加古 (重巡洋艦)

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H48204 Kako.jpg
艦歴
発注 1922年6月
起工 1922年11月17日
進水 1925年4月10日
就役 1926年7月20日
その後 1942年8月10日

米潜水艦の雷撃により沈没

沈没地点 南緯02度28分 東経152度11分 / 南緯2.467度 東経152.183度 / -2.467; 152.183
除籍 1942年9月15日[1]
性能諸元(新造時 → 改装後)
排水量 基準:7,950トン → 8,700トン
公試:9,544トン → 10,507トン
全長 185.166m
全幅 16.55m → 16.926m
吃水 5.56m → 5.61m
主缶 艦本式重油専焼缶10基、同混焼缶2基 → 艦本式重油専焼缶10基
主機 オールギアードタービン4基4軸
102,000hp → 103,390hp(公試成績)
速力 34.6ノット(公試成績)
→ 32.95ノット(公試成績)
航続距離 6,000海里/14ノット時(公試成績)
→ 7,900海里/14ノット時(公試成績)
燃料 重油:1,400トン、石炭:400トン
→ 重油:1,858トン
乗員 627名 → 639名
兵装
(竣工時)
50口径20cm単装砲6門
40口径8cm単装高角砲4門
61cm連装魚雷発射管6基12門
八年式魚雷24本
兵装
(改装後)
50口径20.3cm連装砲3基6門
45口径12cm単装高角砲4門
61cm4連装魚雷発射管2基8門
九三式魚雷16本
装甲 舷側76mm
水平32-35mm
主砲25mm
航空機 1機 → 2機
(カタパルト0 → 1基)

加古かこ)は、日本海軍重巡洋艦一等巡洋艦古鷹型の2番艦[2]。時には加古型(加古級)と表記されることもあった[3][4][5]。世界に先駆けて20cm砲を採用した巡洋艦である[6]第一次ソロモン海戦で活躍したが、その帰路、連合軍潜水艦の雷撃により沈没した。

艦名[編集]

艦名は兵庫県を流れる加古川に因んで命名された[7]。当初は川内型軽巡洋艦(二等巡洋艦)として建造される予定であったが[8]ワシントン軍縮会議の結果、1922年(大正11年)3月17日建造中止の通達があった[9]。その後、艦型・艦種類は一等巡洋艦に変更となったが[10]、二等巡洋艦時の艦名が流用されたため、重巡洋艦に山の名を付ける日本海軍の慣例に反し例外的に川の名が付けられた[7]

艦歴[編集]

1921年(大正10年)3月19日、建造予定の軽巡洋艦(二等巡洋艦)4隻に、それぞれ「加古」、「那珂」、「川内」、「神通」の艦名が与えられる[11]。6月9日、「加古、那珂、川内、神通」は二等巡洋艦として艦艇類別等級別表に登録された[12]。「川内」は1922年(大正11年)2月26日(長崎三菱造船所)、「那珂」は1922年6月20日(横濱船渠)、「神通」は1922年8月4日(神戸川崎造船所)で、それぞれ起工した。 一方、佐世保工廠で建造予定の「加古」は[13]、1922年(大正11年)3月17日、上述のように軽巡洋艦としての建造は中止された。10月9日、「加古」を一等巡洋艦として川崎造船所で建造する事が正式に決まる[14]。これをもって「加古」は二等巡洋艦から一等巡洋艦に類別変更された[15]。また一等巡洋艦の建造艦名は1番艦「衣笠」、2番艦「古鷹」を予定していたが、「加古」の艦名流用により1番艦は「加古」へ、「衣笠」の建造は一等巡洋艦3番艦へ先送りされた[16][17]

重巡洋艦「加古」は1922年(大正11年)年11月17日川崎重工業神戸造船所において起工される[18][19]1925年(大正14年)4月10日に同造船所建造中の川内型軽巡洋艦神通」艤装員や[20]梨本宮守正王列席の元で進水するが[21]、諸事情により就役が遅れ[22]1926年(大正15年)7月20日に受領した[23]。姉妹艦「古鷹」の受領(3月31日)より約4ヶ月遅れての完成だった[24]。竣工直前にクレーン事故で船体を損傷したのが原因とされる。

古鷹型・青葉型計4隻のうち、「加古、衣笠」は神戸川崎造船所で、「古鷹、青葉」は三菱長崎造船所で建造された。1926年(大正15年)9月25日に長崎造船所でおこなわれた「青葉」進水式には皇族高松宮宣仁親王が立ち会っており[25]、御召艦任務のため第五戦隊(加古、古鷹)も「青葉」進水式に参加する(親王は古鷹乗艦)[26]。正午過ぎ、「青葉」進水式は無事に終了した[27]

