瑞穂 (水上機母艦)

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瑞穂
艦歴
計画 1933年マル2計画
起工 1937年5月1日川崎重工神戸
進水 1938年5月16日
就役 1939年2月25日竣工
その後 1942年5月2日戦没
除籍 1942年5月20日
性能諸元
排水量 基準:10,929t 公試:12,150t
全長 (水線長:183.6m)
全幅 18.8m
吃水 7.08m (公試平均)
主缶 なし
主機 11号8型ディーゼル4基2軸 15,200hp
速力 22kt
航続距離 8,000 nmi / 16kt(重油1,200t)
乗員
兵装 40口径12.7cm連装高角砲3基
60口径25mm連装機銃10基
航空機 水上機母艦(常用+補用):水上機24+8(射出機4基)
甲標的母艦時:甲標的12基、水上機12(射出機2基)[1]
補給用重油:3,348t
絵葉書

瑞穂(みずほ/みづほ)は、大日本帝国海軍水上機母艦(甲標的母艦)である[2]1942年(昭和17年)5月2日、ガトー級潜水艦ドラム」の雷撃をうけ沈没。駆逐艦や輸送船は狭義の「軍艦」ではなかったため、「瑞穂」は太平洋戦争で初めて戦没した日本海軍の軍艦となった[3]

概要[編集]

建造経緯[編集]

第一次世界大戦後に締結されたワシントン海軍軍縮条約ロンドン海軍軍縮会議により列強各国は海軍休日に突入。その抜け道として日本海軍は「条約制限外艦艇(給油艦、水上機母艦、貨客船)を建造、平時においてはそのまま運用し、有事の際には短時間のうちに航空母艦(空母)へ改造する」という方針をとった[4]。同時期、日本海軍は酸素魚雷と『甲標的(特殊潜航艇)』の開発に成功する。しかし甲標的の航続距離は非常に短く、日米艦隊決戦において、決戦海域まで甲標的を輸送する母艦が必要となった[5]。そこで甲標的の着想と同時に開発されたのが千歳型水上機母艦(千歳、千代田)および準同型艦「瑞穂」、「日進(マル3計画艦)」である[5]。なお第一次補充計画で建造が決まった潜水母艦「大鯨(龍鳳)」、マル2計画(第二次補充計画)で建造が決まった給油艦2隻「剣埼(祥鳳)高崎(瑞鳳)」、水上機母艦"甲"(千歳、千代田)、水上機母艦"乙"(瑞穂)は、いずれも空母もしくは甲標的母艦に改造可能であり、最高機密の軍機艦であった[4]

特徴[編集]

特殊水上機母艦「瑞穂」は、千歳型が採用していたタービンとディーゼルエンジン併用をやめ、主機をディーゼル機関のみとした[3]。これは大和型戦艦に搭載予定だった高出力ディーゼル機関の事前実験であったが、故障続発のため「大和武蔵」はタービン・ディーゼル混合をとりやめタービン機関のみを搭載して竣工した[3]。ディーゼル機関の排気筒は後部クレーン支基の両側に外側へ向けて設けられており、大型の煙突が無い事は「瑞穂」の外観上の特徴となって独特のシルエットを形成した[3]。また千歳型が装備していた整備甲板のテーブル状構造物(上部天蓋)を廃止[3]。武装を高角砲を3基(艦橋前に1基、艦橋両舷に2基)に増強した[3]。なお甲標的母艦の場合、搭載可能水上機は24機から12機に減少する[5]

ディーゼルエンジンの不具合は、「瑞穂」に深刻な影響を与えた。竣工直後は回転数を制限したため、最大発揮可能速力は17-18ノット程度であった[3]1940年(昭和15年)6月から約5ヶ月をかけて機関部の検査と修理を行い、計画値22ノット発揮可能となる[3]。それでも信頼性に欠けたため、南方作戦終了後の1942年(昭和17年)3月以降に再整備を実施したが、その直後に米潜水艦により撃沈された[3]

艦歴[編集]

1936年(昭和11年)12月14日、日本海軍は建造予定の水上機母艦2隻、朝潮型駆逐艦2隻に、それぞれ「千代田」、「瑞穂」、「峯雲」、「」と命名した[2]1937年(昭和12年)5月1日起工、1938年(昭和13年)5月16日進水、1939年(昭和14年)2月25日竣工[6]。初代艦長青木泰二郎大佐は、ミッドウェー海戦時の空母「赤城」艦長である。初陣は日中戦争だった。中国北支方面へ出動すると、重巡洋艦「足柄」と第四艦隊旗艦任務を交代した[3]。以前から千歳型水上機母艦は列強各国の注目を集めており、「瑞穂」も多数の写真を撮影されたという[3]

