那珂 (軽巡洋艦)

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那珂
Japanese cruiser Naka.jpg
経歴
運用者  大日本帝国海軍
建造所 横浜船渠
発注 1920年計画
起工 1922年6月10日
進水 1925年3月24日
就役 1925年11月30日
除籍 1944年3月31日
最後 1944年2月17日に戦没
要目
種別 軽巡洋艦
クラス 川内型
排水量 基準:5,195トン
常備:5,595トン
全長 162.46m
全幅 14.2m
吃水 4.8m (常備)
推進 パーソンズ式オールギアードタービン4基4軸
機関出力 90,000馬力
速力 35.3ノット
乗員 440名
兵装

竣工時
50口径14cm単装砲7門
61cm連装魚雷発射管4基8門
40口径8cm単装高角砲2門
6.5mm単装機銃2挺
九三式機雷56個
1941年12月
50口径14cm単装砲7門
61cm4連装魚雷発射管2基8門(九三式酸素魚雷16本)
九六式25mm連装機銃2基4門
保式13mm四連装機銃1基4門
7.7mm単装機銃2挺
呉式二号三型改一射出機1基
水上機1機

1943年4月
50口径14cm単装砲6門
61cm4連装魚雷発射管2基8門(九三式酸素魚雷16本)
八九式12.7cm連装高角砲1基2門
九六式25mm三連装機銃2基6門
九六式25mm連装機銃2基4門
九三式13mm連装機銃1基2門
九四式爆雷投射機1基
爆雷投下軌条2基
呉式二号三型改一射出機1基
水上機1機
21号電探
装甲 水線64mm、甲板29mm
搭載機 1機
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那珂(なか)は、日本海軍軽巡洋艦川内型軽巡洋艦の3番艦。艦名は栃木県茨城県を流れる那珂川に因んで命名された。艦内神社大洗磯前神社からの分祀。太平洋戦争序盤は第四水雷戦隊旗艦として活動。損傷より復帰後は第十四戦隊旗艦として輸送・護衛任務に従事した。1944年(昭和19年)2月中旬、トラック島空襲により沈没。

艦歴[編集]

川内型の2番艦として1922年6月10日に横浜船渠で起工されたが、1923年9月1日の関東大震災で被災、建造途中の船体を大きく損傷した。そのため、解体の上川内型3番艦として改めて起工し、1925年11月30日に就役した。その際に、艦首形状をスプーン型からダブル・カーブド型に改めている。

1927年8月24日、島根県美保関沖で行われた夜間無灯火演習において巡洋艦「神通」と駆逐艦」が衝突、それを避けようとして駆逐艦「」の左舷後部に衝突し両艦ともに大破した(美保関事件)。

1937年日華事変時においては第2艦隊に所属し作戦活動に従事した。 1941年には姉妹艦の「神通」と共に雷装の強化が行われ、九三式酸素魚雷の発射能力を得た。

第四水雷戦隊[編集]

1941年(昭和16年)11月26日、「那珂」は第四水雷戦隊(司令官:西村祥治少将)の旗艦となった。開戦時の第四水雷戦隊には、第2駆逐隊(司令橘正雄大佐:村雨五月雨夕立春雨)、第4駆逐隊(司令有賀幸作大佐:萩風野分舞風)、第9駆逐隊(司令佐藤康夫大佐:朝雲夏雲峯雲山雲)、第24駆逐隊(司令平井泰次大佐:海風山風江風涼風)が所属してた。太平洋戦争緒戦では、高橋伊望中将率いる第3艦隊の一員としてフィリピン南部への侵攻に参加し、陸軍第48師団を運ぶ輸送船を護衛した。その際、米陸軍航空軍の攻撃により軽微な損傷を受けた。

1942年(昭和17年)1月、第四水雷戦隊は蘭印への侵攻に割り当てられ、呉第2特別陸戦隊坂口支隊タラカンおよびバリクパパンへ送る船団を護衛した[1]。1月24日、バリクパパンで部隊を上陸させている時、悪天候のため浮上中であったオランダ海軍の潜水艦K-XVIIIオランダ語版が那珂に対して魚雷4本を発射したが、命中しなかった。西村提督は第四水雷戦隊の「那珂」と駆逐艦に対しK-XVIIIの追跡を命じたが失敗に終わり、その間にアメリカ海軍第5任務部隊の駆逐艦4隻が、護衛のいなくなった船団を攻撃して輸送船を撃沈した。米海軍にとって本海戦(バリクパパン沖海戦)は、太平洋戦争緒戦における希少な勝利となった。

