大西瀧治郎
| 大西 瀧治郎 | |
|---|---|
| 1891年6月2日 - 1945年8月16日 | |
| 生誕 | 兵庫県氷上郡芦田村 |
| 死没 | 東京 |
| 軍歴 | 1912 - 1945 |
| 最終階級 | 海軍中将 |
大西 瀧治郎(おおにし たきじろう、明治24年(1891年)6月2日 - 昭和20年(1945年)8月16日)は旧日本海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校第40期生。神風特別攻撃隊の結成と運用に深く関わった。若いころから酒癖が悪く乱暴な性格であったが、陣頭に立って指揮をとり、口先だけの人間を嫌った。戦闘機無用論を支持し、日本軍の真珠湾攻撃に反対した。終戦直後に自決した。
目次 |
生涯 [編集]
海軍入隊 [編集]
1891年6月2日兵庫県氷上郡芦田村(現・丹波市青垣町)の小地主、父・大西亀吉と母・ウタの次男として生まれる。
旧制柏原中学校在学中、日本海海戦勝利の時期であり、中学の先輩から聞かされた広瀬武夫中佐を熱心に崇拝した。1909年海軍兵学校40期[注 1]に20番の成績で入学し、1912年7月17日150人中20番の成績で卒業した。兵学校では、棒倒しの奮闘で山口多聞とともに双璧と言われ、剣道は兵学校で最高の1級、柔道も最上位であった[1]。喧嘩瀧兵衛とあだ名されていた[2]。海軍兵学校卒業後、海軍少尉に任官。1912年7月17日「宗谷」乗り組み。1913年5月1日「筑波」乗り組み。1914年5月27日「河内」乗り組み。1914年12月1日海軍砲術学校普通科学生。1915年5月26日海軍水雷学校普通科学生。1915年12月1日「若宮」乗り組み。
航空将校 [編集]
1915年12月山口三郎ら5名と航空術研究員となり、6期練習将校として飛行操縦術を学ぶ。1916年4月1日横須賀海軍航空隊付。1918年11月1日横須賀鎮守府付、英仏留学。帰国後1921年8月6日横須賀海軍航空隊付、センピル教育団の講習の参加者の一人として選抜され受講した。9月14日海軍砲術学校教官、海軍水雷学校教官。1922年11月1日横須賀、霞ヶ浦海軍航空隊教官。1923年11月1日海軍省教育局員。1924年3度目の海軍大学校受験も不合格[注 2]。学科試験をパスし口頭試問に臨んだが、数日前に料亭で飲んだ際に暴れて芸者を殴り暴力事件として新聞になったことから素行不良を理由に「大西は出頭するに及ばず」と入試候補を取り消された。1925年1月7日霞ヶ浦海軍航空隊教官。1926年2月1日佐世保海軍航空隊飛行隊長。1927年12月1日第一艦隊司令部付、連合艦隊参謀。
1928年2月21日結婚。佐世保海軍工廠人事部長・井上四郎中佐(のち少将)の仲介による松見嘉子(後に淑恵と改名)との見合い結婚[注 3]であり、万松楼で行われたが、まだ結婚を考えていない大西は破談にしようと当日大酒を飲んで泥酔した上に褌姿で芸者を連れて見合いの席に現れ、踊ったり卑猥な言葉を浴びせたりと暴れ、目の上の負傷を嘉子に「軍務上のお怪我ですか?」と尋ねられた際、「先夜、上のほうから拳骨らしきものが降ってきましてなあ」と答えたりもした。しかし、その姿を見た嘉子の母親が大西の傍若無人で飾り気のない人柄を非常に気に入り、「海軍軍人としてあっぱれな振舞い、このような豪傑に娘を嫁がせたい」と嘉子に強く結婚を促し嫁がせた。
1928年11月16日「鳳翔」飛行長。1929年11月1日海軍航空本部教育部員。1932年2月1日第三艦隊参謀。11月15日「加賀」副長。航空演習の当日、天候不良でパイロットが帰還する自信がないことから参加を決めかねていたが、大西の「みんな行って死んでこい」の激しい一言でパイロットは飛んでいき面目を施した。大西によれば「人間その気になってやれないことはない。演習は実戦さながらの訓練であり、もちろん自分の責任で命令した。」という[3]。1933年10月20日佐世保海軍航空隊司令。
