大鳳 (空母)

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大鳳
タウイタウイに停泊する大鳳(1944年5月)[1]。
タウイタウイに停泊する大鳳(1944年5月)[1]
基本情報
建造所 川崎重工業艦船工場[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 航空母艦[3]
級名 大鳳型[4]
前級 瑞鳳型航空母艦
次級 隼鷹型航空母艦
改大鳳型航空母艦 (計画のみ)
建造費 予算 101,175,000円[5]
母港 舞鶴[6]
艦歴
計画 昭和十四年度海軍軍備充実計画[7](1939年)
起工 1941年7月10日[8]
進水 1943年4月7日[8]
竣工 1944年3月7日[8]
最期 1944年6月19日沈没
北緯12度05分 東経138度12分 / 北緯12.083度 東経138.200度 / 12.083; 138.200 (沈没地点)
除籍 1945年8月31日[9]
要目(計画)
基準排水量 計画 29,300英トン[10]
公試排水量 計画 34,200トン[10]
実際 34,753トン[11][注釈 1][注釈 2]
満載排水量 計画 36,808.7トン[12]
実際 37,268トン[11]
全長 260.60m[10] または260.5m[13][注釈 4]
水線長 253.00m[10]
垂線間長 238.00m[10]
最大幅 33.6m[13]
水線幅 27.70m[10]
深さ 22.00m(飛行甲板側線まで)[注釈 5]
または 22.10m[10]
飛行甲板 257.50m x 30.00m[10]
装甲部:150m x 約20m[14]
エレベーター2基[15]
吃水 公試平均 9.67m(計画)[10][注釈 6]
満載平均 10.15m(計画)[10]
ボイラー ロ号艦本式ボイラー(空気余熱器付[8]) 8基[16]
主機 艦本式タービン(高中低圧[8]) 4基[16]
推進 4軸 x 300rpm、直径4.300m[16]
出力 160,000shp[10][注釈 7]
速力 計画 33.3ノット[10] または 33.1ノット[15]
公試成績 33.4ノット[13]
1944年5月調査 33.69ノット[17]
燃料 計画 重油 5,700トン[10]
1944年5月調査 5,825トン[17]
航続距離 計画 10,000カイリ / 18ノット[10][注釈 8]
1944年5月調査 10,977カイリ / 18ノット[17]
乗員 計画乗員 1,649名[18][注釈 9]
竣工時定員 2,038名[11]
搭載能力 魚雷:九一式48本[19]
爆弾:800kg72個、500kg72個、特250kg144個、60kg144個[20]
軽質油:990トン(飛行機用)[21] または1,200トン[8]
兵装 10cm連装高角砲6基12門[22]
25mm3連装機銃17基51挺[22][注釈 10]
同単装機銃25挺(移動式)[23]
爆雷6個[19]
装甲 計画[24]
飛行甲板:20mmDS+75mmCNC鋼
機関室舷側 55mmCNC鋼、甲板16mmDS+32mmCNC鋼
軽質油タンク舷側 50-65mmCNC鋼、甲板 50mmCNC鋼
または、飛行甲板75mmCNC+25mmDS、舷側55mm〜165mmCNC
甲板16mmHT+32mmCNC[25]
搭載艇 12m内火艇3隻、12m内火ランチ3隻、8m内火ランチ1隻、9mカッター3隻、13m特型運貨船2隻[26]
搭載機 計画(常用+補用)[20]
一七試艦戦 24機
一六試艦攻 24+1機
一七試艦偵 4機
計 常用52機、補用1機
レーダー 計画 電探1基[27]
竣工時 21号電探2基[23](、13号電探1基[注釈 11])
ソナー 水中聴音機1組、探信儀2組[27]
その他 着艦識別文字 タ[要出典]
カタパルト2基(計画のみ)[20]
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大鳳(たいほう)[28]は、大日本帝国海軍航空母艦。日本の空母としては初めて飛行甲板に装甲を張るなど技術的に最も発達を遂げた艦であったが、1944年6月19日マリアナ沖海戦においてアメリカ海軍潜水艦の雷撃で損傷した後、航空用ガソリンタンクから漏洩して引火したため大爆発を起こし沈没した。竣工してからわずか3カ月の艦歴だった。

特徴[編集]

構造[編集]

大鳳の船体、および機関は翔鶴型航空母艦をほぼ踏まえているが[29]、飛行甲板に装甲を張ったため、このことが各所に影響、設計において解決すべき課題が多く出、その解のために大鳳は翔鶴型とはまったく異なる外観、および内部レイアウトを持つこととなった。

まず、飛行甲板装甲化による重心上昇を防ぎ復原力を確保するため艦内甲板は1層減らされており、艦内の容積は翔鶴型より小さくなっている[30]。全長は翔鶴型とほぼ同じ長さだが、海面から飛行甲板までの高さは公試状態12.4m、満載状態で12m程度で飛龍型に似た低いものであった[30][31]。格納庫は従来の日本の正規空母同様、上下二層であるが、翔鶴型より艦内甲板が一層少ないため、格納庫の周囲に居住空間をとらざる得ず、結果、格納庫は二層とも狭くなり、範囲は艦の中央部、前後の昇降機の間だけである。(この格納庫直上部分のみに装甲が張られている) 狭いのみならず開口部がほとんどなかったので、格納庫で敵弾の爆発があったさいには翔鶴型同様、爆風によって舷側鋼板が外れ、そのまま爆風を逃がすという設計としたが[32]、翔鶴型同様、実戦では機能しなかった[33]艦首のバルバス・バウ(造波抵抗を減らすための球状艦首)も翔鶴型に準じた前方に突出してないものであった[34]

機関室は、高度3000mからの800kg爆弾と距離1200m〜20000mでの6インチ砲弾に耐えることが求められた[35]。また弾薬庫は高度3000mからの1000kg爆弾(800kg爆弾水平爆撃以上)と距離1200m〜20000mでの8インチ砲弾に耐えることが求められた[35][36]。特に火薬庫は、対巡洋艦の8インチ砲弾防禦を施すことになった[37]。このため主要部には16mm高張鋼と32mmCNC鋼鈑による水平防御と、160mm〜55mmのCNC鋼鈑による垂直防御が施された[38]。水平鋼鈑が薄いのは飛行甲板の装甲も加味されているためである。 水中防御としては主要部を3重底とするとともに、日本海軍艦艇としては珍しい、液体(重油)層と空気層、及び装甲を組み合わせた5枚4層の合理的な防御構造が導入され、TNT換算で300kg(矢ケ崎技術少将によれば400kg)の炸薬をもつ魚雷を防御することが想定された[38][37]。ただし、アメリカ海軍が使用していたMK13航空魚雷トーペックス系炸薬を使用した場合TNT換算で400kgを超える威力となっており、必ずしも万全とは言い難かった[39][40]

機関は翔鶴型航空母艦に準じたものが搭載された。艦本式ロ号缶は1基ずつ分離された防水区画に搭載されて2列に並び8基搭載され、その後方に同じく左右に2例に4基のタービン室が配置され、日本海軍艦艇としては翔鶴型と並んで最高の16万馬力を発揮した[34]。蒸気圧30キロ平方センチ、蒸気温度350度も翔鶴型と同様であるが、スクリューは翔鶴型より若干サイズの大きい4.3mのマンガン鋼製3枚羽ものが使用され、最高毎分300回転で駆動した[34]。舵は大和型戦艦と同様に副舵と主舵の2枚を前後に分離設置した[34]