1942年2月末、ジャワ島占領のためジャワ島東部へ陸軍第48師団と坂口支隊を輸送することとなり、第五戦隊(那智羽黒妙高)、第2水雷戦隊(旗艦:「神通」)、第四水雷戦隊(旗艦「那珂」)などからなる護衛艦隊がその護衛についた[2]

2月27日、輸送艦隊はマカッサル海峡を南下してジャワ海を航行していた。連合国軍のABDA艦隊はこれを迎撃すべくスラバヤを出撃したが、連日の戦闘配置により乗員の疲労が高まっていたこともあり、カレル・ドールマン司令官は補給のため一旦艦隊をスラバヤへ帰投させることにした。12時5分(現地時間。以下同じ)、「那智」の水偵が連合軍艦隊を発見し、日本艦隊に位置を通報した。第四水雷戦隊も輸送船団の護衛を「若鷹」に任せて、敵艦隊に向かう第五戦隊に合流しようとしたが、連合軍艦隊が輸送船団の攻撃に向かっているのか、帰投しようとしているのか判断しかねており、第四水雷戦隊は反転して一旦輸送船団護衛に戻った。

連合軍艦隊はスラバヤに入港しようとしたところで日本軍船団発見の報を受けて反転、上空触接していた「那智」機がその動きを日本艦隊へ送信し、日本艦隊は敵艦隊との会敵予想針路を取った。第四水雷戦隊は那智機の電報を受信するのが遅れ、船団護衛を第二十四駆逐隊司令に任せると、第五戦隊・第二水雷戦隊の後を追って予想会敵地点へ向かった。

16時ごろ、第四水雷戦隊が戦域に到着した。四水戦は距離15,000mで一斉に27発の魚雷を発射したが、命中しなかった。連合軍艦隊が態勢を立て直すために変針したのを見て、第五艦隊司令官高木少将は全軍突撃を下令し、四水戦が真っ先に突撃を始めた。旗艦「那珂」は連合軍艦隊に距離12000mまで近づくと魚雷4本を発射して避退した。四水戦の子隊である第2駆逐隊・第9駆逐隊は肉薄攻撃をかけるために突撃した。第9駆逐隊は距離5000mまで近づいて魚雷を発射したが、これらは命中しなかった。しかし、ドールマン少将が英重巡「エクセター」を避退させるために英駆逐艦「エレクトラ」ほか2隻に攻撃を下令し、「エレクトラ」は煙幕を抜けたところで「神通」以下から集中砲撃を受けて轟沈した。「エレクトラ」の反撃の一弾が第9駆逐隊司令艦「朝雲」に命中し、損傷した。

スラバヤ沖海戦はその日の日没後、および3月1日にも戦闘があったが、これらには「那珂」および四水戦は関わっていない。

3月、ジャワ島とセレベス島の間の海域の哨戒任務に就いた。

クリスマス島攻略作戦[編集]

その頃、インド洋では南雲機動部隊(司令長官南雲忠一中将:旗艦「赤城」)に所属する第二航空戦隊(司令官山口多聞少将:空母蒼龍飛龍)及び第三戦隊第2小隊(3番艦榛名、4番艦金剛)、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)の8隻が、別働隊として機動部隊本隊から分離していた[3]。「蒼龍」「飛龍」の護衛に「浜風」と「磯風」を残し、「金剛」「榛名」「谷風」「浦風」の4隻は3月7日早朝にクリスマス島へ艦砲射撃を行う[4]。圧倒されたイギリス軍守備隊は白旗を掲げた[5]。だが海軍陸戦隊を持たない4隻は同島を占領することが出来ず、白旗を放置してクリスマス島を去った。山口司令官の報告を受けた南雲司令長官は『クリスマス島の攻略は小兵力を以て容易に実施可能』と結論づけている[6]

3月14日、「那珂」はクリスマス島攻略部隊の旗艦となった。攻略部隊は第十六戦隊(長良名取)、第9駆逐隊(峯雲夏雲)、第22駆逐隊(皐月水無月文月長月)、第16駆逐隊(天津風初風)および給油船「あけぼの丸」、輸送船「君島丸」「球磨川丸」で構成されている[7]。攻略作戦中の4月1日、「那珂」はクリスマス島沖において潜水艦シーウルフ」 (USS Seawolf, SS-197) の雷撃を受け航行不能となった。「名取」によってジャワ島バンタム湾へ曳航されてそこで応急修理を受け、自力でシンガポールへ航行した後、修理を受けるために日本へ帰投した。6月2日、シンガポール出発[8]。12日、横須賀帰着[9]。15日附で「那珂」は第四水雷戦隊から除かれ、同戦隊旗艦は長良型軽巡「由良」が務めることになった[10]。その後、「那珂」は舞鶴海軍工廠にて修理・近代化改装を行い、5番主砲が撤去され、跡に12.7cm連装高角砲1基が搭載された。