1934年11月15日横須賀海軍航空隊副長兼教頭。大西は大型攻撃機論(戦闘機無用論)を支持していた。1935年横空研究会で大西は、戦闘機より優速の双発陸上攻撃機完成が近いこと、戦闘機の短航続力、海上航法能力も小さいため空母での使用制限から戦闘機無用論を唱え戦闘機関係者を論破した[4]。また援護機としての戦闘機はいらないとも語っていた[5]。 1936年4月1日海軍航空本部教育部長。大西は1937年4月佐世保鎮守府で96式陸攻と96式艦戦の防空演習を行い攻撃機側が勝利する結果となり、さらに戦闘機無用論に確信を持つようになる[6]。1937年7月大西は「航空軍備に関する研究」と題するパンフレットを配布した。大型攻撃機論を説いた戦闘機無用論を含む内容だった[7]。また1937年水平爆撃の命中の悪さから水平爆撃廃止論を唱えていた。しかし山本五十六大将の続行方針の明示宣言で終息した[8]。
日中戦争 [編集]
1937年8月21日、海軍航空本部参謀大佐として日中戦争に参加した。九六式陸上攻撃機6機による中国軍飛行場夜間爆撃に指揮官機に同乗するが中国軍戦闘機に迎撃され陸攻4機が撃墜された[9]。1939年10月19日第二連合航空隊司令。11月4日大西は二連空は大挙昼間強襲すべしと命令し自らも指揮官機に同乗しようとした。しかし幕僚らは死なれては士気にかかわると反対し、代わりに13空司令奥田喜久司大佐が行くことで説得した。この出撃で奥田は戦死し遺書には戦死の覚悟と大西への感謝の言葉があったが、大西は部下らに「いったん出撃に臨んで死を決するのでは遅い。武人の死は平素から充分覚悟すべきである。」と厳しい態度をとった。しかし奥田の弔辞を読む際には絶句し崩れ落ちる場面もあった[10]。
大西は第一連合航空隊司令山口多聞と一連空と二連空を統合し連合空襲部隊を創設した[11]。1940年5月12日重慶作戦参加。大西は無差別爆撃を主張したが、山口多聞に反対された[12]。 1941年1月15日第十一航空艦隊参謀長。
太平洋戦争 [編集]
南方作戦 [編集]
1941年1月14日ごろ連合艦隊司令長官山本五十六大将から第十一航空艦隊参謀長大西へ手紙があり、1月26日、27日ごろ大西は長門の山本を訪ねた[13]。山本から大西が受け取った手紙の要旨は「日米開戦は国際情勢いかんであり、そのときは思い切った戦法とらねば勝ちを制しえない。海戦劈頭にハワイ方面の米艦隊主力に全航空攻撃をし当分西太平洋進行を不可能にする。目標の米艦隊群への攻撃は片道の雷撃攻撃とし自ら指揮し全力でやるつもりなので研究を求む。」といったものであった[14]。
真珠湾航空攻撃案を求められた大西は鹿屋司令部に戻り幕僚の前田孝成に詳細を伏せて真珠湾での艦隊雷撃の可能性を聞くが真珠湾は浅いため技術的に不可能だと言われた[13]。大西は2月初旬今度は第1航空戦隊参謀源田実を呼びつけ中旬に訪れた源田に大西は山本からの手紙を見せ同様の質問をする。源田から「雷撃は専門ではないから分かりかねるが研究あれば困難でも不可能ではない、できなくても致命傷を与えることを考えるべき。空母に絞れば急降下爆撃で十分。問題は接近行動にある。」という回答がある[13][15]。また大西は機密保持を第一にしたいとし攻撃は成果が確認できる昼がいいと考えを述べる[15]。大西は源田に作戦計画案を早急に作るよう依頼し源田は2週間ほどで仕上げ提出しそれに大西が手を加え作案し3月初旬ごろ山本に提出する[13]。大西は戦艦には艦攻の水平爆撃を行うとし出発を単冠湾として案をまとめて山本に提出[16]。9月ごろ源田が大西から参考のため手渡されたものには雷撃が不可能でも艦攻は降ろさず小爆弾を多数搭載し補助艦艇に攻撃を加え戦艦に致命傷なくても行動できなくするようにするとなっていたという[17]。
しかし1941年9月24日軍令部において大西は草鹿龍之介の真珠湾攻撃への悲観論に同調し、10月初旬には二人で山本にフィリピン作戦に支援すべきと具申するが大西は黒島亀人に説得される[18]。吉岡忠一によれば大西は「日本では武力でアメリカを屈服させる事が出来ないので早期戦争終結を考え長期を避け真珠湾攻撃のような刺激する作戦は避けるべき」と言っていたという[19]。山本は大西と草鹿に「ハワイ奇襲は断行する。無理もあるが積極的に考えて準備するように。投機的と言わずに君たちにも一理あるが僕のも研究してくれ。」と説得した[20]。
