栗田健男
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栗田健男(くりた たけお、1889年4月28日 - 1977年12月19日)は日本海軍の軍人、海軍中将。茨城県水戸市に生まれる。旧制水戸中学校(現茨城県立水戸第一高等学校)、海軍兵学校(38期)卒業。
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[編集] 経歴
水戸藩士の家に生まれる。祖父は藤田東湖、会沢正志斎の弟子で東京帝大教授栗田寛文学博士、父は漢学者で大日本史編集員であった栗田勤。遥かな祖先は清和源氏に連なると言うが、元禄時代に水戸に移り油屋を生業とした。父の訓育は水戸の気風を反映し無骨と不言実行をモットーとしたと言う。伊藤正徳によれば、青少年時代は学問は出来、なによりも頑張りやその上に高い人格を持っていたという[1]。
兵学校卒業後は駆逐艦や軽巡洋艦艦長、海軍水雷学校教頭、水雷戦隊司令官を歴任。いわゆるエリートコースとされる海軍大学校甲種学生を経ていない数少ない将官の一人である(ただし、乙種学生として1年海大で教育を受けている)。
[編集] 海軍時代
- 1910年7月18日 海軍兵学校卒業38期。揚子江勤務。
- 1932年12月1日 大佐。第十二駆逐隊司令官。
- 1934年11月15日 阿武隈艦長。
- 1935年11月15日 水雷学校教頭。
- 1937年12月1日 金剛艦長。
- 1938年11月15日 少将。第一水雷戦隊司令官。
- 1939年11月25日 第四水雷戦隊司令官。
- 1940年11月1日 第七戦隊司令官。
- 1942年
- 太平洋戦争開戦時は第七戦隊司令官として最上型重巡洋艦4隻を率い、バタビア沖海戦、セイロン沖海戦に参加。1942年5月1日中将。6月ミッドウェー海戦に参加。7月12日第三戦隊司令官。金剛型戦艦を率い、10月ヘンダーソン基地艦砲射撃作戦、南太平洋海戦に参加。
- 6月マリアナ沖海戦に参加。その後艦隊は一旦本土に戻ったものの燃料事情を考慮してスマトラ島のリンガ泊地に移動した。10月にはレイテ沖海戦で第一遊撃部隊を指揮し、潜水艦の襲撃、シブヤン海海戦を経て艦隊は大損害を受けた。その後生起したサマール沖海戦にて敵機動部隊うち一つを撃滅したと誤認、北方機動部隊を求め反転した後、作戦目的であった輸送船団攻撃を果たさず帰投した。この行動は後に「謎の反転」と呼ばれることになり、現在でも同海戦について語られる際には大きな議論の対象となっている(経緯・論議の詳細はレイテ沖海戦を参照)。12月23日出仕。
[編集] 戦後
終戦直後、占領軍は戦史編纂の準備の為もあり、日本海軍技術調査団などの組織をつくって多くの政治・軍事関係者へのインタビューを行った。栗田もその際かなりの質問を受け、その量は小沢よりも遥かに多い。その回答が記録に残された。これらは後に『明治百年叢書』の一環で原書房より刊行された。その後、多くの海軍高級士官が海軍関係実業家などの知己を頼って新しい職を見つける中、栗田は冷遇され、自宅で筆耕の内職を行っていた。ただし、亀井宏によれば軍人恩給から外されることはなかったようで、また、第1次ソロモン海戦での行動を批判されていた三川軍一とは仲が良かった。ジャーナリズム関係、特に物を書く人間に対しては、厳しい態度を崩さなかったと言う[2]。
マスコミはもとより海軍関係の訪問者にも固く口を閉ざす事が多かったが戦後10年余りを経過し小柳などが著書を出版する中、『丸』昭和32年11月号で栗田の証言が掲載されている。その後、戦史研究家の児島襄がレイテ沖海戦について取材を行った際、同じ海兵38期の土田斉の助力により3回に渡っての取材が実現、取材を纏めた『悲劇の提督』では他の第二艦隊幹部と共に多くの証言を残した。水交会が復活してからは寄稿も行った[3]。亀井自身も昭和40年代後半に取材を試み、失敗したと述べているが、その頃太平洋戦争を題材にしたテレビアニメ『決断』が放送されており、新名丈夫はその企画中で発行された『決断 VOL.3』にて栗田との会見に成功した。一方二年に一度、靖国神社への参拝を欠かさなかった。妻は早世したという。
[編集] 評価
当時の日本海軍で最も長い戦歴を持つ実戦指揮官の一人であり、駆逐艦艦長11回、駆逐隊司令3回、水雷戦隊司令官3回など[4]、水雷屋として多くの戦闘を経験してきたベテランであった。艦隊勤務が多い「車曳き」であり、奉職した34年間の内陸上勤務は水雷学校学生、教官、教頭時代と2回の病気(痔、胃アトニー)の際の9年間である。開戦時からの経歴を辿っても、海軍が事実上壊滅して指揮出来る艦艇が無くなり海軍兵学校の校長に任じられるまでは常に前線で指揮を執り続けていた。吉田俊雄によれば好きなものは野球であったという。