1927年(昭和2年)8月24日、島根県美保関沖で行われた第八回基本演習(夜間無灯火演習)において、第五戦隊(第1小隊《加古、古鷹》、第2小隊《神通那珂》)および第二水雷戦隊(旗艦「夕張」)は夜間雷撃訓練を実施することになった[28][29]。乙軍は、加藤寛治連合艦隊司令長官率いる「長門、陸奥」以下戦艦部隊を仮想敵(甲軍)にみたてて接近中、戦艦「伊勢、日向」・第六戦隊(由良、龍田)等から照射を受けた五戦隊第2小隊(神通、那珂)は距離をとるべく右に転舵[30]。すると2隻は後続していた第1小隊(加古、古鷹)および第26駆逐隊、第27駆逐隊(菱、蕨、葦、菫)の一群に突っ込んだ[31]。「神通」と第27駆逐隊2番艦「」が衝突(蕨は沈没)、それを避けようとして左に転舵した「那珂」は、同駆逐隊3番艦「」と衝突、両艦とも大破する。「加古、古鷹」は「伊勢、鬼怒、阿武隈、由良、龍田」等と協力して沈没艦と損傷艦の救援に従事した[32]。 その後、自力航行可能だった「那珂」は「比叡、古鷹」に護衛され[33]、「加古」は「神通」を曳航する戦艦「金剛」を護衛し、「葦」は「阿武隈」に曳航され、それぞれ舞鶴へむかった[34]。12月26日、「神通」艦長水城圭次大佐は自決した[35]。これを美保関事件という。

1929年(昭和4年)5月2日、イギリス王室グロスター公爵ヘンリー王子ケント級重巡洋艦サフォーク」に乗艦して来日(横浜着)、第五戦隊2隻(加古、古鷹)は「サフォーク」を出迎えた[36]。「加古、古鷹、サフォーク」乗組員は互いの艦を見学するなどして交流の機会を持っている[37]。あるイギリス士官の感想は「斯うした窮屈な艦を日本が造り得るのはせいぜいあと十年だらう。今に国民の生活程度が向上してこんな住居(すまゐ)には堪えられなくなる時が日本にもやがて来るに違ひない。」だった[38]

1931年(昭和6年)6月下旬、ドイツの軽巡洋艦「エムデン」が来日し、日本海軍関係者はドイツの技術に注目した[39]。そこで「エムデン」と同時期に完成した加古級巡洋艦との交換見学会が開かれた[40]。保守的な鋲構造の加古型(および日本海軍軍艦)に対し電気溶接を多用したドイツ艦「エムデン」に、見学者達は大きな興味を抱いている[41]

また加古級には昭和天皇も注目しており、以前実施された扶桑型戦艦山城」を御召艦とした小笠原諸島奄美大島方面の航海が好評だったことから、「加古」もしくは「古鷹」を御召艦として八丈島へ行幸する計画も立案された[42]。だが、天皇が「加古」を御召艦とする機会はなかった。

1936年(昭和11年)7月、近代化改修に入り1937年(昭和12年)12月に完了。その後は第一艦隊、第六戦隊に所属。 1940年(昭和15年)10月11日、紀元二千六百年特別観艦式で天皇は御召艦「比叡」に座乗、先導艦は重巡「高雄」、供奉艦は「加古、古鷹」であった。1941年(昭和16年)9月、第六戦隊司令官は牧田覚三郎少将から五藤少将にかわる。牧田少将は「加古」を六戦隊旗艦としていたが、新任の五藤司令官は「青葉」に将旗を掲げた[43]。昭和6年~7年(飛行機滑走台をカタパルトに換装、8㎝高角砲を12㎝高角砲へ換装等)と、昭和11年~14年(主砲を単装砲塔から連装砲塔へ換装、混焼罐二基をやめて機関出力を強化、魚雷発射管の換装、射撃・航海諸装置の換装等)の近代化改装により、「加古」は第一線級の戦力を保持していた[44]

太平洋戦争[編集]