太平洋戦争[編集]

その後、「瑞穂」は水上機母艦「千歳」と共に連合艦隊直属の第十一航空戦隊(司令官藤田類太郎少将)に所属し、太平洋戦争開戦時は比島部隊(第三艦隊基幹。指揮官高橋伊望第三艦隊司令長官、第十六戦隊、第五戦隊、第二水雷戦隊、第四水雷戦隊、第五水雷戦隊、第四航空戦隊、第一根拠地隊、第二根拠地隊等)に所属していた[7]。「瑞穂」の搭載機は零式水上観測機12機、九四水偵3機である。太平洋戦争緒戦ではパラオから出撃し、フィリピンの戦い南方作戦、蘭印作戦に従事する。

1942年(昭和17年)1月4日、ダバオのマララグ湾にフィリピン南部の攻略を終えた比島部隊主力艦(妙高那智羽黒長良那珂神通、千歳、瑞穂、平安丸南海丸雪風等)は集結・停泊していた[8]。ところがB-17重爆8機の空襲を受け、「妙高」が中破、「瑞穂」に損害はなかった[8]。 1月9日午前、第二航空部隊(千歳、瑞穂)はスラウェシ島最北端のメナド攻略作戦に従事するため、マララグ湾を出撃した[9]。搭載機をもって輸送船団および第二護衛隊(第二水雷戦隊基幹)の対潜、対空直衛などにあたり、1月11日にスラウェシ島バンカ泊地に到着[9]。同地でも対潜・対空直衛・対地協力を実施した。 この日、大型飛行艇9・爆撃機4機と交戦し飛行艇2機撃墜・零観3機を喪失した[9]。なお「瑞穂」から発進した零式水上観測機が、友軍の九六式陸上輸送機1機を誤射して撃墜している[9]。これは海軍の空挺部隊の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(略称「横一特」)によるメナドへの第一次降下部隊324名を九六式陸上輸送機27機に各12名づつ分乗させてメナドへ向かっていた内の1機であり、搭乗員5名と降下員12名の全員が戦死した[10]。その後も対潜哨戒や上空警戒に従事するが、飛来する連合国軍重爆(B-17やB-24)に対し、水上偵察機は無力であった。

1月21日、東方攻略隊(指揮官高木武雄第五戦隊司令官《那智、羽黒》、直接指揮/第一根拠地隊指揮官久保九次少将)はスラウェシ島ケンダリ攻略をめざしてバンカ泊地を出撃、第二航空部隊(千歳、瑞穂)は攻略部隊の対空・対潜・前路哨戒を実施した[11]。久保少将が率いる攻略隊の主戦力は、軽巡(旗艦)「長良」、第15駆逐隊(夏潮黒潮親潮早潮)、第16駆逐隊(雪風時津風天津風初風)、第二航空部隊(千歳、瑞穂)等であった[11][12]。 1月24日、船団はケンダリーに到着。これを見た水上機母艦チャイルズ英語版」(USS Childs, AVD-1)はケンダリーを脱出して南方への逃走を開始、第11航空戦隊艦載機は同艦を追撃して空襲をおこなうが、撃沈に失敗した[11]。これ以外の攻略作戦は順調に進み、25日に飛行場を占領、27日には第21航空戦隊(陸攻27機)が進出している[11]。日本軍の最大の損害は、25日朝に発生した軽巡「長良」と駆逐艦「初春」の衝突事故であった[11]。久保少将は「長良」の応急修理がおわるまで、駆逐艦「初霜」に将旗を掲げた[11]

1月26日、第11航空戦隊司令官藤田少将は、第五戦隊司令官高木武雄少将に第二航空部隊(千歳、瑞穂)のアンボン島攻略作戦参加を意見具申、これにより「瑞穂」のアンボン攻略作戦投入が決まる[11][13]。27日、第11航空戦隊司令官藤田少将は、第二護衛隊指揮官田中頼三少将(第二水雷戦隊司令官)と会合を行い、攻略作戦における「千歳、瑞穂」の任務区分(船団前路警戒、対潜直衛、対空直衛、泊地哨戒)を決定した[13]。同日には第7駆逐隊()も蘭印部隊に加わり、アンボン攻略作戦に投入された[14]