従来の日本海軍大型空母の場合、エレベーター(昇降機)は艦前部・中央部・後部の三ヶ所に設けられていたが、飛行甲板に装甲を張るという設計思想のため爆撃に対する弱点部位となるエレベーターは2基(前部、後部)に減少した[41]。しかし、エレベーターもまた格納庫の天蓋に当たるということから、エレベーターにも装甲が施されている。大きさは新型艦上機に対応しており、25mmのDS鋼板を二枚重ねて合計50mmの装甲を形成した[38]。これにより昇降機の重量は100トンに達したが[41]、作動スピードは他艦と遜色なかったという[38]カタパルト(射出装置)を2基装備する予定であったが、開発が間に合わず後日装備とされた。

兵員室はハンモックではなく、天井収納式の複数段ベッドが備えられた(乗艦者記憶では2〜3段式)。

甲板

軍令部は本型の飛行甲板に対し、800kg爆弾の急降下爆撃に耐えられる装甲を求めていた。しかし艦政本部は翔鶴型航空母艦と大差ない排水量では実現不能と判断した[42]。仮に要求どおりの重防御を施すと艦が4万トンを超える大型艦となり他艦種の建造を圧迫するという予算上の問題が生じ、昭和13年9月7日の丸四計画正式商議にて、前述の艦主要部分重防御に加え、高度700mからの500kg急降下爆撃に耐える装甲で飛行甲板の50%(エレベーターとエレベーター間。長さ150m、幅18m)を覆うという防御案で本型の建造計画は承認された[35][41]。排水量を3万トン級に抑え、その範囲内で防御を施すという妥協策がとられたのである[43]

初期の素案では60mmの装甲で前後の昇降機の間の飛行甲板(全長の1/2にあたる)を覆い、戦闘機の発艦距離を確保するというものであった[42]。しかし各種爆弾実験を実施したところ装甲60mmでは防御力不足と判断され、最終的に20mmのDS鋼板上に75mmのCNC甲板を装着した構造に落ち着いた[43][41]。ところが素案より装甲の厚みが増したので、装甲範囲の全長は飛行甲板の1/2のままであるものの全幅が短縮され、全幅を装甲する計画は艦中央部でも格納庫の天井部分を覆う幅20mのみの装甲とされた[30]

飛行甲板の表面仕上げは従来の空母同様に木張りであったとされるが[34]、ラテックス仕上げであるという異論もある。改大鳳型(G15 改⑤計画)の図面でも木の甲板の使用を裏付ける記述があり、最近発見された大鳳艦上で撮影されたと思われる写真には木甲板が映っている[44][45]。 また現存する複数の中央切断図面でも飛行甲板は45mmの木板を張る仕様になっている。一方、ラテックスを飛行甲板に施工したという公式文書・図面・証言資料は全く存在しない。『製造所である川崎神戸で、戦後福井静夫らの監修のもとに製作された模型がラテックス張りの状態で作られていた』ことがラテックス説の根拠のひとつであるが[34]、木甲板では爆弾が装甲飛行甲板の表面で爆発した場合、やはり発着が困難になるという予想から従来信じられていた「多少打たれても耐えうる前線の中継基地としての装甲空母」という概念がもうひとつの根拠になっていたと考えられる。

着艦制動索は、最新式の三式制動装置が設置された[46]。三式制動装置は油圧式で流星などの大型機に対応した制動装置で、大鳳が初の装備であった[47]。工期短縮と部品未納入のため、遮風柵自体の装備が省略されて竣工したが、竣工後の写真では遮風柵の存在が確認できる。無稼動状態で装備され、後日の工事で稼動状態とされる予定であったと推測される[47]

また、艦橋が煙突と一体化した大型のものであったので、それとの重量バランスをとるために飛行甲板は後方で左舷側に寄せられている。

重心上昇を防ぐため大鳳の甲板は前級の翔鶴型より一層少なくなっており、結果、乾舷(海面から飛行甲板までの距離)が艦の大きさに対し低くなっている(満載時で、飛龍とほぼ同じ12メートル)。そのため艦首において中空に突き出た従来のような飛行甲板では巨大波に突っ込んだときに圧壊しやすくなるため、同時期のイギリス空母や現代のアメリカ空母のように艦首外板を飛行甲板まで延長するハリケーン・バウ(エンクローズド・バウ)という形式をとり、艦首部と甲板を一体化させた[34]。日本海軍では初の試みであり、複数の案が検討された[34]。ハリケーン・バウには、翔鶴型より一層、甲板が少ない分を補う居住空間がとれるというメリットもあった。

艦橋

大鳳の艦橋は日本空母としては初めて煙突と一体化した巨大なものとなった。飛行甲板上に直立した煙突では特に着艦のさいに、排煙もあわせて障害物になりかねないため日本海軍では、最初の空母鳳翔からいろいろな排煙方式を試行錯誤し、結果、舷側から湾曲させた煙突とすることで一応の解決を見ていた。しかし、飛行甲板を装甲化した大鳳では、艦の大きさの割りに飛行甲板の高さを低くせざるを得なかったため、従来の湾曲煙突を設けた場合、位置が低すぎて先端が海面に接触・排煙に支障をきたすことが予想された[43]。そのため、煙突は飛行甲板上に立てることとなり、艦橋と一体化することとなった。当初はそのまま直立させる予定であったが、着艦コースの気流をできるだけ乱さないよう外側に傾斜させることとなり、風洞実験と重量計算の結果、飛行甲板から高さ17mのところに排煙口のある煙突を垂直面から26度外側に傾けて設けた[30]。この形式は商船を改造した飛鷹型航空母艦で先行して採用されたが、もともとは大鳳のために設計されたものである。のち、大和型戦艦3番艦改造の空母信濃にも採用されており、煙突を外側に傾斜させるのは戦後改造された英米空母にも見られる。位置的には煙突と一体化させたので、それまでの日本空母の右舷前方艦橋の位置よりはやや後ろにある。アイランドトップには二式二号電波探信儀一型を前後に合計2基設置していたが、13号電探については装備に否定的な意見が多いとされる[40]

設備[編集]

大鳳は日本の空母では唯一、六五口径九八式一〇糎高角砲(65口径10cm高角砲)を装備した。ただし飛行甲板の装甲化(重量増加)の代償として翔鶴型の40口径12.7cm連装高角砲8基16門と比較して、総数は連装6基12門に減じられた[43]。それを補うために高角砲は左右両舷に射撃可能とするはずであったが、アイランドの大型化によってそれも不可能となったため中止され、オーソドックスな配置に落ち着いた[30]。65口径10cm高角砲は艦隊防空を担う秋月型駆逐艦に搭載されたものと同種で、1発あたりの危害半径は狭いものの毎分19発と発射速度が速く(八九式12.7cm高角砲は毎分14発)、これを各舷に3基ずつ設置し、左右1基の九四式高射装置で管制していた[40]。25mm3連装機銃は当初8基の予定であったが建造中に増強されて17基となり、加えて単装25mm機銃が移動式として25基搭載予定であった[40]。これは普段は格納庫壁面に収納され、航空機の発艦後に昇降機によって飛行甲板に運び、飛行機固定用の金具を利用して固定するものである[40]

800kg爆弾72発、500kg爆弾72発、250kg爆弾144発、60kg爆弾144発、九一式航空魚雷改48本、他艦載機の補給用に別に250kg爆弾144発が搭載を計画していた[43]。軽質油タンクは前後の昇降機近くの海面下に配置され、前後で合計990トンの航空機燃料を搭載する計画となっており[43]、標準的な搭載量であった。被弾時の被害軽減のため、計画量は搭載していなかったと思われる[47]

搭載機[編集]