1941年(昭和16年)11月30日夜、内地から小笠原諸島へ向かう第六戦隊は、空母改装のため横須賀へ向かう潜水母艦大鯨(龍鳳)」とすれ違った[45]太平洋戦争の開戦を、第六戦隊は司令官五藤存知少将、青葉型重巡洋艦2隻(青葉衣笠)、古鷹型重巡2隻(加古、古鷹)という戦力で構成され、第1小隊(青葉、加古)・第2小隊(衣笠、古鷹)という編制だった[43]。さらに第六戦隊は、第四艦隊(南洋部隊)(司令長官井上成美中将:旗艦「鹿島」)の指揮下にあった[46]。12月8日の開戦と共に、第六戦隊はグアム島攻略に参加する[47]。 続いてウェーク島占領に向かった日本軍・第六水雷戦隊(旗艦「夕張」)がウェーク島第一次攻略戦で撃退された事に伴い、山口多聞少将率いる第二航空戦隊空母2隻(蒼龍飛龍)、重巡2隻(利根筑摩)、第17駆逐隊(谷風浦風)と共に12月21日から25日にかけてウェーク島第二次後略戦に参加する[48]。この戦いで「加古」以下第六戦隊が発砲することはなかった[49][48]1942年(昭和17年)1月-2月上旬にラバウル攻略、3月上旬はラエ・サラモア方面攻略作戦、4月上旬はブーゲンビル島方面およびアドミラルティー攻略作戦等、南方・ソロモン諸島を転戦する[50]。5月上旬には珊瑚海海戦にも参加した。五藤司令官の指揮する第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)と駆逐艦「」は空母「祥鳳」を護衛、MO攻略部隊を構成していた[51]。5月7日、「祥鳳」は米軍機動部隊艦載機の攻撃で撃沈され、生存者は「漣」に救助された[52]。5月8日、第六戦隊第1小隊(青葉、加古)は引き続きMO攻略部隊として行動し、第六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)はMO機動部隊に編入され、第五戦隊(妙高、羽黒)や駆逐艦「時雨」等と第五航空戦隊の空母「瑞鶴翔鶴」を護衛している。加古水上偵察機1機が行方不明になったが、後日、特設水上機母艦「神川丸」に救助されており、後日「加古」に戻ってきた[53]。5月11日、米潜水艦に雷撃された敷設艦「沖島」救援におもむくが[53]、駆逐艦「睦月」による曳航中に「沖島」は沈没した[54]

珊瑚海海戦の結果、日本海軍のポートモレスビー作戦は当分中止となる。それにともない第六戦隊各艦は日本本土へ回航され、整備に従事した[55]。6月5日、日本海軍はミッドウェー海戦で大敗。連合国軍の重用拠点ポートモレスビーの攻略とソロモン諸島における基地航空兵力の拡充は急務とされた[56]。そこで第四艦隊(井上中将)は『SN作戦』(南太平洋方面の航空基地適地調査・設営・各航空基地強化)と『「リ」号研究作戦』を下令[57]。ガダルカナル島航空基地の設置、ラエ、カビエン、ツラギ、ラバウル各基地の強化、またソロモン諸島航空基地適地の捜索等の諸任務に、第六戦隊・第十八戦隊(天龍龍田)・第六水雷戦隊(夕張、第29駆逐隊《追風夕月》)・第30駆逐隊(睦月望月卯月)等を投入する[58]

6月16日「青葉、加古」は呉を出撃、「天龍、龍田」と合流後にトラック泊地へ向かい、23日着[59]。到着直前、対潜哨戒に出撃した加古水上偵察機(1号機、搭乗員3名)が不時着[60]、開戦以来初の戦死者をだす[61]。トラック泊地にはミッドウェー海戦で大破した重巡「最上」(当時艦長曽爾章大佐、海兵44期)が停泊しており、「加古」艦長高橋大佐は海軍兵学校同期の曽爾艦長を訪問している[62]

6月30日、「青葉、加古」は第十八戦隊と共にトラックを出撃[63]。しばらくソロモン諸島方面を行動した[64]。7月10日、六戦隊第2小隊「衣笠、古鷹」が合流する[65][66]。当時の軽巡「夕張」以下第六水雷戦隊はガダルカナル島の基地設営輸送船団を護衛しており、第六戦隊はその支援に任じた[67][68]。7月14日、連合艦隊第二段作戦第二期の兵力部署改編により、第六戦隊・十八戦隊・「夕張」・各駆逐隊は第八艦隊(司令長官三川軍一中将:旗艦「鳥海」)を基幹とする外南洋部隊に編入される[69]。27日、第八艦隊は第四艦隊より外南洋部隊の指揮権を継承した[70]

沈没[編集]

1942年(昭和17年)8月8-9日、「加古」以下第六戦隊は第一次ソロモン海戦に参加し、アメリカ重巡洋艦「アストリア」 (USS Astoria, CA-34)、「ヴィンセンス 」(USS Vincennes, CA-44) へ打撃を与え、「クインシー」 (USS Quincy, CA-39) およびオーストラリア重巡洋艦「キャンベラ 」(HMAS Canberra) の撃沈に貢献した。「加古」の砲弾消費は、主砲192発、高角砲124発、25㎜機銃149発、魚雷10本だった[71]。また偵察のため発進させていた水上偵察機も未帰還となった[72]