第十四戦隊[編集]

1943年(昭和18年)4月1日、川内型軽巡「那珂」と長良型軽巡「五十鈴」の2隻で第十四戦隊が新編される[11]。ただし「五十鈴」は第三次ソロモン海戦等での損傷を横浜で修理中だった[12]。第十四戦隊は第四艦隊(4月5日より司令長官小林仁中将、旗艦「鹿島」)に所属する事になり、軽巡「夕張」が同艦隊から除籍された[13]。4月2日、十四戦隊司令官伊藤賢三少将は「那珂」に将旗を掲げた[14]。5日、舞鶴港を出港した「那珂」は訓練や哨戒を実施しつつ、内海西部を経由して横須賀へむかった[15]。4月25日、「那珂」は「時雨」「有明」「長波」と共に、空母「雲鷹」「冲鷹」を護衛して横須賀を離れ、4月30日にトラック諸島に到着[16][17]。5月から6月の間ヤルート(ジャルート環礁)へ進出した[18]。6月18日、ヤルートでの警戒を終えてトラック泊地へ戻る[19]。一方、修理を終えた「五十鈴」は空母「飛鷹」の曳航を実施したのち、第三戦隊(金剛榛名)や空母「龍鳳」と共に横須賀を出発、21日にトラック泊地へ到着[20][17]。第十四戦隊はようやく定数2隻を揃えた[17]。同日、連合艦隊司令長官は、戦艦「大和」、第十四戦隊、第十六戦隊(名取、鬼怒、球磨)、巡洋艦部隊(阿武隈、香椎、青葉、川内)各艦の水上偵察機・整備兵をパラオに派遣し、対潜哨戒に従事するよう命じた[21]。「那珂」の水上偵察機はパラオへ移動途中の7月4日、ソロール島で故障して使用不能となった[21][22]

6月22日より、第十四戦隊はトラックからナウルへの兵員輸送を命じられる[23][24]。この輸送作戦のため、第四水雷戦隊より軽巡「長良」、第16駆逐隊(雪風)と第17駆逐隊(浜風谷風)、第27駆逐隊(有明:22日附で時雨と交代)が選抜され、第十四戦隊(那珂、五十鈴)と行動を共にする[23]。第一次輸送隊(那珂400名、五十鈴453名、浜風70名、谷風70名)は22日、第二次輸送隊(長良350名、雪風70名)は23日、第三次輸送隊(時雨69名、駆潜艇28号、秋葉山丸50名)は24日にそれぞれトラック泊地を出発、25日-26日-29日ナウル着、28日午前-28日午後-7月3日トラック泊地帰着という輸送任務を達成した[23][25]。 続いて「那珂」と駆逐艦「朝凪」は、7月17日よりトラックからミレ(ミリ環礁)への輸送任務に従事した[26][27]。この第66警備隊後発隊(約600名)は、空母「翔鶴」に便乗して7月15日にトラックへ到着した部隊であった[27]。同隊は7月20日にミリ環礁へ到着、先遣隊600名と合流した[27]

8月15日、米軍はベララベラ島に上陸を開始、ニュージョージア島の戦いは緊迫の度合いを増した[28]。同日より「五十鈴」はラバウル方面に緊急輸送を実施する[28]。8月25日、旗艦「那珂」は重巡洋艦「高雄」・第24駆逐隊(海風涼風)を指揮下に入れラバウルへの輸送任務を実施、29日にトラックへ戻った[28][29]。9月は3日から兵員輸送をおこなう輸送船2隻(日枝丸、富士山丸)をトラックからクェゼリンへ護衛する[30]。さらに第7駆逐隊「」が途中まで同行した[30]。7日にクェゼリンへ到着、引き続きマロエラップへの兵員輸送に従事[31][30]。12日、「那珂」と駆潜艇2隻、輸送船「香取丸」等は、北緯08度23分 東経165度12分 / 北緯8.383度 東経165.200度 / 8.383; 165.200にて米潜水艦「パーミット」に雷撃された特務艦「知床」と特設航空機運搬艦「富士川丸」の救援に赴く[32][31]。なお救援中の「那珂」は「パーミット」に雷撃されたが、魚雷は「那珂」左舷30mを通過するなどして、命中しなかった[33]。「知床」は「香取丸」に曳航されてクェゼリンへ向かい、「富士川丸」は自力でルオット(ロイ=ナムル島)へ向かった[32]。19日からはミレ、ウオッゼへの兵員輸送をおこなった[34]