大鳳。後方に翔鶴型航空母艦を望む。

大鳳型の艦載機の搭載数は当初十七試艦上戦闘機常用24、十六試艦攻24(補用1)、十七試艦上偵察機常用4の52機(補用1)を予定していた[43]。資料によっては61機。これは、翔鶴型や連合国大型空母が70〜90機前後なのに比べるとやや控え目であるが、マリアナ沖海戦時には、艦上戦闘機20機(零式艦戦五二型)+艦上爆撃機18機(彗星一一型九九式艦爆)+艦上攻撃機13機(天山一二型)+艦上偵察機3機(彗星一一型《艦偵型》)の合計54機を搭載していた[48]。ただし、これはマリアナ沖海戦当日の機数であり、実際は事故で失った機数を含んでいない。また空地分離によって艦載機と空母の関係が変化しており、その時の搭載機数が最大搭載機数ではない。六〇一航空隊の航空機は、第一航空戦隊3隻(大鳳、瑞鶴、翔鶴)に分かれて搭載された。

搭載する航空燃料は1,000tで、翔鶴型航空母艦の496tの倍となっている。これは、零式艦戦(21型で機体内燃料搭載量が525リットル)や九九式艦爆等より、燃料搭載量の多い烈風(機体内燃料搭載量が912リットル)・流星・彩雲の運用を前提にしたが故の増大と見られる[49]

排水量の割りに搭載機数が少ないのは、飛行甲板装甲化による重心低下のため艦内容積が減少し格納庫を大きくとれなかったためであり、これはイギリス海軍イラストリアス級航空母艦と同様である。格納庫は翔鶴型航空母艦と同じ2層を備え、中間にエレベータがないので、エレベータを除いた格納庫全長は翔鶴型と遜色はない[50]。しかし上述のとおり、飛行甲板の装甲化面積が広くとれないため、その下部の格納庫面積も小さくなり、上層格納庫の幅が狭くなってしまった。ただし、艦上戦闘機烈風・艦上攻撃機流星といった大戦後期の大型艦載機を基準に計算されているがために、翔鶴型より定数が少なくなっているのであり、零戦・彗星・天山なら合計70機以上を運用可能とする資料もある[47]。またミッドウェー海戦に於いて、弾薬庫大爆発により致命的損傷をこうむった空母加賀から生還した天谷孝久中佐/加賀飛行長の意見により、艦爆と爆弾の搭載機数・搭載量を減らし、艦上戦闘機を増やす方向で軍令部や軍務局と調整したという背景もある[43]

この艦載機数の不足については、他の空母に補完させるという案もあった。すなわち、防御力の高い大鳳型が危険な前方に進出し、より安全な後方に控えた他の空母の艦載機を受け入れ、補給の上で再出撃させるという「洋上の補給基地」的な運用法である。現代の空中給油にも通じる航空機の行動距離の延長策だが、これは基礎研究段階(G12 大鳳原案)での一案に過ぎず、実際にこのような運用がなされたことはない[35]。計画初期に艦政本部が提案したこの案に軍令部や海軍航空本部は反対しており、④計画の概要が決定する以前の昭和13年始めには捨て去られ、大鳳は従来の航空母艦と同じ運用法を前提にして計画されている。海軍兵器の基本構想を採否する海軍技術会議の席上でも航空本部側の「現有空母の防御薄弱なるを強化するが主眼。『飛び石』的用法を主目的にするものにあらず。従って将来空母は皆、このような重防御のものとする考えなり」との発言が採択されている。実際、マリアナ沖海戦において、採られた戦法はむしろ「前線の洋上基地」とは反対で、敵艦載機の航続距離外から、攻撃するというアウトレンジ戦法であった。「前線の洋上補給基地案」は、その後、大和型戦艦の重防御が反映されている信濃型航空母艦で再び提起され、一度は本命視されたので、戦後、大鳳にも刺激的な構想として当てはめられて広まってしまったのだと推測されている[51]

予定搭載機
  • 一七試艦戦(烈風):18機(補用1機)
  • 一七試艦偵(彩雲):6機
  • 一六試艦攻(流星):36機
  • 合計:常用60機、補用1機、計61機

(注)艦偵6機、艦攻7機は露天繋止

あ号作戦時搭載機
  • 零式艦戦五二型:19機(6/13に2機事故喪失)
  • 彗星一一型:17機
  • 天山一二型:14機(6/13に1機事故喪失)
  • 彗星一一型(艦偵型): 3機
  • 九九式艦爆: 1機(6/13に2機事故喪失)
  • 合計:54機

(補足)1944年(昭和19年)3月7日出航時に搭載されていた艦載機は主翼折り曲げ式だった(機種については乗艦者記憶あいまい)。

第六〇一航空隊(大鳳 翔鶴 瑞鶴 に搭載)
  • 零式艦戦五二型:78機(6/13に2機事故喪失)
  • 零式艦戦二一型(戦爆型):11機
  • 彗星一一型:53機
  • 天山一二型:37機(6/13に1機事故喪失)
  • 彗星一一型(艦偵型):17機
  • 天山一二型(電探装備型): 5機
  • 九九式艦爆: 7機(6/13に2機事故喪失)
  • 合計:208機(大鳳:54機 翔鶴:77機[52] 瑞鶴:77機)[注釈 16]

艦歴[編集]

建造[編集]

大鳳の原型は、1939年(昭和14年)に策定された第4次充実計画(通称④計画)において計画された排水量27000トン級航空母艦「W102」である[53]昭和13年の大蔵省説明資料での初期案は、15.5cm砲6門を搭載する、かつて計画された「蒼龍原案」のような仕様であった[54]。これは、味方攻撃隊の中継基地になるために前方に進出するという作戦構想から来たもので、敵艦隊との水上戦闘を考慮する必要があった為である[54]。しかし航空機の高性能化に伴い、中継基地として使用する案は破棄され、通常の艦隊型空母として開発されることになり、この際かねてから懸念されていた空母における飛行甲板の脆弱性を補うべく、翔鶴型航空母艦の船体を基にして、それに飛行甲板に装甲を張り巡らせた重防御空母として計画が進められることとなった。大鳳以前の日本空母の飛行甲板は、同時期のアメリカ海軍空母と同様にほとんど無防御で、主に自らの直掩戦闘機によって敵攻撃機の攻撃を防げばよいという考えが支配的だった。また飛行甲板に装甲を張ると重心を下げるため艦の容積を圧迫し、格納庫面積が減少、すなわち攻撃力が低下するということも懸念され、さらに、航空機の大型化と高威力化する爆弾に対する限界も指摘され、飛行甲板装甲化もすんなりと決定を見たわけではなかった[55][41]。なお、装甲空母は1940年(昭和15年)にイギリス海軍が先んじてイラストリアス級航空母艦を竣工させている。

軍艦大鳳1941年(昭和16年)7月10日川崎重工業神戸造船所にて起工[56][57]。仮称艦名「第130号艦」[58]。川崎造船所、第六七〇番船[56]。同社が建造した空母としては、加賀型戦艦1番艦改造空母加賀(船体部分のみ)、翔鶴型航空母艦2番艦瑞鶴に続く3隻目となった。1943年(昭和18年)秋頃に進水予定であったが、起工から半年後に太平洋戦争が起こり工期繰上げが要求される[30]

