常磐 (装甲巡洋艦)

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常磐
艦歴
発注
起工 1897年1月6日
進水 1898年7月6日
就役 1899年5月18日
その後 1945年8月9日に損傷の後、8月15日に擱座[1]
除籍 1945年11月30日
性能諸元(竣工時)
排水量 常備:9,700トン
全長 134.72m(垂線間長 124.36m)
全幅 20.45m
吃水 7.43 m
機関 円缶12基
直立型三段膨張式四気筒レシプロ機関2基2軸推進 18,000hp
最大速 21.5ノット
航続距離 7,000海里(10ノット時)
兵員 726名
装甲 主水線帯 88-180ミリメートル
上部水線帯 125ミリメートル
甲板 50ミリメートル
兵装 20.3cm砲4門
15.2cm砲14門
45.7cm水上魚雷発射管単装1基
45.7cm水中魚雷発射管単装4基

常磐(ときわ/ときは)は、大日本帝国海軍装甲巡洋艦浅間型装甲巡洋艦の2番艦。フィリップ・ワッツの設計によるもので[2]イギリスアームストロング・ホイットワースが、売却用に見込み生産していたものを購入したものである。

概要[編集]

装甲巡洋艦・海防艦[編集]

「常磐」は「浅間」に続いて、イギリス・アームストロングで建造された。1897年1月6日にアームストロングで起工し、1898年(明治31年)7月6日進水。1899年(明治32年)5月18日に竣工。同月19日、日本に回航され[3]、1899年7月17日に横須賀に到着した。1904年(明治37年)からの日露戦争では上村彦之丞中将率いる第二艦隊第二戦隊に属して参戦。旅順港攻撃蔚山沖海戦日本海海戦に参加して、日本海軍装甲巡洋艦隊の威力の一端を示した[4]第一次世界大戦では青島方面へ出動した他、ドイツ東洋艦隊マクシミリアン・フォン・シュペー伯爵)捜索のためハワイ方面に足を伸ばした[4]。大戦終結後は練習艦任務にも就き、1921年(大正10年)9月1日に一等海防艦となる。

敷設艦[編集]

大正時代において、日本海軍の敷設艦は新造敷設艦の「勝力」と、巡洋艦改装の「津軽」および「阿蘇」の三隻を有していたが、「津軽」の老朽化が著しいため、「常磐」は「津軽」の代艦として、1922年(大正11年)から1923年(大正12年)にかけて海防艦から敷設艦に改装され、後部主砲と副砲の一部、魚雷発射管などを撤去して機雷500個を搭載した[5]1926年(大正15年)には、機雷の連続敷設が可能なように、さらに改修された[6]

敷設艦としての要目(改装時)は以下の通り。

  • 基準排水量 : 9,264t
  • 水線長 : 126.36m
  • 全幅 : 20.45m
  • 吃水 : 7.74m
  • 主缶 : 宮原式缶12基(後に艦本式ロ号缶8基)
  • 主機 : 直立型三段膨張式四気筒レシプロ機関2基2軸 18,248馬力
  • 速力 : 21.0kt
  • 航続距離 : 不明
  • 燃料 : 石炭 1,383t
  • 乗員 : 609名
兵装(改装時) :
    • 20cm連装砲1基2門
    • 15cm単装砲8門
    • 8cm単装高角砲1門
    • 五号機雷500個

機雷爆発事故[編集]

「津軽」が廃艦ののち、「常磐」は連合艦隊付属となって敷設訓練などに活動した[6]1927年(昭和2年)に入り、「常磐」は山東出兵支援のため青島警備の任務に就き、帰国後落ち着く暇もなく佐伯湾での艦隊訓練に協力することとなった。この時佐伯湾で訓練を行っていたのは第一水雷戦隊であったが、旗艦の軽巡洋艦龍田」は機関故障により修理に入ったため、「常磐」が臨時旗艦となって訓練に参加することとなったのである[6]

