年4月1日
  • 白石直介 大佐:1915年6月30日 - 8月3日
  • 阪本則俊 大佐:1915年2月1日 - 12月13日
  • (兼)中川繁丑 大佐:1915年12月13日 - 1916年2月25日
  • (兼)本田親民 大佐:1916年2月25日 - 3月15日
  • 関重孝 大佐:1916年4月11日 - 12月1日
  • 森本義寛 大佐:1916年12月1日 - 1917年2月13日
  • 海老原啓一 大佐:1917年10月1日 - 1918年11月10日
  • (兼)糸川成太郎 大佐:1918年12月1日[1] -
  • (兼)正木義太 大佐:1919年4月18日 - 1920年8月12日
  • 白根熊三 大佐:1920年8月12日 - 1921年9月20日
  • 丸橋清一郎 大佐:1921年9月20日[2] -

脚注[編集]

  1. ^ 『官報』第1900号、大正7年12月3日。
  2. ^ 『官報』第2743号、大正10年9月21日。

参考文献[編集]

  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 官報

関連項目[編集]

外部リンク[編集]