1943年(昭和18年)3月5日、第130号艦は正式に大鳳と命名された[28]。同日附で夕雲型駆逐艦11番艦藤波秋月型駆逐艦7番艦霜月等も命名される[59]。 命名と共に、3隻(大鳳、藤波、霜月)等は艦艇類別等級表に登録された[3]。 同年4月7日[31]昭和天皇の名代として高松宮宣仁親王皇族軍人、天皇弟宮、海軍大佐)[60]臨席のもと午前8時30分に大鳳は進水した[58][61]8月15日隼鷹型航空母艦2番艦飛鷹艦長を務めていた澄川道男大佐は大鳳艤装員長に任命される[62][57]。12月23日附で、艤装員長は菊池朝三大佐(前職瑞鶴艦長)に交代した[63][57]。菊池大佐は、空母赤城飛行長・鳳翔艦長・瑞鶴艦長(1943年6月20日[64]〜12月18日[65])等を務めた経歴を持つ[66]

1944年(昭和19年)1月19日、呉海軍工廠で建造中の雲龍型航空母艦3番艦葛城高松宮宣仁親王昭和天皇弟宮、海軍大佐)臨席のもとで進水する[67][68]。翌1月20日、宣仁親王は神戸川崎重工業を訪問し大鳳を見学した[69]。宣仁親王は進水式などで幾度か川崎造船所を訪れて大鳳に関わっており、大鳳の工事促進を要請する[56][57]。 2月上旬、大鳳は神戸港から備讃瀬戸来島海峡を通過して呉軍港に移動、2月3日から呉海軍工廠第四船渠に入渠して最終的な艤装が施された[61][57]。 2月15日、吉岡保貞(予備役中将、川崎重工業専務取締役)は高松宮(軍令部大佐)に「大鳳の完成を3月10日に繰り上げ」と報告する[70]。 約8ヶ月分の工事量を約5ヶ月に短縮(日数換算40%)、艤装予定を約3ヶ月短縮し[71][56]3月7日に竣工した[72][73]。同時附で正式に舞鶴鎮守府所属[6][66]。菊池艤装員長も制式に大鳳艦長(初代)となった[74]。 3月10日、第一航空戦隊に編入[75]。瀬戸内海で訓練を実施する[76]。3月28日、『陸攻の神様 海軍の至宝』と謳われた入佐俊家中佐が大鳳飛行長に任命され、同時に第六〇一海軍航空隊司令を兼職することになった[77][78]

訓練[編集]

1944年(昭和19年)3月28日[79][80]、大鳳は兵員輸送を兼ねて、秋月型駆逐艦2隻(初月若月)に護衛されてを出航した[81][82]。601空の零戦・彗星・天山のほか、司偵・月光零式水上観測機零式水上偵察機、計64機を搭載した[83]。 4月4日-5日、シンガポール到着[84][85]。入港直前に舵取装置が故障し、さらに配電盤火災となり一時操舵不能となるが復旧に成功した[86]。月光や水偵、兵員を陸揚げした後、4月9日リンガ泊地に回航され、4月15日より第一機動艦隊旗艦(司令長官小沢治三郎第三艦隊長官)となる[75][76]。リンガ泊地では第一航空戦隊(翔鶴瑞鶴)や第十戦隊所属各艦とともに着陸訓練を主に行った。

大鳳は5月6日に航空機をすべて収容し5月11日(12日とも)リンガ泊地を離れ[76]、内地からの第二航空戦隊隼鷹飛鷹龍鳳)、第三航空戦隊千歳千代田瑞鳳)と合流するためにタウイタウイへ移動、14日に到着した[87][88]。タウイタウイ泊地では、周囲に大きな陸上飛行場がなく、泊地の中では発着艦訓練を実施できなかった[89]。また泊地周辺にはアメリカ軍潜水艦が出没しており[90]、泊地の外に出ての発着艦訓練もできず、航空隊の技量も充分とは言えなかった[91][92]。また、潜水艦の雷撃により駆逐艦多数(谷風風雲水無月早波)等が逆に撃沈されたほどである[87][93]。 6月13日、陸上基地を利用して搭乗員の訓練をおこなうべくフィリピン中部のギマラスに向かった[94][95]。同海域では対潜哨戒をしていた天山が着艦に失敗、着艦のやり直しをしようとしたが失速し、大鳳飛行甲板の九九艦爆に追突し炎上[96]。零戦2・九九艦爆2・天山1を喪失、天山1大破・九九艦爆1小破、搭乗員1名・整備員7名が戦死した[97][98]。この事故と火災は大鳳関係者だけでなく周囲の艦にも目撃され、乗組員達に不吉な予感を与えたという[99]。同日、アメリカ軍のサイパン攻略公算大としてあ号作戦決戦用意が発令される[94]。6月14日ギマラスに入泊し燃料を補給した[94]。6月15日、ギマラスを出航しマリアナ沖に向かった[94]

マリアナ沖海戦[編集]

1944年(昭和19年)6月18日以降、マリアナ沖海戦に参加する。小沢機動部隊甲部隊(旗艦大鳳)の戦力は第一航空戦隊の大型空母3隻(大鳳、翔鶴、瑞鶴)、第五戦隊(司令官橋本信太郎少将)の重巡2隻(妙高羽黒)、第十戦隊(司令官木村進少将)の旗艦/阿賀野型軽巡洋艦3番艦矢矧と麾下の駆逐艦7隻(第10駆逐隊《朝雲》、第17駆逐隊《磯風浦風》、第61駆逐隊《初月若月秋月》、秋月型《霜月》)だった[100]。指揮下巡洋艦3隻(羽黒、妙高、矢矧)のうち、大鳳には羽黒、翔鶴には妙高、瑞鶴には矢矧が随伴していたという[101]。 彗星(大鳳所属機)がアメリカ軍機動部隊を発見し前衛艦隊は攻撃隊発進を開始したが、攻撃隊の帰還は夜間となるため夜間着艦の危険性を考慮され、この日の攻撃は見送られた[102]。また、この反転により第一機動艦隊はアメリカ軍潜水艦の行動圏に入ってしまった[103]

6月19日午前6時30分、軽巡能代(第二水雷戦隊)所属水偵がアメリカ軍機動部隊を発見した。午前7時45分より大鳳以下第一航空戦隊は128機の攻撃隊を放った[104]。大鳳攻撃隊は42機(零戦16、彗星17、天山9)[98]。7時58分には予定どおり発艦作業が終了し、小沢機動部隊には楽観的気運さえ漂った[105]。「手空きは上甲板で見送れ」の下令により乗組員の大部分が攻撃隊を見送っており[106]、対潜警戒がおろそかになっていた可能性も指摘される[107]。また無線を傍受していた軍令部でも勝利の気運が高まっていたという[108]

そのころ、アメリカ潜水艦アルバコアが小沢艦隊を追跡していた[109][110]。アルバコアでは攻撃直前に魚雷諸元調停盤が故障、潜望鏡を出し直接照準で空母を狙うことにした[111]北緯12度22分 東経137度04分 / 北緯12.367度 東経137.067度 / 12.367; 137.067地点に於いて、やや遠距離から6本の魚雷を発射した(アメリカ軍記録時間8時9分)[109][112]。上空では発艦した第一次攻撃隊が編隊を組みつつあったが、彗星1機(搭乗員 操縦:小松幸男兵曹長/偵察:国次萬吉上飛曹)が編隊に加わろうとせず、右に旋回して海に突入した[113][114]。母艦から右5000mくらいの海面だったという[115]。これは同機が雷跡を発見し、自爆突入して魚雷を阻止しようと試みたものである[116]。また、大鳳の右舷に配置されていた秋月も雷跡を視認したという[117]。 大鳳の見張員は雷跡を直ちに報告し[118]、当時28ノットで直進中であり取舵一杯が下令されたが[119]、午前8時10分に魚雷1本が大鳳の右舷前部に命中した[120][121][122]。初月の対潜掃蕩[123]を振り切り帰投したアルバコアは、「魚雷1本命中により翔鶴型1隻を撃破」と報告した[112]。 この時点で前部がやや沈下し速力は26ノットとなったものの内務科・補機分隊による左舷後部への注水によって艦首沈下は是正され、戦闘続行可能状態であった[124]。だが前部昇降機(揮発油タンク直上)が下部の戦闘機格納庫から1mほどのところで、零戦を乗せたまま前側に傾いて停止した[125][121]。昇降機(エレベーター)の重量は100トンあるため、艦内作業での修理は不可能だった[118][126]。小沢長官の命令により、工作兵が総動員で作業にあたる[127]。艦内にあった応急処置用の丸太をかき集め、停止した昇降機の上に食堂の椅子や机を櫓状にくみ上げて昇降機の穴(14m四方)を塞いだ[128][129]。9時20分頃、作業完了[130]。攻撃隊指揮官の小野大尉がその強度を確認し、搭載していた魚雷や燃料を降ろして軽くした零戦1、彗星1、天山4-5機が発艦し瑞鶴に移動した[131][121]。午前10時30分、第一航空戦隊(小沢長官直率)から第二次攻撃隊が発進している[132]