1月29日以降、「瑞穂」はアンボン攻略部隊(第二護衛隊〔第二水雷戦隊「神通」、第8駆逐隊《大潮朝潮満潮荒潮》、第15駆逐隊《陽炎型4隻》、第16駆逐隊《陽炎型4隻》、掃海隊〕、輸送船11隻)を支援する[15][16]。30日に「千歳」と合同後、2隻は31日にセラム島(アンボン北方)ケラン泊地に到着、艦載機による対地攻撃を実施して陸戦部隊を支援した[16]。アンボン攻略作戦は、機雷の掃海や一部陸上戦闘の苦戦により、予想以上の時間をかけることになった。「瑞穂」は2月3日に第39号哨戒艇(旧樅型駆逐艦」)・監視艇3隻に護衛されケラン泊地を出発、ケンダリーへ向かった[16]。「千歳」は2月6日までアンボン作戦に従事した[16]

2月6日以降、「千歳、瑞穂」はスラウェシ島マカッサル攻略作戦に従事する。当初は「瑞穂」のみマカッサル作戦投入と計画されていたが[14]、2月3日アンボンのラハ飛行場占領にともない基地航空隊が進出、「千歳」をマカッサル作戦に投入する余裕が出来たのである[17]。2月8日、「瑞穂」は「千歳」と合流、攻略作戦を支援した[17]。本作戦の主力部隊は「長良」(2月2日復帰)、第21駆逐隊(初霜、《子日と若葉は31日復帰》)、第24駆逐隊、第15駆逐隊(2月4日以降編入)、第8駆逐隊(2月5日以降編入)で、2月5日ケンダリーを出撃、2月8日の攻略を目指した[18]。 攻略作戦は成功した。本作戦における艦艇損害は、2月6日の第24駆逐隊「涼風」大破(潜水艦による)[18]、2月9日の第15駆逐隊「夏潮」沈没(潜水艦による)だった[19]。2月11日1900、「瑞穂、第39号哨戒艇、第2号駆潜艇」はケンダリーへ向かった[19]

2月17日以降、東方攻略部隊(指揮官高木第五戦隊司令官《直率:那智、羽黒、曙、雷》)および東方攻略部隊・第二護衛隊(指揮官田中二水戦司令官:神通、第15駆逐隊《夏潮欠》、第16駆逐隊、第7駆逐隊第1小隊《潮、漣》、第21掃海隊の掃海艇2隻《第7号、8号》、瑞穂哨戒艇3隻《1号、2号、39号》、輸送船4隻)は小スンダ列島ティモール島攻略を実施[20]。本作戦に際し、第21航空戦隊司令官は「ケンダリー基地からチモールまで385浬あり、基地航空隊が常に上空掩護を行うのは難しい」として第11航空戦隊の協力を要請、これに第二水雷戦隊も同調し、蘭印部隊指揮官高橋伊望中将は「瑞穂、第39号哨戒艇」の第二護衛部隊編入を下令したのである[20]。「瑞穂、第39号哨戒艇」は2月18日朝から夕刻までビノンコ島に臨時水上基地を設置、19日にはロンブレン島北岸レワリン岬沖に到着して水上基地を設置、輸送船団の上空支援を行った[21]。2月20日朝、「瑞穂」はアロール島南方海面を行動し、艦載機による上空掩護・対地支援攻撃を行う[22]。同日、東ティモールのデリー攻略に向かった第7駆逐隊(潮、漣)と第二梯団は上陸に成功、その日のうちにデリー飛行場を占領し、24日に第7駆逐隊はマカッサルへむかった[23]。2月21日、蘭印部隊指揮官高橋中将はジャワ島攻略作戦の切迫(カレル・ドールマン少将ひきいるABDA艦隊出現)により、「瑞穂、第39号哨戒艇」の蘭印部隊復帰を下令、2隻はスラウェシ島にむかった[22]クーパン西ティモール)攻略も23日までに成功し、24日夕刻をもって第二護衛隊は解散[24]。「神通、雪風、初風、時津風、天津風」は東部ジャワ攻略作戦に参加、第15駆逐隊はジャワ南方機動作戦に参加、第21掃海隊と第1哨戒隊は同地残留と決定し、各隊は各方面へ移動を開始した[24]