レイテ海戦時のいでたちは白の半袖防暑服、白の長ズボン、白戦闘帽、ズックであり、白装束と言う意味ではなく、いつも通りの服装であった。この時の「謎の反転」の当事者として有名で、多くの批判を受けている提督である。非難の内容としては「みすみす艦隊を壊滅させ、フィリピンで戦っていた陸軍将兵を含め多くの将兵をあたら無駄死にさせた上、自分は生き残った」「突入の命令は絶対である」といった論調が多い。
評価の詳細については批判と擁護に分けて後述する。また、各海戦そのものについては各項目を参照のこと。
史実に沿った内容の戦記小説の類に携わる者の間においては、怯惰・無能であるとの評価を利用する例が多い。更にそれらをも参考として書かれた、太平洋戦争を舞台にした仮想戦記では大抵の場合戦死など悲惨な役回りを与えられる事が多い。仮想戦記作家は自らがどうしてその筋書きを採用したのか、その理由については述べないことが多いが、軍事評論と創作活動を共にこなす佐藤大輔は、『逆転、太平洋戦史』内の評論部分にて、レイテ沖海戦の反転の原因になった電報を栗田の頭の中に存在した幻想とし、「あらゆる罵倒を書き連ねたくなる」と述べ、作品内でも臆病、消極的と形容し不遇な扱いを繰り返した。このような仮想戦記は史実を述べたものではないのは当然だが、1990年代以降、日本社会においては佐藤大輔が述べた「願望充足」という文化的現象としてたち現れてきたものでもある。また、亀井宏は、「過去の時代を理解することの難しさ」などと小見出しを使い、一般社会と組織内での人物評の落差や、その組織人たる軍人も、文章力やアピール度合いに大きな差があることを述べ、栗田評に関して「イヤな奴ほど傑作を書く」という物書きの警句を紹介している[2]。
現実においては今なお評価は定まっていない。また、歴史小説等の創作物、ドキュメントの推測部分に関しては、歴史認識や人物評価に特定のバイアスを増幅したりしたかについても司馬遼太郎などの歴史小説が抱える問題(同じ軍人で言えば乃木希典)と同様に問題がある。
一般社会においては創作物・史書・評論の影響が様々に現れる。OKWAVE等が管理する質問サイトで安易に歴史の評価を質問する事例も多い。不特定多数が集まる2ちゃんねるは出版物などでも多くの識者により掃き溜めという批判がなされるが、軍事板には何年にも渡って、日常の不満まで栗田の責任とする悪意の篭った遊戯的な批評とすら呼べない中傷的行為を継続しているスレッドもある(これに対し個人的なエピソードまで含めてより悪質と評価される事が多い牟田口廉也や国政の中枢で暗躍し日本の命運により大きな影響を与えた軍人政治家等にはこのような個人批判スレッドの継続は見られない)。これらの批判はいずれも極めて強い語調でなされているが、威勢のよさの反面実証性に乏しい認識[5]等の主張を敷衍したにもかかわらず、自責や考えの変化を表明するといった動きはほぼ見られない[6]。
[編集] 謎の反転
栗田を評する上において最大の焦点となっているレイテ沖海戦での「謎の反転」については、本人が戦中・戦後を通して語ることが無かったと記載される事が多い。実際には、レイテ沖海戦に限らず、多くの発言が記録されている(同海戦時「利根」艦長であった黛治夫は佐藤和正『レイテ沖海戦』内にて「謎」という言葉自体を否定している)。また、相当数の証言が残されている。これらのもので従来知られ、広く引用されてきたのは伊藤正徳の『連合艦隊の最後』によるものであった。しかし、進駐軍に語った陳述記録(福田幸弘、原書房等の手で刊行)、児島襄が公開した回想、佐藤和正が関係者や非売品書籍から再構成した海戦時のやりとりはいずれも伊藤が同書に書いたものを量的に遥かに上回っているが、下記の伊藤正徳、大岡昇平の著書と比較しこれらが参考文献に挙げられることは少ない[7]。
[編集] 伊藤正徳の取材
レイテ沖海戦では、パラワン水道にて最初の旗艦の愛宕が沈没した為、艦隊司令部要員は重油の漂う海の中を泳ぐ事態に陥った。その後も休み無く戦闘が続き、サンベルナルジノ海峡を通過した際には夜戦を覚悟していた。そのためサマール島沖海戦後に反転を行った際、栗田艦隊司令部は三日三晩休む暇も無かった[8]。1955年、伊藤正徳は反転の理由について質問し、栗田は当初韜晦していたが、「嘘を言ってはいけない」と窘め、「あの時は非常に疲れていた」と述べたという。このやりとりは伊藤の著書『連合艦隊の最後』に掲載され同書は何度も再版を重ねた。また、その後『レイテ戦記』にも転載され、こちらも長年に渡り文庫版が版を重ねた。