しかし、被雷直後より下部格納庫の前部昇降機付近よりガソリンの湧き出しが始まっていたという証言がある[40]。魚雷命中の衝撃で破壊されたガソリンタンクから漏出したガソリンが、周囲の浸水によって格納庫にまで押し上げられていたと考えられた[40]。気化したガソリンは艦内に充満しつつあり、まず揮発油タンクのすぐ後ろの区画(弾薬庫)はガス侵入のため退去を余儀なくされた[129]。続いて第二格納庫も出入りが困難になるほどの状況になった[121][130]。また缶室との距離も短いために、ガソリンそのものの流出抑制作業を並行して行うも、気化したガソリンを吸入して失神する乗員が続出[133][106]。火花を恐れて工具の使用が憚れた[133]、応急作業班の交代などの理由により[122]、作業は捗らなかった。続いて「気化ガス充満、タバコ禁止、防毒マスク着用、火花が出るような作業も禁止」との伝達が艦内各部署になされた[133][134]。格納庫の側面の扉はすべて開かれたがそれでも換気が追いつかず、舷窓や[130]、格納庫の側壁の鋼鈑を故意に破壊して穴を開けている[133]。後部昇降機を下げる[135]、発電室などの扉も開放するなど[136]、必死の換気作業が行われた。 大鳳への着艦は以上の状況により上空警戒の戦闘機と緊急を要するものに限定されたが、翔鶴がアメリカ潜水艦カヴァラの雷撃で落伍したため(午前11時20分魚雷4本被雷、午後2時頃に沈没[137])第一次攻撃隊の収容も担当することになった[131]。午後12時20分以降に小沢艦隊第一次攻撃隊が帰還してきたが、アメリカ軍の反撃により膨大な未帰還機が発生しており、大鳳から発艦した機で帰還したのは4機(零戦3、偵察彗星1)であった。

沈没[編集]

午後2時過ぎて間もなく翔鶴が沈没した[138]。大鳳はアルバコアの雷撃で航空機燃料が漏洩し、引火したため大爆発を起こした[139][140]。アメリカ艦隊を発見できず損害もないまま艦隊上空に戻ってきた第二次攻撃隊を収容中の午後2時32分(被雷から約4時間後)、気化したガソリンに引火した[120][141]。大鳳の艦橋に勤務していた近藤敏直少尉によれば、最初の着艦機が胴体着陸した直後に爆発が発生したという[142]。瑞鶴整備下士官は、大鳳の甲板上に駐機していた機に着艦失敗機が突入した直後、大火災が発生したと回想している[143]。第二次攻撃隊前路偵察の天山1機、二航戦の零戦4機を収容したところ、5機目の零戦が着艦せず通過、直後に爆発が起きたともいう[131]。羽黒下士官によれば、哨戒機が着艦した瞬間に大爆発が発生した[101]。発電機室の後方にあった缶室にガソリンが拡散して爆発した可能性や[80]、換気用モーター、運転中モーターの過熱など、他にも様々な原因が指摘されている[144]。第二次攻撃隊は旗艦の着艦不能により、瑞鶴に着艦した[145]

爆発の原因が何であれ、大鳳の損傷は重大だった[146]。エレベーターを塞ぐ作業を終えて大鳳艦橋で休憩していた塩山技術大佐は、関東大震災のような揺れでアメリカ軍重爆の大型爆弾の直撃と直感した、と回想している[147]。厚い装甲板を張った飛行甲板が飴板のように盛り上がり、前部飛行甲板は瞬時に炎に包まれた[147][148]入佐俊家中佐(大鳳飛行長)は、おそらく飛行甲板上で爆発に巻き込まれ行方不明となった(戦死認定)[149][148]。大鳳後方に位置していた重巡洋艦羽黒の艦橋からは、大爆発と共に火柱が大鳳側面の隔壁を突き破り、艦載機や乗組員が吹き飛ばされる光景が目撃された[150]。このように、昇降機周辺や甲板上にいた乗員は爆発の衝撃で吹き飛ばされ、多数の死傷者を出した[147][146]

大鳳では航海士が艦橋後部に設置されている遠隔操作の消火装置を作動させたが、鎮火しなかった[136]。また、機関部との連絡がつかないため、消防管のバルブが開けられず消火活動は全くはかどらなかった[148][136]。大鳳は急速に速度を落とし停止、艦橋の将校達は「機関部は爆発時の火炎によって全滅した」と判断している[151][152]。実際には機関科将兵には生存者がおり、退去に成功している[106]。艦の機械停止の原因は、爆発の衝撃で潤滑油を送る注油ポンプの管接手が外れ、機械が焼損するに至ったからである[153][106]

周囲の艦(羽黒、若月等)は大鳳への接近を命じられたが、爆発が続くため接近できていない[150]。 小沢司令長官は大鳳に残るつもりだったが、周囲に説得されて退艦を決意した[154]。小沢長官や古村啓蔵参謀長は艦橋が盾になったため爆風を免れた唯一のカッターボートに乗り、秋月型駆逐艦若月(第61駆逐隊)に移動[155][141]。その後16時6分に羽黒(第五戦隊)へ移った[156][141]

大鳳では小爆発が連続し[101]、駆逐艦磯風(第17駆逐隊)や初月(第61駆逐隊)等が脱出者の救助にあたった[157][158][159]。羽黒もカッターボートを派遣している[101]。最終的に磯風が大鳳の艦尾に接艦して乗組員を救助している[160][161][162]。 大鳳は左舷に大きく傾斜し[162][148]、磯風の離艦後間もなく午後4時28分(爆発から約2時間後)に沈没した[120][153]。大鳳爆発時に搭載していた零戦5機、九九艦爆1機、彗星4機、天山3機も共に失われている[163]。沈没位置(北緯12度5分 東経137度12分 / 北緯12.083度 東経137.200度 / 12.083; 137.200[164][153]。小沢中将以下司令部は20日になり瑞鶴へ移動し、以降の航空戦の指揮をとった[165][101]。 6月22日、生存者は沖縄の中城湾で瑞鶴に移乗し[166]、また負傷者の一部は病院船天応丸に収容され[122]、日本本土へ向かった。結局、大鳳が母港の舞鶴港へ帰港する事は一度もなかった。 また、大鳳の沈没を含めマリアナ沖海戦の敗北はミッドウェー海戦以上の完敗であり[167]サイパンの戦い[168][169]およびその後の戦局[170]に決定的な影響を与えた。

