宗谷 (船)

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船の科学館に展示される宗谷
艦歴
発注 ソビエト連邦
起工 1936年10月31日
進水 1938年02月16日
竣工 1938年06月10日
退役 1978年10月02日
愛称・別名 「奇跡の船」「不可能を可能にする船」「帝国海軍最後の生き残り」「灯台の白姫」「北の海の守り神」他多数
戦歴 潜水艦2隻撃退[1]
戦闘機撃墜1
その後 記念船として船の科学館で公開
性能諸元
排水量 2224.1トン(地領丸)[2]
全長 82.3m(地領丸)[2]
全幅 12.8m(地領丸)[2]
平均吃水 5.8m(特務艦)[2]
機関 1450馬力スクリュー1軸(地領丸)[2]
最大速 12.4ノット(地領丸)[2]
燃料 石炭819t 清水417t(灯台補給船)[3]
航続距離 5.000海里(8.5ノット)(特務艦)[2]
乗員 67人(灯台補給船)[2]
その他 ロイド船級100A型1耐氷構造 

(地領丸)[4]

宗谷(そうや、Japan Coast Guard[5]、船番号: PL107)は、日本の砕氷船である。
日本海軍では特務艦海上保安庁では灯台補給船、巡視船として服務した。日本における初代南極観測船にして、現存する最も古い巡視船でもあり、現存する数少ない(見方によっては唯一の)旧帝国海軍艦船である。現在でも船籍を有しており、月に1日ほど海上保安庁特殊救難隊の訓練施設として使用されている。
船名は北海道北部の宗谷岬樺太の間にある宗谷海峡にちなんで名づけられた。 後継船は若草、ふじPLH01そうや

歴史[編集]

商船[編集]

1936年昭和11年)9月18日川南工業株式会社香焼島造船所はソビエト連邦通商代表部より、耐氷型貨物船3隻の発注を受けた[6]。これはソ連から北満鉄路を買収した契約の一部であった[7]12月7日 、耐氷型貨物船第107番船として川南工業株式会社香焼島造船所(長崎県)にて起工。1938年(昭和13年)2月16日、川南工業社長の長女 川南幸子の手によってソ連船ボロチャエベツ(Волочаевец)[8]。として進水[9]。姉妹船ボルシェビキ(Большевики)1937年(昭和12年)8月10日にコムソモーレツ(Комсомолец)は1937年、昭和12年10月20日にそれぞれ進水していた。しかし、第二次世界大戦直前の情勢に鑑み、ソ連への引渡はなされず商船地領丸として竣工した。同じ様にボルシェビキは「天領丸」、コムソモーレツは「民領丸」となった。なお3隻はロイド船級協会の規格に沿った性能であることが求められたが、1938年(昭和13年)2月10日、一番船ボルシェビキをロイド船級協会極東主任検査官立会いのもとで公試運転したところ、性能が規定値に満たず不合格となった[10]

本船と姉妹船はソ連向けに建造された耐氷能力と、当時としては珍しい最新鋭のイギリス製音響測探儀(ソナー)が装備されていた民間貨物船だったため、大日本帝国海軍の興味を引いていた[11]。時勢を睨み測量業務ができ、なおかつ大量輸送能力を持つ船を捜していたのである。だが本船はソ連との契約問題がこじれたため直接日本海軍には就役せず、民間会社の貨物船として運行した[12]。 1938年7月15日、日清汽船にチャーターされ、大連を基地にして天津、青島、上海を17日から18日のローテーションで往復。積荷は主に雑貨だったが、季節によって林檎、肉、栗などを積んだ。1939年3月20日に契約終了。同日香焼島のドッグに入り改装。1939年5月7日、栗林汽船にチャーターされファンネルマークは円の中に漢数字の「七」、函館を基地として占守島西岸にある蟹工場を結ぶ航路に就いた[13]。行きは蟹工場で必要とされる機材や資材、さらに加工場で働く女工も運び、帰りは蟹、鮭、鱒、缶詰などの水産加工物を満載し函館を往復した。[14]5月下旬、占守島から製品を積んで抜錨したが千鳥列島から北海道全域を覆う濃霧に見舞われたが一般の貨物船にはない音響測探儀を備え船底から発した音波が海底から跳ね返ってくる時間差によって水深を測定し測深鉛で確認しながら北海道を西に迂回し難を逃れた[15][16]
10月、栗林商船の大連航路を最後にチャーターが解け辰南汽船の朝鮮航路についた[17]。12月10日、地領丸は横須賀に入港して商船としての航海を終えた[18]
商船としての最後の経歴は川南工業が1939年4月に設立した辰南汽船に所属していた。この間日本の戦略方針が南方対米重視となったこともあり3隻を海軍へ売却する計画は消え1隻のみが売却されることとなった。
姉妹船の天領丸は1941年10月頃に陸軍に徴傭、民領丸は1941年2月頃に陸軍に徴傭され4月23日に工作船に改装された[19]

特務艦[編集]

1939~1941年

1939年(昭和14年)11月に買い上げが決まり。12月、日本海軍は227万5000円を購入費として計上した。12月20日、地領丸は東京石川島造船所深川第一工場のドックに回航して地領丸の乗組員は下船した。
1940年(昭和15年)2月20日、「宗谷」と命名され[20]、同日付で特務艦に編入、雑用運送艦[21]に類別された[22]。この日を正式購入日とする説がある[23]
宗谷の名は海軍艦名としては二代目。初代はロシアの巡洋艦ヴァリャーグで、こちらは日露戦争で沈没後、日本が浮場整備して「宗谷」と命名(こちらも本記事の宗谷と同じく、艦名は宗谷海峡が由来[24])し艦籍に編入された。 石川島造船所にて、8cm単装高角砲1門、25mm連装機銃、測探儀室、測量作業室増設などの改装を行う。6月4日、特務艦として改装工事完了し、横須賀鎮守府籍[25]となる。類別では運送艦だったが、海軍は老朽化した砕氷艦「大泊」の不足を補う役目を本艦に期待し、砕氷艦としては新鋭砕氷艦ができるまでの繋ぎとして千島・樺太など北洋水域の後方補給・物資輸送および同海域での強行測量艦として運用するつもりだった。初代特務艦長は山田雄二中佐[26]。塗装は灰色だった。 12月20日、ソ連通商部は東京民事裁判所に提訴し、前払い建造費の返還と違約金の支払いを求めた[27]。本船の購入問題はソ連政府がモスクワ駐在大使東郷茂徳に解決をせまるほどの大問題に発展する[28]。裁判中にノモンハン事件が発生している。結局、裁判は1941年1月にソ連政府と建川美次大使との交渉で政治決着した[29]

6月4日、宗谷は長浦港のドックを出て横須賀に向かった[30][31]横須賀鎮守府部隊付属となる。最初の任務は北樺太の調査だった。10月11日、紀元二千六百年特別観艦式に拝観艦の一隻として参加。(番外列13隻のうち9番目)[32]10月22日、新艦長松本亀太郎中佐が着任。 11月12日、測量、気象、海象観測任務のためサイパン島に赴く[33]。12月16日、測量を終え横須賀に向けて出航[34]1941年(昭和16年)2月8日、再びサイパンに赴き3月末まで調査を続けて横須賀に帰還[35]。5月7日、ポナペに向けて出港した。 5月24日、コロニアに基地を置きポナペとトラック島の間を測量をおこない[36]7月30日トラック島へ戻った。
当時の宗谷は海洋測量艦としての機能を発揮するため、水路部より測量技師、技生と測量艇が常時二隻配置に付いており、遠洋漁船を徴用した測量隊の陣容は大所帯だった。多数の測量技術者、最新の測量機材器具を身に付け、フル回転させた技術は、艦の型の悪さに反して随一といわれていた[37]。空にはラジオゾンデを何千個も揚げ、昼夜を問わず高層気象の観測に取り組み、九〇式測探儀、九一式探信儀、英式音響測探儀等、また電動手動のあらゆる機器を駆使して当時の軍機海図を作り上げた[37]。8月26日、サイパンにて久保田智中佐が艦長に着任[38]。(海軍辞令公報では8月11日付)その後、東カロリン諸島、トラック諸島、ポナペ島の測量をおこない。11月1日、サイパンを出港。11月13日、横須賀帰港し入渠した[39]。 1941年12月8日、横須賀で日米開戦の報を受ける。12月29日、輸送物資を満載した宗谷はトラック島向けて抜錨した。