10月5日、連合艦隊司令長官は、第十四戦隊司令官伊澤少将を指揮官として、陸軍第十七師団の南東方面派遣任務『丁四号輸送部隊』の編成を下令した[35]。「那珂」を旗艦とする部隊戦力は、第十四戦隊(那珂、五十鈴)、軽巡2隻(木曾多摩)、駆逐艦3隻(野分舞風山雲)、輸送船団(栗田丸、日枝丸、護国丸、清澄丸)であった[35][36]。上海から回航された第一輸送部隊(木曾、多摩)はトラック泊地で駆逐艦「卯月」を合同後、ラバウルへ向かうが爆撃により「木曾」は損傷[37]、駆逐艦「卯月」と「五月雨」の救援を得てラバウルへたどりついた[35][38]。23日附で「木曾」、「多摩」は丁四号輸送部隊から除かれた[39]。 第二輸送隊(那珂、五十鈴、山雲、護国丸、清澄丸)は10月11日にトラック泊地を出発、上海市へ向かった[35]。途中、「五十鈴」は被雷した給糧艦「間宮」の救援に向かい、艦隊から分離した(18日上海着)[40][41]。10月21日、第二輸送隊はトラックを出発[35]。10月22日、輸送船団は東シナ海で敵潜に襲撃され、「那珂」と「山雲」は爆雷攻撃を行った[42]。この米潜水艦は「シャード」であった。「那珂」に魚雷1本が命中していたが、不発だったという[43]。28日、トラック泊地へ到着する[35]

同地にて戦力の再編がおこなわれ「山雲」は第三輸送隊(野分、舞風、日威丸、神威丸)に編入、代艦として第17駆逐隊(磯風浦風)が第二輸送隊へ編入され、「那珂」の指揮下に入った[44][35]。11月1日、第二輸送隊はトラックを出港した[45]。11月3日、第二輸送隊はカビエンの北60浬にて米第13空軍所属B-24爆撃機のべ40機の空襲を受け、機銃掃射により「那珂」は十四戦隊首席参謀以下戦死7名・重傷者20名という損害を出し、特設巡洋艦「清澄丸」は被弾浸水して航行不能となる[46][47]。同船の曳航を「五十鈴」が行い、「那珂」、「磯風」および途中合流した「水無月」はその警戒と護衛にあたった[48]。4日0時40分、秋月型駆逐艦若月」が合流するが、同艦は午前4時に分離してラバウルへ向かった[49]。伊澤少将は「浦風」、「護国丸」も分離、先行してラバウルに向かわせた[50][35]。11月4日午前7時、カビエンに到着[51]。ラバウルより到着した軽巡洋艦「夕張」をふくめ、各艦は「清澄丸」より物資人員を転載した[35]。同日、「五十鈴」と「磯風」は触雷して小破、「磯風」はカビエンに残置された[52]。ラバウルへは「那珂」、「五十鈴」、「夕張」、「水無月」が向かった[35]。同日附をもって17駆(磯風、浦風)は南東方面部隊に編入され、第十四戦隊の指揮下を離れた(磯風は内地回航、浦風はラバウル残留)[53]。輸送船団は11月5日にラバウルに到着したが、ちょうどその日にラバウル空襲があり、ラバウル停泊中の重巡洋艦部隊(指揮官栗田健男中将:旗艦「愛宕」、摩耶高雄最上筑摩阿賀野第二水雷戦隊各艦)は大損害を受けた。「那珂」と「五十鈴」は被害なく撃墜15機を記録している[54]。11月6日、第十四戦隊、「護国丸」はラバウルを出発、9日にトラックへ戻り原隊へ復帰した[35][55]。改編第三次輸送隊(野分、舞風、山雲、日枝丸、日威丸、神威丸)は11月3日にトラック泊地を出発したものの、ラバウル大規模空襲や、米軍潜水艦に反復攻撃された事などから、命令によりトラック泊地へ引き返した[56]。9日になり、第4駆逐隊(野分、舞風、山雲)は輸送船「日枝丸」を護衛して再びラバウルへ向かった[57]