太平洋戦争開戦時にはフィリピン攻略戦に参加。10月初旬の鹿屋図演において第3航空隊は零戦によるマニラ周辺への直接攻撃を提案。計画していた小空母を使用した戦闘機隊の効率の悪さ、戦闘機と陸上攻撃機の協同の難から柴田武雄が提案した。日中戦争の時、零戦は430里進攻の経験があり燃料消費量を調整すれば500里も可能と主張する[21]。しかし第11航空艦隊参謀長の大西は「君の意見は飛行実験部的意見にすぎない」と一蹴し[22]、司令部も実績がない、作戦を変更するには資料不足と却下した[21]。そのため第3航空隊は航続力延伸の研究し、亀井凱夫司令が意見書として10月末に空戦、射撃訓練の時間さえ十分ではないので着艦訓練は不可能、空母使用はやめるべきという内容で提出され大西参謀長は作成者の柴田に直接読むように許し、「わかった。必ず山本五十六に納得させる。以後空戦、夜間編隊発進、遠距離侵攻に必要な訓練を行え」と内命した。柴田はこの時ほど人間大西の偉大さを感じたことはないという[22][23]。
航空行政 [編集]
1942年3月20日海軍航空本部総務部長。1943年11月1日軍需省航空兵器総局総務局長。航空兵器総局の立ち上げにおいて長官の人選で陸海でもめたが大西は同格で陸軍の遠藤三郎陸軍中将に長官を譲ったため陸軍は大将を出すと騒いだが大西は気にしないと言い遠藤は大西に心服した[24]。マリアナ沖海戦の敗北直後、サイパン確保のために陸海による全力の反復攻撃を行う意見書を遠藤とともに提出したが認められなかった[25]。この頃大西は軍令部次長になりたいと意見書を提出し米内光政海軍大臣にも話していた[26]。
神風特別攻撃隊 [編集]
神風特攻隊創設者大西瀧治郎中将の下には創設以前から特攻を求める意見が寄せられていた。1943年6月29日城英一郎大佐から敵艦船に対し特攻を行う特殊航空隊編成の構想が大西に上申された。その際大西は「意見は了解したがまだその時期ではない」と答えた[27]。しかし日本軍がマリアナ沖海戦に負けると、再び城は大西に特攻隊編成を電報で意見具申した[28]。また岡村基春大佐からも大西へ特攻機の開発、特攻隊編成の要望があった[29][注 4]。252空舟木忠夫司令も体当たり攻撃以外空母への有効な攻撃はないと大西に訴えた[31]。大西自身もこの頃には「なんとか意義のある戦いをさせてやりたい、それには体当たりしかない」「もう体当たりでなければいけない」と周囲に語っていた[32][33]。1944年7月1日航空兵器総務局で作成した航空機生産計画には増産の重点を戦闘機とし全て爆装を付すことを決めた[34]。また19日新聞取材に「体当たりの決意さえあれば勝利できる。量の相違など問題ではない」と語った[29]。特攻兵器桜花についても賛意を示していた[31]。中央でもすでに特攻の研究が進められていたが神風特攻隊はそれとはまた別の動きであった[35]。
1944年10月5日大西が第一航空艦隊司令長官に内定した。この人事は特攻開始を希望する大西の意見を認めたものとも言われる[36]。妻には「平時ならうれしい人事だが今は容易ならず決意が必要。」と語った[37]。大西は軍需局を去る際に局員杉山利一らに「向こうに行ったら必ず特攻をやるからお前らも後から来い」と声をかけた。杉山は大西自ら真っ先に体当たりするだろうと直感したという[33]。大西は出発前に米内光政海軍大臣に「フィリピンを最後にする」と特攻を行う決意を伝えて承認を得た[38]。また及川古志郎軍令部総長に対しても決意を語った。及川は「決して命令はしないように。戦死者の処遇に関しては考慮します。」[39]「指示はしないが現地の自発的実施には反対しない」と承認した。大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した[40]。大西は軍令部航空部員源田実中佐に戦力を持っていきたいと相談するが、源田は現在それがないことを告げ代わりに零戦150機の準備をすることを約束した。その際大西は場合によっては特攻を行うという決意を話した[41][42]。大西中将は特攻の戦果発表に関心を持っており、長官に内定した1944年10月5日海軍報道班員に「特攻隊の活躍ぶりを内地に報道してほしい。よろしく頼む」と依頼していた[43]。またフィリピンへ出発する前に、もし特攻を行なった場合の発表方法について中央とも打ち合わせをした(決定はされておらず中央から特攻後大西に発表方法について意見を求める電文が発信された)[44][45][注 5]。