このうち「疲れていた」という言葉が多くの書籍(史書・ノンフィクションを含む)に引用された。その後児島襄が執筆の為取材を行った際に、栗田は20年来付き合いの無かった伊藤が急に訪ねてきて質問した事や、その言葉の意味するところを語った(下記)。また、佐藤和正は著書『レイテ沖海戦』の末尾で反転について正しかったとする立場から論じた際に、世間の風当たりを考慮して、疲労説を誘導するような状況があったと言う伝聞を紹介している。後年半藤は『日本海軍、錨上ゲ!』にて、この発言を引き出したのは伊藤の著書の出版を記念した居酒屋の酒の席であったことを明らかにし、栗田を嘘つき呼ばわりした。
しかし現実には、伊藤・半藤による取材、特に半藤によりなされた追加取材は殆ど何の情報も引き出せておらず、失敗に終わったに過ぎない。半藤は小沢治三郎に対しての取材などでも同様の失敗を繰り返したが、他者が同時期に成功した点には触れず、どの提督に対しても僅かばかりのコメントを浪花節に解釈して放談するようになった。
1970年代以後も多くの新事実、GHQの行なった調査での各指揮官の証言禄の出版などが続々提示された。一方1970年に出版された『全軍突撃 レイテ沖海戦』内で栗田艦隊が反転の真因を事実を捏造して隠蔽したと推定した半藤一利は2001年出版の『日本海軍 戦場の教訓』にて秦郁彦、横山恵一と鼎談し、横山恵一は(24日の反転を指摘してではあるが)栗田を臆病と言いながら一方で自身が艦隊決戦に対する未練を臭わせる発言をし、半藤は日本側にまつわる種々の問題点の多くを示しておきながら、他の2名が多くの問題点を挙げ「夢想的」と述べている中でも、命令通りにやるべきという旨を主張した。この鼎談では通例に従って船団攻撃という目的からの批判も語られているが、秦が半藤の主張がその目的から外れている事を指摘しても半藤は「それでもいい」と述べた。巻末では史料調査の重要性について述べたものの、この種の書物でも締め切りの関係などでいい加減な仕事が行われることも暗示した。
なお上述のように、海戦後栗田は海軍兵学校の校長となった。当時の兵学校は年毎に採用者が急増し、76期から78期はそれぞれ4000名も在籍していた。そのため江田島の校舎だけでは到底収容できない状況であったが、元生徒には好印象で映っている例もある。78期の大岡次郎は栗田を「不世出の大提督」「類希なる名将・勇将」と絶賛しており[2]、晩年関西に住んだ栗田とも家が近かったという。そのため酒席ではあるが疲労説を明確に否定する発言を聞いた(下記発言)。黛治夫は佐藤和正『レイテ沖海戦』内で「疲れて判断を誤るということは絶対にないね。三日三晩、一睡もしないということは戦前の訓練でもよくあったことだし、まして戦闘情況の中では疲れを覚えるどころか、頭はますます冴えてくるものだ。事実、レイテへ行ったときのわたしはそうだった」と述べた。
[編集] 批判
「逃げ癖」など、元々戦意や士気の面で問題があったと批判され、栗田と共に戦った人物たちの中には「避敵傾向がある」「消極的」と評す者がいる[9]。また、石渡幸二は「報告、連絡の欠如」を問題行動であると主張した。
「謎の反転」への批判が呼び水となって、レイテ海戦以外の作戦へ批判が拡大した。『歴史と人物』の石渡幸二の投稿や数名の提督による座談会などはそうした流れで出てきた典型であり、同座談会ではレイテ沖海戦について松田千秋などが栗田を批判しているのが確認できる。
石渡らが開戦初期の行動で批判しているのはジャワ攻略作戦である。2月27日、敵艦隊発見の通報があった際、原忠一中将指揮の第3護衛隊が南方に向かったのに対して、第7戦隊は北方へ向かった[10]。
ミッドウェー海戦では重巡「最上」と「三隈」の衝突後、この2隻を置き去りにして撤退行動を続けたことが問題とされた。一昼夜無線封止をしたため味方である連合艦隊司令部ですらどこに栗田艦隊がいるかわからない状態になった。その後安全圏に退避した後に初めて位置報告をしている。その間に栗田が見捨てた重巡「三隅」は航空機により撃沈され、「最上」は辛うじて自力で退避に成功している。
ヘンダーソン飛行場に対する艦砲射撃に関しても、連合艦隊司令長官だった山本五十六が積極性に欠ける栗田の姿勢を見て自分が大和を指揮して乗り込むと放言し、それを聞いた栗田が承諾したというエピソードが伝えられており、そのために批判されることがある。
マリアナ沖海戦でも消極的行動(夜戦準備要請に対し準備を開始したのは受信2時間後)等が批判された。
ただし、いずれの措置も直後には問題とされておらず、以後も起用され続け重用され続けている。これを両事件が問題とするに足らない事柄であると見るか、ミッドウェーで大敗した後も機動部隊指揮官に据え置かれた南雲忠一同様、信賞必罰に欠けた情実人事の一端と捉えるかは判断の分かれる処である。
必ずしも擁護の文脈では無いが、吉田俊雄は環境の厳しい海にい続けたことが、栗田の危ない橋を渡らない、合理的感覚の形成に寄与した可能性を指摘している。船乗りとしては一流であっても、軍人としての能力には必ずしも合致しない事を意味するような言葉もある。