11月21日、米軍はギルバート諸島タラワ環礁へ攻撃を開始、『タラワの戦い』がはじまった[58]。連合艦隊は第四艦隊長官を指揮官として、タラワ増援部隊を編成した。支援部隊(第四戦隊、第七戦隊、第八戦隊、第二水雷戦隊)、南洋方面航空部隊、補給部隊(第十駆逐隊、東亜丸、富士山丸)と共に、輸送部隊(指揮官伊澤少将:第十四戦隊《那珂、五十鈴》、長良、第6駆逐隊《雷、響》)、先遣隊潜水艦9隻という戦力が作戦に組み込まれた[58]。21日、第十四戦隊はトラックを出発、22日にポナペ島に到着して陸軍部隊を収容、25日にクェゼリンに到着した[59]。26日までに軽巡「長良」、第6駆逐隊()はクェゼリンに集結、旗艦「那珂」の指揮下に入る[59]。こうしてギルバート方面への逆上陸準備は完了した[59]。だがタラワはすでにアメリカ軍により陥落しており、逆上陸作戦は実行されなかった[60]。タラワの陥落と、並行して勃発したギルバート諸島沖航空戦の敗北により、日本軍は制海権も制空権も失いかけていた[61]。このような状況下、陸軍部隊の一部を各方面に転用することになり、「那珂」「五十鈴」「雷」は28日にクェゼリン発、12月1日にミレへ到着した[60]。12月5日、米軍機動部隊艦載機はルオットを襲撃し、軽巡「五十鈴」「長良」を損傷させ、多数の輸送船を撃沈・撃破した(マーシャル諸島沖航空戦[62]。「五十鈴」「長良」はトラック泊地へ回航された[62]。2隻の損傷により「那珂」の随伴艦は「雷」のみとなり、2隻はポナペ島の陸軍部隊をクサイ島(コスラエ島)へ転進させる輸送作戦に従事する[60]。輸送任務終了後の10日、2隻はトラックに到着してマーシャル方面での行動を終えた[63]

12月17日、空母「瑞鳳」がトラック泊地に到着、「那珂」は同艦から基地物件を受け入れた[64]。19日トラックを出発し、22日ルオット着[64]。その後、米軍機の空襲によりサイパン輸送作戦は中止、24日にトラックへ戻った[65]

沈没[編集]

1944年(昭和19年)2月16日、米潜水艦「スケート」の雷撃により、内地へ向け回航中の軽巡洋艦「阿賀野」はトラック泊地北方で航行不能となった[66]。「那珂」は救援のためにトラック島を出港したが、途中で「阿賀野」沈没の連絡を受けてトラックに引き返した[66]。阿賀野生存者は駆逐艦「追風」に救助されている。17日未明、米海軍第58任務部隊がトラック島を空襲した。トラックへ入泊寸前だった「那珂」は空襲警報を受けて反転、外洋に出ようとした[66]。だがすでに米軍機動部隊に捕捉されており、午前7時に艦攻(爆装)約20機、9時に艦爆十数機、正午に艦爆・艦攻約20機、午後2時に艦爆4機の反復攻撃を受ける[66]航空母艦バンカー・ヒル」 (USS Bunker Hill, CV-17) および「カウペンス」 (USS Cowpens, CV-25) 艦載機部隊に攻撃された「那珂」は、午後2時頃、北緯07度15分 東経151度15分 / 北緯7.250度 東経151.250度 / 7.250; 151.250の地点で沈没、240人が戦死した。末沢慶政艦長を含む210人は哨戒艇に救助された。トラック泊地北水道周辺では、空襲と米戦艦部隊の艦砲射撃により第4215船団の練習巡洋艦「香取」、駆逐艦「舞風」、特設巡洋艦「赤城丸」が沈没、「野分」のみサイパン方面へ脱出した[67]。第4215船団と同時刻に北水道を通過した第27駆逐隊(時雨春雨)は、空襲により「時雨」が中破、「春雨」が小破し、パラオ方面へ脱出していった[68]

3月4日、第十四戦隊は解隊[69]。3月31日、トラック島空襲で沈没した「那珂」、「阿賀野」、「舞風」、「太刀風」、「追風」、「文月」は同日附で除籍[70]。また姉妹艦「川内」はブーゲンビル島沖海戦で、「神通」はコロンバンガラ島沖海戦ですでに沈没しており、「那珂」の沈没で川内型軽巡洋艦3隻は全隻喪失、艦艇類別等級別表からも除籍された[71]

