千代田 (防護巡洋艦)

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Japanese cruiser Chiyoda 2.jpg
艦級概観
艦種 防護巡洋艦
艦名 城名
前級 畝傍型
次級 松島型
艦歴
発注 1888年にトムソン社グラスゴー造船所
起工 1888年12月4日
進水 1890年6月3日
就役 1891年1月1日
除籍 1924年12月1日雑役船に編入
その後 1927年2月28日に廃船
性能諸元
排水量 常備:2,439トン
全長 92.0m
全幅 13.0m
吃水 4.2m
機関 形式不明石炭専焼円缶6基(1898年にベルヴィール式石炭専焼水管缶12基に換装)
+直立型三段膨張式三気筒レシプロ機関2基2軸推進
最大出力 5,678hp
最大速力 19.0ノット
燃料 石炭:427トン
乗員 350名
兵装 アームストロング 12cm(40口径)単装速射砲10基
オチキス 4.7cm(43口径)単装機砲14基
ノルデンフェルト式11mm10連装機銃3基
35.6cm魚雷発射管3門
装甲 クローム鋼
装甲帯:82mm~92mm
甲板:30mm~35mm
司令塔:30mm

千代田(ちよだ)は、日本海軍防護巡洋艦で同型艦はない。

概要[編集]

本艦はフランスで竣工された防護巡洋艦「畝傍」が日本への回航中に行方不明となったために同艦の保険金を原資に代艦として日本海軍からの要求仕様を基にルイ=エミール・ベルタンの設計でイギリスのトムソン社グラスゴー造船所で建造された。

艦形[編集]

本艦は舷側装甲を持つことから「日本初の装甲巡洋艦」として扱われることもあるが、その装甲範囲は水線部に状の狭い代物でイギリス海軍の「ネルソン級」と同じくBelted cruiser:装甲帯巡洋艦、帯甲巡洋艦の系譜である。また、この頃から備砲をクルップ砲からアームストロング系列に切り替え始めたエポックメイキングな艦であった。

艦の構造を前部から記述すると、水面下に衝角の付き、水線部に35.6cm水中魚雷発射管1門の付く艦首、艦首甲板上に主砲の12cm速射砲は防盾の付いた単装砲架で1基、頂上部に見張り所を持つ単脚式の前部マストが立つ。その背後に両脇に船橋(ブリッジ)を持つ操舵艦橋が配置され、船体中央部に1本煙突が立つ。その周囲には煙管型の通風塔が立ち並び、空いた場所は艦載艇置き場となっており、艦載艇は2本1組のボート・ダビットが片舷4組で計8組により運用された。煙突の後方に中央マストが一本立ちその左右の舷側に大小さまざまな張り出しが設けられ、そこに12cm速射砲を片舷4基を配置し、挟み込まれるようにその間に4.7cm速射砲を3基配置した。後部甲板上に後部マストと12cm速射砲が後ろ向きに1基が配置された。

艦歴[編集]

1888年、イギリスグラスゴーのトムソン社で起工、1891年に竣工。1890年8月23日、第一種と定められた。日本に回航され、1891年4月11日、横須賀に到着した。

日清戦争では、黄海海戦大連旅順威海衛澎湖島攻略作戦等に参加。1897年から翌年にかけて、呉造船廠で主罐をベルヴィール式石炭専焼水管缶に換装した。

1898年3月21日、三等巡洋艦に類別。

1898年米西戦争により邦人保護のためマニラに派遣、義和団の乱では1900年10月から12月にかけて大沽芝罘方面に派遣された。

日露戦争に際しては、仁川沖海戦旅順攻略作戦日本海海戦樺太作戦等に参加。1904年7月26日、旅順砲撃中に小平島沖で触雷して損傷し、9月から翌月にかけ横須賀工廠で修理を行った。