1944年10月9日フィリピンに向け出発した大西は到着までに台湾新竹で航空戦の様子を見て多田武雄中将に「これでは体当たり以外方法がない」と話し、連合艦隊長官豊田副武大将にも「単独飛行がやっとの練度の現状では被害に見合う戦果を期待できない、体当たり攻撃しかない、しかし命令ではなくそういった空気にならなければ実行できない」と語った。フィリピンに到着すると大西は交替する一航艦長官寺岡謹平中将に「基地航空部隊は当面の任務は敵空母甲板の撃破とし発着艦能力を奪い水上部隊を突入させる。普通の戦法では間に合わない。心を鬼にする必要がある。必死志願者はあらかじめ姓名を大本営に報告し心構えを厳粛にし落ち着かせる必要がある。司令を介さず若鷲に呼び掛けるか、いや司令を通じた方が後々のためによかろう。まず戦闘機隊勇士で編成すれば他の隊も自然にこれに続くだろう、水上部隊もその気持ちになるだろう、海軍全体がこの意気で行けば陸軍も続いてくるだろう。」と語り必死必中の体当たり戦法しか国を救う方法はないと結論して寺岡から同意を得て一任された[48]。
1944年10月19日大西はマニラ艦隊司令部にクラーク基地の761空の司令前田孝成大佐、飛行長庄司八郎少佐とマバラカット基地の201空の司令山本栄中佐、飛行長中島正少佐を呼び出し特攻の相談をすることにした。しかし761空側は到着し相談できたが201空側は到着が遅れ大西は自ら出向くことにしたがすれ違いとなり会うことはなかった[49]。しかし小田原参謀長が代わりに山本司令に会って特攻決行の同意を得た[50]。1944年10月19日大西中将は夕刻マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で201空副長玉井浅一中佐、一航艦首席参謀猪口力平中佐、二十六航空戦隊参謀吉岡忠一中佐らを招集し会議を開いた。大西は「米軍空母を1週間位使用不能にし捷一号作戦を成功させるため零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどうだろう」と提案した[49]。山本司令が不在だったため玉井副長は自分だけでは決められないと答えた。大西は、山本司令から同意を得ていることを伝え、決行するかは玉井に一任した。玉井は時間をもらい飛行隊長の指宿、横川らと相談して体当たり攻撃を決意し大西に伝えた。玉井はその際、編成に関しては航空隊側に一任してほしいと要望して大西はそれを許可した[49][51]。猪口力平参謀が「神風特別攻撃隊」の名前を提案し玉井も「神風を起こさなければならない」と同意して、大西がそれを認めた。また大西は各隊に本居宣長の歌「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」から敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と命名した[52]。
1944年10月20日第一航空艦隊司令長官着任。神風特別攻撃隊の隊名を付し、編成なども発表され大西による訓示が行われた[53]。大西は敷島隊へ「日本は今危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする。」と訓示した。 神風特攻隊編成命令書を大西、猪口力平、門司親徳で起案し連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信した[53][54]。
10月21日大西は特攻で空母の甲板撃破の時間的余裕を得るため三川軍一に協議しに行くが25日で行動予定を組んでいるため変更は困難と断られる。22日福留繁に第二航空艦隊も特攻を採用するよう説得するが失敗する。第一航空艦隊特攻戦果が出た25日に第二航空艦隊も特攻を採用する[55]。