レイテ沖海戦ではシブヤン海海戦後、一時反転した際、欺瞞を成功させるため再反転報告を行動開始後数時間遅れて連合艦隊司令部に発信したが、連合艦隊司令部と小沢艦隊、栗田艦隊の行動の連携不足の一因として論議の対象になることもある。
高木惣吉は艦隊勤務の経験が少なく、中央での策謀で知られるが、栗田について戦後「レイテの敗将を兵学校の校長に据えた」と批判した[11]。
[編集] 擁護
一方机上の論理を現場に押し付け、十分なバックアップを行なわなかった聯合艦隊の責任が大きいとする意見も少なくなく、レイテ沖海戦では海戦直後に書かれた大淀の戦闘詳報にもそうした批判がある。奥宮正武は栗田の関わった作戦のほとんどが「制空権無き場所で長時間、長距離にわたって艦隊運用を行う」ことが前提にあること(また、栗田自身が納得していなかったこと)を指摘し、栗田が太平洋戦争で中央の作戦の尻拭いばかりさせられていたことを説明し、「長期に渡る第一線部隊での努力」が理解されていないと述べた。
バタビア沖海戦の発生原因自体も、その直前のスラバヤ沖海戦で敵艦隊を撃滅できなかったことにある。スラバヤ沖海戦では、東方支援隊(第5戦隊基幹)を指揮していた高木武雄少将が接近して砲撃を行わずに砲弾を浪費し、夜戦で砲弾不足に見舞われ、その後行われた雷撃でも数隻を撃ち漏らした。その敵艦が再度バンタム湾に揚陸中の日本軍船団に接敵したためにバタビヤ沖海戦が発生した。なお、同海戦では吹雪の通報を受け沖合いを哨戒していた第7戦隊から2隻が急行するという展開であり、敵味方の識別が困難な夜戦であった上、襲撃した部隊が残存敵艦隊の全てである訳ではなかった。事実、終盤第5戦隊が別行動をとっていた重巡エクゼター他を発見した。なお高木はその時点で2隻の重巡を指揮していたが戦隊4隻全艦の到着を待ってから挟撃した(但し、これは自艦隊の弾薬が極度に欠乏していたためである)。なお、同海戦の頃避敵行動を問題とされていたのはスラバヤ沖海戦での高木少将、田中頼三少将の指揮であった。栗田が後年その誹りを受ける原因となったのは指揮下の重巡「最上」の遠距離から放った魚雷が目標を外れて、その射線延長線上にいた味方の第十六軍輸送船団に到達してしまい、軍司令官今村均中将の座乗艦を撃沈してしまったことが挙げられ、当時はそれほど問題にはならなかった(今村司令官には原顕三郎少将が謝罪に行き快諾されている)。
インド洋作戦の一環として行われたベンガル湾での輸送船狩りでは第7戦隊だけで10隻以上の戦果があるが、この事実を批判側は取り上げない。
ミッドウェイ海戦については、第二弾作戦としての計画段階から、連合艦隊司令部が在艦した大和を含む主隊の超後方配置などに至るまで、連合艦隊司令部や山本への批判も多くなされる。空母の代わりを重巡洋艦に果たさせる発想自体も突然なされ、突如中止になった朝令暮改である。また、同海戦の頃より日本側の暗号は徐々に解読が進んでおり、暗号の他方位測定も敵側にやり易い内懐での戦いであった。そのような環境では栗田の無線封止の方がより現実に適応した行動である。更に、前月のインド洋作戦などで、エアカバーを持たない中小艦船がどうなるかを日本側の現場指揮官達は良く知っていた。
またヘンダーソン基地艦砲射撃の打ち合わせで奥宮が栗田と初めて会った際、栗田は首席参謀の有田雄三中佐と共に強い自信を示し、戦艦を伴った砲撃作戦としては唯一の成功となった[12]。
また海大甲種では無かった栗田に責任を押し付ける向きがあった事は奥宮の他、黛治夫などが指摘し、奥宮は上述の高木惣吉の批判に対して、当時は全員が敗将だったと批判を行っている(全員が敗将という指摘は児島襄も行っている)。佐藤清夫のように、研究を進める過程で批判一辺倒ではなく擁護的に変わった者もいる。一方人格面では否定的に評価を行っている者であっても概して高めに評価される傾向にある。児島は指揮官としての適性には否定的だが、海軍上層部の人選に問題があった可能性を指摘し、栗田の境遇には同情している。
亀井は、軍人が戦後になって「内心は反対だった」と言った発言をするケースを「あまり上等な人間のすることではない」と述べ、続けて簡単に反省されたのでは戦死者は浮かばれない、腹を切るか、弁解せずに黙っている方がより正しい姿勢である旨を書き、栗田を擁護した[2]。佐藤和正は『レイテ沖海戦』にて栗田の反転決断を正しいと述べ、好意的記述が多い。2000年代に入ってレイテ沖海戦について書いた元通信士官の左近允尚敏、都竹卓郎等もいずれも栗田に理解を示し、擁護している。そもそも、レイテ沖海戦自体が制空権も制海権もアメリカに取られた上での作戦であり、それ自体に無理があった事も否めない事実であった。