1942年

1月11日、夏島トラック泊地で輸送物資の荷揚げ。17日、第四艦隊に編入され[40]、19日、日本へ向けて出港。29日、横須賀に入港してドッグ入り。2月2日、出渠と同時に第四艦隊に搬送する物資や測量班員を乗せ、14日、出港した。24日、トラック島到着。28日、ポナペ経由でラバウルに向かった。3月8日、ラバウル到着[41]。10日から湾内の測量に着手した。 22日、マッサバ掃蕩作戦に参加この時、第八特別根拠地隊司令官・金沢正夫中将が乗艦したため宗谷に初めて将官旗が掲げられた。23日、宗谷は浅瀬を通る水船のための泊地、水路調査を測量艇による調査と音響測探を実施、出入り水船の安全を確保した。これによりラバウル港に出入りする艦船に真水を安心して供給できるようになった[42]。28日、八特根陸上警備隊を乗せた宗谷は、駆逐艦睦月弥生卯月とともにショートランド島へ向かった[43]。30日午前4時、ショートランド泊地に到着し陸戦隊を上陸させ通信機器を揚陸して通信所を仮設した後、水路測量に取り掛かった直後、双発の飛行艇に襲撃されるが駆逐隊が応戦し撃退した。同日午後4時、キエタに向かった。31日午前1時、ブーゲンビル島東側キエタ港に進入、艦内からも陸戦部隊を編制し部隊はキエタ街に突入した、街はもぬけの殻だったので無血上陸に成功。午前7時、作戦完了した宗谷はラバウルに引き返した[44]。 4月6日、13ミリ機銃2基増設、7日、陸戦隊と大発を搭載しラバウルを出港。8日早朝、タラシー湾に進入、陸戦隊を揚陸させ無血上陸に成功。その日内にダンピール海峡の水路調査に向かった[45]。15日、デュークオブヨーク島に向けてラバウルを出港。23日、測量中に敵双発機に襲撃されるも被害なし。またこの日、ラバウル方面の防備隊に編制され、24日以降はMO作戦の準備に入った。
5月6日、13ミリ機銃1基増設、5月17日、13ミリ機銃1基陸揚した後、ミッドウェー海戦参加のため第四艦隊を離れ集合地のサイパンに向けラバウルを発した。5月25日、第二水雷戦隊の指揮下にはいり、翌日単独でサイパン発、6月3日、利根、筑摩の重巡戦隊に信号を送る[46]。6月4日、ミッドウェー島北西500海里でB-17九機と交戦も被害なし。 6月6日、機動部隊全滅の報を一番早く傍受して、ウェーク島へ転針・待機。6月13日、ポナペに撤収し、宗谷のMI作戦は終了した[47]。 6月19日、第四艦隊に復帰命令を受けポナペからトラック島に移動し、21日にラバウル方面防備部隊測量部隊に再編入された後、カビエンとニューハノーバー島の間に散在する小島とステファン、バイロン両海峡の測量と航路浮標の設置の任務に就いた。
8月、ラバウルに移動し第八艦隊に所属する。8月7日、海兵隊第1海兵師団がガダルカナル島に上陸し、「ガダルカナル島の戦い」が始まる。敷設艦津軽、明陽丸(5628 t)、第二十一号掃海艇、各艦に分乗する海軍陸戦隊と共に宗谷はフロリダ諸島の戦いで占領されたツラギ島奪還に向かった。8月8日、米潜水艦「S-38」(SS-143)の雷撃で明陽丸が大破、翌朝沈没。作戦中止命令が出され、宗谷はラバウルを経てトラック基地に戻った。同日、三川軍一中将率いる巡洋艦部隊が米軍艦隊に突入して第一次ソロモン海戦が発生するが、宗谷以下陸戦隊輸送船団が後退していたため、当初のツラギ奪還任務は果たせなかった。 8月18日、横須賀帰還命令を受け翌19日、日本へ向けて出港。28日、横須賀到着。この日、初代特務艦長・山田雄二大佐が第二十駆逐隊指令としてガダルカナル島に向かう途中爆撃機に急襲され戦死した[48]。 9月14日、夕張と共に横須賀からラバウルへむけて出港した。10月5日、ラバウルからブインに着任。第三次ソロモン海戦に備えソロモン諸島北部の港湾測量、掃海、錘量浮標の設置を行った[49]。 12月27日、ブインを出て翌日ブカ島クイーンカロライン港に到着。翌年1月1~31日にかけて港付近の測量、掃海、錘量浮標の設置、海図の設計、ブカ島の滑走路に航空隊を導入の為の下地作りをおこなった。

1943年

1月28日、ブカ島クイーンカロライン沖で測量海図の仕上げの最中の午前6時55分、敵潜水艦から発射された魚雷4本のうち1本が右舷後方に命中するも、幸運にも不発弾であったため難を逃れた。護衛の第二十八号駆潜艇と共に爆雷を投下し、この潜水艦を撃沈した[50]。ただし、米軍の記録では該当する潜水艦の喪失記録はない。宗谷が爆雷を投下したという証言もあるが、宗谷が爆雷を搭載したのは横須賀に戻ってからという証言もある[51]。米潜水艦「グリーンリング」の記録では1月18日、南緯02度04分 東経150度37分 / 南緯2.067度 東経150.617度 / -2.067; 150.617の地点で宗谷撃破となっているがこの時期宗谷はブカ島クイーンカロライン近辺で測量などをおこなっていた。
4月26日、艦長が天谷嘉重大佐に交代[52]。久保田大佐は横須賀鎮守府付となって退艦した。 4月28日、ラバウルを出発し水路測量のためサンタイサベル島に赴いた。30日、到着し測量任務を開始した直後、翼を休めていた敵飛行艇と遭遇、撃ち合った後、敵飛行艇は飛び去った。5月5日、B-24と交戦。12分間の戦闘の間に、高角砲19発、20ミリ機銃120発、13ミリ機銃480発、7.7ミリ機銃138発の弾丸を撃ったが撃墜には至らなかった。機銃掃射と至近弾により測距儀を故障し2名の負傷者がでた。その日の夜カビエンに向けてイサベル泊地をあとにした。 5月23日、午前2時24分カビエンの港にて敵機の襲撃うけた、至近弾の爆発の震動によって「九〇式一型改一転輪羅針儀(ジャイロコンパス)」と「音響測探儀」が故障し横須賀に修理に戻ることになった。6月3日、カビエンを出港し、トラック島に6泊したあとサイパンに寄港し、6月24日に横須賀に帰港した。 7月19日、横須賀を出港。7月29日にトラック泊地に到着。8月6日、駆逐艦夕月と第二十八号駆潜艇を護衛艦に、朝風丸、山霧丸、北開丸を率いてラバウルへ出発した。 9月27日、輸送船団を率いてラバウルを出港、10月2日にトラック島に到着。10月8日、数隻の大発を搭載し上陸部隊を乗せマーシャル諸島クェゼリンに向かった。10月13日早朝、クェゼリンを目前に米潜水艦「シードラゴン」から雷撃をうけるも被害なし、午前9時クェゼリンに到着した宗谷は陸軍部隊が移乗した大発を見送ると、夕方にルオットへ移動した[53]

1944年

1月初旬、燃料や食料の補給のためクェゼリンに向けて出港の用意をしていると前艦長久保田智・第二十四駆逐隊司令が来訪「クェゼリンは食料が不足してる」と忠告されトラック島に針路をかえた。
1月14日、久保田司令率いる第二十四駆逐隊の駆逐艦海風涼風[54]の護衛を受けてブラウン島を出港、18日にトラック島に入港した[55]。2月1日、第八艦隊から連合艦隊付属に編入。
2月14日、姉妹船「民領丸」が米潜水艦「フラッシャー」に撃沈された。トラック島空襲では2月17日、回避行動中に座礁し[56][57]、翌18日には空襲で米軍機1機を撃墜するも測探儀と20mm機銃が大破、副艦長を含む9名が戦死し、天谷艦長も重傷を負い、福島大尉が指揮官を代行し機密書類を焼却した後、総員退艦命令を出した[58]。 翌19日、潮が満ちて宗谷は自然離礁し、漂流しているところを様子を見に来た乗組員が発見し、仰天した乗組員は再び艦に乗り込んだ[59]
こうして宗谷は奇跡的に脱出に成功するが、当時の艦長 天谷嘉重大佐は艦放棄の責任をとわれ2月28日更迭[60]、1944年(昭和19年)12月16日に拳銃自殺した[61]

3月17日、トラック泊地を出港、サイパンで東松第二船団と合流、ボイラーの故障により途中で船団を離脱[62]、28日、小笠原諸島父島の二見港に到着、応急修理を実施、4月4日、二見港を出港。4月7日、横須賀に帰還。 9日、日本鋼管浅野ドッグ入りし測量艦から輸送艦に改装され測探儀や観測機器を撤去し、25mm機銃を4機増設、円管から海軍制式の水管缶の交換をおこない、22日に出渠[63]。 5月7日、戦車第十一連隊第四梯団を乗せた天領丸と大湊で合流し駆逐艦雪風とともに護衛。5月15日、幌筵島に到着[64][65][66]。5月25日、横須賀に帰着、これ以降ボイラーの不調になやまされ修理と試運転を翌年の2月まで繰りかえす。
5月30日、志和彪大佐が艦長就任。8月20日、志和彪大佐横須賀にて退艦。8月28日、三式一号電波探信儀三型搭載[67][68]