2月18日の時点で「瑞穂」が所属する第二航空部隊は、第11航空戦隊(千歳、瑞穂)、哨戒艇3隻(34号、38号、39号)、佐連特銃兵1個小隊、漁船6、海上トラック1隻という戦力だった[25]。第二航空部隊は東部ジャワ攻略輸送船団の対潜哨戒および上陸戦闘に協力することになった[25]。「瑞穂」は23日バタマラン島(スラウェシ島ボネ湾)に到着、27日にはボルネオ島プチン角(バンジェルマシン西方)に移動して「千歳」と合流、南下して28日にバウエアン島西岸(ジャワ島スラバヤ北方)へ進出した[26]。すでにスラバヤ沖海戦の主要海戦は終わって日本艦隊は勝利しており、「千歳、瑞穂」はバウエアン島を基地として輸送船団の上空掩護を実施する[27]。3月1日、英重巡「エクセター」、駆逐艦2隻(エンカウンターポープ)攻撃のため1240に零観11機(爆装)を派遣するが、天候のため敵艦を発見できなかった[27]。水上機部隊が味方部隊を発見した時には「エクセター、エンカウンター」は沈没、「ポープ」は空母「龍驤」艦載機および日本艦隊によってとどめをさされた後だった[28]

スラバヤ攻略作戦において、第二航空部隊(第11航空戦隊《千歳、瑞穂》)は延べ643機を投入、敵機撃墜3、撃破19、車輌撃破22、駆逐艦1隻廃艦、商船1撃沈1撃破、潜水艦2隻撃破不確実という戦果を報じた[29]。「瑞穂」は船体・機関修理のため3月4日ケンダリーへ回航、9日以降スラバヤ方面に再進出して「千歳」と合流した[29]。3月9日のオランダ軍降伏によりジャワ島方面での作戦は概ね完了、「千歳、瑞穂」は3月14日マカッサルに到着した[29]。その後、日本本土へ帰投する。

沈没[編集]

懸案であった機関不調は1942年4月の横須賀海軍工廠での改造によりようやく全力発揮が可能となった。5月1日、「瑞穂」は横須賀を出航し、柱島へ回航途中の午後11時頃に米潜水艦「ドラム」(USS Drum, SS-228)の雷撃を受ける。被雷地点は御前崎の220度40浬[30][31]。魚雷は左舷の機械室と発電機室の中間に1本命中し大火災が発生[32]、被雷数分後には左傾斜20度以上となった[33]

被雷の報を受け、付近を行動中の高雄型重巡洋艦高雄」と「摩耶」が急行し、5月2日午前0時30分に到着した[34]。注水作業で艦の傾斜復元に努めて、火災も鎮火見込みのため曳航も検討されたが[35]、浸水は止まらず、艦は危機に瀕した[30][36]。午前3時30分、総員退去が命じられる[37]。「高雄」が人員の救助を行い、「摩耶」が周辺海面を警戒した[30][38]。午前4時16分、「高雄、摩耶」の乗員が敬礼する中、艦尾から沈没[39]。これが日本の「軍艦」戦没第1号となり、また1914年(大正3年)10月18日に撃沈された防護巡洋艦高千穂」以来28年ぶりの「撃沈された軍艦」となった[3]

戦闘詳報による救助者(准士官以上45名《艦長含む》、下士官兵557名、傭人5名)、未収容者(准士官以上7名、下士官兵94名)、負傷者(重傷17名、軽傷14名)[40]。だが同艦に三等整備兵曹として(沈没前日に昇進)乗り組んでいたエッセイストの小林孝裕によると、実数は、その三倍ぐらいの戦死者はあったという。生存者は一時館山海軍航空隊に収容された[30]

5月20日、「瑞穂」は水上機母艦から削除[41]。また空母「祥鳳」と同日附で軍艦籍から除籍された[42]。準姉妹艦の「千歳、千代田」のように、「瑞穂」が空母へ改造される事はなかった[43]

艦歴[編集]

  • 1937年5月1日 起工 神戸川崎造船所
  • 1938年5月16日 進水
  • 1939年2月25日 竣工 水上機母艦に類別
  • 1941年4月10日 連合艦隊付属第十一航空戦隊に編入
  • 1941年12月 レガスピー攻略、カタンドアネス島爆撃、ラモン湾攻略作戦に参加
  • 1942年1月 メナド、ケンダリー、アンボン攻略作戦に参加
  • 1942年2月 マカッサル、クーパン、スラバヤ攻略作戦に参加
  • 1942年3月~4月 横須賀海軍工廠入渠
  • 1942年5月2日 アメリカ海軍潜水艦「ドラム」の雷撃により戦没
    • 5月20日 除籍