『悲劇の提督』の取材では、死の数日前小沢を見舞い「いろいろ世話になった」と言った際、小沢は涙を浮かべ無言で栗田の手を握り締めたまま離さなかったと明かした。この逸話は『プレジデント』1982年5月号に転載され、更にそこから『歴史群像太平洋戦史シリーズVOL.10 連合艦隊の最期』などに転載されている。一方で、小沢は半藤に「この戦いで真面目に戦争をしていたのは西村だけだ」と述べ、それを痛烈な批判であると受け取る者も居た。
ただし、小沢の言行で最も詳細なものであるGHQがレイテ沖海戦他について118問に渡って行った質問に際して、栗田他各艦隊指揮官への批判は一切存在せず、海戦の計画の精緻さと頓挫について聞かれた際「あの場合の処置としては他に方法がなかった」と発言している。そのまた一方で、奥宮はレイテ沖海戦での栗田を評する際に小沢が航空戦に理解が無いと述べた。
[編集] 発言録
聞き取りに当たった者の興味の関係もありレイテ沖海戦関連が多い。海戦の経緯については同項目を参照。
- 海大甲種を不合格になった事について
- 頭が悪かったんだな[13]。
- 吉田俊雄が部下として付いていた時の発言(時期は示されていない)
- 私は大学校を出ていない。君達は出ているから、作戦の段取りは君達でやってくれ。[4]。
- 日本海軍技術調査団より大和型戦艦の主砲口径を問われて
- 知りません。
- 捷一号作戦について
- なんだかんだといっても、飛行機ももたずに敵の機動部隊と戦う。おまけに陸上とも戦う。昔から砲台と戦争したら海上部隊は負けると言われている。それをやるというんだから戦略も、戦術もない。軍艦がいれば軍艦とやる。商船がいれば商船とやる。
- レイテ沖海戦全般を回顧して
- 死ぬかも知れんとは思っても、これで死ぬという気は、どんなときにも起こらなかったですね。
- 戦略もだめだ。戦闘もだめだ。だけど行かなければならないんだ[14]。
- それでも行かなければならなかった。中央突破のほか方法はなかった。敵のレイテ上陸をむかえて、1日を急いで、それを叩かなければならなかったのです[16]。
- パラワン水道を直進した件について
- パラワン水道を行かずに、西方の南沙諸島をまわれば、その付近には岩礁が多いので、敵潜水艦が出没せず、安全であることがわかっていました。だが、そうすれば、1日遅れるのです。その時間がなかったのです[16]。
- 二四一六〇〇電について
-
- シブヤン海海戦後反転した際、大谷作戦参謀発案のアメリカ軍に対する欺瞞として、栗田艦隊司令部は二四一六〇〇電で「今迄の処航空索敵攻撃の成果も期し得ず。逐次被害累増するのみにて無理に突入するも徒に好餌となり、成果記し難し。一次敵機の空襲圏外に避退、友隊の戦果に策応進撃するを可と認む」と発信した。児島は味方にも完全な避退と解釈されやすいと述べた。この件について
- 少しくどかったね[14]。
- ヤヒセ43に部隊集結を命じたことについて
-
- この命令はサマール沖海戦後の9時11分に発せられたが、GHQの陳述書にて
- 部隊に集合を命じたのは、レイテ湾突入の主目的達成を考えたからである。敵機動部隊は二時間以内に戦場に到着するという敵側情報も、当面の戦闘を早目に切り上げた理由の一つであった。当時、第一戦隊は敵魚雷回避のため針路北で航走したので、前方に進出していた軽快部隊と隔在し、かつ有効な敵の煙幕展張とあいまって敵情はほとんどわかっていなかった。したがって集合を発令しようとした直前のことであるが、第十戦隊から『我突撃に転ずる』むね電報があったので、その攻撃の終了の頃あいを見はからって、〇九一一集合を命じたのである。
- 反転決断について
- その日に受けた攻撃状況や、われわれの対空砲火がその空中攻撃に対抗できないと言う結論から、もしこのままレイテ湾に突入しても、さらにひどい空中攻撃の餌食になって、損害だけが大きくなり、折角進入した甲斐がちっともないことを私に信じ込ませた。そんなことなら、むしろ、北上して米機動部隊に対して小沢部隊と協同作戦をやろうということに追いついてきた。[17]
- 機動部隊を求め反転した際のやりとり
-
- 「参謀長、敵は向こうだぜ」という宇垣の指摘に対して
- ああ、北へ行くよ[18]
- 反転の動機は艦隊決戦思想から出たものかという質問に対して
- いや、輸送船も叩かねばならぬと思っていました[16]。
- 南西方面艦隊からの発信とされる北方機動部隊電報により反転したことについて
- そのときの心境というものは、あとで考えてみても良くわからんものがある。
- あの電報がなかったら、まっすぐレイテに行ったでしょうね。とにかく、ですよ。敵情はさっぱりわからん。それで、まだこっちにはこれだけ兵力が残っている。一方、レイテに行っても収穫は期待できない。そういうとき、敵がいるという電報がはいった。それじゃあ、ということになったわけですね。
