加賀型戦艦

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川崎造船所が製作した戦艦「加賀」の完成予想模型。

加賀型戦艦(かががたせんかん)は日本海軍八八艦隊計画で計画した戦艦長門型戦艦の拡大改良型である。同型艦2隻ともワシントン海軍軍縮条約により建造中止となったが、「加賀」は航空母艦に改装された。

概要[編集]

本型は「高速戦艦」とも呼ぶべき戦艦であり、八八艦隊計画の長門型に次ぐ3番艦、4番艦として計画された。「長門」型では完全に取り入れる事が出来無かったユトランド沖海戦の戦訓を長門型以上に徹底して取り入れるため、長門型で採用された集中防御方式をさらに強化している。

「長門」型では舷側の装甲帯の上部装甲はより薄くなっており、またその装甲は舷側に垂直に取り付けられていた。これに対し「加賀」型では舷側の装甲帯の装甲厚(10-11吋/インチ[1])は上部~下部ともに完全に同一になっている。また、一部の装甲を傾斜式にするなどして更なる防御力の強化を図っている。この時点で、日本海軍の防御設計は従来の英国式のものから完全に脱却した。さらに、日本海軍の戦艦で初めて煙路防御を施している。砲塔12インチ・砲塔天井6インチ[1]、遠距離砲戦で重要となる水平防御の為に甲板に張られた装甲は4インチ(ミドルデッキは1.5-2.5インチ)もあり[1]、世界最強の防御を持っていた。ちなみに当時のアメリカの最新鋭戦艦の水平防御装甲厚は3・5インチである。反面、水中防御は薄く、長門型の標的とされた際、水中弾が貫通し、水中防御力の不足を露呈した。

攻撃力の面では、「長門」型が41センチ砲4基8門であったのに対して、1基砲塔数が増加して5基10門となり、世界最大の主砲を10門搭載する重武装となっている。

速力の面では、「長門」型より新式で91000馬力を発揮する新式機関を搭載した。これにより長門型より船体規模、排水量が大幅に増加して39,979トンになったにも関わらず、長門型の21基より少ない12基で26.5ktの高速を維持できる見込みであった[1]。缶数が減少した事により、煙突は長門型の2本から一本になった。

艦歴[編集]

加賀[編集]

1920年(大正9年)7月19日神戸川崎造船所で起工し、1921年(大正10年)11月17日に進水[2]。ワシントン海軍軍縮条約により廃艦となり、魚雷(水雷爆弾)の実験に使用される予定だった[3]。ところが同条約の為航空母艦に改造中だった天城型巡洋戦艦天城」が関東大震災で修理不能の損傷を受け、廃棄が決定する。そこで急遽代艦として本艦が航空母艦に改造された[4]。空母「加賀」は日本海軍航空隊の主力空母として活躍し、1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦で沈没した。

土佐[編集]

タグボートに曳かれて長崎港を出港し、呉へ向かう「土佐」。1922年(大正11年)8月1日撮影。

1920年(大正9年)2月16日三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工[5]。式典には皇太子時代の昭和天皇と随行の東郷平八郎海軍大将が立会い、皇太子が最初のリベットを締めたという[6]1921年(大正10年)12月18日進水[7]。進水命名式には伏見宮博恭王加藤友三郎海軍大臣も出席したが、この時点で建造中止は決定的であった[8]。進水の際、くす玉が割れないという“事故”が発生し、縁起の悪さが囁かれた[9]

ワシントン海軍軍縮条約の締結により、1922年(大正11年)2月5日に「土佐」の建造中止命令が発令され、同年7月に未成のまま海軍に引き渡された。この時点で最上甲板以下の船体はほぼ完成しており、砲塔や煙突なども別に建造が進められていた[10]。その後の船体は標的艦として使用されることが決定し[11]、建造に携わった造船関係者は「前途を祝福されたはずの土佐がドザ(水死体のこと)になった」と自嘲した[6]。その後、作業員の仮居住施設や被曳航装置の設置が行われ、同年8月1日から8月4日にかけて運用術練習艦「富士」に曳航されて、へと回航された。

