長門 (戦艦)
| 新造時の長門 | |
| 1944年10月、ブルネイでの「長門」。後方に「最上」、「武蔵」「大和」が見える。 | |
| 艦歴 | |
|---|---|
| 計画 | 八八艦隊計画 |
| 起工 | 1917年8月28日 |
| 進水 | 1919年11月9日 |
| 竣工 | 1920年11月25日 |
| 除籍 | 1945年9月15日 |
| その後 | 1946年7月29日沈没 |
| 性能諸元(改装後) | |
| 排水量 | 基準 39,120トン |
| 全長 | 224.94m |
| 全幅 | 34.59m |
| 吃水 | 9.5m |
| 機関 | 艦本式タービン4基4軸 82,000馬力 |
| 速力 | 25.0ノット |
| 航続距離 | 16ノット / 8,650海里[1] |
| 乗員 | 1,368名 |
| 兵装 (新造時) |
45口径41cm連装砲4基 50口径14cm単装砲20門 40口径7.6cm単装高角砲4門 53 cm魚雷発射管8門 |
| 兵装 (改装後) |
45口径41cm連装砲4基 50口径14cm単装砲18門 40口径12.7cm連装高角砲4基 25mm連装機銃10基 |
| 装甲 | 水線305mm 甲板70+127 mm 主砲前盾457mm 主砲天蓋250mm 副砲廓152mm |
| 搭載機 | 3機(カタパルト1基) |
長門(ながと)は旧長門国を名前の由来に持つ大日本帝国海軍の戦艦で、長門型戦艦の1番艦である。第二次世界大戦前は日本海軍の象徴として親しまれた。敗戦後は米軍に接収され、原爆実験に供され沈没した。
目次 |
概要[編集]
完成当時の1920年(大正9年)では世界最初であり、かつ最大口径の16.1インチ(当時日本はメートル法を採用していたため実口径は41cmちょうど)主砲と[2]、当時の戦艦の中では非常に高速である26.5ノット(公試26.443ノット)の機動力を持つ高速戦艦で[3]、世界の軍事史や軍艦史にも大きな影響を与えている。
2番艦の「陸奥」と共に各国海軍から注目され、大艦巨砲主義が最盛期をむかえていた列強海軍の熾烈な建艦競争にワシントン海軍軍縮条約による一定の歯止めを与えるきっかけとなったのも本艦であった。
完成後に連合艦隊旗艦となり、第二次世界大戦後に有名になった大和型戦艦「大和」が戦中は存在そのものが極秘だったこともあり、戦前と戦中には長門・陸奥こそが日本海軍を代表する戦艦として国民から親しまれ、太平洋戦争開戦後の1942年2月までは連合艦隊旗艦として連合艦隊司令長官 山本五十六大将が座乗していた。
太平洋戦争中は「大和」「武蔵」に次ぐ主力艦として温存され、終戦まで稼動可能な状態で生き残った唯一の日本戦艦である。
艦歴[編集]
建造[編集]
戦艦「長門」は1916年(大正5年)度の帝国議会で建造が承認され[4]、1917年(大正6年)8月28日に八八艦隊計画の第一号艦として広島県の呉海軍工廠にて起工[5]、1919年(大正8年)11月9日に進水する[6]。1920年(大正9年)11月25日、竣工した[7]。建造費は当時の価格で4,390万円に上った。ワシントン海軍軍縮条約において41cm(16in)主砲艦の建造が制限された為、「長門」と姉妹艦の「陸奥」、イギリスのネルソン級戦艦2隻、アメリカ合衆国のコロラド級戦艦3隻を指して世界のビッグ7と呼ばれた。艦の本当の全長216mや最大速力26ノットは隠され、対外的には660呎(201m)、23ノットと公表している[8]。
建造当初は煙突の排煙処理が問題となり、平賀譲の提案で第一煙突にカバーを付けたがあまり効果はなく、藤本喜久夫造艦大佐によって1924年(大正13年)に「陸奥」と共に屈曲煙突を採用した[9]。この姿が当時の国民に親しまれ、一番印象に残る姿となったといわれる[10]。尚、この屈曲煙突の採用は、後の日本海軍の巡洋艦の機関建造に影響を与えたとされる。また藤本の提案を平賀譲が無断で借用したため、両者の対立の一因となった[11]。
第二次世界大戦前[編集]
