匝瑳胤次

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匝瑳そうさ 胤次たねひろ
生誕 1878年1月7日
死没 (1960-04-14) 1960年4月14日(82歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1900年 - 1924年
最終階級 海軍少将
除隊後 著作家
東京市会議員
イスラム協会常務理事[1]
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匝瑳 胤次(そうさ たねひろ/ひさ たねじ、1878年明治11年)1月7日 - 1960年昭和35年)4月14日)は、日本海軍軍人第三回旅順港閉塞作戦で「三河丸」指揮官を務める。最終階級は海軍少将予備役後は著作家としても活動し、軍縮条約反対[2]の立場で論陣を張った。東京市会議員[3]

生涯[編集]

三河丸乗員
略歴

大阪府堺市東京府士族の次男として生まれる[4]海軍兵学校26期。席次は下位であった[5]。同期に小林躋造野村吉三郎高柳直夫などがいる。1900年(明治33年)少尉任官。

日露戦争開戦を迎え、砲艦赤城」航海長として出征し、第三回旅順港閉塞作戦に「三河丸」 指揮官として参加。その後横須賀海軍工廠艤装員として、日本に最初に導入されたホーランド型潜水艇の艤装にあたり、完成後は日本海軍初の潜水艇部隊である第一潜水艇隊(小栗孝三郎司令)の艇長として、戦後の観艦式に参加した[6]少佐時代は「磐手」、「丹後」、「浅間」、「周防」、「薩摩」の各砲術長、海兵砲術教官などを務め、1912年大正元年)12月、中佐へ進級。第一次世界大戦期は第三戦隊参謀、臨時青島防備隊司令を務める。1916年(大正5年)には、運送船「志自岐」指揮官として座礁事故を起こした[7]1917年(大正6年)大佐へ進級。「肥前」兼「敷島艦長を経て、戦艦「比叡」艦長となる。なお、「吾妻」艦長に就任したと記す文献もあるが[8][9][* 1]、それは誤り[* 2]。匝瑳が「比叡」艦長職にあった期間は2年である。任期の前半における「比叡」は予備艦であったが、第一艦隊に復帰して青島大連などの警備にあたった[8]

佐世保海兵団々長在任中の1922年(大正11年)12月に少将へ昇進し、翌年予備役となる。昭和期にはロンドン海軍軍縮条約に反対の立場をとり、『深まりゆく日米の危機』(1932年(昭和7年))を著す。同書は1ヶ月で18版を重ね、ベストセラーとなった[10]。匝瑳と反対の立場で軍備撤廃を訴えた水野広徳は海兵の同期生(26期)である。以後も海軍関係の著作を刊行し、また東京市会議員を務めている。1933年には在郷軍人の国家主義団体である明倫会を結成し政務部長に就任[11]1942年(昭和17年)には大日本言論報国会理事に就任した[12]。翌年、東京都発足による第1回東京都議会議員選挙に立候補して当選した。

戦後、公職追放となった(1952年(昭和27年)、追放解除[13])。

第三回旅順港閉塞作戦[14]
匝瑳を救出し、のち立場が分かれた水野広徳

匝瑳が指揮官を務めた「三河丸」は「新発田丸」、「小倉丸」、「朝顔丸」と第一小隊を構成し、その四番船であった。1904年(明治37年)5月2日、総指揮官林三子雄中佐に率いられ12隻は閉塞に向かう。

出撃当初は穏やかな天候であったが、風浪が激しくなったため林中佐は中止命令を発し反転した。しかしこの命令は伝わらず、閉塞部隊は反転するもの、直進するもの、再反転するものと対応が分かれ、「三河丸」は直進した。同船は汽罐が不調で、他船と分離した状態となり、匝瑳は単独突入を危険であるとして他船との合同を図った。しかし砲声が聞こえたことから突入が始まったものとして単独で突入した。

5月3日、午前2時30分、「三河丸」はロシア軍に発見され銃砲撃が集中する。この時の様子を匝瑳は「煌々タル光ニ眼ハ眩ミ、轟々タル響ニ耳ハ聾シ」と表現している[15]。防材を突破して進撃し、ロシア軍探海燈に妨げられ周囲の地形を十分確認することはできなかったが、好位置に達したと判断し「三河丸」を爆沈させた。端舟での離脱行の最中もロシア軍の追撃を受けたが、脱出に成功。「三河丸」の乗員18名は四等機関兵姥谷常次郎が戦死し、負傷者は6名である。午前4時30分、「三河丸」乗員を乗せた端舟は第41号水雷艇に発見され、同艇に救出された。艇長は水野広徳であった[16]

栄典[編集]

位階
勲章等

著作等[編集]