8月1日、この日は朝から機雷敷設訓練が実施された。従前どおりならば、訓練では模擬機雷を使用して訓練を行っていたのだが、ワシントン海軍軍縮条約締結以降、劣勢の量を質で補おうと、連合艦隊司令長官加藤寛治大将の肝いりもあり[7]、実装備の兵器を使用して実戦に似せた訓練を強化することとなった[6]。機雷担当班は6班[6]ないし15班[7]に分かれ、一班あたり3個[6]から4個[7]の実装機雷が配分された。訓練は8時14分に中甲板において開始され[6]、各班は順調に作業をこなしていったかに見えたが、第一班と第三班の作業は絶縁不良などのミスにより上手く捗らなかった。訓練審査委員が集まって協議した結果、ミスのなかった実装機雷は炸薬を抜いて火薬庫に戻すこととし[7]、故障のあった3個の実装機雷は、それぞれを適当な距離に離した上で故障の発見に努めることとなった[8]。やがて、故障の復旧が一応なったとして訓練が再開された[7]

9時39分[9]、件の3個の実装機雷の1個が突然爆発し、2分から3分毎に残る2個も爆発を起こした。周囲の委員や乗員は爆発でその姿を消し、現場の中甲板から火災が発生した。また、爆風は上方あるいは下方へ突き抜け、下方へのものは防御甲板に達した[8]。この時、ミスのなかった実装機雷は、すべてが炸薬を抜ききっておらず、すでに抜いた炸薬は誘爆を防ぐため海中に投棄された[8]。「常磐」は火薬庫に注水の上、周囲艦船の協力の下に消火に努め、火災は1時間ほどで消火された[8]。その後の艦内点検の結果、自力航行可能と判断され、旗艦任務から外された上で修理のため佐世保に向かった[8]

この事故により「常磐」は35名の死者と68名の重軽傷者を出した。事故の詳しい原因は、当事者も現物も爆発で四散したため仔細は不明のままだが[7][8]、絶縁不良の状態のまま、何らかの理由により信管に電流が流れたものと推定された[8]。また、五号機雷の信管系統の仕組み自体に問題があると判断され[8]、五号機雷は安全装置が内包された構造に改められた上で五号機雷改一として改修された[8]

一方で「常磐」の事故は日本の重巡洋艦の兵装にも影響を与えた。折りしも高雄型重巡洋艦が起工直前であり、また、すでに就役中または竣工間近の古鷹型重巡洋艦青葉型重巡洋艦および妙高型重巡洋艦では、61cm連装魚雷発射管6基12門を中甲板に設置していた[10]。しかし、被弾した際に大損害を蒙る可能性が大きかったので、軍令部ではその対策の研究が重ねられていた所だった。「常磐」の事故をきっかけに、高雄型では魚雷兵装が61cm連装水上魚雷発射管4基8門にトーンダウンし、設置場所も中甲板から露天甲板に変更された[10]。また妙高型の魚雷兵装も高雄型に準じて改修され[10]、同時に次発装てん装置の設置や魚雷格納庫の防御強化が進められた[11]

事故後の「常磐」は、以後約10年間の大半の期間を中国大陸方面の在外警備艦や予備艦としてすごした。

南洋諸島[編集]

1937年(昭和12年)頃になると、ロンドン海軍軍縮会議を脱退した日本は、南洋諸島の軍事要塞化を推し進め始めていた。1940年(昭和15年)5月、現役に復帰して第四艦隊に属していた「常磐」は軽巡洋艦多摩」とともに第十八戦隊を編成し、同年後半期に行われた訓練では、「常磐」はパラオトラックおよびジャルート環礁において実地訓練を行った[12]。同年11月15日には第十九戦隊に異動。日米間の緊張が最高潮に達した1941年(昭和16年)11月末から12月初めにかけて、マーシャル方面防備部隊に編入された「常磐」は、エニウェトク環礁ビキニ環礁の入り口に防御機雷を敷設して有事に備えた[13]

太平洋戦争開戦時、「常磐」はクェゼリン環礁に停泊しており[14]、しばらくはクェゼリン環礁で待機していた。アメリカ軍は1942年に入ると、南方作戦の牽制とアメリカの士気の上昇を企図して、真珠湾攻撃から逃れて無傷だった空母群を最大限活用して日本側に手痛い反撃を与えようと活発に動き始めた。1942年(昭和17年)2月1日、空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) を基幹とする、ウィリアム・ハルゼー中将率いる第8任務部隊[15]がクェゼリン環礁とマロエラップ環礁に対して攻撃を仕掛けてきた(マーシャル・ギルバート諸島機動空襲[16]。この攻撃で第六根拠地隊司令官八代祐吉少将が戦死し、指揮系統に空白ができた。8時40分、「常磐」艦長・富澤不二彦大佐は、「本職「マーシャル」方面防備部隊ノ指揮ヲ執ル」と打電。しかしこの時、第六通信隊司令・牛尾藤雅大佐も同内容の緊急電報を打電しており、マーシャル方面防備部隊司令官が二人出現する事態となった[17]。間もなく南洋部隊の差配により、牛尾司令がマーシャル方面防備部隊司令官となり、「常磐」は防備部隊の作戦に協力することとなった[17]。第8任務部隊機の空襲により、「常磐」は小破の被害を蒙って、8名の戦死者と10名の負傷者を出した[18]。「常磐」は修理のため3月11日にクェゼリン環礁を出港し、3月24日に佐世保に到着して修理に入った。