世界で7隻しかいない40cm砲搭載戦艦である「長門」だが、その巨砲を実戦で発射する機会は長らくなかった。「陸奥」が佐世保鎮守府所属だったことから、東京の海軍省や軍令部と往来が容易な横須賀鎮守府所属の「長門」が連合艦隊旗艦に選ばれたとされる[12]。1923年(大正12年)9月の関東大震災では、演習を中止して救援物資を東京に運んだ[13]。1924年(大正13年)には裕仁皇太子(昭和天皇)の樺太行啓に際し乗艦となった[14]。
先述した屈曲煙突への改造後も、水上偵察機の搭載や主砲塔の測距儀を換装するなど小規模な改装が実施された。1932年(昭和7年)から1933年(昭和8年)にかけては8cm高角砲を12.7cm連装高角砲に換装のうえ高射装置と40mm機銃を設置、水偵発艦用のカタパルトが搭載されたほか、前檣は測的所や指揮所を増設したことから探照灯を煙突周辺に新設した探照灯台へ移した[15]。
1934年(昭和9年)から1936年(昭和11年)の間「陸奥」と共に大規模改装を行い、ボイラーの換装と装甲の追加、主砲塔の改造や魚雷発射管の撤去などが実施された[16]。外見上は煙突がボイラーの換装に伴い太い一本の物に替わった他、前檣および後部指揮所の形状も大きく変化した。大西新蔵(長門艦長)は、大規模改装後の長門型戦艦は優男、大和型戦艦は獰猛と表現している[17]。近江従兵長の回想では、艦橋にエレベーターがあったという[18]。そして、両舷にバルジを設け、艦尾も延長し、全体的に重厚となり、防御能力が向上した。反面、タービンが換装されず出力が新造時と大差なかったため、速力は25ノットに低下した。大西は、1941年5月29日の公試において82000馬力で24.1ノットを発揮したと述べている[19]。ただし、レイテ沖海戦ではカタログスペックを上回るスピードで敵機から逃げているので、元々機関部の強度・耐熱性の余裕を大きく取っていたようである。その後も航空設備の改修や40mm機銃の撤去、25mm機銃の増設といった追加工事[20]を経て1941年(昭和16年)4月3日連合艦隊旗艦任務を「陸奥」に移し、「長門」は横須賀で砲身換装や各部防御力の強化を行い、5月28日横須賀を出港した[21]。8月10日の射撃訓練では、36500mで初弾命中に近い射撃成績を出した[22]。右舷最後部には御真影安置室・天皇御座所があり、山本五十六長官すら入室せず、24時間番兵が守衛していた[23]。
太平洋戦争緒戦[編集]
米国との開戦に備えて戦備を整える「長門」だが、既に大艦巨砲主義全盛の時代は去り、航空機と潜水艦が重要な役割を果たすようになっていた。1941年(昭和16年)7月21日の昼間連合艦隊第12回基本演習と夜間連合艦隊第21回応用教練では、急降下爆撃機や潜水艦に苦戦している[24]。8月10日の第一類戦技作業終了後の航空隊襲撃では、空母「加賀」と「龍驤」の艦上攻撃機27機・艦上爆撃機54機・水上飛行艇15機に翻弄されている[25]。
太平洋戦争開戦時、「長門」は連合艦隊旗艦として姉妹艦の「陸奥」と共に第一戦隊を形成していた。1941年12月5日には山口県岩国湾で「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号無電を打電した[26]。12月6日、戦艦「陸奥」、「日向」、「伊勢」、「扶桑」、「山城」を率いて日本を出撃する。12月8日の真珠湾攻撃に於いて、近江は藤井茂参謀に「野村大使の書類は間に合ったか?」と尋ねる山本五十六連合艦隊司令長官を目撃している[27]。開戦時の推定位置は北緯34度、東経145度付近だった[28]。この時、宇垣纏参謀長は真珠湾を長門型戦艦や伊勢型戦艦で艦砲射撃を行うことを提案し、黒島亀人先任参謀の間で真夜中まで激論となった[29]。山本は一言「帰ろう」と述べ、「長門」は反転した[30]。
1942年2月12日に山本五十六大将は大将旗を戦艦「大和」に移し、連合艦隊旗艦は「大和」となった。1942年6月のミッドウェー海戦では第一戦隊所属として出撃したが、戦闘は行わなかった。「長門」は空母「加賀」の生存者を収容、帰国させた。その後「大和」と「陸奥」はカロリン諸島のトラック島に進出したが、「長門」は日本本土で待機する日々が続いた。
1943年(昭和18年)6月8日、姉妹艦「陸奥」が「長門」の目前で爆沈した。8月、トラック泊地に進出して待機した。1944年2月のトラック島撤退後はリンガ泊地を基地とする。1944年6月にはあ号作戦に参加、19日のマリアナ沖海戦では第二航空戦隊の航空母艦「飛鷹」と「隼鷹」の護衛として空襲を受けるが損害は軽微であった。損傷した「飛鷹」を「長門」が曳航することも検討されたが、作業前に「飛鷹」は沈没した。