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』166-169頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 井上肇治 大佐:1925年4月15日 -

艦長[編集]

  1. 井上肇治 大佐:1925年11月30日 - 1926年12月1日
  2. 中村亀三郎 大佐:1926年12月1日 - 1927年4月5日
  3. 三戸基介 大佐:1927年4月5日 - 1927年11月1日
  4. 毛内効 大佐:1927年11月1日 - 1928年12月10日
  5. 伴次郎 大佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日
  6. 南雲忠一 大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
  7. 山田定男 大佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日
  8. 山本弘毅 大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日
  9. 園田滋 大佐:1932年12月1日 - 1933年11月15日
  10. 後藤英次 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日
  11. 阿部嘉輔 大佐:1934年11月15日 - 1935年5月25日
  12. 醍醐忠重 大佐:1935年5月25日 - 11月15日
  13. 五藤存知 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
  14. 阿部孝壮 大佐:1936年12月1日 -
  15. 中邑元司 大佐:1937年8月2日 -
  16. 河野千万城 大佐:1937年12月1日 -
  17. (兼)宮里秀徳 大佐:1938年11月15日 -
  18. 高間完 大佐:1938年12月15日 -
  19. 秋山輝男 大佐:1939年11月15日 -
  20. 伊集院松治 大佐:1940年10月15日 -
  21. 田原吉興 大佐:1941年8月11日 -
  22. 中里隆治 大佐:1942年7月10日 -
  23. 高木伴治郎 大佐:1942年10月1日 -
  24. 今和泉喜次郎 大佐:1943年3月25日 -
  25. 末沢慶政 大佐:1944年1月7日 -