この戦闘で「加古」は損害を被ることはなかったが、帰還中の8月10日に米潜水艦S-44」に捕捉される[73]。当時、第八艦隊旗艦「鳥海」、軽巡「天龍夕張」、駆逐艦「夕凪」はラバウルやショートランド泊地に向けて回航中で、第六戦隊4隻のみニューギニア島カビエンに向かっていた[74]。到着まで数時間程の行程で、戦闘航海3日目のため各艦とも疲労の頂点に達していたという[75]。 午前7時、海上は視界40kmで平穏、六戦隊は「青葉、加古」と「衣笠、古鷹」の小隊並陣・各艦距離800mで速力16ノットを発揮、「青葉」の水上偵察機1が前路哨戒を行っていたが、之字運動(対潜警戒運動)は実施していなかった[74][76]。「S-44」は約650mの距離から4本の魚雷を発射、そのうち3本が命中した[77][78]。外二軸運転のため舵の効きが悪く、回避は難しかった[79]。7時9-10分より「加古」は被雷、1発目は一番砲塔右舷に命中、2発目及び3発目は弾薬庫及び缶室の近くに命中し、7時15分に右舷へ転覆、沈没した[80]。沈没地点南緯02度28分 東経152度11分 / 南緯2.467度 東経152.183度 / -2.467; 152.183[81]。当時の「加古」には准士官以上54名・下士官兵660名・傭人4名が乗艦しており、このうち准士官以上6名・下士官兵61名の計67名(傭人1名を加えた場合は68名)が戦死した[77][82]。「青葉、古鷹、衣笠」は爆雷投射をおこなったのち、装載艇を放出してカビエンへ避退した[83]。「加古」の沈没により、第六戦隊姉妹艦の空気は一気に沈痛なものになったという[84]

艦長の高橋雄次大佐を始めとする生存者650名は艦載艇に分乗し、一旦シンブリ島へ上陸[85]。翌日、駆逐艦「卯月」と舟艇3隻に便乗してカビエンへ向かい、六戦隊姉妹艦に収容されている[86]。さらに特務艦石廊」に乗船し、ラバウルへ向かった[87]。加古生存者のうち砲術科の一部は、第一次ソロモン海戦で戦死者を出した重巡「鳥海」に、補充要員として配属された[88]。加古主計長は横須賀で改装中の空母「龍鳳(大鯨)」主計長となった[89]。 「加古」沈没の一報をうけて宇垣纏連合艦隊参謀長は戦藻録に『道は九十九里を以て半すとの格言に相當するに非ざるか』と著した[90]チェスター・ニミッツ(当時太平洋艦隊司令長官)は潜水艦による「加古」喪失の効果について『米軍の惨敗をとにかく埋め合わせた』、『後日、日本海軍が東京急行に水上兵力を投入するにあたり、ずっと慎重で消極的な方法をとらせることになった』と指摘している[73]

9月15日、「加古」は軍艦籍より除籍された[91]。約1ヶ月後の10月11日-12日、サボ島沖海戦(エスペランス岬沖海戦)で日本海軍は米艦隊に対し失態を演じた[92]。本海戦で「古鷹、吹雪、夏雲、叢雲」を喪失、「青葉」が大破、六戦隊司令官五藤少将も戦死した。11月10日附で第六戦隊は解隊、健在だった「衣笠」は第八艦隊直属、修理を要する「青葉」は呉鎮守府部隊に編入された[93]。同日附で重巡「古鷹」と空母「龍驤」は軍艦籍より除籍された[94]。11月14日、第三次ソロモン海戦に参加した「衣笠」は米軍機の空襲で撃沈され、第六戦隊に所属した重巡計4隻は「加古」沈没から約4ヶ月で「青葉」1隻を残すのみとなった[95]

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』85-87頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 後藤章 大佐:1925年9月18日 -

艦長[編集]

  1. 後藤章 大佐:1926年7月20日 - 1927年11月15日
  2. 吉武純蔵 大佐:1927年11月15日 - 1928年12月10日
  3. 秋山虎六 大佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日
  4. 近藤信竹 大佐:1929年11月30日 - 1930年6月18日
  5. 中村亀三郎 大佐:1930年6月18日 - 12月1日
  6. 井上勝純 大佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日
  7. 古賀七三郎 大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日
  8. 水戸春造 大佐:1932年12月1日 - 1933年11月15日
  9. 横山徳治郎 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日
  10. 柏木英 大佐:1934年11月15日 - 1935年11月15日
  11. 藍原有孝 大佐:1935年11月15日 - 1936年7月1日
  12. 大島乾四郎 大佐:1936年7月1日 - 12月1日
  13. 岡村政夫 大佐:1936年12月1日 -
  14. 鎌田道章 大佐:1937年12月1日 -
  15. 緒方真記 大佐:1938年10月20日 -
  16. (兼)伊藤皎 大佐:1939年5月1日 -
  17. 江戸兵太郎 大佐:1939年7月1日 -
  18. 堀江義一郎 大佐:1939年11月15日 -
  19. 木下三雄 大佐:1940年10月15日 -
  20. 高橋雄次 大佐:1941年9月15日 -