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』189-190頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 青木泰二郎 大佐:1938年5月16日 -

艦長[編集]

  1. 青木泰二郎 大佐:1939年2月25日 -
  2. 蒲瀬和足 大佐:1939年11月15日 -
  3. 澄川道男 大佐:1940年10月15日 -
  4. 大熊譲 大佐:1941年9月5日 -

脚注[編集]

  1. ^ #日本空母物語365頁『第20表 水上機母艦瑞穂要目』
  2. ^ a b #達昭和11年12月(1)p.5『達第百八十二號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十一年度ニ於テ建造ニ着手ノ水上機母艦二隻及驅逐艦二隻ニ左ノ通命名ス|昭和十一年十二月十四日 海軍大臣永野修身|呉海軍工廠ニ於テ建造 水上機母艦 千代田(チヨダ)|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 水上機母艦 瑞穂(ミヅホ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 峯雲(ミネグモ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 霰(アラレ)』
  3. ^ a b c d e f g h i j k l #日本空母物語364-366頁『瑞穂(みずほ)』
  4. ^ a b #日本空母物語372-376頁『水上機母艦・甲標的母艦の計画について』
  5. ^ a b c #日本空母物語343-345頁『洋上決戦用の水上機母艦』
  6. ^ #昭和16年6月30日現在艦船要目公表範囲p.18『瑞穂|水上機母艦|(艦要目略)|神戸川崎造船所|12-5-1|13-5-16|14-2-25|12.5c/m高角6|-|〃|「デイゼル」4|-|〃|馬力9,000』
  7. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦(付表第一)『南方作戦関係主要職員表 昭和十六年十二月八日』
  8. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦117-118頁『「マララグ」湾空襲概要図』
  9. ^ a b c d #戦史叢書26海軍進攻作戦172頁『水上機隊の戦闘』
  10. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦174頁『基地航空部隊、ほとんど敵を見ず』
  11. ^ a b c d e f g #戦史叢書26海軍進攻作戦210-215頁『五.ケンダリーの攻略』
  12. ^ #S1612一根日誌(1)p.8『作戦指揮下ニ入リタル艦船部隊ノ行動』
  13. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦229頁
  14. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦258-259頁『作戦準備』
  15. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦226頁『第二護衛隊の作戦計画』
  16. ^ a b c d #戦史叢書26海軍進攻作戦241-243頁『第二航空部隊の戦闘』
  17. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦261頁『第二航空部隊の作戦計画』
  18. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦262頁『航空制圧、船団進航』
  19. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦266-288頁『航空部隊の作戦』
  20. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦359頁『東方攻略部隊の作戦計画』
  21. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦364頁『攻略部隊の進航』
  22. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦365-366頁『クーパン上陸、降下部隊苦戦す』
  23. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦369頁『デリー上陸』
  24. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦368頁
  25. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦412頁『第二航空部隊の作戦計画等』
  26. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦444-445頁『第二航空部隊の作戦』
  27. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦475頁『第二航空部隊の戦闘』
  28. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦478頁『第四航空戦隊の戦闘』
  29. ^ a b c #戦史叢書26海軍進攻作戦517-518頁
  30. ^ a b c d #戦藻録(1968)110頁
  31. ^ #S1703高雄行動関係書類(2)p.3『5月1日2320|瑞穂(略)瑞穂御前埼灯台ノ220度40浬ニテ敵潜水艦ノ魚雷ヲ受ケ目下防水中』
  32. ^ #S1703高雄行動関係書類(2)p.23『摩耶機密第二五三番電(略)摩耶高雄ハ瑞穂ノ周圍ヲ威嚇投射ヲ行ヒツツ警戒中ニシテ0100ノ瑞穂ノ状況左ノ通リ (一)航行不能傾斜左二十五度危険ニ瀕シツツアリ (二)被曳航不能 (三)火災発生シ消火ノ見込ナク格納庫内爆弾多数及ビ揮発油爆発ノ虞アリ (四)無線関係兵器全部使用不能』
  33. ^ #S1703高雄行動関係書類(2)p.3『2326|瑞穂(略)我傾斜左二十三度』
  34. ^ #S1703高雄行動関係書類(2)p.4
  35. ^ #S1703高雄行動関係書類(2)p.5『0119|瑞穂→摩耶(略)傾斜二十三度ニテ止リ浸水モ殆ナク少シヅヽ鎮火シツヽアリ敵潜ハ本艦ニ対シ魚雷二本シタルノミナリ、水兵員瑞穂曳航用意』
  36. ^ #S1703高雄行動関係書類(2)p.6『0315|本(高雄)→摩耶|曳航準備完成/〃|瑞穂→摩耶高雄|本艦浮力減ジツヽアリ沈没ノ危険アリ』
  37. ^ #S1703高雄行動関係書類(2)p.25
  38. ^ #S1703高雄行動関係書類(2)p.36『摩耶高雄戦斗概報(略)三.瑞穂ハ0230頃一時傾斜及ビ深降ノ増かハ停止シ爆発ノ危険ハ去リ火災鎮火ノ傾向アリ曳航可能ナルカニ見エタルモ0330浸水次第ニ増加シ危険ニ瀕シ總員退去ヲ開始0416沈没セリ/四.高雄ハ威嚇投射ノ後0345瑞穂附近ニ進出短艇ヲ派遣人員ヲ救助、摩耶ハ其ノ周圍ヲ威嚇投射ヲナシツヽ警戒セリ』
  39. ^ #S1703高雄行動関係書類(2)p.8『0414|瑞穂艦尾ヨリ次第ニ沈没ス/0416瑞穂沈没 總員舟右ニテ瑞穂ニ敬礼』
  40. ^ #S1703高雄行動関係書類(2)p.11『一.収容人員及物件』
  41. ^ #内令昭和17年5月(2)p.48『内令第八百七十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十七年五月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、航空母艦ノ項中「、祥鳳」ヲ、同水上機母艦ノ項中「瑞穂、」ヲ削ル|潜水艦、一等ノ部中「伊號五十二」ヲ「伊號百五十二」ニ、同五十三型、伊六十二型、伊六十五型及伊六十八型ノ各項ヲ左ノ如ク改ム |伊百五十三型|伊號第百五十三、伊號百五十四、伊號百五十五、伊号第百五十六、伊號第百五十七、伊號第百五十八、伊號第百五十九| |伊百六十二型|伊號第百六十二、伊號第百六十四| |伊百六十五型|伊號第百六十五、伊號第百六十六| |伊百六十八型|伊號百六十八型、伊號第百六十九、伊號第百七十二、伊號第百七十四、伊號第百七十五』
  42. ^ #内令昭和17年5月(2)p.49『内令第八百八十號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 祥鳳 軍艦 瑞鳳 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|昭和十七年五月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  43. ^ #日本空母物語86頁