1945年(昭和20年)4月30日、昭和天皇米内光政海軍大臣と対面した際[171]、アメリカの潜水艦に空母2隻(大鳳、翔鶴)が撃沈された件について

「『あ号作戦』はあの辺に敵潜水艦の出没せることは判って居ながら之を強行して失敗に了ったが、あれは連合艦隊長官がさせたのか、機動部隊長官が自ら決行したのか」

と下問している[172]

8月31日、戦艦4隻(山城武蔵扶桑大和)、空母4隻(翔鶴信濃瑞鶴大鳳)は帝国軍艦籍から除籍された[9]1969年(昭和44年)6月22日、第一回大鳳戦歿者慰霊祭が開かれる[173]1974年(昭和49年)9月23日、大鳳慰霊碑も舞鶴に建立された[173]

大鳳の沈没は、まず魚雷1本の命中によりガソリンタンクが破壊され、艦内各部に充満[174]。続いて胴体着艦をした戦闘機の衝撃で格納庫内に充満した気化燃料(ガソリン)に引火し、爆発したことが原因だった。これは閉鎖式格納庫が持つ弱点が最悪の形で現れたものだったが、たった1発の魚雷で沈没に至るまでにはいくつかの不幸な積み重ねが存在した。

  • 大鳳のガソリンタンクは機関部や弾薬庫のさらに前方水線下に設置され、重要区画から隔離されていた[174]。タンクからのガソリン漏れは被雷の衝撃で継ぎ目がはずれたために生じたが、この継ぎ目の溶接に不具合があったと言われている[175][80]。大鳳には電気溶接も部分的に取り入れられていたが、当時の電気溶接には強度に問題があった[注釈 47]。(ミッドウェイ海戦で4隻もの主力空母を一気に失ったときに建造中だった主力空母は大鳳だけであったため、装甲空母という工程の多い艦にもかかわらず戦時下、特に工事が急がされた)空母のガソリンタンクは元々装甲板で防御されていた。ミッドウエー海戦後は、さらにタンク周囲の空所に注水されるようになった。大鳳の教訓としてその外周の空所に水ではなく、鉄筋を組んだ上にコンクリートを充填するようになった(信濃雲龍など)。また格納庫の通風装置も強化された。
  • 日本の工業力の限界により使用部品の精度や材質劣化に悩まされ、さらに優秀な技能工が次々に召集されたため、未熟な徴用工の手で建造されていた[176]
  • 竣工間近での艦内点検においてガソリン圧送パイプが指定されていた衝撃などに強い白銅製ではなく衝撃に弱い鋼製であることが判明し交換を指摘されたが入手できず、そのまま出撃となったという話も残っている。
  • 被雷の衝撃で前部エレベーターが甲板下1mのところで故障・停止してしまったが、作戦続行のため急遽エレベーター上に机などを積み上げて応急処置をし、飛行甲板の開口部を塞いでしまった。舷側の開口部、換気扇とも全開にしたが、艦内には気化したガソリンが充満し、目を開けるのも辛い状態となった。さらに攻撃隊が帰艦してきたため、後部エレベータもまた上げ下げで換気の役割は十分に果たせなかった。戦闘継続を放棄して前部、後部のエレベータとも換気のために開放すれば、気化燃料を[135]、あるいは万一引火したとしても爆風を、開口部から逃がすことができたかもしれなかった[33]
  • 格納庫の天井は全面10ミリの鋼板、その上が95ミリの装甲で覆われていたため、他の空母なら上に抜けるはずの爆圧までが下部に強く向かった。ゆえに機関部などより大きい被害を受けることとなった。
  • 大鳳はエレベーターもまた格納庫上を覆っているという理由からエレベーターにも装甲が施され、その重量は100tにもなったが、これは一度故障すると(停止した原因は昇降用ワイヤーの滑車からの脱落)艦内作業ではとても修理しかねるものであった。
  • 艦内の工作兵がエレベーター開口部を塞ぐことに総動員されたため、揮発油タンクの修理があとまわしにされた[128]
  • ガソリンの臭気を抜くため総てのベンチレーター(換気扇)を全開にしたが、かえって揮発性ガスが閉鎖された艦内に充満、爆発が艦全体に及び致命的損傷を受けた[150]
  • 竣工してわずか3カ月であり、また従来にない新機軸を盛り込んだ艦であったので乗組員が不慣れであった。
  • 大型空母3隻(大鳳、翔鶴、瑞鶴)を擁しながら護衛する駆逐艦は7隻(磯風、浦風、秋月、若月、初月、霜月、朝雲)、巡洋艦も3隻(羽黒、妙高、矢矧)のみで、対潜警戒に難があった[177]

艦長[編集]