特攻成功後大西は福留を説得し第一航空艦隊と第二航空艦隊を統合した連合基地航空隊が編成され福留が指揮官、大西が参謀長を務める[56]。大西は第一航空艦隊、第二航空艦隊、721空の飛行隊長以上40名ほどを召集し、大編隊の攻撃は不可能で少数で敵を抜け突撃すること、現在のような戦局ではただ死なすより特攻は慈悲であることなどを話して特攻を指導した[57]。大西の強引な神風特攻隊拡大に批判的な航空幹部もいたが、大西は「今後俺の作戦指導に対する批判は許さん」「反対する者は叩き切る」と指導した[58]。10月27日には大西によって神風特別攻撃隊の編成方法、命名方法、発表方針などが軍令部、海軍省、航空本部など中央に通達された[59]。大西は特攻隊員の心構えを厳粛にするため特別待遇を禁じ、他の勝手な特攻も禁じた[58]。猪口力平によれば27日特攻隊を見送った大西は「城が言っていたが現場で決心がついた。こんなことしなければならないのは日本の作戦指導がいかにまずいかを表している。統率の外道だよ。」と語ったという[60]。
1944年11月16日福留繁中将が特攻の必要と増援の意見具申電(1GFGB機密第16145番電)を発する。大川内傳七中将も同旨だとして大西を上京して説明すると打電。11月18日大西は猪口力平を伴い日吉司令部で豊田副武に状況報告をし軍令部で及川古志郎軍令部総長に改めて趣旨を説明し「増勢しつつ現兵力でレイテ作戦の対機動部隊作戦を続行し、別の新攻略作戦に充当兵力がほしい。練習航空隊から200機は抽出できるはずで敵来攻時に北部台湾備え待機させる。ここ1・2週間が重大な時期。」と増援を要望する。軍令部と海軍省の協議で練習航空隊から零戦150機の抽出が決定された[61]。
1945年1月10日第一航空艦隊は台湾に移転。1945年5月19日軍令部次長に着任。海軍大学甲種卒業者ではない大西が着任する異例の人事であった[31]。大西は機帆船での逆上陸構想を推進した。富岡定俊少将によれば軍令部では大西だけが熱心であったという[62]。
終戦と自決 [編集]
終戦が近いころ、大西は「二千万人の男子を特攻隊として繰り出せば戦局挽回は可能」という二千万特攻論を唱えて豊田副武軍令部総長を支えて戦争継続を会議で訴えた。「我々で画策し奏上し終戦を考え直すようにしなければならない。全国民二千万人犠牲の覚悟を決めれば勝利はわれわれのもの」と主張した[63]。大西が最高戦争指導会議に現れたことについて後日米内光政海軍大臣は「招かれもせぬのに不謹慎な態度で入ってくるのはみっともない、意見なら大臣に申し出ろ」と叱った。大西は涙を流し首をうなだれていた[64]。内閣書記官長迫水久常のもとにも現れ手を取って「戦争を続けるための方法を何か見つけることはできませんか」と訴えた[63]。
1945年8月15日終戦。8月16日渋谷南平台の官舎にて大西は遺書を残し割腹自決した。午前2時から3時ごろ腹を十字に切り頸と胸を刺したが生きていた。官舎の使用人が発見し、多田武雄次官が軍医を連れて前田副官、児玉誉士夫も急行した。熱海にいた矢次一夫も駆けつけたが昼過ぎになった。大西は軍医に「生きるようにはしてくれるな」と言い、児玉に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。厚木の小園に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ。」と話した。児玉も自決しようとすると大西は「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ。」といさめた。遺書は5通あったとされる。「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書は、自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すとし、また一般壮年に対して軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭した内容であった。別紙には富岡定俊軍令部長に当てた添え書きがあり「青年将兵指導上の一助ともならばご利用ありたし。」とあった。妻淑恵(嘉子)に対する遺書には、全て淑恵の所信に一任すること、安逸をむさぼらず世のため人のため天寿を全くすること、本家とは親睦保持すること、ただし必ずしも大西の家系から後継者を入れる必要はないこと、最後には「これでよし百万年の仮寝かな」と辞世の句があった。他に多田、児玉、矢次に対しても遺書があった[1]。享年55。また辞世の句として友人増谷麟に当て「すがすがし 暴風のあと 月清し」と詠んだ[65][66]。