- あとから考えれば、ですがね。何だって見えもしないものを追って、・・・・・・それも飛行機もないし、向こうもスピードを上げて逃げ回るのに・・・・・・いってみれば、ハエタタキも持たずにハエを追うようなものじゃないか、といわれると、ちょっと困る[14]。
- あれは三川が打ったんだよ。三川の電報だったので、俺は北へ行ったんだよ[19]
- 伊藤正徳に反転理由を問われてのやりとり
- その判断も今から思えば健全でなかったと思う。その時はベストと信じたが、考えてみると、非常に疲れている頭で判断したのだから、疲れた判断だということになるだろう。
- 伊藤に「そんなにつかれていたのか」と問われて
- その時は疲労は感じていなかった。しかし、三日三晩殆んど眠らないで神経を使った後だから、身体の方も頭脳の方も駄目になっていたのだろう
- 「情報を手にして幕僚会議を開いて反転退却した真相は」と問われて
- その時は退却と言う考えはない。幕僚とは相談しなかった。自分一個の責任でやった。情報の正否を確かめる暇もなかったが、要するに敵の機動部隊が直ぐ近所にいると信じたのが間違いだった。(中略)いくら追っても捕まるわけはないのだが、それを捕捉して潰してやろうと考えたのが間違いだった。何しろ敵空母撃滅が先入観になっていたので、それに引摺られた[20]。
- 上記の『連合艦隊の最後』でのやりとりについて
- あの男は、もう二〇年も会わないでいたとき、ひょっこりたずねてきて、じつはねえと聞くんだ。(中略)ノートもなにもとらずに、それでいて私のいったことはみんな書いている(中略)。疲れていたっていったのは、自分はちっともくたびれというものは感じていなかった。しかし、あの電報(南西方面艦隊電)をもっと分析して発信者、時間などを研究すれば、インチキと分かったかも知れない。そこまで頭がまわらなかったのは、自分ではそう思わなかったけれど、あるいはくたびれていて判断を誤ったというようなこともあったかも知れん、とそういう意味ですよ。これはだれにでもあることでしょ[14]。
- その後1970年頃酒の席で大岡次郎に対し
- 戦闘中に疲れることは決してない[21]。
- 一二三一電機動部隊本隊戦闘速報
-
- 佐藤和正によれば大和では14時30分に受信し内容は小沢艦隊が空襲を受けている事を述べていたが、その時栗田は次のように述べたという。
- この電報が、いままで私のところへとどかなかったのはどういうわけか。着信してから、なぜこんなに遅れたのか。まだほかにないか[22]。
- GHQ陳述書にて
- 小沢部隊が敵の快速空母の全グループを北方に牽制しつつあると云ふ情報はその片鱗すらも私の耳に入らなかった。今でも明瞭に覚えてゐる事は二十五日夕、部隊がサンベルナルジノ海峡に入る前、小沢部隊の戦況を報ずる電報を見た。私はこのとき、折角の小沢部隊の奮戦であるけれど今となってはもう時期遅れだと思った。大和の戦闘詳報によると一二時過ぎと一四時過ぎに小沢部隊の電報を受領してゐるが、私は部隊がレイテ湾突入を中止した前後にこのやうな電報は聞いた記憶がない。
- レイテ沖海戦後
-
- ブルネイに帰還した際、長官室やトイレに行くとそこにも弾痕があった。栗田はやれやれと思いながら鏡に向かったところ
- まっ白な頭の人相の悪い男がいる。おやと思ったら、おれなんだな。髪の毛もヒゲも白くなっている[14]。
- 批判に対して
- (注、上述の栗田の作戦説明のように)戦略も戦術も全然無視した問題だから、それをわれわれがやったことに戦術がどうだこうだといわれては、困る。
- 私にも、あのときレイテに行ったほうが良かったと考えることはできる。しかし、それはあとから考えて、あのときマックがいたからとか、まだ輸送船の荷揚げが終わっていなかったからとか、だから突入したほうが良いという意味じゃないんです。つまり、当時の事情としてあの電報を信じてひき返したことが大きな作戦の齟齬をきたした。そういえるなら、電報がなければむろんのこと、あっても信じずにそのまま中にはいっていけば、これは大きな戦争目的にかなうというか、命令そのままを守ることになる。そうなれば、これは全滅してもですよ。一人も残らなくても、気持は安らかに眠れる。恐らく西村も同じ考えだったでしょう。突っ込めば助かりっこない。といって、敵を屈服させる力もない。それじゃ、逃げるかといえば、逃げたって自分にも国家にもなんの効果ももたらさない。しかし、突っ込めば、少なくともそのうちはいってくる私のほうの助けにはなる。少し早いけどやってしまえ・・・・・・そんな胸のうちだったかもしれんと思います。
- 敵情はわからない。どんな大物がいるかも知れぬ。そういう場合、敵とぶつかって全滅してしまえば、それで問題はなくなる。しかし、一隻のこったら、やはり命令は命令だから、その一隻でも行かなければならんのか。