艤装員長
  1. 澄川道男 大佐:1943年8月15日[62] - 1943年12月23日[63]
  2. 菊池朝三 大佐:1943年12月23日[63] - 1944年3月7日[74]
艦長
  1. 菊池朝三 大佐:1944年3月7日[74] - 7月1日。7月10日附で第二十五航空戦隊司令官[178]
キスカ島撤退作戦でキスカ島から生還後大鳳勤務となった近藤敏直少尉によれば、菊池艦長は大鳳と運命を共にするつもりだったという。近藤からあるだけのタバコを貰い、「沈むまで何日もかかるだろうから、それまで吸う」と笑った[142]。菊池艦長は磯風を見送ったのち、後部デッキにハンモックの紐で身体を固定した[179][173]。だが、沈没の衝撃で縄が切れたようで[179]意識不明の状態で磯風に救助された[180][173]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 基準28,564、公試33,800トン(#軍艦基本計画資料Sheet11、同Sheet79等)や、35,300トン(同Sheet43)、満載36,602トン(同Sheet79)の値もある。
  2. ^ #USNTMJ-S-01-03p.45には公試34,600トン、満載37,270トンの値もある。
  3. ^ ただし同3頁では四捨五入して36,809トンと記載。
  4. ^ 「一般計画要領書」や#空母大鳳・信濃pp.89-90掲載の大鳳艤装大体図では全長260.60mと記載、#USNTMJ-S-01-03p.45や#空母大鳳・信濃ワイド折り込み(7)掲載の線図に記載のフレームスペースの数値などから計算すると250.50m。
  5. ^ #空母大鳳・信濃ワイド折り込み(7)掲載の正面線図、Aとされている線図では飛行甲板側線までの深さは22.000m、飛行甲板のキャンバー0.100mで計22.100m。大鳳の線図は2種類残されており、もう一方のBと仮称されている正面線図では飛行甲板側線まで22.100mとなっている(キャンバーは同一の0.100m)。Aは1944年5月8日付の完成図、Bは終戦後復元された図面の1つということなのでここではAに依った。#USNTMJ-S-01-03p.45、#昭和造船史1pp.780-781では22.00mとしている。
  6. ^ #海軍造船技術概要p.296では9.59mになっているが、#空母大鳳・信濃ワイド折り込み(7)掲載の線図によるとこれは1WL(基本計画公試状態の吃水線)の値。
  7. ^ #USNTMJ-S-01-03p.45によると180,000shp。
  8. ^ #USNTMJ-S-01-03p.45によると8,000カイリ/18ノット。
  9. ^ 「一般計画要領書」p.41の130号艦(大鳳のこと)の計画欄には士官75(15)、特務士官46(5)、准士官61(1)、下士官(兵を含むと思われる)1467(77傭)で「括弧内は司令部定員ヲ示ス」と注があり、合計すると1649(98)。ただし、計の欄に1651(101)と書かれており、更に総計と思われる1,751の値も書かれているが何れも合計値と合わない。
  10. ^ #海軍造船技術概要p.296では3連装22基、表A「あ号作戦前の空母対空兵装(昭和19年5月現在)」#日本空母物語p.417では3連装18基となっているが、#日本海軍艦艇図面集図22の一般配置図では17基しか確認できない。
  11. ^ #日本の航空母艦p.294では13号電探を信号檣に搭載という。
  12. ^ 『達第四十一號 川崎重工株式會社ニ於テ建造中ノ軍艦一隻ニ左ノ通命名セラル 昭和十八年三月五日 海軍大臣嶋田繁太郎 軍艦 大鳳(タイホウ)』
  13. ^ 山内常夫大尉と田中次男大尉の大鳳艦上での写真。
  14. ^ 同一写真と人物について解説。
  15. ^ 「零戦34、天山12(3機は偵察型)、彗星18、二式艦上偵察機10、九九艦爆3」
  16. ^ 戦史叢書、機動部隊、マリアナ沖海戦の各著書でも、機数に相違点多し。
  17. ^ 『達第四十二號 昭和十七年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻、潜水艦二隻、海防艦一隻、驅潜艇二隻及特務艇三隻ニ左ノ通命名セラル 昭和十八年三月五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 藤波(フヂナミ)|三菱重工業株式會社長崎造船所ニ於テ建造 驅逐艦 霜月(シモツキ)|三菱重工業會社神戸造船所ニ於テ建造 呂號第四十一潜水艦、呂號第四十三潜水艦|株式會社大阪鐡工所ニ於テ建造 海防艦 六連(ムツレン)|函館船渠株式會社ニ於テ建造 第四十五號驅潜艇|株式會社新潟鐡工所ニ於テ建造 第四十八號驅潜艇|佐野安船渠株式會社ニ於テ建造 第十九號掃海特務艇|三菱重工業株式會社彦島造船所ニ於テ建造 第二十一號掃海特務艇|株式會社横濱ヨット工作所ニ於テ建造 第十號魚雷艇』
  18. ^ 『内令第三百九十三號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十八年三月五日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、航空母艦ノ部中「龍鳳」ノ下ニ「、大鳳」ヲ加フ|驅逐艦、一等夕雲型ノ項中「涼波」ノ下ニ「、藤波」ヲ、同秋月型ノ項中「若月」ノ下ニ「、霜月」ヲ加フ|潜水艦、二等呂三十五型ノ項中「呂號第四十」ノ下ニ「、呂號第四十一」ヲ、「呂號第四十二」ノ下ニ「、呂號第四十三」ヲ加フ|海防艦、占守型ノ項中「隠岐」ノ下ニ「、六連」ヲ加フ|驅潜艇、第十三號型ノ項中「第四十四號」ノ下ニ「、第四十五號、第四十八號」ヲ加フ』
  19. ^ 『(昭和十八年四月)七日 水曜日(略)神戸市川崎重工業株式会社において軍艦対応の命名式挙行につき、宣仁親王を差し遣わされる。』
  20. ^ 『一月十九日(水)晴(略)一一三〇〜一一五五「葛城」進水式(以下略)』
  21. ^ 『(昭和十九年一月)十九日 水曜日(略)呉海軍工廠において軍艦葛城の命名式挙行につき、宣仁親王を差し遣わされる。』
  22. ^ 『一月二十日(木)晴(略)〇九〇〇〜一一一〇川崎重工業ニテ「大鳳」ヲ見ル。一一二〇〜一三一〇、三菱重工業ニテ海防艦建造状況ヲ見、昼食(以下略)』
  23. ^ 『二月十五日(火)晴、冷、夕方雪チラツク(略)吉岡(川崎造船)氏(「大鳳」完成三-一〇ト繰上ゲシ話)』
  24. ^ 『七(天候略)|大海機密第〇八一三四九番電ニ依リ大鳳ヲ一艦戰ニ編入セラル(略)大鳳竣工引渡(以下略)』
  25. ^ 『二八(天候略)一.大鳳出撃/一.伯空 九三一空 前路警戒直衛及対潜警戒実施/一.三十四掃 水道端末附近ノ対潜掃蕩実施』
  26. ^ 『二六日〇八三二呉防戰(司令官)|二六日一四一七 豊後防備部隊 伯空(司令) 九三一空(司令)〔大鳳 呉鎭(長官)〕|呉防戰機密第二六〇八三二番電 電令作第四六八号 三月二十八日大鳳駆逐艦二隻沖ノ島出撃南下ノ予定速力二六節(以下略)』
  27. ^ 『(ヲ)二十八日初月及若月大鳳護衛内海西部発昭南ニ回航ス』
  28. ^ 『(1)初月 大鳳護衛内海西部発昭南回航中ノ所四日昭南着五日「リンガ」ニ回航六日瑞鶴着艦訓練警戒艦トシテ湾内出動七日第一哨艦ノ配備ニ就ク(以下略)』
  29. ^ 『四月五日 水曜日 晴(略)大鳳内地より昭南着、郵便物齎す(以下略)』
  30. ^ 『五月十四日 日曜日 晴 機動艦隊タウイタウイ基地集結。』
  31. ^ 訓練時、空母が一直線に突っ走るため広さが必要。
  32. ^ 『右訓練不足特ニ飛行隊ノ訓練ノ不足ハ航空戦ニ少カラザル影響ヲ及ボシタルモノト認ム』
  33. ^ 『<35>「あ」号作戦参加機動部隊兵力部署 指揮官 第一機動艦隊司令長官 小沢治三郎中将』(駆逐艦名は補足)
  34. ^ 『大鳳潜水艦ノ雷撃ヲ受ケ魚雷1本命中 前部軽質油庫漏洩シ上下格納庫ニガス充満一時出入困難トナリ 前部「リフト」ハ二次攻撃用戦斗機搭載ノ儘中間ニテ停止セリ 直ニ応急處置ヲナシ第二次攻撃用飛行機ヲ瑞鶴ニ移載セリ(fo天山×5、fc×1、fb×1)』
  35. ^ 塩山策一海軍技術大佐談。艦隊司令部付で大鳳に乗艦した。
  36. ^ 『1120/翔鶴ハ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ(四本命中)火災トナリ1401沈没セリ』
  37. ^ 『六月十九日 月曜日 晴 雲あり時に少スコール』
  38. ^ 『1432/大鳳誘爆ヲ起シ1628沈没ス KdB(将旗)ハ若月ヲ経テ1606羽黒ニ移乗ス』
  39. ^ 『1432大鳳爆発当時航空戦酣ナル時機ナリシヲ以テ速ニ通信可能ナル艦ニ移乗スルコトニ決意シ当時視界内ニアリタル若月ヲ経テ1606羽黒ニ移乗シ当面緊急事項ヲ処理シ作戦指揮ヲ続行 翌20日1200瑞鶴ニ旗艦ヲ変更セリ』
  40. ^ 塩山大佐は峯風が接舷したと回想しているが、磯風の誤認。他資料の回想では磯風と修正。
  41. ^ 『大鳳ノ爆沈/大鳳ハ19日0810(位置12-24北137-20東)第一次攻撃隊発進終了直後敵潜ノ雷撃ヲ受ク(一本命中)1422突然大爆発ヲ起シ1628沈没セリ(位置(12-5北138-12東)』
  42. ^ 『6月22日1500/本隊中城湾着 午後大鳳(瑞鶴) 翔鶴(摩耶 601空ハ瑞鶴) 飛鷹(隼鷹)乗員ノ移乗ヲ実施ス』
  43. ^ 『六月二十日(火)曇、雨 〇八三〇軍令部。戦況詳カナラズ。好マシカラザルモナルハ明カナリ。殊ニ「サイパン」ノ問題ハ致命的ノコトナリ。夜、総長、次長、作戦課方針打合。二二〇〇皈。ニュース映画間ニ合ハズ、御所オ誘ナシ。』
  44. ^ 『(昭和十九年六月)二十二日 木曜日(略)宣仁親王と御対面/マリアナ沖開戦の大本営発表』
  45. ^ 『(昭和二十年四月)三十日 月曜日(略)午後、御文庫において海軍大臣米内光政に謁を賜う。その後、海軍人事上奏書類を御裁可になる』
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出典[編集]