8月18日、第三代艦長、久保田智大佐が軽巡名取にてパラオに緊急輸送任務の途中、敵潜水艦の雷撃をうけ艦と運命をともにした[69]
久保田智大佐は1月25日に涼風、2月1日に海風を失い2月10日に満潮だけになった第二十四駆逐隊を解隊された後、3月18日に軽巡名取の艦長に着任していた。

9月21日、第五代艦長、志和彪大佐は特務艦勝力にてマニラに向かう途中、敵潜水艦の雷撃をうけ艦と運命をともにした[70]

1945年

1945年(昭和20年)1月20日、横須賀鎮守府付属の雑用艦に配置換えがあり、2月、輸送任務に復帰。「特攻輸送艦」として2月27日、軍事物資を積み横須賀を出港。3月2日、室蘭に到着、3月4日、山内正規大佐が艦長就任。このあと物資を荷揚げして石炭などを搭載。青森県八戸に石炭を運んで室蘭に戻り、石炭を満載して横須賀に帰ったのは3月23日だった。これをもって第一次輸送任務完了[71]。3月25日第二次輸送任についた。5月29日、姉妹船「天領丸」が米潜水艦「スターレット」に撃沈された[72]。天領丸が海に消えた日、宗谷は第四次輸送任務おえて横須賀軍港にいた。6月19日、第五次輸送任務完了。6月24日、物資を積み満州にむけて神津丸、永観丸を連れて横須賀を出港。同日午後、海防艦四坂、第五十一号駆潜艇と横須賀沖で合流し護衛についた。25日、第三十三号掃海艇が護衛に加わる、26日、宗谷は第一六二四船団(神津丸、永観丸、海防艦四坂、第五十一号駆潜艇、第三十三号掃海艇)と大湊警備府第九〇三海軍航空隊の九〇三空の水上機隊の航空支援を受けて船越湾大釜崎沖を航行中、米潜水艦「パーチー」からの雷撃で神津丸が轟沈、永観丸が被雷擱座。宗谷と護衛艦は爆雷で反撃し、パーチーに損害を与えて撃退した[73]
7月27日、横須賀に帰港し第六次輸送任務完了。同日ドッグ入り[74]。8月2日、横須賀でドック入りしている時、戦艦長門、病院船氷川丸と共に空襲を受ける。被弾した敵機が補助燃料タンク(増槽)投下して逃避。このタンクが宗谷の機関室真上の天窓に命中、ガラスを破損しガソリンが機関室内で蒸発し、室内に充満してしまったが、幸い入渠中のため火気がなく爆発を免れた[75]。空襲が終わった後、宗谷乗組員は長門に派遣された[76]
翌日の3日、横須賀鎮守府の避退指令を受けた宗谷は標的艦大浜を伴い女川に向かった。4日女川に到着、6日の夕方、大浜を置いて第七次輸送任務のため室蘭に向けて単艦で出港した。 7日早朝、敵機動部隊に接近されるが霧が濃くなり、その霧に包まれた宗谷は八戸港に逃げきることに成功。この霧は乗組員に神の衣と呼ばれた[77]。この敵機動部隊はこのあと女川港を空襲、港に残った大浜は攻撃を受けて着底。 8日早朝、八戸を出港、同日午後室蘭に到着。8月15日、室蘭港で防空訓練中に終戦をむかえた[78]。 8月17日、石炭を積んで室蘭を出港、八戸港を経由して21日、横浜湾に到着、台風の影響により横須賀港に入ったのは24日の午後4時だった。同日第七次輸送任務を終了。29日、軍艦旗を降ろし、30日、引き渡しを終了。山内艦長以下全員退艦[79]。9月5日に海軍籍から除籍された。

艦長[編集]

艤装員長
  • 山田雄二 中佐:1940年4月24日[80] - 1940年6月4日[81]
特務艦長

(注)1945年12月20日以降は「艦長」[82]

  • 山田雄二 中佐:1940年6月4日[81] - 1940年10月22日[83]
  • 松本亀太郎 中佐:1940年10月22日[83] - 1941年8月11日[84]
  • 久保田智 中佐:1941年8月11日[84] - 1943年4月26日[85]
  • 天谷嘉重 大佐:1943年4月26日[85] - 1944年2月28日[86]、以後1944年5月30日まで艦長を置かず。
  • 志和彪 大佐:1944年5月30日[87] - 1944年8月20日[88]、以後1945年2月18日まで艦長を置かず。
  • 山内正規 大佐/第二復員官:1945年2月18日[89] - 1946年2月13日[90]
  • 土井申二 第二復員官/第二復員事務官:1946年2月13日[90] - 1946年6月1日[91]
  • 田上明次 第二復員事務官/復員事務官:1946年6月1日[91] -

引揚船(S119)[編集]

終戦後の1945年10月1日、宗谷はGHQから大蔵省へ移管手続が行われ、大蔵省の財産として返還された[92]。同日付で日本商船管理局に所属するSCAJAP番号S-119が与えられ特別輸送艦S119となった[93]
このとき宗谷丸と改名されたが艦名表記は宗谷のままだった。 10月7日、ヤップ島復員任務のため浦賀発。同月24日に帰還。11月20日にはグアム、トラック方面復員任務のため浦賀発。12月12日に大竹で揚陸後、呉に移動した。 12月26日、上海方面復員任務のため呉発。以後、台湾、ベトナムのサイゴン、葫蘆(コロ)島からの復員任務に従事した。
1946年3月23日、台湾の高雄からの引揚者輸送中船内で女児誕生。名付け親になった土井申二艦長は宗谷の一字をとって宗子(もとこ)と名付けた[94]
1946年8月31日付で船主が大蔵省から民間組織の船舶運営会に移籍され特別輸送艦から民間組織の引揚船になった[95]
1947年から1948年にかけては、大連、朝鮮、樺太からの引揚輸送に従事した。1948年11月に引揚任務を終了するまでに運んだ引揚者の総数は、19,000名以上にも達した。

灯台補給船そうや(LL-01)[編集]

1948年(昭和23年)11月の引揚任務終了後、宗谷丸は商船風に外見を改め小樽に係船され樺太引揚業務の再開に備え少数の要員が保管にあたっていた。1949年(昭和24年)8月1日、宗谷はGHQより正式に帰還業務を解かれた。8月13日に来訪した海上保安庁の係官福井静夫により調査された宗谷は使用可能と判断された。当初、海上保安庁水路測量船として使用する予定だったが、民間からチャーターし灯台補給船として使用していた第十八日正丸を船主から解傭を求められ返還するに伴い急遽、灯台補給船の代船が必要になり候補船になった。候補船になったもう一隻は青函連絡船宗谷丸であり、砕氷能力もあり適当と考えられていたが、GHQが求める設標船として測量艇のデリックを備えた宗谷のほうが好都合だったため宗谷に決まった[96]。このとき同名船2隻を候補としたため、宗谷に再改名することになった。 11月に小樽より東京港竹芝桟橋沖に回航された宗谷は12月12日付で海上保安庁へ移籍した。もっとも宗谷は海上保安庁発足時から水路測量船としてその保有を既定事実的に認められており(昭和23年法律第28条号 海上保安庁法第38条)選定されるべくしての編入であった[97]。 石川島重工業で改装工事に着手、ソナーを撤去、売店を設置、海軍制式の水管缶から円管に換装、真っ白に塗り替えられ、五代目灯台船「羅州丸」の号鐘を継承した[98]
1950年(昭和25年)4月1日に改装を終えた宗谷は七代目灯台補給船(LL-01)となった。
この頃、灯台を回る一年間のコースは、東京港竹芝桟橋沖を母港とし春は本州を一周、夏は宗谷岬など北海道中心、秋は九州本土、南西諸島、冬は瀬戸内海の島々と四国地方を巡った[99]
1952年(昭和27年)6月頃、改装され、スペリーSO-3 対水上捜索用レーダー設置[3]、SCAJAP番号廃止、船名をひらがな表記にした。

灯台補給船時代の特殊な任務に奄美群島現金輸送がある。1953年(昭和28年)12月15日、同年度第三次補給航海を終えて門司港に入った宗谷に鹿児島港回航の命令がでた。アメリカ統治下にあった奄美群島が1953年12月25日に日本に返還されることになり、それにともなう約9億円の現金と通貨交換業務要員の輸送をするというものであり。当時、海上保安庁最大の船だった宗谷が指名された。12月20日深夜、鹿児島を発した宗谷は21日名瀬に入港、各島を回り、25日に名瀬に帰港。27日には「日本復帰祝賀式典」に出席した国務大臣一行を乗せ、28日に鹿児島に戻った。明けて、1954年1月3日、再び名瀬に向かい、各島で米軍統治時代の軍票を回収し、通貨交換業務要員を乗せ、1月9日に鹿児島に帰還した[100]