- 自分がやりもしないで・・・・・・という反駁はしませんよ。しかし、結局は、こりゃあ命令違反かどうかということは裁判にかけないとわからんでしょうね[14]。
[編集] 脚注
- ^ 伊藤正徳『世界大海戦史考』(1943年)
- ^ a b c d 亀井宏「敗北提督たちの戦後史」『歴史群像太平洋戦史シリーズVOL.10 連合艦隊の最期』
- ^ 『海軍の回想』第23号 栗田健男他2名
なおその前号は三川である。 - ^ a b 吉田俊雄『良い指揮官・良くない指揮官 14人の海軍トップを斬る!』光人社(単行本1996年、文庫1999年)
- ^ 例えば第7艦隊の弾薬不足と言う状態が弾薬が全く無い状態とは異なっていたこと。半藤一利の他、谷光太郎も弾薬が欠乏しているため栗田艦隊は勝てたと述べている。谷は著書『アーネスト・キング』にてレイテ海戦の経過を詳述したが、同書の参考文献には栗田艦隊当事者の手になるものはなく、関係者への聞き取りなども記載されていない。
- ^ 佐藤清夫は『駆逐艦「野分」物語』にてそれに近い記述を行っている。
- ^ 例:谷光太郎『アーネスト・キング』内「レイテ海戦」「参考文献」には『連合艦隊の最後』はあるが上記2者を含め、小柳富次『栗田艦隊』など、当事者の言が多く収録された文献はない。もっとも、何に拠って執筆したかが分かるだけ、谷の場合は第3者の検証が行いやすい。
- ^ 伊藤正徳『連合艦隊の最後』、児島襄『悲劇の提督 南雲忠一中将 栗田健男中将』P230他
- ^ 例:半藤一利『指揮官と参謀』内「小沢治三郎と栗田健男」のミッドウェー海戦時の熊野艦長の証言など。
- ^ 小島秀雄等は『歴史と人物』の座談会にてバタビア沖海戦としているが、同海戦では第7戦隊は接近し照射射撃を行っており、「敵と反対の方向へ航路をとっている」行動はなく、2月27日の話との混同の可能性がある。小島は「当時から評判が悪かった」と述べたが、同時に軍令部から艦船の保全について念押しがあったことも認めている。
- ^ 高木惣吉『太平洋海戦史』岩波新書(1959年)
- ^ 奥宮正武『提督と参謀』内「一三 栗田健男」
- ^ 児島襄『悲劇の提督 南雲忠一中将 栗田健男中将』。相次ぐ転勤と激務で知られる艦隊勤務のため、勉強の暇がなく、口頭試問で落ちた。
- ^ a b c d e f g h i 児島襄『悲劇の提督 南雲忠一中将 栗田健男中将』中央公論社
- ^ 原勝洋『戦艦大和建造秘録』「第1章 米海軍情報部と巨艦「大和」の謎」P62 KKベストセラーズ、1999年
- ^ a b c 『決断』会見記にて
- ^ 『丸』昭和32年(1957年)11月特大号 P79潮書房
- ^ 岩佐二郎『レイテ沖の七日間』 大和主計長で当時艦橋にいた石田少佐へのインタビューによる。岩佐による補足では反転に対して重い沈黙感のような空気はあったにせよ、巷間指摘されるものとは異なり、食ってかかるような雰囲気ではなかったという。
なお、「巷間指摘される」例としては、 大和副砲長として艦橋にいた深井俊之助が戦後チャンネル桜の放送を含め3度に渡り語った、宇垣が「南へ行くんじゃないのか」と言いながらプリプリしていたという、当事者による証言がある(桜BBインターネット放送「人間の杜」#59/60及び『防人の道 今日の自衛隊』 2006年11月13日および15日に前編、12月に後編。当該番組の概要)
なお、当日大和の艦橋には他にも多くの士官などが詰めていた。深井、岩佐などによれば森下信衛のようにずっと黙って任務を果たしていた者、能村次郎(能村もまた回顧録『慟哭の海 レイテ沖海戦』を著した)のように反転に肯定的な者、反転決定に反感を抱いた若手士官など、立場だけではなく、その態度もまた、様々である。 - ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦』より。大岡次郎への談話。
- ^ 伊藤正徳『連合艦隊の最後』 大岡昇平『レイテ戦記』(転載)他
ただし、第二艦隊参謀長であった小柳富次は1945年10月24日、GHQでの陳述にて栗田中将は幕僚会議で十分意見を述べさせたのか、それとも自分一人の所信で命令を下したのか質問された際、幕僚会議を開いて、決定は全員一致であった旨を回答している。なお、質問者はJames.A.Field予備少佐。 - ^ 大岡による海兵78期生の機関誌『針尾』への投稿記事。転載した由岐真によれば大岡は「最善を尽くした達成感」すら窺えたという。
『フィリピン沖海戦』 栗田艦隊と神風特別攻撃隊内 - ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦』
- ^ 大岡次郎への談話。由岐真『ティータイム(4)戦艦大和の真実 』