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Klemen, L (1999-2000). “The capture of Tarakan Island, January 1942”. Forgotten Campaign: The Dutch East Indies Campaign 1941-1942. 2013年10月8日閲覧。
  2. ^ Klemen, L (1999-2000). “The conquest of Java Island, March 1942”. Forgotten Campaign: The Dutch East Indies Campaign 1941-1942. 2013年10月8日閲覧。
  3. ^ #昭和17年3月~1水戦日誌(2)p.50『6日/一.1030機動部隊第2兵力部署ニ依ル別働隊(第2航空戦、第3戦隊2小隊、第17駆逐隊)ハ「クーパン」ヲ通ズル205度線以北海面ニ於ケル残敵撃滅ノ為主隊ト分離』
  4. ^ #昭和17年3月~1水戦日誌(1)pp.6-7『3月7日 第17駆逐隊1小隊第三戦隊2小隊ト共ニ「クリスマス」島ヲ砲撃陸上施設(電信所桟橋油槽)ヲ破壊/3月9日 第17駆逐隊主隊ニ合同』
  5. ^ #昭和17年3月~1水戦日誌(1)pp.37-38『9日谷風駆逐艦長/當隊(2小隊欠)7日早朝第3戦隊2小隊ト共ニ「クリスマス」島陸上施設(電信所桟橋油槽)ヲ砲撃之ヲ破壊セリ。射撃距離50乃至35発射弾数谷風31浦風12、敵ハ白旗ヲ掲揚ス我人員兵器異状ナシ其ノ他別動中異状ナシ』-『9日第2航空戦隊司令官/別動中ノ戦果左ノ通リ|一.3月7日早朝約20分間ニ亘リ2D/3S及1D/17dgヲ以テ「クリスマス」島ヲ砲爆撃セリ敵ハ忽チ白旗ヲ掲揚セリ(以下略)』
  6. ^ #昭和17年3月~1水戦日誌(1)p.41『9日2100機動部隊指揮官/機動部隊戦闘概報第7號 3月6日南緯140度0分東経109度40分ニ於テ別働隊(第二航空戦隊、第三戦隊2小隊、第17駆逐隊)ヲ分離、9日「スンバ」島南方ニテ合同、11日「スターリング」湾着ノ予定(略)同島攻略ハ小兵力ヲ以テ容易ニ実施シ得ルモノト認ム、港内敵船ヲ認メス(以下略)』
  7. ^ Klemen, L (1999-2000). “The Mystery of Christmas Island, March 1942”. Forgotten Campaign: The Dutch East Indies Campaign 1941-1942. 2013年10月8日閲覧。
  8. ^ #昭和17年4月~4水戦日誌(3)p.13『3日1500那珂艦長→4sd/横須賀ニ向ケ昭南港発』
  9. ^ #昭和17年4月~4水戦日誌(3)p.10『那珂ハ12日横須賀帰着 15日附ニテ4sdヨリ除カレタリ』
  10. ^ #昭和17年4月~4水戦日誌(3)p.6『(二)第四水雷戦隊艦隊編成 (2)6月15日 那珂第四水雷戦隊ヨリ除カル』
  11. ^ #S180401第14戦隊日誌(1)p.4『當戦隊ハ四月一日附編成内南洋部隊ニ編入セラレ四月二十五日横須賀出撃四月三十日「トラック」着警戒任務ニ就ク』
  12. ^ #S180401第14戦隊日誌(1)p.6『五十鈴ハ横浜浅野船渠ニ在リテ改造修理工事ニ従事』
  13. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)310頁『第四艦隊長官の交替』
  14. ^ #S180401第14戦隊日誌(1)p.10『二日|1300将旗ヲ那珂ニ掲揚ス』
  15. ^ #S180401第14戦隊日誌(1)p.5『當戦隊(五十鈴欠)ハ四月五日改造修理成リ舞鶴発六日内海西部ニ回航(略)十九日内海西部発対潜掃蕩ヲ実施シツツ横須賀ニ回航』
  16. ^ #昭和18年1月~2水戦日誌(5)p.31『AdB指揮官|4月15日1340AdB司令官27dg司令駆逐艦長雲鷹艦長|27dg(時雨、有明)長波ハ左ニ依リ行動後23日横須賀発予定ノ雲鷹冲鷹ヲ「トラック」迄警戒ニ任ズベシ右回航中雲鷹艦長ノ指揮ヲ受クベシ 一.27dg(時雨有明)ハAdB電令作第177号ニ依リ行動 二.長波ハ修理完了後速ニ横須賀ニ回航』
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  19. ^ #S180401第14戦隊日誌(1)p.28『(一)當隊(五十鈴欠)「ヤルート」ニ於テ防備警戒ニ従事中ノ處15日0500「ヤルート」発「トラック」ニ回航18日0816着』
  20. ^ #S180401第14戦隊日誌(1)p.28『五十鈴(略)「ナウル」増援人員器材ヲ搭載16日1430横須賀発21日1400「トラック」着』
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  24. ^ 日本軽巡戦史、471-472ページ
  25. ^ #S180401第14戦隊日誌(1)p.29『…25日0500「ナウル」着増援隊ヲ揚搭ス、仝地ニ於テ浜風ノ指揮ヲ解キ当隊及谷風ハ同日0945「ナウル」発28日0832「トラック」着尓後防備警戒任務ニ就ク』
  26. ^ #戦隊行動調書p.14『七.一七「ミレ」増援隊輸送(司令官14S) 那珂、朝凪』
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  33. ^ #S180401第14戦隊日誌(3)p.3『(ハ)13日0036知床ノ280度1000米ニ浮上潜水艦発見攻撃運動中0102北緯08度27.5分 東経164度37分 / 北緯8.4583度 東経164.617度 / 8.4583; 164.617ニテ左舷艦首近距離ニ雷撃2本受ケタルモ雷跡那珂左舷約三十米ヲ通過シ被害ナシ、射点附近ニ爆雷投射九個効果不明、0447再ビ雷撃1ヲ受ケタルモ水面跳出被害ナシ、射点附近ニ爆雷投射三個効果不明』
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  37. ^ #S180401第14戦隊日誌(3)p.29『21日|0004第一次輸送隊「ニューアイルランド」島「セントヂョージ」岬沖ニテ敵機ト交戦木曽爆弾1命中』
  38. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.9『木曽ハ約十節ニテ卯月ノ護衛下ニ0315迄敵機18機ノ執拗ナル攻撃ヲ撃退、0500以後味方直衛機及五月雨ノ増援ヲ得テ1130「ラバウル」着1410火災鎮火排水…』
  39. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.10『GF電令作特第一号(GFキデ230758)ニ依リ多摩、木曽ハ丁四号輸送部隊ヨリ除カル』
  40. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)417頁『米潜の機動部隊搭乗員の救助と「間宮」の救援』
  41. ^ #S180401第14戦隊日誌(3)p.16『(3)五十鈴ハGF電令作第760号ニ依リ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ航行不能ノ間宮曳航ノ為12日2230分離現場ニ急行セシム』