修理の後、「常磐」は水船を曳航して佐世保を出港し、5月26日にトラックに到着[19]。6月6日付でマーシャル方面防備部隊に再び編入され、6月11日にはクェゼリン環礁に到着して、マーシャル方面での行動を再開した[19]。8月17日から18日にかけてのマキン奇襲に対して増援部隊を送るためにクェゼリンとジャルート環礁イミエジの間を往復した後は、再びクェゼリン環礁で待機の日々が続いた。1943年(昭和18年)5月1日、「常磐」は第五艦隊に編入された。常磐は5月5日にトラック行きの輸送船団に加わってクェゼリン環礁を出港し、5月9日に到着[20]。次いで海防艦「隠岐」が護衛する4526船団に加入して横須賀に向かい[21]、6月5日に横須賀に到着した。

日本近海[編集]

擱座した常磐(1945年9月28日撮影[22]

帰国した「常磐」は第五十二根拠地隊に配属され、大湊を新しい根拠地とした。大湊方面では主に、指揮下の掃海艇駆潜艇、砲艇との訓練に従事した。1944年(昭和19年)に入り、日本海軍は本土決戦と近海でのアメリカ潜水艦の活動激化に備え、日本近海に機雷を敷設する必要に迫られた。すでに昭和18年5月から11月にかけては、黄海入り口に6,000個に及ぶ機雷を敷設[23]。続いて東シナ海に大規模な対潜機雷礁を敷設することとなったが、海上護衛総司令部からの提案に対して軍令部は当初、対戦対策と効果の面で難色を示したが、船舶への被害増加に鑑みて実施に移されることになった[24]。しかし敷設艦として建造された艦の多くはすでに撃沈されているか、南方での敷設任務のほか輸送や船団護衛に従事していた。そこで旧式艦の「常磐」と、機雷敷設能力を持つ特設艦船が本土近海の機雷敷設作戦の主力として駆り出された。

1944年1月20日、海上護衛総司令部は「常磐」、特設巡洋艦西貢丸」(大阪商船、5,350トン)[25]、特設敷設艦「新興丸」(橋本汽船、6,479トン)および「高栄丸」(高千穂商船、6,774トン)とともに第十八戦隊を編成。以後、東シナ海を初めとして対馬海峡宗谷海峡といった日本近海および台湾海峡、黄海での機雷敷設作業に従事する。1945年(昭和20年)に入ってからは、南西諸島方面への緊急輸送作戦も行った。この間、4月14日には関門海峡東口で触雷し[26]、6月3日にも舞鶴湾口で触雷したが[27]、ともに損傷はしたものの自力航行は可能で、大事には至らなかった。

終戦直前の8月9日、「常磐」は大湊で第38任務部隊ジョン・S・マケイン・シニア中将)による空襲を受け(大湊空襲)、右舷前部に1発、左舷中部に2発、艦後部に1発の計4発の直撃弾と、4発の至近弾によって損傷[1][22]。常磐は浸水したものの、ビルジポンプで排水し続けた[1][22]。しかし、8月15日に終戦を迎え、乗員が艦を去っていくことにより排水作業ができなくなることから、8月15日中に艦の保全のために葦崎東方海岸に擱座し、曳船の助けを得て投錨して艦を固定した[1][22]。「常磐」は1946年(昭和21年)から1947年(昭和22年)にかけて解体された[2]

兵装(最終時・田村俊夫による推定含む)[28]
    • 15cm単装砲4基
    • 8cm単装高角砲1基
    • 40mm単装機銃2基
    • 25mm三連装機銃2基
    • 25mm連装機銃8基
    • 25mm単装機銃10から15基
    • 機雷600個
    • 爆雷80個
    • 二二号電探1基(艦橋上)
    • 一三号電探1基(後檣)
    • 三式水中探信儀1基