1950年4月20日~6月6日、第一次補給航海を実施した宗谷は南極観測船転用のため灯台補給船を解役されるまでの5年半この任にあたった。宗谷は灯台守からは就役直後は「燈台の白姫」、晩年は「海のサンタクロース」と呼ばれ親しまれていた。当時大ヒットした映画ビルマの竪琴[101]喜びも悲しみも幾歳月には灯台補給船時代の宗谷が登場する。
1955年7月25日~8月27日、麻布海洋少年団を乗せて日本半周の第二次補給航海を行った。
1955年12月26日、後継船として大阪商船若草丸が購入され八代目灯台補給船「若草」として灯台補給船の任務と号鐘を継承した[102][103]

南極観測船宗谷 SÔYA(PL107)[編集]

南極への航路
選定から改造

1957年(昭和32年)7月1日から1958年(昭和33年)12月31日に開催される国際地球観測年(International Geophysical Year、略称:IGY)にあわせて、日本は南極観測を行うことにし、1955年(昭和30年)7月に開催された第1回南極会議に文書で南極観測参加の意志を伝えた。それに伴い南極観測を行うこととなり、砕氷船が必要となった。国鉄宗谷丸などの候補が選定され、砕氷能力や船体のキャパシティは宗谷丸のほうが勝っていたが、改造予算の問題や耐氷構造、船運の強さ(魚雷を被弾するも不発弾等)を買われ、宗谷が選定される。 1955年11月24日~12月12日には三菱日本重工横浜造船所のドックで総点検が実施された。 12月24日に灯台補給船としての解任式が行われ、同日をもって巡視船(PL107)へ種別変更された[104][105]
12月28日、海上保安庁船舶技術部は2400馬力の主機関を2基、新潟鉄工所に発注した。
1956年(昭和31年)2月13日、適格造船所十社を指名して入札をおこなったが不調に終わり、翌14日も再入札も不成立に終わったが、最低入札だった日本鋼管(現ジャパン マリンユナイテッド)浅野船渠に随意契約の形をとってやってもらうことになった。ところが修理を専門とする浅野船渠では詳細図面の作成はできなかったので、海上保安庁船舶技術部長の水品政雄は船舶設計協会常務理事の牧野茂 に詳細図面の作成を依頼した。
3月12日に日本鋼管浅野船渠で南極観測船への改造工事に着手し[106]、造船所以外からも集まった職人達が意地とプライドを賭けて突貫工事を始めた。一方、独自に新技術を編み出していた各企業も惜しげもなく資材を提供し10月17日に竣工した[107][108]

宗谷は次のような改造を受けた。
船首部は厚さ25mmのキルド鋼板製で喫水線に対し27度の傾斜角を有する新船首部、復原能力の大幅強化[109]、デリックブーム新規交換、レーセオン社製の観測用/航海用40マイル大型レーダー及び見張所新設[3]、蒸気機関からディーゼル機関2機2軸への換装、ファンネル換装、救命艇4隻及びダビットを換装、宇宙線観測室新設、後部マストを門型に換装、居住区換装、舵の換装、豆腐製造機新設、ヘリコプター発着飛行甲板新設、ヘリコプター格納庫の新設、バルジタンク新設、ベル47G型ヘリコプター2機搭載、セスナ180型1機搭載、ビルジキール撤去、QCU-2型ソナー、音響測探儀を最新の物に再装備等。
まだ護衛艦などでもヘリの搭載例は無く、戦後日本の艦船としては最初の本格的な回転翼機搭載を実現した

第1次観測(1956年11月8日~1957年4月24日)

初代南極観測船として、東京水産大学(現東京海洋大学)の海鷹丸二世(1.452t)を随伴船に従え、[110]1956年11月8日、東京晴海埠頭の1万人以上の大群衆と島居辰次郎海上保安長官、乗組員、観測隊員の家族らを乗せた巡視船「むろと」(PL-03)、「げんかい」(PM-07)、「つがる」(PL-105)[111]に見送られ、宗谷は永田隊長、西堀越冬隊長以下第1次南極観測隊員51名、松本船長以下乗組員76名、樺太犬22頭(オス犬20頭・メス犬2頭)、猫1匹、カナリア2羽を乗せ、南極に向け出港した[112]

11日、戦艦大和沈没地点にて花束献花、14日早朝、ルソン島沖にて花束を献花。翌日フィリピン洋上で台風19号に遭遇、16日、台風20号が発生し、二つの台風にはさまれた宗谷は横揺れが40度にも達しそれをなんとか切り抜けたがセスナ機のさちかぜ号が損傷した。20日、松本船長は出港前に訪ねてきた元士官の「戦時中宗谷が沈まなかったのは艦内の宗谷神社のおかげ」とアドバイスされたことを思い出し「宗谷神社」を復活させた[113] [114]
23日、シンガポールに到着、さちかぜの修理と補給を行った。28日、シンガポールを出港。12月1日、赤道を通過、甲板上で赤道祭が行われた[115]。12月5日、インド洋上で幻の流星群に遭遇、この流星群は100年以上行方不明だったブランペイン彗星であることが2005年に判明した。
12月19日、ケープタウン入港、海鷹丸と合流。20日~25日、船内の一般公開をおこない5日間で7,000人以上の人が見学におとずれた。24~25日、元旦は暴風圏の最中でゆっくりできないので、後甲板に模擬店とクリスマスツリーを設けケープタウンの人々とともに盛大に祝った[116]。29日、大阪商船「ぶえのすあいれす丸」に見送られケープタウンを出港。 1957年1月4日、暴風圏を通り抜けて最初の氷山に遭遇。7日、宗谷は偵察にベル47G型ヘリコプターを飛ばした。このヘリコプターは日本航空史上初の南極を飛んだ航空機となった。10日、パックアイス縁に到着、海鷹丸から航空機燃料入りのドラム缶47本を受け取り、ここで海鷹丸と別れ宗谷はパックアイスに進入していった。16日、偵察に出たさちかぜ号がプリンスオラフ海岸に沿って続く細長い開水域を発見。この開水域は「利根水路」と名付けられ宗谷はこの水路に向けて進んでいった[117][118]
1957年(昭和32年)1月24日南緯69度00分22秒・東経39度35分24秒オングル島プリンスハラルド海岸に接岸1月29日公式上陸、第1次南極地域観測隊昭和基地を開設、宗谷がプリンスハラルドに接岸の間、「プリンスハラルド宗谷船内郵便局」が船内に置かれた[119]。2月13日オングル島の北にある小島に「宗谷神社」を分祀しこの小島を「宗谷島」と命名した[120]。14日、この日まで151tの氷上輸送に成功。15日、越冬隊員に見送られ離岸したが、翌日天候が悪化し氷に閉じ込められた。28日早朝、天候が回復しビセット状態から解放され、外洋に向けて砕氷再開。午後2時、氷原の中間点にて海鷹丸の誘導で救援に到着したソ連の砕氷艦オビ号(全長140m、12.600t、8400馬力)と会合。オビ号の航跡を追い午後11時、外洋への脱出に成功し海鷹丸と合流。その後、ケープタウン沖の暴風圏で宗谷は、最高片舷69度に及ぶ横揺れに見舞われたがこれを見事に切り抜け[121]、3月10~15日までケープタウンに寄港した後[122]、宗谷は4月5~13日までシンガポールに寄港。海鷹丸はコロンボと香港を経由し、21日、鹿児島沖にて鳥居長官を乗せた巡視船さつま(PL-105)と会合[123]。23日午後9時、宗谷と海鷹丸は羽田沖にて合流。4月24日、陸、海、空をうめつくす大観衆に迎えられ東京の日の出桟橋に帰港した[124]