  • 海軍』青木嵩山堂、1903
  • 『日米対立論』精文館、1932
  • 『深まりゆく日米の危機』精文館、1932
  • 『現代の海軍』大日本図書、1936
  • 『一九三五年の軍縮会議と日本』明倫会本部、1936
  • 『旅順閉塞隊秘話 第3回』東京水交社、1936
  • 『事変下に於ける帝国海軍と国民への要望』国防協会、1938
  • 『日支事変と最近の国際情勢 英仏植民政策の暴露』日本協会出版部、1938
  • 『歴史は転換す』新東亜協会、1942
  • 『思想戦の根基』「現下の世界戦局」東洋経済新報社出版部、1942
  • 『海軍と青年』潮文閣、1943
  • 『海戦の科学』啓徳社出版部、1943
  • 『潜水艦出撃』東華書房、1943
  • 『大東亜戦と青年』潮文閣、1943
  • 『日米決戦の海軍戦略』冨山房、1943
  • 『決戦の海』新大衆社、1944
  • 『北洋と海軍』北方日本社、1945

脚注[編集]

  1. ^ 「吾妻」艦長の履歴は『日本海軍史』(10巻) には記載が無い。なお『艦長たちの軍艦史』では「匡瑳胤次」、『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』では「匝瑳胤次」で掲載され読みは双方とも「ひさたねじ」である。
  2. ^ 匝瑳が「吾妻」艦長に発令されたとされる大正8年8月5日に艦長となったのは原田正作大佐(海兵24期)である(「免本職補吾妻艦長 敷島艦長海軍大佐 原田 正作」『官報』第2101号、大正8年8月6日。『日本海軍史』(10巻)、354頁)。匝瑳が「比叡」艦長に発令された時点の現職は「肥前」艦長である(「免本職補比叡艦長 肥前艦長海軍大佐 匝瑳 胤次」『官報』第2493号、大正9年11月22日)。

出典[編集]

  1. ^ 「要視察人関係雑纂/外国人ノ部 第八巻 21.シリア人」
  2. ^ 『海軍兵学校物語』p.80
  3. ^ 櫻井良樹 普通選挙における東京市会議員総選挙についてPDF 2012年3月4日閲覧
  4. ^ 『日露戦史名誉列伝』「匝瑳胤次君列傳」
  5. ^ 『海軍兵学校沿革』
  6. ^ 『日本潜水艦戦史』15頁-16頁
  7. ^ 「諸報告(1)」
  8. ^ a b 『艦長たちの軍艦史』p.12
  9. ^ 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』p.87
  10. ^ 『海軍兵学校物語』p.78
  11. ^ 『朝日新聞記者の見た昭和史』中野五郎著
  12. ^ 野村重臣『言論報國會と思想戰』昭和書房、1943年5月20日、49頁。NDLJP:1455511 
  13. ^ 『朝日新聞』1952年4月15日夕刊1面。
  14. ^ 『極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻4』
  15. ^ 『日露戦争(2)』p.325
  16. ^ 『戦影』pp.149-150
  17. ^ 『官報』第4989号「叙任及辞令」1900年2月21日。
  18. ^ 『官報』第5539号「叙任及辞令」1901年12月18日。
  19. ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
  20. ^ 『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。
  21. ^ 『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。
  22. ^ 『官報』第1647号「叙任及辞令」1918年1月31日。
  23. ^ 『官報』第3126号「叙任及辞令」1923年1月4日。
  24. ^ 『官報』第3483号「叙任及辞令」1924年4月7日。
  25. ^ 『官報』第8679号「叙任及辞令」1912年5月27日。
  26. ^ 『官報』第5835号・付録「叙任及辞令」1902年12月13日。
  27. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。

参考文献[編集]

  1. 「要視察人関係雑纂/外国人ノ部 第八巻 21.シリア人」(ref:B04013103400)
  2. 「諸報告(1)」(ref:C08020776000)
  3. 『極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻4』「第2編 旅順口及ひ仁川の敵艦隊に対する作戦/第10章 旅順口第3回閉塞」(ref: C05110041500)
  • 池田清『日本の海軍(上)』朝日ソノラマ、1987年。ISBN 4-257-17083-2 
  • 井上秋剣編『日露戦史名誉列伝』駿々堂、1906年。 
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』(10巻)第一法規出版
  • 鎌田芳朗『海軍兵学校物語』原書房、1979年。 
  • 児島襄『日露戦争(2)』文春文庫、1994年。ISBN 4-16-714147-7 
  • 坂本金美『日本潜水艦戦史』図書出版社、1979年。 
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4-8295-0003-4 
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9 
  • 水野広徳『戦影』金尾文淵堂、1914年。 
  • 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房