  42. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.14『第二輸送隊21日0845上海発22日0213及0217ノ二回ニ亙リ雷撃2(位置北緯28度40分 東経124度10分 / 北緯28.667度 東経124.167度 / 28.667; 124.167)ヲ受ケタルモ被害ナシ、那珂、山雲ヲシテ攻撃制圧セシム』
  43. ^ 「シャード (潜水艦)」」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2013年4月2日(日)13:09、UTC:[URL: http://ja.wikipedia.org]
  44. ^ #戦隊行動調書p.14『10.30 17dg(浦風、磯風)指揮下ニ入ル』
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  46. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)pp.18-19『1129、南緯2度00分 東経151度31分 / 南緯2.000度 東経151.517度 / -2.000; 151.517ニ於テ第一次B-24型19機来襲銃爆撃、当隊之ト交戦1220第二次B-24型21機再ビ来襲、之ト交戦敵機ハ爆撃セズ1254之ヲ撃退セリ』
  47. ^ #S180401第14戦隊日誌(5)p.44『那珂(司令部ヲ含ム)戦死 准士官以上1 下士官兵6/重軽傷 准士官以上8 下士官兵12』
  48. ^ #S180401第14戦隊日誌(5)p.41『1215|磯風ハ清澄丸ノ左舷、那珂ハ右舷ヲ警戒セシム(略)1445|五十鈴ハ清澄丸ヲ曳航開始速力約七節、那珂ハ前方、磯風ハ後方警戒ニ当ラシム』
  49. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.21『当隊救難警戒ノタメ若月ヲ急派セラレ4日0040来着当隊合同セシモNTFキデ032043ニ依リ4日0420分離「ラバウル」ニ先行セシム』
  50. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.21『四日1020 十七駆(浦風)護国丸「ラバウル」着』
  51. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.21『四日0700 第十四戦隊、清澄丸(五十鈴曳航)、磯風、水無月「カビエン」泊地着
  52. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)pp.22-23『1629 出港時磯風推進器附近ニ触雷 磯風清澄丸ハ「カビエン」ニ残シ那珂、五十鈴ノミヲ率ヒ1630「ラバウル」ニ向ケ「カビエン」発』
  53. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.36『11月4日1817GF電令作第786号ニ依リ17駆(浦風、磯風)ヲNTB(南東方面部隊)YBニ編入』
  54. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.24『戦果 撃墜15-6機(重複アルベシ) 被害 ナシ』
  55. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.24『第十四戦隊及護国丸6日0430「トラック」ニ向ケ「ラバウル」発9日0015「トラック」着』
  56. ^ #S180401第14戦隊日誌(4)p.26『第三次輸送隊(野分、舞風、山雲、日枝丸)及神威丸、日威丸7日1100「トラック」着』
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  69. ^ #戦隊行動調書p.14『14S|三.四 解隊』
  70. ^ #内令昭和19年3月(5)p.41『内令第513号 横須賀鎮守府在籍/軍艦 那珂 軍艦香取、呉鎮守府在籍/軍艦阿賀野 右帝国海軍籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍/驅逐艦舞風、呉鎮守府在籍/驅逐艦白雲、佐世保鎮守府在籍/驅逐艦峯風・驅逐艦追風・驅逐艦文月・驅逐艦海風、舞鶴鎮守府在籍/驅逐艦太刀風 右帝国驅逐艦籍ヨリ除カル(略)|昭和十九年三月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  71. ^ #内令昭和19年3月(5)p.21『内令第199号 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年三月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等ノ部中「川内型」ノ項ヲ、同阿賀野型ノ項中「阿賀野、」ヲ、同練習巡洋艦ノ項中「香取、」ヲ削ル。驅逐艦一等峯風型ノ項中「峯風、」「太刀風、」ヲ、同神風型ノ項中「追風、」ヲ、同卯月型ノ項中「文月、」ヲ、同初雪型ノ項中「白雲、」ヲ、同白露型ノ項中「海風、」ヲ、同不知火型ノ項中「舞風、」ヲ削ル。驅潜艇、第十四号型ノ項中「第二十二号、」「第四十号、」ヲ削ル』

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08051772000 『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。
    • Ref.C08030041200 『昭和17年1月1日~昭和17年9月30日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌第3戦隊(3)』。
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    • Ref.C08030112300 『昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。
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    • Ref.C08030112100 『昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。
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    • Ref.C08030052400 『昭和18年4月1日~昭和18年11月15日 第14戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
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    • Ref.C12070196900 『昭和19年1月~7月 内令/昭和19年3月(5)』。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』 朝雲新聞社、1973年2月。
  • 木俣滋郎、『日本軽巡戦史』、図書出版社、1989年
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 官報

画像集[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]