1912年8月28日、二等海防艦に類別変更。

第一次世界大戦では、青島攻略戦に参加。さらにマニラへ派遣され、中国沿岸水域の警備に従事した。

1919年6月から翌年3月にかけて呉工廠で潜水母艦に改造され、1921年4月30日、水雷母艦に類別。翌年4月1日、特務艇に編入され潜水母艦に類別された。

1924年12月1日に除籍され雑役船に編入し、練習船に指定され、海軍兵学校附属となった。

1927年2月28日に廃船となり、8月5日豊後水道で爆撃演習の実艦的となり撃沈処分された。

その後撃沈される前に取り外した千代田の艦橋は海軍兵学校の号令台として使われていたが、敗戦後撤去された。

艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

回航委員長
艦長
  • 新井有貫 大佐:1890年1月10日 - 1891年6月17日
  • 千住成貞 大佐:1891年6月17日 - 1892年9月5日
  • 有栖川宮威仁親王 大佐:1892年9月5日 - 1893年10月12日
  • 尾本知道 大佐:1893年10月12日 - 1894年2月26日
  • 内田正敏 大佐:1894年2月26日 - 1895年9月28日
  • 伊藤常作 大佐:1895年9月28日 - 1897年5月15日
  • 外記康昌 大佐:1898年5月3日 - 1899年5月1日
  • 井上敏夫 大佐:1899年5月1日 - 9月29日
  • 成川揆 大佐:1899年9月29日 - 1900年6月7日
  • 松本有信 大佐:1900年6月7日 - 1901年2月4日
  • 坂本一 大佐:1901年2月4日 - 10月1日
  • 毛利一兵衛 大佐:1903年4月12日 - 7月7日
  • 村上格一 中佐:1903年7月7日 - 1905年1月12日
  • 東伏見宮依仁親王 大佐:1905年1月12日 - 12月20日
  • 山本正勝 中佐:1905年12月20日 - 1906年10月4日
  • 築山清智 大佐:1906年10月4日 - 1907年5月2日
  • 森亘 大佐:1907年5月2日 - 1908年2月20日
  • 大沢喜七郎 大佐:1908年2月20日 - 9月25日
  • 山中柴吉 大佐:1908年9月25日 - 1909年3月10日
  • (兼)兼子昱 中佐:1909年3月10日 - 5月22日
  • 釜屋六郎 中佐:1909年5月22日 - 12月1日
  • 磯部謙 中佐:1909年12月1日 - 1911年10月25日
  • 桜野光正 中佐:1911年10月25日 - 1911年11月27日
  • 町田駒次郎 大佐:1911年11月27日 - 12月22日
  • 永田泰次郎 大佐:1911年12月22日 - 1912年6月18日
  • 山岡豊一 大佐:1912年6月18日 - 12月1日
  • 久保来復 大佐:1912年12月1日 - 1913年11月5日
  • 長鋪次郎 中佐:1913年11月5日 - 1914年5月6日[1]
  • 堀田弟四郎 大佐:1914年5月27日 -
  • 島内桓太 中佐:1914年8月23日 - 12月1日
  • 山下義章 大佐:不詳 - 1915年12月13日
  • 小牧自然 中佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
  • 中川寛 中佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日[2]
  • 上田吉次 大佐:1917年12月1日 - 1918年12月1日
  • 藤村昌吉 大佐:1918年12月1日[3] - 1919年12月1日[4]
  • 石渡武章 大佐:1919年12月1日[4] - 1920年6月1日[5]
  • 加藤弘三 中佐:1920年6月1日[5] - 1920年12月1日[6]
  • 水谷耕喜 大佐:1920年12月1日[6] -

脚注[編集]

  1. ^ 『官報』第530号、大正3年5月7日。
  2. ^ 『官報』第1601号、大正6年12月3日。
  3. ^ 『官報』第1900号、大正7年12月3日。
  4. ^ a b 『官報』第2199号、大正8年12月2日。
  5. ^ a b 『官報』第2349号、大正9年6月2日。
  6. ^ a b 『官報』第2501号、大正9年12月2日。

関連項目[編集]

参考資料[編集]

  • 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集・巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。
  • 世界の艦船 2012年1月号増刊 日本巡洋艦史」(海人社
  • 「世界の艦船増刊第46集 イギリス巡洋艦史」(海人社)
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 「Conway All The World's Fightingships 1860-1905」(Conway)
  • 「Conway All The World's Fightingships 1906–1921」(Conway)
  • 官報