捷一号作戦[編集]
1944年10月には捷一号作戦に参加、10月24日のシブヤン海での戦いでは、14:16に米空母「フランクリン」(USS Franklin, CV-13)と「カボット」(USS Cabot, CVL-28)からの攻撃機により二発の爆弾を受ける。一発は多くの機銃と第一缶室の換気口を破壊、25分間の軸停止となり、もう一発は無線室と酒保付近を破壊し52名が死亡、106名が負傷した。10月25日のサマール島沖海戦では06:01に護衛空母「セント・ロー」(USS St. Lo, CVE-63)に砲撃を行うが失敗する。06:54に駆逐艦「ヒーアマン」 (USS Heermann, DD-532)が「榛名」に魚雷を発射。魚雷は「榛名」を外れ射線上の「大和」と「長門」に向かい、「大和」が回避運動の末両脇を魚雷に挟まれ、両艦は北方へ約16km回避行動を強いられた。「長門」は主砲と副砲の砲撃を米護衛空母群に続けて行った。
09:10に栗田健男中将は砲撃の中止と北方への移動を命じた。10:20に彼は再び南進を命じたが、艦隊への攻撃は激しさを増したため12:36に退却を再び命じる。「長門」は12:43に二発の爆弾を受けるが損害は大きくなかった。10月26日の退却後、連合艦隊はアメリカ軍の激しい空襲を受けることとなる。「長門」は「ホーネット」(USS Hornet, CV-12)艦載機から4発の爆弾を受け、38名の死者と105名の負傷者を出した。「長門」は一日で99発の主砲弾と653発の副砲弾を発射した。
太平洋戦争終盤[編集]
1944年11月5日 - 13日のマニラ空襲の後、11月18日に戦艦「金剛」、「榛名」や数隻の駆逐艦と共に日本への帰路に付き、これが日本海軍時での最後の外洋航海となった。11月22日に台湾海峡沖で米潜水艦「シーライオン」の攻撃により、同行していた「金剛」と陽炎型駆逐艦「浦風」を失い、「金剛」の生存者を収容した。
11月25日、「長門」は第十七駆逐隊(浜風、雪風、磯風)に護衛されて神奈川県横須賀港に到着するが、燃料、物資の不足により外洋に出ることはなく、1945年2月に沿岸防御の任を受け、6月1日には特殊警備艦に艦種変更、副砲及び、対空兵装が陸上げし、マストや煙突も撤去され、空襲擬装用に緑系の迷彩塗装が塗られた。米内光政海軍大臣と軍務局は、戦艦「長門」、空母「鳳翔」、重巡洋艦「利根」、駆逐艦数隻をウラジオストクに回航してソビエト連邦に譲渡し、航空機・物資・燃料と交換する計画をたてていたが、実行されずに終わっている[31]。
7月18日に「長門」は空母「エセックス」(USS Essex, CV-9)、「ランドルフ」(USS Randolph, CV-15) 、「シャングリラ」(USS Shangri-la, CV-38)および「ベロー・ウッド」(USS Beleau Wood, CVL-24)搭載機からの攻撃を受け3発の爆弾が命中して艦橋が破壊され、艦長の大塚幹少将以下ほとんどの艦橋要員が戦死した。後任艦長は杉野修一大佐(旅順港閉塞作戦で戦死した杉野孫七兵曹長の長男)が発令され、「長門」はそのまま修復されることなく終戦を迎えた。
終戦後 - 戦艦長門の最期[編集]
終戦後、1945年8月30日に、連合国軍の1国であるアメリカ軍に接収される。「長門」は空襲によって中破したまま修復されておらず、煙突とマストは撤去されていた。アメリカ海軍による詳細な調査の後武装解除され、1946年3月18日にクロスロード作戦(アメリカ軍の核実験)に標的艦として参加するためマーシャル諸島のビキニ環礁へ出発する。艦長はW・J・ホイップル大佐。180名のアメリカ海軍兵が乗り込んだが、長門は外洋への航海がままならない状態で時速数ノットというあまりの低速のため、小修理のためエニウェトク環礁に立ち寄っている。
1946年7月1日の第一実験(ABLE、空中爆発/予定爆心地を大きくはずしてしまう)では戦艦「ネバダ」が中心に配置され、「長門」は爆心予定地から400mのところに置かれた。爆弾は西方600mにずれてしまい、結果爆心地から約1.5 km(1,640ヤード)の位置となった。この時「長門」はほとんど無傷(爆心地方向の装甲表面が融解したのみで航行に問題なし)であった。「長門」と同時に実験標的にされた阿賀野型軽巡洋艦「酒匂」はほぼ真上が爆心地となったために翌日に沈没した。