第2次観測(1957年10月21日~1958年4月28日)
南極地域観測50周年記念500円硬貨。タロとジロの向こう側に宗谷がいる。

第1回の反省を踏まえ特製ビルジキールを装着、水上機をデ・ハビランド・カナダ DHC-2の昭和号に換装、砕氷能力を1.2mに高め、積載量500tに増大、暴風圏での姿勢安定のため帆を常備し、出港を10月21日に繰り上げたものの、この年の南極の気象状態はきわめて悪く、宗谷以外にも各国5隻の砕氷船が氷に閉じ込められた[125]。この時は救援を待たず脱出に成功したが、1958年2月1日には密群氷を航行中に左スクリュー・プロペラ1枚を折損した。6日、46日ぶりに外洋に脱出に成功し、7日、アメリカ海軍のウィンド級砕氷艦「バートン・アイランド」号と会合。支援を受けて8日、密群氷に突入したが、その日の午後3時半、誘導していたバートン・アイランド号のベル型ヘリコプターが不時着し救出活動に入って進入をやめ、ここから昭和号を飛ばすことになった。11日、第一便に隊員1名と子犬1頭、カナリア2羽、第二便に隊員2名と子犬4頭、第三便に隊員2名と猫1匹、子犬1頭、第四便に隊員3人の回収に成功した。13日、天候の悪化により空輸が困難となった。同日、船長・航海士・機関長・操舵手らが宗谷の前方300メートルくらいの所に大型の未確認動物を目撃、それは30秒くらい見えていたが機関長がカメラを取って船橋に戻って来た時には見えなくなっていたので写真を撮影する事はできなかった。当時の船長であった松本満次が自著にて南極ゴジラと記述した。14日、晴れの間をみて昭和号を飛ばし隊員3名、子犬2頭、母犬を連れ戻すがこれ以降天候が悪化、15日、バートン・アイランド号は砕氷航行中、氷盤に乗り上げ動けなくなってしまい宗谷がロープで引っ張ったがロープが切れてしまった。16日、バ号側が氷盤を爆破して抜けだすことに成功。2月17日、外洋に脱出し18日、密群氷に再進入し昭和号を発進させられそうな水路や氷山を探したが見つからず、19日、風速30メートルを超える吹雪により探照灯と電話アンテナがもぎ取られた。2月24日、越冬計画を断念し帰途についた。これがタロとジロの物語につながる。
3月7~13日、ケープタウン寄港。4月7~15日、シンガポール寄港。4月28日、日の出桟橋に帰港し第2次南極観測行動を終了。

第3次観測(1958年11月12日~1959年4月13日)

第2次観測終了後の5月3~5日、日の出桟橋にて一般公開を開催、日の出桟橋から浜松町駅まで行列ができた[126]。 第2次観測の失敗を経験に第3次観測では雪上車による輸送体勢から大型ヘリコプターによる空輸を主体とすることに方針転換し、宗谷は大型ヘリ発着甲板を従来のヘリ甲板の上に増設し、小型へり格納庫を撤去、航空機ガソリンタンク新設、航空司令室を増設、ヘリコプター吊上げ用のクレーン増設等の、ヘリコプター運用に特化した大改装を行った[127]。 偵察用ベル47G2機[128]シコルスキーS58型2機[129]、測地用DHC-2ビーバー1機を搭載した宗谷は乗組員や観測員からヘリ空母、ミニ空母と呼ばれていた。 大型ヘリコプターによる人員、物資、資材を基地まで空輸するという、前例の無い輸送方法だった。

1958年11月12日、松本船長以下92名の乗組員と永田隊長、村山越冬隊長以下36名の観測隊員と樺太犬の子犬3頭を乗せて東京の日の出桟橋を出港。12月19日、ケープタウンに入港、翌20日初の外国人オブザーバーD.J.メロイが乗船。 1959年(昭和34年)1月14日午前8時15分、宗谷は水平線上にグリーンフラッシュ現象が現れるなか、昭和基地から約163kmの地点を空輸拠点と定め氷盤に横付けし、氷盤にヘリポートを設置。午後1時38分、S58型201号が発進した。第一便のヘリが昭和基地上空で走り回る熊のように大きな犬2頭を発見、午後10時15分、第五便のヘリで到着した第1次越冬隊で犬係だった北村泰一が2頭の犬をタロとジロと確認。
1959年2月1日、宗谷から昭和基地へ輸送した物資は57tに達し、第3次南極観測隊の隊長永田武は、第3次越冬隊の成立を宣言する。そして、囲まれていた氷を爆破すると宗谷は離岸した。離岸した宗谷は氷に囲まれて身動きがとれなくなったベルギー隊のポーラーハブ号(600t、1200馬力)を救出にあたるためリュツォ・ホルム湾で待機する。第3次南極観測隊は宗谷の待機中にプリンスハラルド海岸の測量を行い、昭和基地への追加輸送も行った。2月4日、ポーラーハブ号から「状況が好転した」との連絡を受け宗谷は任務を終えて帰路についた[130]。 1959年1月14日~2月3日の20日間に58便の輸送を行い、村山雅美越冬隊長以下14名の越冬隊員及び資材57tの空輸に成功した[131]
悪天候下の飛行を強行した場面も多く航空界の常識をもっては想像できない飛行を敢行の結果、大型ヘリコプターによる57tの空輸実績は当初の計画の2倍以上の成果を上げ[132]、各国(特にアメリカとソ連)もおおいに注目した。 この空輸を基本とした体制は後継艦のふじ、しらせにも受け継がれることになる。
2月23日、ケープタウンに入港。3月3日、D.J.メロイが下船し、ケープタウン出航。4月13日、東京の日の出桟橋に帰港し第3次南極観測行動を完了した。

第4次観測(1959年10月31日~1960年4月23日)

第3次における空輸経験から越冬観測に必要な物資輸送時に昭和号による航空測量を並行実施することは極めて困難であるとの意見が海上保安庁から提出され、検討の結果航空観測は越冬終了のさいに実施されることになり、第4次観測から昭和号は携行しないことになった。
第3次観測の経験を踏まえ、航空関連に長けた明田末一郎が船長に就任、宗谷はブリッジに航空司令室を新設、後部マストに吊上げ装置を新設、航空標識灯を新設、S58は降着装置を水陸両用型から陸上型に交換などの改装をおこなった。
1959年10月31日、明田新船長以下94名の乗組員と立見新隊長以下36名の観測隊員を乗せて、灯台補給船若草、巡視船むつき、げんかい等に見送られ、日の出桟橋出港。 11月12日、シンガポール入港。18日、出港。20日、南極観測本部はソ連が昭和基地を航空機の基地連絡中継地として利用することを許可した。その後、第4次観測隊員はオビ号側に共同接岸を申込みオビ号側はそれに同意した。12月11日、ケープタウン入港。14日、ベルギー隊からグリーンランド・ハスキーの子犬をプレゼントされた。22~29日、オビ号との連絡を取り合い、合流は1月1日となった。1960年1月1日、オビ号と合流。2日、昭和基地から43マイルの位置から輸送を開始。この日の夜、明田船長と立見隊長はオビ号を訪問して会談の結果、5日頃当地をはなれることになった。 3日午後、宗谷とオビ号乗組員との親善バレーボール大会開催。4日午後8時、オビ号ドピーニン船長一行が来訪、オビ号の滞在期間延長が決定。7日、オビ号と別れ第1期空輸は終了となった。この時点での輸送量は天候に恵まれたこととオビ号の協力もあって第3次輸送量の57tを上回る77tに達した。16日~18日、第2期空輸。村山前越冬隊長含む8名の隊員を収容。その後は海洋観測をしつつ輸送を行い、2月6日まで103便126t、雪上車による輸送28t含めると総計154tの輸送に成功した[133]。1960年4月16日、沖縄からの要請で第4次観測の帰途、那覇に入港し大歓迎を受けた[134]

第5次観測(1960年11月12日~1961年5月4日)

宗谷の老朽化と海上保安庁でのパイロット不足により通常の業務に支障をきたす事態になり観測を第6次で打ち切ることがきまった。
宗谷は帰国することが決まったタロ用の小屋の新設と船体のリベット1400本打ち直す、整備改装をおこなった。 1960年9月16日、第5次観測に備え新三菱重工にて整備中のS58型202号機が試験中横転し大破した。
この事故のため出港が1週間遅れ、海上自衛隊からHSS-1対潜ヘリを緊急に借用し203号機として使用することになった。その際海上自衛隊から俵良通中尉がパイロットとして海上保安庁に出向した。
1960年11月12日午前10時50分、日の出桟橋出港。24日、シンガポール入港。新鮮な野菜、果物を調達し、30日、出港。インド洋航海中、観測隊員の一人が虫垂炎にかかり船内で手術が行われた。12月8日、インド洋にてマグロ漁船「第八大浅丸」からインドマグロを貰った。宗谷からもお礼の品を贈り別れた。22日、ケープタウン入港。燃料、食料の補給、オブザーバーのウォルター.L.ボクセルが乗船。28日、出港。
1961年1月7日、流氷域に到着。9日、ベル106号機による氷上偵察の結果これ以上の進入は困難と判断し近くの氷盤に横付けし、氷上ヘリポートを設置し空輸拠点とした。昭和基地まで51マイルの地点であった。
13日、天候悪化によりヘリポートを撤収して第1期空輸を終了。16日、氷海をでて海洋観測を行ってたところ、天候安定の兆し見えたので、19日に再び進入開始。20日、長さ70m、幅50m、厚さ8mの氷盤に横付けして、ヘリポートを設置して空輸拠点とし第2期空輸を開始した。同日清水タンク内に浸水が発生していることが確認されたが宗谷は各タンク間等が細かく区画され、異常タンク内が満水状態になるとそれ以上の浸水はないから行動に問題はなかった[135]。25日、氷盤の移動により第2期空輸を終了。30日、第3期の空輸を開始して、2月4日、タロが乗船、第5次越冬隊の必要資材等すべての空輸を終了し繋留していた氷盤を離れ外洋へ向かった。5日、第4次越冬隊員の1人が腹痛を訴え虫垂炎と診断され、すぐに手術となった。7~10日、海洋観測とプリンスオラフ海岸調査飛行、15日、アムンゼン湾でオビ号と行き会った。その後3月2日まで海洋観測、地形や氷状の調査、大陸沿岸の略図をおこなった。3日、氷海を出て氷海行動を終了。同日、生物の資源調査に関しモーリシャス島に2泊3日の寄港の許可が外務省からおりた。7日、捕鯨船「第三極洋丸」の作業艇がやってきて、鯨肉等をもらった。宗谷からも贈り物をし作業艇は帰って行った。14日、ケープタウン入港。20日、ウォルター.L.ボクセルが下船し、ケープタウン出港、モーリシャスに向かった。31日モーリシャスのポートルイスの岸壁に横付けした。4月2日、ポートルイス出港。16~21日シンガポール寄港、5月1日、九州沖で巡視船さつまと会合、南極の氷が入った木箱を2つ贈った[136]。2日、潮の岬おきで巡視船くまのと会合[137]。4日午前10時40分、日の出桟橋に帰投し第5次南極観測行動を終了した。