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ #鉄底海峡228頁
  2. ^ #昭和16年12月31日現在艦艇類別等級p.2『軍艦|巡洋艦|一等|古鷹型|古鷹、加古』
  3. ^ #倫敦海軍会議(3)参考p.2『華府会議後帝国海軍予算|大正十二年|総予算二七五,一四四(千圓)|軍艦建造費一〇四,二〇三(千圓)|軍艦建造計畫{補助艦補充計畫(昭和四年完成)(総額?億?千圓)/巡洋艦 一万頓四隻(那智級)/七千百頓(加古級)/驅逐艦 廿一隻/潜水艦 廿八隻』
  4. ^ #観艦式場計画要領の件p.3『六.各艦ノ距離ヲ左ノ通トス (イ)戦艦巡洋戦艦加古型各艦及赤城 六百米 (ロ)其ノ他ノ軍艦特務艦及番外列各艦船 五百米 (ハ)驅逐艦潜水艦及掃海艇 三百米 右各頂間ノ艦船間ノ距離ハ大ナルモノニ従フモノトス』
  5. ^ #神通.蕨.那珂 葦衝突事件報告(1)p.2『…甲軍ノ後衛タル第三戦隊及竜田ヲ加古型ト仮想スルコトニ改メ23日午後三時信號發令セリ…』
  6. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.238『一、所謂八吋砲巡洋艦出現 - 大正十一年(一九二二)、巡洋艦「加古」同年十一月神戸川崎造船所にて起工、八吋砲(二十糎砲)六門を装備す、所謂「八吋巡洋艦」の嚆矢なり』
  7. ^ a b #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.121『加古(かこ)|艦種 一等巡洋艦 姉妹艦に古鷹・青葉・衣笠あり|艦名考 川名に採る、加古川は又印南川、氷河(ヒノカハ)とも云ふ、丹波国氷上(ヒノカミ)郡ニ發源し上流を佐治川と云ひ、多紀郡の大雲川を併せ播磨国に入り海に注ぐ。|艦歴 此艦は元球磨型の第十五艦の筈なりしも、後に至り古鷹型に変更、従って他の姉妹艦三隻の名何れも山名なるも此艦のみは球磨級と共に川名に採る。』
  8. ^ #2等巡洋艦1隻製造の件p.5『大正十年九月二十一日 二等巡洋艦加古製造費豫算』
  9. ^ #軍艦加古工事に関する件p.3『大正十一年三月十七日 佐鎮司令長官宛 二等巡洋艦一隻建造ノ件取止メ』
  10. ^ #軍艦加古工事に関する件p.5『理由 軍縮ノ結果船型ノ変更必要アルニ由ル』
  11. ^ #達大正10年3月p.14『達第四十三號 軍備補充費ヲ以テ大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ二等巡洋艦四隻ニ左ノ通命名セラル|大正十年三月十九日 海軍大臣男爵加藤友三郎|加古カコ 那珂ナカ 川内センダイ 神通ジンツウ』
  12. ^ #達大正10年6月p.17『達第百十八號 艦艇類別等級別表中巡洋艦二等ノ欄「鬼怒」ノ下ニ「、加古、那珂、川内、神通」ヲ加フ|大正十年六月九日 海軍大臣男爵加藤友三郎』
  13. ^ #大正10年5月20日新艦起工予定及同造船所名の件p.1『巡洋艦 加古 大正十一年以後 佐世保海軍工廠』
  14. ^ #達大正11年10月p.2『達第百七十六號 軍備補充費ヲ以テ大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ二等巡洋艦四隻ノ内加古ノ艦型ヲ一等巡洋艦ニ變更シ大正十一年度ニ於テ川崎造船所ニ於テ建造セシム|大正十一年十月九日 海軍大臣男爵加藤友三郎』
  15. ^ #達大正11年10月p.2『達第百七十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|大正十一年十月九日 海軍大臣男爵加藤友三郎|巡洋艦一等ノ欄ニ「加古、衣笠、古鷹」ヲ加ヘ同二等ノ欄「加古、」ヲ削ル』
  16. ^ #我海軍軽巡に関する問合せの件p.3『衣笠加古|7.100|未起工(契約済)|古鷹|7.100|未起工(契約済)|Ⅲ衣笠|7.100|仝右未起工』
  17. ^ #達大正11年10月p.2『達第百七十七號 軍備補充費ヲ以テ大正十一年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ一等巡洋艦二隻ノ内衣笠ノ建造年度ヲ大正十二年度ニ繰下ゲ建造所ハ未定トス|大正十一年十月九日 海軍大臣男爵加藤友三郎』
  18. ^ 「1等巡洋艦工事予定概括表の件」pp.3
  19. ^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.3『加古|一等巡洋艦|(艦要目略)|神戸川崎造船所|大正11-11-17|大正14-4-10|大正15-7-20|(艦装備略)』
  20. ^ #軍艦加古p.13『一.進水式参列者(海軍側)仝(會社側))(略)五.川崎乗船所ニ建造中ノ軍艦神通艤装員(略)』
  21. ^ 「軍艦進水の件」pp3-4、「軍艦加古」pp.22
  22. ^ #巡洋艦加古引渡期日延期pp.3-4
  23. ^ #軍艦加古工事予定概括表改正の件pp.4-5
  24. ^ 「軍艦加古工事予定概括表改正の件」pp.3
  25. ^ #宣仁親王殿下御発着の件p.13
  26. ^ #青葉進水式儀礼p.7『附圖』