- ^ 児島襄『悲劇の提督 南雲忠一中将 栗田健男中将』。伊藤は開戦時の軍令部次長である。軍令部は強硬論も多く、1941年夏頃より総長で滞米経験豊富な永野修身も開戦派に転じた。出撃前に江田島に栗田を訪ね、「それじゃ行く」とあっさりとした挨拶をして去ったという。
[編集] 文献・ウェブサイト
下記に配列したのは栗田の言動・直接取材、あるいは栗田に近い位置にあった人物の回想、および、海戦ではなく栗田個人をテーマとした評論である。その他については栗田が参加した各海戦の記事の文献欄を参照せよ。
- 宇垣纏『戦藻録 宇垣纏日記[新装版]』原書房 ISBN 4-562-02783-5(2001年第2版、初出1953年、1968年再版、1996年新装版初版)
- レイテ沖海戦の頃の栗田の発言とそれへの所見が記載されている一次資料。
- 「Ⅷ大本営および軍隊・艦隊関係」内「栗田健男」『GHQ歴史課陳述録 ~終戦史資料~ 下』明治百年史叢書 原書房 (2002年)
- GHQ参謀二部歴史課が戦史編纂の為に行った関係者へのインタビュー記録。主要な質問者はジェムズ・フィールド(James A Field)予備少佐。航空戦隊参謀としてレイテ沖海戦に参加した。フィールドの著書『The Japanese at Leyte Gulf』は戦後すぐ邦訳され、多くのレイテ沖海戦関連書籍が参考文献に挙げた。
- 伊藤正徳『連合艦隊の最後』光人社 ISBN 4-7698-0979-4(2000年)
- 小柳富次 『栗田艦隊』 光人社NF文庫 ISBN 4-7698-2095-X (1995年、初出1956年)
- 児島襄『悲劇の提督 南雲忠一中将栗田健男中将 』中央公論社(1967年)
- 「栗田中将会見記」『決断 8月号(Vol.3)』(1971年、「君はアニメンタリー決断を知っているか」内に転載)
- 聞き手は新名丈夫。
- 石渡幸二「太平洋戦争の再検討」栗田提督論」『歴史と人物/昭和53年8月号』中央公論社
- 栗田についてレイテ沖海戦以外の海戦で避敵傾向があると主張。
- 「座談会 だれが真の名提督か」『歴史と人物/昭和56年5月号』中央公論社
- 福田幸弘 『最後の連合艦隊 レイテ海戦記(上巻)』 角川文庫 ISBN 4-04-174401-6 (1989年)
- 福田幸弘 『最後の連合艦隊 レイテ海戦記(下巻)』 角川文庫 ISBN 4-04-174402-4(1989年)
- 『ファイナンス』で1979年に行った連載を大幅に改稿し『連合艦隊―サイパン・レイテ海戦記』(1981年)として単行本としたものの文庫化。栗田の陳述禄付(『海軍経理学校第36期のホームページ』内の引用、紹介)
- 著者は羽黒の主計士官で本海戦の戦闘記録係でもあった。羽黒の戦闘詳報はこの記録を元に作成され終戦後も残存、それと著者の記憶などを元に執筆した物。
- 亀井宏「敗北提督たちの戦後史」『歴史群像太平洋戦史シリーズVOL.10 連合艦隊の最期』(1995年)
- 佐藤和正 『レイテ沖海戦 上巻』光人社NF文庫 ISBN 4-7698-2196-4(1998年)
- 佐藤和正 『レイテ沖海戦 下巻』光人社NF文庫 ISBN 4-7698-2198-0(1998年)
- 雑誌『丸』に1984年9月から1987年12月まで連載したものを『レイテ沖の日米決戦(日本人的発想VS欧米人的発想)』ISBN 4-7698-0374-5(1988年刊行)として単行本化。文庫化にあたり改題。戦友会等発行の非売品や関係者への聴き取り取材に基づいており、栗田をはじめ関係者の行ったとされる会話が掲載されている。
- 奥宮正武「栗田健男」『提督と参謀』PHP研究所 ISBN 4-5696-1215-6 (2000年)
- 著者が栗田と最初に会ったのはガダルカナル島の戦いの頃である。経歴欄は主にここを参照。
- 岩佐二郎『戦艦「大和」レイテ沖の七日間 「大和」艦載機偵察員の戦場報告』光人社NF文庫 ISBN 4-7698-2414-9(2004年、初出1998年、以前にも自費出版歴あり)
- レイテ沖海戦時の大和艦橋の雰囲気・栗田の部下への姿勢について記述がある。
- 阿川弘之 半藤一利『日本海軍、錨揚ゲ!』PHP文庫 ISBN 4-5696-6425-3 (2005年)
- 伊藤正徳の栗田取材についての暴露話を掲載。
- 都竹卓郎『「大和」艦橋から見た レイテ海戦』なにわ会 2007年9月
- 著者は大和乗組の通信士官であり、レイテ海戦当時栗田の後方数mで勤務に当たっていた。
- 歴史が眠る多磨霊園
- 卒業と栗田校長訓示
- 古鷹パソコンクラブ内(海軍兵学校75期生による)。栗田による訓示を読むことができる。
[編集] 映画
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- 安部徹が栗田役を演じた。