第6次観測(1961年10月30日~1962年4月17日)

5月13日、海上保安庁の観閲式に観閲船として参加、南極観測終了後、北洋警備の巡視船への転身が決まった。26日、浅野ドッグ入り。
第6次観測の目的は昭和基地の閉鎖、第5次越冬隊の収容および、日本隊の担当区域でまだ地図のないの東経35度から45度までの海岸線の航空写真測量を行うことであり、航空測量のためセスナ185を携行することになった[138][139]。本来なら昭和号が航空測量を担当する事になっていたが昭和号は1961年1月17日、北海道千歳飛行場での飛行訓練を終え羽田航空基地への帰還の最中、釜石沖で不時着水し沈没していた。
昨年大破したS58型202号機が復帰、203号機は自衛隊に返還された。 1961年10月30日午前10時55分、巡視船むろと、すみだ等に見送られ、日の出桟橋から出港。11月2日、奄美大島通過。4日バシー海峡、5日バリタン海峡、6日ルソン島沖を航行。 11~16日、シンガポール寄港。12月8~16日、ケープタウン寄港。23日、氷縁に到着。ベル47G106号機の組立から試験飛行開始。24~28日、氷上調査実施。29日、202号機で氷上調査を行いながら外洋に出て東航。1962年1月5日、「宗谷」周辺の氷上調査を終了し氷海進入。6日、昭和基地まで114マイルの地点から氷上ヘリポートを作成し空輸開始。7日、201号機により昭和基地へのセスナ302号機の胴体のスリング輸送に成功、同日202号機により302号機の主翼がはいったコンテナのスリング輸送に成功。9日、セスナ302号機の組立完了、昭和基地の飛行場整備。10日、第1期空輸を終了、航空機の50時間整備開始。13日、第2期空輸開始、昭和基地へ派遣中の隊員が虫垂炎の疑いで、202号機で宗谷へ緊急搬送。15日、302号機による航空写真測量開始。18日、第2期空輸終了。24日、宗谷付近の天候悪化により氷縁への移動開始。26日、昭和基地付近の天候悪化により航空写真測量を終了し、302号機の主翼を取り外した。29日、昭和基地にて201号、202号機の15時間整備。2月1日、氷縁に到着、主機関の点検を行った後、氷縁に沿って東航し撤収開始地点に向かった。2~5日、進入を開始したが氷状悪化。ヘリポート設営可能な氷盤がなく漂泊。6日、宗谷付近の天候が回復したが、昭和基地付近が回復しないのので、宗谷は長さ30m、幅25m、厚さ4mの氷盤に接舷、昭和基地から70マイルの地点であった。その後基地は天候が回復、空輸を開始したが、宗谷付近が断続する雪のため202号機が着船したのみで中止となった。7日、302号機の主翼コンテナを吊り下げ離陸したところ、揺れが大きくなり201号機の機体に接触したので、基地から1マイルの氷上に降ろし、同機は基地に引き返した。接触した部分を応急修理し飛行可能となった。
8日、船長、航空長が協議の結果、主翼の左右をそれぞれ切断し、201号、202号機の機内に収納して空輸することになった。撤収8便で302号機の切断した片翼と整備員1名が、最終便となった9便で、片翼と村山第5次越冬隊長、吉川第6次隊長が宗谷に帰着し、昭和基地の閉鎖と大陸沿岸の航空写真測量を終了した。9日、宗谷は外洋にでて東航、アムンゼン湾の氷調査に向かった。16日、南極洋を離れ、ケープタウンに針路をとった。26日、ケープタウン、ビクトリアベーシンふ頭に停泊。3月6日、ケープタウン出港。3月30日~4月4日、シンガポール寄港。4月17日、日の出桟橋に帰投し第6次南極観測行動を終了し南極観測船としての役目を終えた。

宗谷は派遣回数と同じ回数の修理・改装を繰り返し、通算6回の南極観測任務を遂行した。 この間前後6回にわたる南極航海における総航程は約144,276海里、総日数1,031日であった。[130]

巡視船宗谷 Japan Coast Guard(PL107)[編集]

1962年5月13~15日、随伴船に巡視船「もがみ」(PS11)を従え伊勢湾で開催される観閲式に米、英、仏、ソ連、タイの大使館付海軍武官夫妻、運輸大臣、海上保安庁長官を乗せた観閲船として参加した。
保安庁最大の宗谷は所属船艇の旗艦、模範船として退役するまでトップの座にあった[140]
6月15日、日本鋼管浅野ドッグに入渠し、観測機器、航空機関係の重装備を降ろしたが船体の色は観測船のままだった[141]
8月1日、第三管区海上保安本部所属になる。3日、サケ、マス漁業監視のため北海道第一管区釧路海上保安部へ旅立った。24日、監視任務を終え函館に入港、燈台補給船時代の最後の船長だった松原船長は函館海上保安部長になっていた。松原部長の指揮のもと第一管区所属の全巡視船を集合させ宗谷のための観艦式がおこなわれた。同日午後11時、三宅島の雄山噴火の報せ受けた宗谷は急遽、東京湾に急行した。9月14日、館山に疎開した学童約2千名を島に送り届けた。
9月28日、金華山沖南東1500キロの海域でマグロ漁船「第六海進丸」から医療救助の通報が横浜海上保安部に入り出動命令が下った。横浜日赤病院の外科医村田医師と看護婦2名を乗せた宗谷は漁場へと急いだ[142]。翌29日、同じ海域で操業中の「第六金良丸」からも急患発生との緊急連絡が入った。翌30日午後8時50分、横浜沖約1千キロの地点で「第六金良丸」会合。医師は急性盲腸炎と診断しすぐさま手術となった。同日「第六海進丸」の急患が到着、手術が終わった直後の午後11時53分、運び込まれた患者は意識不明だった。硬膜下血腫と判断した医師は上陸してからも間に合うと判断し横浜港に向かった[143]。10月3日午前10時20分横浜港に入港、患者は手術うけて助かった[144]。これが、宗谷が巡視船となって初めての医療救助活動だった。

1963年(昭和38年)2月、オホーツク海の流氷調査のため第一管区に派遣、この時小樽港から北杜夫と柴田鉄治が取材で乗り込んでいる。その後、4月1日北海道第一管区海上保安本部に移籍。
第一管区に移籍した後の宗谷の一年のスケジュールは、12~2月に北洋前進哨戒、3月上旬から、北海道大学と協力して流氷観測、調査。4月、観閲式に備えて浅野ドッグ鶴見造船所にて整備。5月、観閲式。6~7月、釧路にて医師と医療器具を積み込み北洋サケ・マス医療前進哨戒、8月、津軽海峡を中心に巡視、9月、20日間ほどの整備。10月函館ドッグ入り、11月、津軽海峡を中心に巡視。また、宗谷は保安庁最大の巡視船のため海洋少年団の体験航海、各地の慰霊、遺骨収集等、しばしばピンチヒッターとして使用された[145]
1972年(昭和47年)から「宗谷」は海上保安学校(京都府舞鶴市所在)の練習航海で、若き海上保安官候補生を乗せて航海の実際を教える教育船としての顔を持つようになる[146]