  27. ^ #青葉進水式儀礼p.11『15.9.25 第五戦隊司令官 海軍大臣 青葉進水式ニ關スル任務無事終了 午後二時』
  28. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(2)p.11『軍艦神通ハ昭和二年八月二十四日聯合艦隊第八回基本演習ニ参加シ乙軍第五戦隊第二小隊ノ先頭艦トシテ二番艦那珂ヲ率ヒ仝日午後十時美保湾錨地ヲ出港…』
  29. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(3)p.50『触接及襲撃要領』
  30. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(7)pp.7-16』
  31. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(3)pp.46-47『実施経過概要 午後十時演習開始各隊予定ノ如ク行動ヲ開始ス午後十一時六分左翼列ノ第五戦隊第二小隊ハ甲軍伊勢型ヲ発見触接探照灯ヲ用ヒ之ヲ友軍ニ通報ス爰ニ於テ第二十六及第二十七駆逐隊ハ第五戦隊第一小隊ヨリ分離進撃ス 第二小隊ト概ネ竝進セシ第一小隊ハ其頃艦首ニ長門型ラシキモノヲ発見シテ之ガ艦尾ニ触接運動中十一時二十六分葦ヨリ衝突救助ヲ要スル旨信号ニ接シ反転現場ニ至リ損傷艦ノ救助溺者捜索ニ従事ス』
  32. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.12『当時遭難地附近ニ在リテ極力短艇等ヲ以テ救難ニ従事シツツアリシ艦艇左ノ如シ 伊勢加古古鷹鬼怒阿武隈由良龍田第二十六第二十七駆逐隊』
  33. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.13『那珂ハ25日午前2時40分防水区画補強工事及防水畫出シ方終了自力航行ニ差支ナキヲ確メタル旨報告ニ接シ比叡及古鷹之ヲ護衛シ舞鶴ニ回航セシム25日午後5時無事到着セリ』
  34. ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.14『神通ハ損傷最甚シク二十五日午前八時其ノ防水補強作業終了シ金剛ハ之ヲ艦尾曳ニテ舞鶴ニ回航加古之ヲ護衛シ二十六日午前九時無事舞鶴着』
  35. ^ #故海軍大佐水城圭次位階追陞ノ件p.6
  36. ^ #グロスター公奉迎(1)p.14『加古、古鷹 英皇族「グロスター」公殿下奉迎並御乗艦「サフォーク」接伴任務報告』
  37. ^ #グロスター公奉迎(1)pp.21-23『(ロ)訪問交換 (略) (ニ)招待関係』
  38. ^ #増補 軍艦物語p.28『…がいつだったか観艦式の時に日本の新しい巡洋艦の加古だとかイギリスの一萬噸巡洋艦のサフォークとをお互に見せっこした時にイギリスの士官が斯う言った事がある』
  39. ^ #エムデン見学交換(1)p.13『二.資料募集ノ件 「エムデン」ハ大戦ノ経験ニ鑑ミ獨独特ノ造船技術ニヨリ建造セルモノニシテ兵器等ニ於テハ学ブ所尠ナカラシモ一般艤装電気通信器及大戦ノ教訓ヲ活用セル諸点等参考トスベキ点多カラルベシト認メラル依ッテ構内関係各部職員ニテ仝艦ヲ見学スルヲ有利ト認ム此ノ際我海軍ヨリハ加古ヲ交換的ニ見学セシメ可然、ソノ範囲ハ追テ各部ト協議決定ノコトト致シ度』
  40. ^ #エムデン見学交換(2)p.3『「エムデン」見学ノ件覚 六-六-三〇 (略) (イ)艤装一般特ニ居住施設(加古級ト比較)』
  41. ^ #エムデン見学交換(4)p.2『船殻 (略)工作法に関しては外観上特に注意を惹きたるものなし。唯本級の進水は1925年の一月にして我古鷹級と建造の期を同じくせるが当時我海軍に於て電気溶接を実際に応用することの未だ行はれざりしに反し彼に於ては後に述ぶるが如き要領にして相当広範囲に溶接を使用し居る点は独逸に於ける溶接技術の進歩と云ふ点に於て相当注目に値するものと思考す。』
  42. ^ #天皇海軍兵学校卒業式行幸及八丈島大島御立寄の件取止めp.4『聖上陛下ニハ過般山城ニテ小笠原及奄美大島方面ニ行幸アラセラレ至極御満足ノ処更ニ「八丈島ヲ見ル機会アラバ此方面モオヨソ見聞サレタルコトトナル」トノ御意ヲ漏ラセラレタリ又平素ヨリ加古級御展覧ノ御意モアラセラルル様拝察スルニ付明年好季ニ加古級ニテ八丈島行幸ノ議アルモノトシテ内々海軍ニテ研究ヲ希望ス本件ハ宮内省高官トモ打合セアリ』
  43. ^ a b #鉄底海峡14-15頁
  44. ^ #鉄底海峡16-18頁
  45. ^ #青葉は沈まず16-18頁
  46. ^ #S1612六戦隊日誌(1)p.6『(ハ)任務編制配備 第六戦隊ハ南洋部隊支援部隊トシテ第四艦隊司令長官ノ作戦指揮下ニ在リG攻略戦支援AA作戦(二次)支援竝ニ「マーシャル」ヲ基地トスル各作戦ノ支援ニ任ジタリ 軍隊區分|艦船(隊)番號|第一小隊(一)(旗)青葉 (二)加古/第二小隊|(三)衣笠 (四)古鷹』
  47. ^ #青葉は沈まず21-24頁『グアム島攻略作戦支援』
  48. ^ a b #青葉は沈まず28-30頁『ウェーキ島攻略へ』
  49. ^ #S1612六戦隊日誌(1)pp.29