戦後特攻隊員の戦死者名簿には大西の名も刻まれた。墓は西芦田共同墓地と鶴見総持寺とにある。2000年、鶴見総持寺の大西中将の墓所に、「遺書の碑」が建てられた。発起人である元副官門司親徳により、命日である8月16日に除幕式が催された。
人物 [編集]
大西は日中戦争では攻撃機に乗って陣頭指揮をとり、飛行機、飛行船にも乗る、開戦以前から山本五十六大将に次ぐ日本航空の大立物として知られる人物であった[67]。
猪口力平大佐によれば、大西は腹の据わった押しの強い闘志満々の士と評判であり、常に陣頭に立ち下から慕われ、また大西も可愛がっていた。智勇に優れた山本五十六と似た気風を持っていた。机上の空論や口先だけの人か実力あり腹据わり信頼置けるかが好き嫌いの基準であったという[68]。副官門司親徳は大西に厳しさに満ちた中にも直感的に親しみを感じたという[69]。
大西は児玉誉士夫など右翼と公然と付き合ったため批判もあった[70]。
甥に笹井醇一がいる。
航空戦略 [編集]
大西は航空主兵論者の一人で1935年戦艦大和、武蔵の製造に関し一方を廃止し5万トン以下にすれば空母が三つ作れると主張し[71]、福留繁軍令部課長に大和一つの建造費で千機の戦闘機ができると主張し今すぐ建造を中止するように要望した[72]。
1937年7月海軍航空本部教育部長の際「航空軍備に関する研究」と題するパンフレットを各方面に配布した。大遠距離、大攻撃力、大速力を持つ大型機による革新を説くもので、大型機が将来的に戦艦の役割も担い新艦艇として制海権も獲得できると主張した。潜水艦以外の艦艇は航空に対抗し得ない。また小型航空機は現戦略戦術を根底から変えることはできない、戦闘機、対空防御砲火は現在も信頼できず、将来的にも爆撃機の速度、高度増大でさらに必要がなくなるといった戦闘機無用論も含んでいた。日本海軍では初の航空戦力による政戦略攻撃にまで言及した文章であった[73]。
日中戦争における零戦の初陣でパイロットから防弾の弱さについて「防弾タンクにしてほしい」と不満が出たが、技術士官は零戦の特性である空戦性能、航続距離が失われるので高速性、戦闘性を活かし活動し効果を発揮するべきと意見が割れた。大西はそれに対しただ今の議論は技術士官の言う通りと言って収めてパイロットたちは黙った[74]。
特攻 [編集]
大西は神風特別攻撃隊の提唱者である[40][注 6]。大西は一航艦参謀長小田原俊彦少将ら幕僚に神風特攻隊を創設する理由を「軍需局の要職にいたためもっとも日本の戦力を知っており、重油、ガソリンは半年も持たず全ての機能が停止する、もう戦争を終わらせるべきである。講和を結ばなければならないが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため一撃レイテで反撃し、7:3の条件で講和を結び満州事変のころまで日本を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。またこの犠牲の歴史が日本を再興するだろう。」と説明した[76][77][注 7]。大戦末期の厳しい戦況で何もできずに死んでいくよりは戦果を確信して死ねる特攻は大愛、大慈悲であると考えていた[79][80]。大西は特攻が始まる当時よく「青年の純、神風を起こす」と筆を揮い、猪口力平によれば「日本を救い得るのは30歳以下の若者である。彼らの体当たりの精神と実行が日本を救う。現実の作戦指導も政治もこれを基礎にするべきである。」と語ったという[81]。副官門司親徳に「棺を覆うて定まらず百年の後知己を得ないかもしれない。」と語ったという[82]。福留繁によれば大西は「日本精神の最後の発露は特攻であり特攻によって祖国の難を救い得る」と確信していたという[83]。