艦歴[編集]

  • 1897年1月6日 英アームストロング・ホイットワースエルジック造船所にて起工
  • 1898年7月6日 進水
  • 1899年5月18日 竣工。一等巡洋艦に類別
  • 1904年8月14日 蔚山沖海戦
  • 1905年5月27日 日本海海戦
  • 1921年9月1日 一等海防艦に類別変更
  • 1922年9月30日 敷設艦に類別変更
  • 1923年 改装工事完了
  • 1927年8月1日 佐伯湾にて機雷爆発事故。死者行方不明者35名、負傷者68名。
  • 1941年 開戦時第四艦隊第十九戦隊
  • 1942年2月1日 クェゼリン環礁において米艦載機の攻撃を受け損傷
  • 1943年7月21日 第五艦隊第五十二根拠地隊旗艦[29]
  • 1944年1月20日 第十八戦隊を編成。海上護衛総司令部に編入
    • 1月24日 東シナ海への第一次対潜機雷礁敷設(第1回)[24]
    • 2月18日 東シナ海への第一次対潜機雷礁敷設(第2回)[24]
    • 3月13日 東シナ海への第一次対潜機雷礁敷設(第3回)[24]
    • 4月23日 東シナ海への第一次対潜機雷礁敷設(第4回)[30]
    • 5月14日 台湾海峡への対潜機雷礁敷設[30]
    • 6月5日 石垣島周辺への対潜機雷礁敷設[23]
    • 6月17日 宮古島周辺への対潜機雷礁敷設[23]
    • 11月23日 黄海入り口対潜機雷礁の強化[23]
  • 1945年1月2日 東シナ海への第二次対潜機雷礁敷設(第1回)[30]
    • 1月6日 東シナ海への第二次対潜機雷礁敷設(第2回)[31]
    • 2月27日 東シナ海への第二次対潜機雷礁敷設(第3回)[32]
    • 4月14日 関門海峡東口で触雷
    • 4月16日 対馬西水道への対潜機雷礁敷設(第1回)[23]
    • 5月13日 対馬東水道への対潜機雷礁敷設(第1回)[24]
    • 5月21日 対馬西水道への対潜機雷礁敷設(第2回)[24]
    • 6月1日 対馬東水道への対潜機雷礁敷設(第2回)[24]
    • 6月3日 舞鶴湾口で触雷
    • 6月27日 宗谷海峡西口への対潜機雷礁敷設(第1回)[23]
    • 6月30日 宗谷海峡西口への対潜機雷礁敷設(第2回)[23]
    • 8月9日 大湊において米艦載機の攻撃を受け損傷
    • 8月15日 葦崎東方海岸に擱座[1]
    • 11月30日 除籍
  • 1946年 - 1947年 解体

艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

回航委員長
艦長
  • 出羽重遠 大佐:1898年10月3日 - 1900年5月20日
  • 中山長明 大佐:1900年5月20日 - 8月11日
  • 丹治寛雄 大佐:1900年8月11日 - 1901年1月23日
  • 梨羽時起 大佐:1901年1月23日 - 7月5日
  • 大塚暢雄 大佐:1901年7月5日 - 10月1日
  • 矢島功 大佐:1901年10月1日 - 1902年10月6日
  • 野元綱明 大佐:1902年10月6日 - 1904年1月19日
  • 吉松茂太郎 大佐:1904年1月19日 - 1905年6月14日
  • 今井兼昌 大佐:1905年6月14日 - 12月12日
  • 和田賢助 大佐:1905年12月12日 - 1906年11月22日
  • 藤本秀四郎 大佐:1906年11月22日 - 1908年7月31日
  • 山縣文蔵 大佐:1908年8月28日 - 1909年10月1日
  • 依田光二 大佐:1909年10月1日 - 12月1日
  • 築山清智 大佐:1910年4月9日 - 12月1日
  • 水町元 大佐:1910年12月1日 - 1911年1月16日
  • 高木七太郎 大佐:1911年1月16日 - 1912年4月30日
  • 小笠原長生 大佐:1912年4月30日 - 12月1日
  • 志摩猛 大佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日
  • 片岡栄太郎 大佐:1913年12月1日 - 1914年12月1日
  • 吉田孟子 大佐:1914年12月1日 - 1915年2月1日
  • 阪本則俊 大佐:1915年2月1日 - 8月3日
  • 白石直介 大佐:1915年8月3日 - 1916年7月15日
  • 谷口尚真 大佐:1916年7月15日 - 1917年9月15日
  • 森本義寛 大佐:1917年10月10日 - 1918年9月10日
  • 小松直幹 大佐:1918年9月10日 - 1919年8月8日
  • 松村菊勇 大佐:1919年8月8日 - 1920年8月12日
  • 中桐啓太 大佐:不詳 - 1920年11月20日
  • 柴内豪吉 大佐:1920年11月20日 - 1921年11月20日[33]
  • 内倉利吉 大佐:1921年11月20日[33] -
  • 白石信成 大佐:1923年3月1日 - 12月1日
  • 和田健吉 大佐:1923年12月1日 - 1924年12月1日
  • 池田他人 大佐:1924年12月1日 - 1925年12月1日
  • 徳田伊之助 大佐:1925年12月1日 - 1926年5月20日
  • 市来崎慶一 大佐:1926年5月20日 - 1927年12月1日
  • 立川七郎 大佐:1927年12月1日 - 1928年12月10日
  • 北岡春雄 大佐:1928年12月10日 - 1929年11月1日
  • 服部豊彦 大佐:1929年11月1日 - 1930年12月1日
  • (兼)三木太市 大佐:1930年12月1日 - 12月16日
  • 難波常三郎 大佐:1930年12月16日 - 1932年1月25日
  • 山田定男 大佐:1932年1月25日 - 1932年12月1日
  • 高須三二郎 大佐:1932年12月1日 - 1933年11月15日
  • 若木元次 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日
  • 片原常次郎 大佐:1934年11月15日 - 1936年3月2日
  • 青柳宗重 大佐:1936年3月2日 - 12月1日
  • 久保九次 大佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日
  • 杉本道雄 大佐:1937年12月1日 - 1938年9月1日
  • 稲垣義龝 大佐:1940年3月1日 - 11月15日
  • 富澤不二彦 大佐:1940年11月15日 - 1942年4月1日(兼クェゼリン海面防備部隊指揮官:1941年11月21日 - 1942年4月1日)[34]
  • 渓口豪介 大佐:1942年4月1日 - 1943年11月1日
  • 千葉成男 大佐:1943年11月1日 - 1944年1月15日
  • 河辺虎三 大佐:1944年1月15日 - (終戦)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 河辺虎三艦長の戦闘記による(田村, 169ページ)
  2. ^ a b 片桐, 219ページ
  3. ^ 『官報』第4764号、明治32年5月22日。
  4. ^ a b 片桐, 218ページ
  5. ^ 『海軍水雷史』434ページ
  6. ^ a b c d e f g 高須, 92ページ
  7. ^ a b c d e f 『海軍水雷史』831ページ
  8. ^ a b c d e f g h i 高須, 93ページ
  9. ^ 『常磐機雷爆発一件』pp.11
  10. ^ a b c 『海軍水雷史』418、498ページ
  11. ^ 『海軍水雷史』418、419ページ
  12. ^ 『戦史叢書38』78ページ
  13. ^ 『戦史叢書38』125ページ
  14. ^ 『第四艦隊戦時日誌』pp.3
  15. ^ ポッター, 27ページ
  16. ^ ポッター, 82ページ
  17. ^ a b 『戦史叢書38』395ページ
  18. ^ 『戦史叢書38』419ページ
  19. ^ a b 『戦史叢書62』48、49ページ
  20. ^ 『第四根拠地隊司令部 第二海上護衛隊司令部 戦時日誌』pp.11
  21. ^ 『第四根拠地隊司令部 第二海上護衛隊司令部 戦時日誌』pp.11,20
  22. ^ a b c d 田村, 169ページ
  23. ^ a b c d e f g 『海軍水雷史』851ページ
  24. ^ a b c d e f g 『海軍水雷史』852ページ
  25. ^ 機雷敷設の設備を持つ
  26. ^ 『第十八戦隊戦時日誌』C08030066000, pp.4,14
  27. ^ 『第十八戦隊戦時日誌』C08030066100, pp.4,19,49
  28. ^ 田村, 168、169、170ページ
  29. ^ 『第五十二根拠地隊戦時日誌』pp.8
  30. ^ a b c 『海軍水雷史』853ページ
  31. ^ 『海軍水雷史』853、854ページ
  32. ^ 『海軍水雷史』854ページ
  33. ^ a b 『官報』第2793号、大正10年11月22日。
  34. ^ 『戦史叢書38』396ページ