7月25日の第二実験(BAKER、水中爆発)では爆心地から900-1000mの位置にあり、右舷側に約5度の傾斜を生じた。それでも「長門」は海上に浮かんでいた。しかし、4日後の7月29日の朝、原爆実験の関係者が「長門」のいた海面を見てみると、既に同艦の姿は海上にはなかった。7月28日深夜から29日未明にかけての夜間に、艦内への浸水によって最後を誰にも見取られる事なく静かに転覆し沈没したものと見られる。ただ一説には、長門の浸水を食い止めるなど、保存などの為に緊急修理をする予定が立てられていたが、最終的には行われず沈没したという逸話も有る。
「長門」が二度被爆してなお4日後まで沈まなかったことは、当時の日本では「米艦が次々沈む中、最後まで持ちこたえた」「長門が名艦だった証拠」「日本の造艦技術の優秀性の証明」と喧伝された。もっとも、被爆を耐えた艦は「長門」以外にもおり、「長門」と同条件下か、より爆心に近接していながらも沈没を免れた米戦艦「ネバダ」、アメリカ軽空母「インディペンデンス」、ドイツ重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」(後日座礁放棄)等も存在する。 しかしながら第二実験(BAKER)の実施前に長門の艦首部に穴が開けられており、さらに機雷が艦体に装着されていたとされる[32]など他艦と比べて不利な条件であったとも言える。
現在、「長門」沈没地点はダイビングスポットとしてこの地の貴重な観光資源となっている。沈没状態とはいえ、ビッグ7の中で現存しているのは「長門」だけである。現状は上下逆さまで沈没しており、艦橋部分は折れている。
エピソード[編集]
- 「大和」や「武蔵」に大和神社・武蔵神社があったのと同様、本艦にも「長門神社」があった[33]。
- 「開運!なんでも鑑定団」に出品された長門の軍艦旗を、石坂浩二が評価額の1000万円で購入し、呉の呉市海事歴史科学館に寄贈した。
- 同番組には長門の艦内時計も出品されたことがある。評価額は50万円。出品者(依頼人)の父は長門接収に立ち会った元日本海軍将校であり、この放送では接収時の映像も公開された。
- 終戦直後、大洋漁業(現:マルハ)が捕鯨を再開するため母艦として第二復員省(元:海軍省)へ軍艦の借用を依頼したところ、その第一候補として例示されたのがこの長門だった(最終的には海軍第一号型輸送艦を借用した)。
主要目一覧[編集]
| 要目 | 新造時 (1920年)[3] |
大改装後 (1936年) |
レイテ沖海戦時 (1944年) |
|---|---|---|---|
| 排水量 | 基準:32,759t 常備:33,759t |
基準:39,130t 公試:43,580t |
|
| 全長 | 215.80m | 224.94m | ← |
| 全幅 | 28.96m | 34.60m | ← |
| 吃水 | 9.08m | 9.49m | |
| 主缶 | ロ号艦本式専焼缶15基 同混焼缶6基 |
ロ号艦本式大型4基 同小型6基 |
← |
| 主機 | 艦本式タービン4基4軸 | ← | ← |
| 軸馬力 | 85,478shp | 82,000shp | ← |
| 速力 | 26.443ノット | 24.35ノット | |
| 航続距離 | 5,500海里/16ノット | 8,650海里/16ノット | |
| 燃料 | 石炭:1,600t 重油:3,400t |
石炭:57.8t 重油:5,600t |
|
| 乗員 | 1,333名 | 1,368名 | |
| 主砲 | 四一式41cm連装砲4基 | ← | ← |
| 副砲 | 四一式14cm単装砲20門 | 同18門 | ← |
| 高角砲 | 8cm単装4門 | 12.7cm連装4基 | ← |
| 機銃 | 三年式3挺 | 7.7mm3挺 40mm連装2基 25mm連装10基 (後日40mmに代わって装備) |
25mm3連装14基 25mm連装10基 同単装30挺 |
| 魚雷 | 53cm水中発射管4本 同水上4本 |
なし | ← |
| その他兵装 | 21号電探1基 22号2基 13号2基 |