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    • 元海軍技術少将矢ヶ崎正経『謎の決戦空母「大鳳」設計始末記 飛行甲板、舷側甲鋲、艦橋、煙突など"完全無欠空母"の秘密
    • 当時「大鳳」船殻担当・川崎重工技師吉田俊夫『不沈空母「大鳳」完成こそ青春の証し 造船所内に泊まり込みで大鳳建造に熱中した短現技術士官の回想
    • 元「大鳳」機関科員・海軍兵曹長西村孝次『空母「大鳳」マリアナ沖の最後 燃えくるう火災地獄。熱風のなかで戦いぬいた機関科員の証言
    • 元「大鳳」第一機動艦隊司令部付技術長・海軍技術大佐塩山策一『まろぼしの不沈空母「大鳳」の悲劇 秘密裡に出撃したまま南溟に消えた重防禦空母の生涯
  • 長谷川藤一『軍艦メカニズム図鑑 日本の航空母艦』(第3刷)グランプリ出版、1998年12月(原著1997年9月)。ISBN 4-87687-184-1 
  • 原勝洋「「大鳳」の誕生とその最期 空母「大鳳」」『猛き艨艟 太平洋戦争日本軍艦戦史』文春文庫、2000年8月。ISBN 4-16-745602-8 
  • 福井静夫『海軍艦艇史 3 航空母艦、水上機母艦、水雷・潜水母艦』KKベストセラーズ、1982年4月。ISBN 4-584-17023-1 
  • 福井静夫『日本空母物語』 福井静夫著作集第7巻、光人社、1996年8月。ISBN 4-7698-0655-8 
  • 福田啓二 編『軍艦基本計画資料』今日の話題社、1989年5月。ISBN 4-87565-207-0 
  • 福田幸弘『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』時事通信社、1981年7月。ISBN 4-7887-8116-6 
    福田は羽黒の主計科所属。大鳳の爆発と沈没を羽黒艦橋で目撃した。
  • 文藝春秋編『完本・太平洋戦争(上)』文藝春秋、1991年12月。ISBN 4-16-345920-0 
    • 千早正隆(元海軍中佐)『戦果ゼロ・マリアナ沖海戦』
    • 塩山策一『新鋭空母大鳳の最期』
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。 
  • 堀元美『連合艦隊の生涯』朝日ソノラマ文庫、1983年6月。ISBN 4-257-17028-X 
  • 牧野茂福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4 
  • 大木主計(編集人) 編『丸エキストラ版 陽春4月号 実録・太平洋海戦史 日本海軍がたどった勝利と敗北の記録』 丸エキストラ版94、潮書房、1984年4月。 
    • 不沈空母"大鳳"燃ゆる航跡の果て 造艦技術陣が科学の粋を集めて建造し、戦局打開の大任をおびながらあえなく潰えた"不沈空母"から生還した一下士官の綴る衝撃の回想! ■当時601空艦攻攻撃隊魚雷分隊・海軍二等兵曹 堀 豊太郎
  • 雑誌「丸」編集部『写真|日本の軍艦 第3巻 空母I』光人社、1989年
  • 雑誌「丸」編集部『軍艦メカ2 日本の空母』(光人社、1991年)ISBN 4-7698-0562-4
  • 雑誌「丸」編集部『空母機動部隊 私は非情の海空戦をこう戦った!』光人社、2010年7月。 
    • 当時第一機動艦隊司令長官・海軍中将小沢治三郎『昭和20年10月16日/小沢長官が米軍に語った証言記録-質問者/米海軍R・A・オフスティ少将 「あ」号作戦の疑問に答える』
    • 当時海軍技術大佐塩山策一『大鳳と瑞鶴で見たマリアナ沖海戦』
    • 元第一機動艦隊参謀・海軍大佐大前敏一『あ号作戦・レイテ沖海戦に散る 小沢機動艦隊の最後』
    • 当時隼鷹乗組・元海軍二等兵曹吉川亘『マリアナ沖の明暗 二航戦旗艦隼鷹で戦ったわが初陣』
  • 『丸 2011年6月号(通巻782号) 「特集スーパーキャリア 大鳳」』潮書房、2011年6月。 
  • 山本平弥ほか『秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> 戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌』潮書房光人社、2015年3月。ISBN 978-4-7698-1584-6 
    • 当時「秋月」二代目艦長・海軍中佐緒方友兄『二代目艦長が綴る駆逐艦「秋月」の奮戦 被雷損傷修理をおえ新艦長を迎えて前線復帰した後の精鋭艦の航跡
    • 当時「初月」艦長・海軍大佐田口正一『遙かなり防空直衛駆逐艦「初月」の航跡 初陣の潜水艦戦からマリアナ沖海戦まで勇猛艦長の東奔西走の日々
    • 戦史研究家落合康夫『艦名別秋月型駆逐艦十二隻の生涯』
  • 横井俊之ほか『空母二十九隻 日本空母の興亡変遷と戦場の実相』潮書房光人社、2016年2月。ISBN 978-4-7698-1611-9 
    • 元「大鳳」在第一機動艦隊司令部・海軍技術大佐塩山策一 元「大鳳」乗組第六〇一空魚雷分隊員・海軍二等兵曹堀豊太郎『にっぽん空母"搭載機の格納法"早わかり 空母艦内の最大スペース格納庫やエレベーター等マル秘部分公開
    • 当時在「大鳳」一機動艦隊司令部付技術長・海軍技術大佐塩山策一『されど新鋭空母「大鳳」恥ずることなかれ 飛行甲板も舷側も防禦万全のはずの不沈空母はなぜ魚雷一本で沈んだのか
    • 米潜アルバコア艦長・米海軍少佐J・ブランチャード『大鳳はこうして沈んだ 米潜水艦アルバコア艦長が綴る第一航空戦隊旗艦「大鳳」撃沈の真相
    • 当時「大鳳」乗組六〇一空魚雷分隊員・海軍二等兵曹堀豊太郎・「丸」編集部『栄光と悲劇に彩られた日本空母の奮戦 大鳳、祥鳳、赤城加賀、飛龍蒼龍、龍驤、飛鷹、翔鶴瑞鶴、瑞鳳、千代田、信濃の最後
    • 戦史研究家伊達久『日本海軍航空母艦戦歴一覧 伊吹および雲龍型未成艦をふくむ空母二十九隻の太平洋戦争
  • 学研編集部 編『空母大鳳・信濃』 〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ Vol.22、学習研究社、1999年7月。ISBN 4-05-602062-0 
  • 学研編集部 編『歴史群像 太平洋戦史シリーズ8 マリアナ沖海戦』(学習研究社、1995年6月) ISBN 4-05-401264-7
  • 雑誌「歴史群像」編集部『「歴史群像」太平洋戦史シリーズ45・帝国海軍 真実の艦艇史」学習研究社、2005年、ISBN 4-05-603412-5
  • 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」「一般計画要領書」
  • U.S.Naval Technical Mission to Japan (1945-11). Surface Warship Hull Design. Charcteristica of Japanese Naval Vessels, Article 3(S-01-3) 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]