同型艦[編集]

参考文献[編集]

  • 『明治三十七八年海戦史 第一部 戦記 第四篇 浦塩斯徳港ノ敵艦隊ニ対スル作戦』(極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻11) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05110072500~C05110072900
  • 『第二十四号 軍艦常盤ヨリ見タル敵艦損害ノ概況図』(極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻1.2付表及付図) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05110039700
  • 海軍大佐吉松茂太郎『第十三号 常磐艦長海軍大佐吉松茂太郎ノ提出セル軍艦常磐日本海海戦戦闘報告』(極秘 明治37.8年海戦史 第2部 戦紀 巻2備考文書第1) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05110086300
  • 『常磐機雷爆発一件』(常磐機雷爆発に関する件(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C04015669200
  • 第四艦隊司令部『自昭和十六年十二月一日至昭和十六年十二月三十一日 第四艦隊戦時日誌』(昭和16年12月1日~昭和19年8月31日 第4艦隊戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030018200
  • 連合艦隊第四艦隊 第四根拠地隊司令部 第二海上護衛隊司令部『自昭和十八年五月一日至昭和十八年五月三十一日 第四根拠地隊司令部 第二海上護衛隊司令部 戦時日誌』(昭和16年12月1日~昭和19年4月30日 第4根拠地隊戦時日誌(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030251000
  • 第五十二根拠地隊司令部『自昭和十八年五月一日至昭和十八年五月三十一日 第五十二根拠地隊戦時日誌』(昭和18年5月1日~昭和19年1月20日 第53根拠地隊戦時日誌) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030272800
  • 第十八戦隊司令部『自昭和十九年一月二十日至昭和十九年一月三十一日 第十八戦隊戦時日誌』(昭和19年1月20日~昭和19年5月31日 第18戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030063800
  • 第十八戦隊司令部『自昭和二十年三月一日至昭和二十年三月三十一日 第十八戦隊戦時日誌』(昭和19年12月1日~昭和20年3月31日 第18戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030065500
  • 第十八戦隊司令部『昭和二十年四月一日 昭和二十年四月三十日 第十八戦隊戦時日誌』(昭和20年4月9日 機雷部隊戦闘詳報戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030066000
  • 第十八戦隊司令部『昭和二十年五月一日 昭和二十年六月五日 第十八戦隊戦時日誌』(昭和20年4月9日 機雷部隊戦闘詳報戦時日誌(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030066100
  • 軍艦常磐『自昭和二十年五月一日至昭和二十年五月三十一日 軍艦常磐戦時日誌』(昭和20年5月1日~昭和20年5月31日 軍艦常磐戦時日誌) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030576100
  • 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書38 中部太平洋方面海軍作戦(1)昭和十七年五月まで朝雲新聞社、1970年
  • 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1970年
  • 海軍水雷史刊行会(編纂)『海軍水雷史』海軍水雷史刊行会、1979年
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
  • 高須廣一「機雷敷設艦爆発事故の一例 常磐の場合」『世界の艦船 No.383 特集・機雷敷設艦物語』海人社、1987年
  • 石橋孝夫「米空母機動部隊の反撃」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦14 小艦艇II』光人社、1990年、ISBN 4-7698-0464-4
  • E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
  • 福井静夫『日本補助艦艇物語』光人社、1993年、ISBN 4-7698-0658-2
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、1993年、ISBN 4-7698-0386-9
  • 『世界の艦船 増刊第47集 日本海軍特務艦船史』海人社、1997年3月号増刊
  • 林寛司・戦前船舶研究会「特設艦船原簿」「日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶 第104号』戦前船舶研究会、2004年
  • 田村俊夫「敷設艦「常磐」の兵装について」『歴史群像太平洋戦史シリーズ51 帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社、2005年、ISBN 4-05-604083-4
  • 歴史群像シリーズ特別編集『決定版 図説 日露戦争 兵器・全戦闘集』学習研究社、2006年、ISBN 978-4-05-604566-6
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 官報

関連項目[編集]

外部リンク[編集]