呉に回航された「土佐」は、1924年(大正13年)6月から数ヶ月に渡る実験に従事した。実験内容は亀ヶ首試射場からの砲撃や船体に固定した爆薬を用いた[12]、砲弾や魚雷などに対する防御力強化や[13]新型砲弾(後の九一式徹甲弾)の効果の研究であり、これによって得られたデータは後の大和型戦艦の設計にも活かされた[14]。その後、「土佐」は1925年(大正14年)2月2日に標的艦「摂津」に曳航されて呉を出港し、翌日に佐伯港に入港して仮搭載物の撤去や自沈用発火装置の取り付けを行った。そして同年2月9日に、艦名の由来となった高知県沖の島西方約10海里地点にて自沈した。自沈開始は午前1時25分、全没は午前7時頃。自沈地点の水深は350フィート[15]

また「土佐」の主砲塔のうち2基は、陸軍特殊起重機船蜻州丸」(せいしゅうまる)により対馬要塞豊砲台に1基、釜山要塞張子嶝砲台に1基が運搬されて現地で要塞砲として活用された。横須賀海軍工廠で保管されていた三番砲塔は、1933年(昭和8年)に特務艦「知床」によって呉工廠へ運ばれ、長門型戦艦長門」の改装に利用されたという[16]

余談だが、長崎市端島は、横から見た姿から“軍艦島”の愛称を持つが、これは土佐に似ていた事に由来すると言われる[17]。また、「土佐は自沈しておらず、どこかに秘匿されている」という噂が、当時の少年たちの間で囁かれていたという[18]

計画要目[編集]

  • 常備排水量 39,979トン
  • 全長 234.09メートル
  • 幅 32.3メートル
  • 機関出力 91,000馬力
  • 速力 26.5kt
  • 兵装 41センチ45口径連装砲5基、14センチ50口径単装砲20基、7.6センチ40口径単装高角砲4基、61センチ水上魚雷発射管8門

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 「軍艦尾張製造の件」p.17~19
  2. ^ 「軍艦土佐 加賀製造一件(2)」p.40
  3. ^ 「造機部長会議1(2)」p.10
  4. ^ 「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」p.1
  5. ^ 「軍艦土佐用甲鉄費予算の件」p.4
  6. ^ a b 「毎日新聞連載 日本造船十話」p.7
  7. ^ 「軍艦土佐 加賀製造一件(1)」p.17
  8. ^ 『日本戦艦物語〔II〕』183~184頁
  9. ^ 阿川弘之 『山本五十六(上)』 新潮文庫、2011年、63頁
  10. ^ 『日本戦艦物語〔II〕』184頁
  11. ^ 「造機部長会議1(2)」p.11
  12. ^ 『日本戦艦物語〔II〕』185~190頁
  13. ^ 「軍艦土佐 加賀製造一件(1)」p.29~32
  14. ^ 『日本戦艦物語〔II〕』181頁
  15. ^ 『日本戦艦物語〔II〕』190~191頁
  16. ^ 「官房第734号 8.4.12 旧土佐3番砲塔運搬の件」p.1~3
  17. ^ 『軍艦島の遺産』40~42頁
  18. ^ 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、2003年、50頁

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08050018300「毎日新聞連載 日本造船十話」・斯波孝四郎『「土佐」「高雄」の廃棄』
    • Ref.C04016181400「戦艦加賀土佐を同時に私立造船所に注文の件」
    • Ref.C04016181500「軍艦土佐用甲鉄費予算の件」
    • Ref.C08050442800「軍艦土佐 加賀製造一件(1)」
    • Ref.C08050442900「軍艦土佐 加賀製造一件(2)」
    • Ref.C08050174000「軍艦尾張製造の件」
    • Ref.C08050162000「進水式(2)」土佐通水状況汚動写真ニ摂影方ノ件
    • Ref.C08050393400「造機部長会議1(2)」
    • Ref.C04016182200「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」
    • Ref.C01003919900「砲塔45口径40糎加農第1号砲(旧土佐2番)秘密図面送付の件」
    • Ref.C05023304000「軍需2機密第324号 8.4.22 官房機密第734号訓令に依る40糎砲塔運搬に関する件」
    • Ref.C05023304100「官房第734号 8.4.12 旧土佐3番砲塔運搬の件」
  • 福井静夫『日本戦艦物語〔II〕』(光人社、1992年)ISBN 4769806086 p.177~191「未曾有の実験艦土佐の最後」

関連項目[編集]