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C12070101000 『昭和11年達完/12月(1)』。
    • Ref.C12070162800 『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年5月(2)』。
    • Ref.C13071997700 『昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿:巻1追録/第6類機密保護』。
    • Ref.C08030246100 『昭和16年12月8日~昭和18年8月31日 第1根拠地隊戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08051582500 『昭和16年12月~昭和17年1月 瑞穂飛行機隊戦闘行動調査(1)』。
    • Ref.C08051582600 『昭和16年12月~昭和17年1月 瑞穂飛行機隊戦闘行動調査(2)』。
    • Ref.C08051582700 『昭和16年12月~昭和17年1月 瑞穂飛行機隊戦闘行動調査(3)』。
    • Ref.C08051583000 『昭和17年2月~昭和17年3月 瑞穂飛行機隊戦闘行動調査(1)』。
    • Ref.C08051583100 『昭和17年2月~昭和17年3月 瑞穂飛行機隊戦闘行動調査(2)』。
    • Ref.C08030775000 『昭和17年3月~昭和17年5月 軍艦高雄行動関係書類綴(2)』。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 朝雲新聞社、1969年5月。
  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録 明治百年史叢書』 原書房、1968年1月。
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第4巻 空母Ⅱ』光人社、1989年。
  • 福井静夫福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第七巻 日本空母物語』 光人社、1996年8月。ISBN 4-7698-0655-8
  • 雨倉孝之『飛行隊長が語る勝者の条件』光人社、1999年
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 『重巡摩耶』学習研究社、2002年
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9

関連項目[編集]