  50. ^ #波濤と流雲と青春と620頁
  51. ^ #鉄底海峡65頁
  52. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)285頁
  53. ^ a b #鉄底海峡73-74頁
  54. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)254頁
  55. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)43頁『第六、第十八各戦隊のSN作戦における活躍』
  56. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)38頁『作戦発想の経緯』
  57. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)38頁『SN作戦及び「リ」号研究作戦の準備』
  58. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)40頁『SN作戦計画の下令』
  59. ^ #S1706加古日誌(1)p.3『十六日六戦隊一小隊(青葉、加古)呉出港(略)十八日假泊地發十八戦隊ト合同ノ後豊後水道ヲ出撃諸訓練ヲ實施シツヽ二十三日「トラツク」着』
  60. ^ #S1706加古日誌(1)p.3『同日入港ノ際本艦一号機対潜警戒ニ従事中不時着シ搭乗員三名戦死ノ事故ヲ発生セリ』
  61. ^ #鉄底海峡88-97頁
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  63. ^ #S1706加古日誌(1)p.3『三十日SN作戦支援部隊トシテ「トラツク」ヲ出撃「ソロモン」群島方面ニ向かヒ南下セリ』
  64. ^ #S1707加古日誌p.26『七月二日 RX東方海面ニ於テ機宜行動飛行索敵ヲ行フ』
  65. ^ #S1707加古日誌p.27『七月十日 二小隊合同』
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  68. ^ #S1707加古日誌p.27『自七月十一日至七月十七日 SN作戦第一護衛隊間接支援ニ任ズ』
  69. ^ #鉄底海峡109-110頁
  70. ^ #S1707加古日誌p.28『七月二十七日 以後第八艦隊長官外南洋部隊ニ対スル作戦指揮ヲ第四艦隊長官ヨリ継承』
  71. ^ #S1708加古戦闘詳報pp.3
  72. ^ #S1708加古戦闘詳報p.17『(イ)八日午前一號機(零式水偵)不還(敵艦上機ト交戦自爆搭乗員三名ハ戦死セルモノト認ム)』
  73. ^ a b #ニミッツの太平洋海戦史361頁『ソロモン作戦』
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  75. ^ #青葉は沈まず98-100頁『加古の沈没』
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  78. ^ #鉄底海峡182-183頁
  79. ^ #鉄底海峡174頁
  80. ^ #S1708加古戦闘詳報p.10『…右舷艦首ニ一発引続キ右舷中後部ニ各一発計散髪ノ潜水艦魚雷ヲ受ケ右舷ニ大傾斜0715遂ニ沈没セリ』
  81. ^ #鉄底海峡178頁
  82. ^ #S1708加古戦闘詳報p.18『戦死|准士官以上6/下士官兵(傭人四ヲ含ム)|62(内傭人1)』
  83. ^ #青葉は沈まず103頁
  84. ^ #青葉は沈まず104頁
  85. ^ #鉄底海峡189頁
  86. ^ #S1708加古戦闘詳報p.12『翌11日早朝駆逐艦卯月及呉鎮守府第三特別陸戦隊舟艇三隻ノ救援ヲ受ケ「カビエン」ニ輸送「メウェパセージ」停泊中ノ六戦隊僚艦ニ収容セラレタリ』
  87. ^ #鉄底海峡201頁
  88. ^ #鳥海奮戦記163頁
  89. ^ #波濤と流雲と青春と622頁
  90. ^ #戦藻録(1968)165頁
  91. ^ #S1709呉鎮日誌(1)pp.31-32『十五日〇〇三五海軍大臣→十五日〇九四五各鎮、各警、各艦隊司令長官|官房機密第一五〇〇三五四五番電 加古ヲ軍艦籍ヨリ除カル|無電』
  92. ^ #ニミッツの太平洋海戦史126-128頁『第17図エスペランス岬沖海戦(1942年10月11~12日)』
  93. ^ #S1709呉鎮日誌(5)pp.16-17『十日〇〇〇四軍令部総長→十日〇四三〇各鎮長官 各警長官 各艦隊長官|大海機密第一〇〇〇〇四三五番電 昭和十七年度帝国海軍戦時編制中大海機密代二三一四二九番電第二項(内報)ノ通改定セラル(一部省略)<内報抄録>一.第六戦隊ヲ解隊シ衣笠ヲ第八艦隊ニ青葉ヲ呉鎮守府部隊ニ編入/二.龍驤、古鷹、伊號第三十潜水艦及伊號代三十三潜水艦ヲ戦時編制ヨリ除ク』
  94. ^ #S1709呉鎮日誌(5)p.17『十日〇〇〇八海軍大臣→十日一〇五〇各鎮長官 各警長官 各艦隊長官|官房機密第一〇〇〇八八三番電 十日附古鷹、龍驤ヲ軍艦籍ヨリ除カル』
  95. ^ #青葉は沈まず200-201頁