||
| 装甲 | 水線305mm 甲板70+75 mm 主砲前盾305mm 主砲天蓋152mm 副砲廓152mm |
水線305mm 甲板70+127 mm 主砲前盾457mm 主砲天蓋250mm 副砲廓152mm |
|
| 搭載機 | なし | 3機 カタパルト1基 |
← |
※ ←は左に同じ(変更無し)。空白は不明。1944年は推定を含む。
歴代艦長[編集]
- 艤装員長
- 艦長
- 飯田延太郎 大佐:1920年3月2日 -
- 樺山可也 大佐:1921年12月1日 -
- 高橋節雄 大佐:1922年11月10日 -
- 左近司政三 大佐:1923年12月1日 -
- 中島晋 大佐:1924年12月1日 -
- 小副川敬治 大佐:1925年8月22日 -
- 長谷川清 大佐:1926年12月1日 -
- 松下薫 大佐:1927年12月1日 -
- 井上継松 大佐:1928年12月10日 -
- 浜田吉治郎 大佐:1929年11月30日 -
- 中村亀三郎 大佐:1930年12月1日 -
- 原敬太郎 大佐:1931年10月10日 -
- 杉坂悌二郎 大佐:1931年12月1日 -
- 園田実 大佐:1932年3月4日 -
- 宇野積蔵 大佐:1932年12月1日 -
- 佐田健一 大佐:1933年11月15日 -
- 雪下勝美 大佐:1934年11月15日 -
- 斎藤二朗 大佐:1935年7月15日 -
- 鮫島具重 大佐:1936年12月1日 -
- 中島寅彦 大佐:1937年12月1日 -
- (兼)角田覚治 大佐:1938年9月15日 -
- 福留繁 大佐:1938年12月15日 -
- 徳永栄 大佐:1939年11月15日 -
- 大西新蔵 大佐:1940年10月15日 -
- 矢野英雄 大佐:1941年8月11日 -
- 久宗米次郎 大佐:1942年11月10日 -
- 早川幹夫 大佐:1943年8月2日 -
- 兄部勇次 大佐:1943年12月15日 -
- 渋谷清見 大佐:1944年12月20日 -
- 大塚幹 予備少将:1945年4月28日 -
- 杉野修一 大佐:1945年7月24日 -
- W・J・ホイップル 大佐:1946年3月18日 -
同型艦[編集]
長門が登場する作品[編集]
- 軍艦長門の生涯 (阿川弘之著 新潮文庫 上・中・下巻) ISBN 4101110077(上巻)
- ストライカーズ1945II(彩京)
- 第二次大戦直後の世界を舞台とするシューティングゲーム。「海ステージ」の中ボスとして出現する。
- サイボーグ009 (テレビアニメ第1作) - 16話「太平洋の亡霊」(1968年7月19日放映)で、子息を太平洋戦争で失った超能力者が、その力を使ってビキニ環礁に沈む長門を浮上させ、アメリカ本土に向かわせる描写が登場する。
脚注[編集]
- ^ 昭和12年度海軍省年報による。福井静夫の著作では16ノットで10,600海里との数値もある。
- ^ #従兵長193頁
- ^ a b 「試験(3)」p.3「大正9年10月7日、長門全力公試」
- ^ 「海軍艦艇製造沿革」pp.2,8
- ^ 「軍艦長門製造一件(1)」p.21
- ^ 「軍艦長門製造一件(2)」p.23
- ^ 「軍艦長門製造一件(2)」p.42,52
- ^ 「軍艦長門、扶桑要目」p.4
- ^ #牧野ノート90頁
- ^ #海軍艦隊勤務84頁
- ^ #牧野ノート91頁
- ^ #歴群15長門型196頁
- ^ #海軍生活放談271-272頁
- ^ 「樺太行啓活動写真映画御下賜相成度件」p.1
- ^ #歴群15長門型155-156頁
- ^ #歴群15長門型157-160頁
- ^ #海軍生活放談463頁
- ^ #従兵長75頁
- ^ #海軍生活放談262頁
- ^ #歴群15長門型160-161頁
- ^ #海軍生活放談460頁
- ^ #海軍生活放談464頁
- ^ #従兵長22頁
- ^ #海軍生活放談467頁
- ^ #海軍生活放談468頁
- ^ #従兵長73-74頁
- ^ #従兵長57頁
- ^ #従兵長80頁
- ^ #従兵長83頁
- ^ #従兵長84-85頁
- ^ #横山一郎回顧録190頁