1963年10月2日、コレラの海上封鎖のため、さど(PM03)、ちふり(PM18)、すみだ(PS55)を率いて李ラインに向けて出港。11月まで、朝鮮からの密入国者の取り締まりを行った[147]
1964年(昭和39年)1月、ウルップ島で座礁した第八共進丸の乗組員全員救出[148]。2月、初代ふじ艦長に内定された本多敏治一佐を乗せオホーツク海での氷海航海訓練を行った[149]
1964年4月6日、巡視船「てんりゅう」(PS03)が紋別港沖で流氷にはさまれて行動不能となった漁船5隻の救助作業中、流氷により行動不能になり、9日、宗谷に救出された。[150]
1965年(昭和40年)7月15日、 二代目南極観測船「ふじ」就役にともない南極観測船としての役割を正式に終える。
1965年10月25日、宗谷、海鷹丸の観測をもとにした、詳細な南極海図が完成。この海図はふじの晴れの壮途に間に合うように作られた[151]
1966年(昭和41年)5月、小笠原墓参団を芝浦ふ頭から乗せ父島・母島及び硫黄島にて慰霊祭を行なった[145]
1970年(昭和45年)3月16日、カムチャッカ方面を哨戒中、釧路保安部から「単冠湾へ急行せよ」と緊急指令が入った。19隻の漁船が吹雪と流氷のために遭難し、宗谷が救出に向かう。悪天候の中、生存者84名の救出に成功。 この頃から漁民の間で「福音の使者」「北洋の守り神」といわれるようになる。
1970年4月、東京にて整備中に巡視船本来の色に塗り替える[152]
1972年(昭和47年)3月7日、稚内市長の要請で出動し午前9時宗谷湾の流氷群に突入、北防波堤から700mまで進んだが厚さ2m以上の氷盤にはばまれ、いったん外海に脱出し午後再突入、煙突から火柱をたてながら奮闘し午後4時湾内を突破し底引漁船や貨物船16隻、午後7時、半底引漁船3隻、翌8日湾外の北防波堤付近の貨物船2隻を外海誘導に成功した[153]
この年から海上保安学校は半年制の普通科から、一年生の本科に改正され、教育、訓練の充実に大型の練習船による長期練習航海を実施することで、日常の船内の生活を体得でき、それがシーマンシップの育成に大きく献上するということは、海上保安庁幹部の一致した意見だったが、現場の巡視船艇さえ十分な勢力でなく、専用の練習船など予算的に実現の見込みがなかった。この解決策として乗組員以外にも多数の部屋とベッドを(南極観測隊員用の部屋とベッド)持つ宗谷を一時的に練習船として使用する方法が採られた[146]。初めての長期練習航海は10月から11月にかけて、三グループに別れて、舞鶴-函館間を約一週間ずつ行った。[146]
1974年(昭和49年)1月10日オホーツク海の流氷が紋別陸岸から視認できるところまで接近し、11日から13日かけて急速に発達した。紋別海上保安部は漁業協同組合に出港を自重するように通達したが13日早朝漁船の1隻強行出港したため他の9隻も相次いで出港した。これを知った海上保安部は「てんりゅう」に護衛のため出動を命じた。これらの漁船は紋別沖500m付近流氷にて航行困難となり6隻は自力で脱出し、2隻は反転し紋別港に引き返したが、残り2隻は反転できず、「てんりゅう」の水路啓開により辛うじて紋別港に帰港した。「てんりゅう」も反転し紋別港に向かおうとしたが、氷状が悪化し航行不能になった。15日「宗谷」はソ連から抑留漁船員を引き取って釧路に入港後、「てんりゅう」救出の要請を受け出動、この時、千歳航空基地所属のベル212型ヘリコプター「MH516号機」を一時的に搭載、16日現場に到着、MH516号機と協力して開氷路を作って誘導、17日氷海からの救出に成功した[150][148]
1975年(昭和50年)8月「対馬丸」海上慰霊祭に派遣され、22日遺族の方々を乗せ、卜カラ列島の悪石島沖にて午後10時12分から慰霊をおこなった[145]
1976年(昭和51年)4月8日、最後の船長となる有安欣一船長が就任。月下氷人の愛称をつける[154][155]
1977年(昭和52年)5月8日、観閲式の後、南極観測20周年記念OB会が宗谷船上にて開催。8月1日、灯台補給船が廃止され後継船の若草が解役。新海洋秩序時代の到来により解役の話が出始める。
1978年(昭和53年)3月12日、稚内港の流氷群を砕氷し、とじこめられていた漁船41隻を外洋に導いた。
1978年3月18日、ふじの5年以内の観測船引退が決まり[156]。調査研究目的で村山元越冬隊長が訪れた。 3月22日、根室半島沖にてふじの後継艦建造計画 に関する砕氷実験をおこない、高さ二m、直径二十mの氷盤を砕氷した[157]
1978年5月14日、海上保安庁創立三十周年の観閲式に観閲船として参加。

竣工から40年以上が経過した1978年7月3日、ついに解役が決まり[158]、最後の任務として舞鶴海上保安学校学生の実習をかねた全国14の港を巡る「サヨナラ航海」を実施し各港で、「サヨナラ宗谷船内公開見学会」を開いた。 78年8/2-4西舞鶴港第2ふ頭、5-7門司港第2岸壁、7-9広島港外貿ふ頭、9-12高松港中央ふ頭、12-14神戸中突堤、15-17名古屋港西ふ頭、18-19横浜大さん橋、19-20東京晴海ふ頭、21-22塩釜港貞山ふ頭、23-25函館中央ふ頭、26-27小樽港第2ふ頭、29-30新潟港中央ふ頭、9/2-3青森港浜町ふ頭にて見学会が開催された。 7月29日函館を出港、31日当時、引退後の宗谷を誘致していた福井県の福井新港開港記念式典に参加[159]。8月2日舞鶴港では海上自衛隊舞鶴音楽隊のファンファーレを奏で迎えられた。 9月2日の青森港には17000人が押し寄せた。歓迎飛行の海上自衛隊大湊地方隊のヘリコプター2機が飛来し宗谷の飛行甲板に大湊総監・江上純一海将の「同じ海上に勤務する者として輝かしい宗谷の栄光と歴代乗組員の努力に最大の敬意を表します」というメッセージが投下された。一日船長の春日八郎が「さよなら宗谷」を歌った。岸壁では陸上自衛隊第九音楽隊が太平洋行進曲を演奏した[160]

9月4日、稚内市へ最後にもう一度と、青年会議所が海上保安庁に陳情してサヨナラ航海番外編が実現することになった。
9月5日、保存先が船の科学館に決まった。 9月23日、天北一号埠頭に接岸した宗谷は陸上自衛隊第二師団のブラスバンドの演奏に迎えられた。翌24日、11000人の見学者を迎えた。同日の夜、稚内港を出港。
9月28日午前9時、秋晴れの空に「UW1(ご幸福を)」の国際信号旗掲げた宗谷は「蛍の光」「錨を上げて」の演奏に見送られ長年の母港だった函館をあとにした。

1978年(昭和53年)10月2日、竹芝桟橋にて解役式を迎え退役。解役式には歴代長官、歴代船長、観測隊員、宗谷にゆかりある人たちが出席した。海上自衛隊音楽隊が演奏する国歌とともに、国旗、海上保安庁旗、長官旗がおろされ、有安船長から高橋長官に返納されて式典は終わった[161]

巡視船の解役式に海上保安庁の長官が出席したのは、現在のところ宗谷のみである。

巡視船になってから海難救助出動は350件以上、救助した船125隻、1000名以上の救助実績を揚げ「海の守り神」という異名をもつ事になった。

1978年11月22日、代替船としてヘリコプター搭載型巡視船そうや」(船番号:就役当時PL01、現在PLH01現役)が就役。

展示[編集]

  • 1979年(昭和54年)5月1日から、東京お台場にある船の科学館で一部公開。
  • 1980年(昭和55年)7月20日、全面公開開始。
  • 1982年 1月18~3月15日にかけて船体外部の全面塗装、船名文字・ヘリコプター着艦標識・錨塗色の観測船時への復元を中心とする修復工事を実施。
  • 2006年(平成18年)には南極観測50周年を記念して宗谷とタロ、ジロが写った切手と記念硬貨の発行、宗谷南極観測出港の再現が宗谷で行われた。
  • 2008年(平成20年)2月16日には宗谷の戦友会「軍艦宗谷会」が中心となり靖国神社より権宮司を招き誕生70年を祝う古希祭が執り行われた。参加した人々は宗谷の建造や改造に関わった者、地領丸、特務艦、復員船、灯台補給船、南極観測船、巡視船様々な時代の宗谷に関わった人々が集まった。
  • 2010年(平成22年)チリ地震 (2010年)の津波により、船の科学館は宗谷への乗船を一時停止した。

保存船としての宗谷は、現在も海上保安庁特殊救難隊の特殊訓練所としても使われている。
船の科学館に保存先が決まった時、当時の館長笹川良一は「不可能を可能にした強運と奇跡の船」と称えた[162]

進水からすでに77年が経過しており、本来商船としてつくられながら、軍艦や南極観測船、巡視船として、過酷な環境に身を置いた類稀な船歴からくる長年の酷使や、退役後の繋留に伴う経年劣化により船体が傷みが進んでいる。維持管理には多額の資金が必要とされ、募金活動が行われている。2003年3月から宗谷保存募金を開始し、2011年3月末までに10,717,649円を集め[163]2014年12月1日~2015年1月3日まで整備工事のため見学と公開を休止。2015年1月4日、修理完了に伴って見学が再開された[164]