参考文献[編集]

  • 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
    • 福永恭助 『増補 軍艦物語』 一元社、1934年11月。
    • 海軍有終会編 『幕末以降帝国軍艦写真と史実』 海軍有終会、1935年11月。
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  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録 明治百年史叢書』 原書房、1968年1月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書49 南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』 朝雲新聞社、1971年9月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』 朝雲新聞社、1973年2月。
  • 五月会 「山岸二郎 "加古沈没"(昭和15年6月~沈没まで加古主計長)」『波濤と流雲と青春と 第二期二年現役海軍主計課士官 四十周年記念文集』 朝雲新聞社、1980年4月。
  • 竹村悟 『太平洋戦記ノンフィクション 軍艦青葉は沈まず 完勝!第一次ソロモン海戦』 今日の話題社、1986年4月。ISBN 4-87565-117-6
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第6巻 重巡II』(光人社、1989年(平成元年)) ISBN 4-7698-0456-3
  • 高橋雄次 『鉄底海峡 重巡「加古」艦長回想記』 光人社NF文庫、1994年10月(原著1967年)。ISBN 4-7698-2062-3
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 歴史群像編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.44 重巡古鷹・青葉型』(学習研究社2005年(平成17年)) ISBN 4-05-603323-4
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 諏訪繁治、高橋直一 『重巡「鳥海」奮戦記 武運長久艦の生涯』 光人社NF文庫、2010年5月。ISBN 978-4-7698-2643-9
  • 丸編集部編 『重巡洋艦戦記 私は決定的瞬間をこの目で見た!』 光人社、2010年11月。ISBN 978-4-7698-1485-6
    • 元第八艦隊司令長官・海軍中将三川軍一『第一次ソロモン海戦の思い出』
    • 当時「鳥海」砲術長・元海軍中佐仲繁雄『第八艦隊殴り込み「鳥海」砲術長の手記 第一次ソロモン海戦

関連項目[編集]