- ^ http://www.history.navy.mil/ac/bikini/bikini6.htm 米海軍歴史センター
- ^ #従兵長186頁
参考文献[編集]
- アジア歴史資料センター(公式)
- Ref.A09050126900「海軍艦艇製造沿革」
- Ref.B04122588300「3.資料(一)(艦船要目、艦船表、その他)分割3」
- Ref.C08021291800「軍艦長門(1)」
- Ref.C08021555800「軍艦長門製造一件(1)」
- Ref.C08021555900「軍艦長門製造一件(2)」
- Ref.C08021559500「試験(3)」
- Ref.C08050212400「軍艦長門、扶桑要目」
- Ref.C08050198800「軍艦長門第4缶室出火」
- Ref.C04015076000「樺太行啓活動写真映画御下賜相成度件」
- Ref.C04015265300「大正15年度軍艦長門応用教練運転成績表」
- Ref.C04015267600「教練運転成績表 長門」
- Ref.C05023528400「第1725号 9.4.18 軍艦長門機関部改造の件」
- Ref.C05034278400「第2834号 10.12.12 軍艦長門公試験運転の際社員便乗見学許可の件」
- Ref.C08051772000「昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書」
- Ref.C08030040400「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」
- Ref.C08030565400「昭和19年10月24日~昭19年10月26日 軍艦長門戦闘詳報 第2号(1)」
- Ref.C08030565500「昭和19年10月24日~昭19年10月26日 軍艦長門戦闘詳報 第2号(2)」
- Ref.C08030565600「昭和19年10月24日~昭19年10月26日 軍艦長門戦闘詳報 第2号(3)」
- Ref.C08030565700「昭和19年10月24日~昭19年10月26日 軍艦長門戦闘詳報 第2号(4)」
- Ref.C08030566000「昭和20年5月1日~昭20年6月30日 軍艦長門戦闘詳報(1)」
- Ref.C08030566100「昭和20年5月1日~昭20年6月30日 軍艦長門戦闘詳報(2)」
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第1巻 戦艦Ⅰ』光人社、1989年。 ISBN 4769804512
- 不二美術模型出版部編『戦艦長門・陸奥 -艦船模型の制作と研究-』出版共同社、1977年。
- 大西新蔵 『海軍生活放談 日記と共に六十五年』 原書房、1979年6月。
- 横山一郎 『海へ帰る 横山一郎海軍少将回想録』 原書房、1980年3月。
- 牧野茂 『牧野茂 艦船ノート』 出版協同社、1997年5月。ISBN 4-87970-045-2。
- 歴史群像太平洋戦史シリーズ15 『長門型戦艦 帝国海軍のシンボル「長門」「陸奥」の激動の軌跡を詳解!』 学習研究社、1997年。ISBN 4-05-601684-4。
- 『世界の戦艦 弩級戦艦編 BATTLESHIPS OF DEADNOUGHTS AGE』 世界文化社、1999年。ISBN 4-418-99101-8。
- 元連合艦隊司令部従兵長近江兵治郎 『連合艦隊司令長官山本五十六とその参謀たち』 テイ・アイ・エス、2000年7月。ISBN 4-88618-240-2。
「長門」に勤務し、1940年から司令部付。長門の内部構造や乗組員の日常生活についても言及している。 - 池田清・野村実ほか・近現代史編纂会・編 『海軍艦隊勤務』 新人物往来社、2001年。ISBN 4-404-02914-4。
関連史料[編集]
- 日本造船学会『昭和造船史』
- 福井静夫『日本の軍艦』『海軍艦艇史』
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- ひろしま戦前の風景 - 中国放送(RCC)。広島港で行われた見学会の映像がある。
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