吉岡忠一は「もうそれしか方法はなかったと思う。大西は勝っても自刃しただろう。」と話した[84]。吉松正博は大西が第一航空艦隊長官に就いた人選は場合によっては特攻もやむを得ないとする中央が航空関係者から人望のある大西を適任と考えたものだろうと話している[41]。源田実は大西の立場に立たされば、山本五十六も山口多聞も同じことをやったろうし彼ら自身が特攻機に乗って出撃しただろうそれが海軍軍人であると話している[85]。門司親徳は「若ければ大西も隊長として真っ先に特攻へ行っただろう。大西は彼らだけ死なせるつもりがないと感じられ別世界だった。」と語った[86]。
脚注 [編集]
注釈 [編集]
- ^ 海兵同期に、福留繁、多田武雄、宇垣纏、山口多聞ら。
- ^ 海軍大学校受験は3回までという制限があり最後のチャンスであった。
- ^ きっかけは嘉子夫人の姉久栄が笹井賢二造兵大尉に嫁ぎ、佐世保の官舎に住んでおり、懇意にしていた井上の妻に妹の縁談相手の紹介を頼んだことにある。松見家は一橋家の御典医の家系で、父文平は一橋大学の創立者にして府会議員であり、教育界や政界にも知られる名家であった。
- ^ これらから神風特攻隊の発案は城英一郎[30]や岡村基春[29]と見る者もいる。
- ^ 大海機密第261917番電 1944年10月13日起案,26日発信「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」発信中沢祐、起案源田実「一航艦同意シ来レル場合ノ発表時機其ノ他二関シテハ省部更二研究ノコトト致シ度」人事局主務者の意見[44][45]神風の名前が既にあるため大西は出発前にすでに名前も打ち合せていたとも言われる。しかし命名者の猪口力平中佐は19日に提案したと証言し、電文の起案を担当した源田実中佐もフィリピンへの出張で大西から直接聞いたと証言している[46]。門司親徳(特攻編成起案者)によれば起案日は誤記で23日ではないかと話している[46][47]
- ^ しかしそれ以外の特攻はこれ以前に別の動きとして計画されていたものである。[75]
- ^ 大西が現地で語った神風特攻隊の目的から神風特攻隊は米内光政海軍大臣の一撃和平の一環であったと見る者もいる。[78]
出典 [編集]
- ^ a b 秋永 (1983)、13–16頁。
- ^ 生出 (1984)、102頁。
- ^ 秋永 (1983)、6–7頁。
- ^ 奥宮 (1982)、43頁。
- ^ 碇 (2000)、157頁。
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参考文献 [編集]
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- 防衛庁防衛研修所戦史室 『海軍航空概史』 朝雲新聞社〈戦史叢書95〉、1976年。
- 奥宮正武 『海軍特別攻撃隊』 朝日ソノラマ、1989年。ISBN 978-4257170204。
- 千早正隆 『日本海軍の驕り症候群』上、中央公論社〈中公文庫〉、1997年。ISBN 978-4122029927。
- 源田実 『真珠湾作戦回顧録』 文藝春秋〈文春文庫〉、1998年。ISBN 978-4167310059。
- 秋永芳郎 『海鷲の割腹』 光人社、1983年。ISBN 978-4769801986。
- 神立尚紀 『戦士の肖像』 文春ネスコ、2004年。ISBN 978-4890362066。
- 生出寿 『特攻長官 大西滝治郎』 徳間書店、1984年。ISBN 978-4192230148。
- 碇義朗 『鷹が征く―大空の死闘・源田実VS柴田武雄』 光人社、2000年。ISBN 978-4769809555。
- 大野芳 『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男―追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』 サンケイ出版、1980年。
関連項目 [編集]
演じた人物 [編集]
- 宮口精二 (『太平洋の翼』)
- 二本柳寛 (『日本のいちばん長い日』)
- 三橋達也 (『山本五十六』)
- 安部徹 (『トラ・トラ・トラ!』)
- 内田朝雄 (『最後の特攻隊』)
- 鶴田浩二 (『あゝ決戦航空隊』)
- 伊武雅刀 (『俺は、君のためにこそ死ににいく』)
関連文献 [編集]
- 門司親徳 『空と海の涯で―第一航空艦隊副官の回想』 毎日新聞社、1978年。