要目[編集]

1945年(特務艦)[編集]

※舳先に波模様の迷彩[165]

1961年(南極観測船)[編集]

船の科学館に展示される宗谷
  • 総トン数:2,736 t
  • 排水トン(満載)4.614t
  • 全長:83.7 m
  • 全幅:15.8 m(バルジ含む)
  • 速度:12.3 kt
  • 機関:ディーゼル機関2基、2軸
  • 出力:4,800馬力
  • 航続距離:11 ktで16,400浬(燃料:重油658t)
  • 搭載機:シコルスキーS-58型ヘリコプター 2機(第3次~6次)
    ベル47G型ヘリコプター 2機(第1次)
    ベル47G2型ヘリコプター 2機(第2次~6次)
    セスナ180型「さちかぜ」1機(第1次)
    デ・ハビランド・カナダ DHC-2「昭和号」1機(第2次~3次)
    セスナ185型1機(第6次)(いずれも露天繋留)
  • 砕氷能力:1.2 m(第1次から0.2m強化)
  • 貨物積載量:500 t(観測用物資、初期値400 tから増量)
  • 航海計器:レーダー レーセオン社製×2[3] ソナー QCU-2型×1[3] 測信義 中浅海×1 極深海×1[3]

※当初、搭載ヘリコプターは小型のベル47G観測機2機であったため、ヘリ甲板前方に格納庫を有していた。第2次南極観測の失敗を元に昭和基地への物資輸送をヘリコプターによる空輸に切り替え大型のシコルスキーS-58型2機を追加で搭載、格納庫の容量が不足したため第3次改装の際に格納庫を撤去してヘリ甲板を拡大、露天繋留による暴露積載とし、小型ヘリコプターのベル47G2は分解して箱詰めされた状態で飛行甲板上に搭載された。

1970年(巡視船)[編集]

日本が発行した国際地球観測年記念切手。宗谷のシルエットが描かれている。
  • 総トン数:2,734 t
  • 排水トン(満載)3.853t
  • 全長:83.7m
  • 全幅:15.8 m(バルジ含む)
  • 速度:13.5 kt
  • 機関:ディーゼル機関2基、2軸
  • 出力:4,800馬力
  • 航続距離:12.7 ktで18,578浬(燃料:重油658t)
  • 搭載機:なし
  • 減揺タンク装備
  • 母港:函館港

※任務や訓練によってはベル212型ヘリコプター等を一時的に搭載した。

宗谷を題材とした作品[編集]

  • 1963年6月に北杜夫が「どくとるマンボウ氷海をゆく」と題して宗谷航海記を小説中央公論にて掲載[166]。また、1963年3月柴田鉄治が「白いオホーツクをゆく『宗谷』同乗記」を朝日新聞北海道にて連載しており、二人は同時に同じ航海に参加していた[167]

脚注[編集]

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  1. ^ 撃沈1撃退1の可能性もある『資料ガイド3宗谷』19頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『資料ガイド3宗谷』46頁。
  3. ^ a b c d e f 『南極六年史』228頁。
  4. ^ 船の科学館『資料ガイド3宗谷』21頁。
  5. ^ 2001年以降の英称、略称はJCG、以前はMSAMaritime Safety Agency
  6. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』12頁。
  7. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』18頁 飯沼一雄「「宗谷」誕生秘話」の孫引き。
  8. ^ ロシア語ではアクセントのないоは、アに近いのでヴァラチャーイェヴィェッツが近い発音。赤井謙一『世界の砕氷船』50頁。
  9. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』8頁。
  10. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』42頁。
  11. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』34-35頁。
  12. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』38頁。
  13. ^ 天領丸、民領丸の記録はなし大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』56頁。
  14. ^ 船の科学館『資料ガイド3宗谷』17頁。
  15. ^ 毎日新聞社別冊『一億人の昭和史・昭和船舶史』第23号 地領丸(宗谷)で北千島へ 松林楠雄手記 216-219頁。
  16. ^ 『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』58-59頁。
  17. ^ 『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』63-64頁。
  18. ^ 『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』70頁。
  19. ^ 昭和16年2月28日付 陸軍整備局長 陸支密第556号「特種作戦準備に伴う特大発、大艀舟及工作船等整備に関する件」に対する、昭和16年6月9日付 陸軍運輸部長 運密第921号「特殊作戦準備に伴う工作船及特大発艇整備完了報告」。
  20. ^ 昭和15年2月20日付 海軍大臣 達第28号。
  21. ^ 石炭、兵器等、積荷を限定せずその時に応じて兵員や包装した食糧、ドラム缶入りの燃料等、何でも運ぶものを雑用運送艦と称する。木俣滋郎『残存帝国艦艇』251頁。
  22. ^ 昭和15年2月20日付 海軍内令第120号。
  23. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』71頁。
  24. ^ 明治38年8月10日付 海軍大臣官房 官房第3040号。
  25. ^ 昭和15年6月4日付 海軍内令第383号。
  26. ^ 前任は「神通」副長
  27. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』39頁。
  28. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』46-48頁。
  29. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』73-74頁。
  30. ^ 昭和15年6月4日付 海軍公報 (部内限) 第3518号 「艦船所在 6月4日午前10時調」、および昭和15年6月5日付 海軍公報 (部内限) 第3519号 「艦船所在 6月5日午前10時調」。
  31. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』56頁。
  32. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』88-89頁。
  33. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』90頁。
  34. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』95頁。
  35. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』100頁。
  36. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』108頁。
  37. ^ a b わが海の故里-回想 宗谷 第一章-幸運の船-22頁。
  38. ^ 前任は「国後」艦長
  39. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』112頁。
  40. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』120頁。
  41. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』124頁。
  42. ^ わが海の故里-回想 宗谷 第一章-幸運の船-28頁。
  43. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』126頁。
  44. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』128頁。
  45. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』131頁。
  46. ^ わが海の故里-回想 宗谷 第一章-幸運の船-30頁。
  47. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』144-144頁。
  48. ^ 桜林美佐『奇跡の船宗谷』49頁。
  49. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』149-150頁。
  50. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』120頁。
  51. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』121頁。
  52. ^ 前任は第三十四駆逐隊司令
  53. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』172頁。
  54. ^ この時期の第二十四駆逐隊には他に朝潮型駆逐艦満潮が所属
  55. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』174-175頁。
  56. ^ 深夜パラオへ向かう途中、との元乗組員の証言あり。座礁した後、爆雷20発を放棄
  57. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』142-143頁。
  58. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』184頁。
  59. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』146頁。
  60. ^ 天谷大佐更迭後、福島一男大尉が艦長を代理したと元乗組員の証言有り、大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』188-190頁。
  61. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』162頁。
  62. ^ #昭和18年12月~11水戦日誌(3)p.18『26日/1300宗谷缶故障続行不能、巨済、那智丸(特砲艦)ヲ對シ父島ニ直行セシム(28日1230着)』
  63. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』194-195頁。
  64. ^ 護衛した駆逐艦は雪風との第四梯団輸送指揮官だった山本陸軍大尉の証言がある。
  65. ^ 姉妹船の天領丸とは最初で最後の行動となった。
  66. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』195-198頁。
  67. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』201頁。
  68. ^ a b MDLニュース サヨナラ宗谷 カメラレポート宗谷の遍歴。
  69. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』198-200頁。
  70. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』203-204頁。
  71. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』208-210頁。
  72. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』166頁。
  73. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』171頁。
  74. ^ 入港と同時に海軍工廠より修理担当官が来船し最優先で修理がおこなわれた。石炭貴重な存在になっていた。
  75. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』174頁。
  76. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』222頁。
  77. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』222-223頁。
  78. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』236頁。
  79. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』248-250頁。
  80. ^ 昭和15年4月24日付 海軍辞令公報 (部内限) 第469号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072077900 で閲覧可能。
  81. ^ a b 昭和15年6月4日付 海軍辞令公報 (部内限) 第488号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072078200 で閲覧可能。
  82. ^ 昭和20年12月20日付 第二復員省 内令第12号
  83. ^ a b 昭和15年10月25日付 海軍辞令公報 (部内限) 第547号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072079200< で閲覧可能。
  84. ^ a b 昭和16年8月11日付 海軍辞令公報 (部内限) 第688号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072081700 で閲覧可能。
  85. ^ a b 昭和18年4月26日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1102号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072090700 で閲覧可能。
  86. ^ 昭和19年2月28日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1348号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072096000 で閲覧可能。
  87. ^ 昭和19年5月31日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1491号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072098900 で閲覧可能。
  88. ^ 昭和19年8月22日付 秘海軍辞令公報 甲 第1571号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072100600 で閲覧可能。
  89. ^ 昭和20年2月26日付 秘海軍辞令公報 甲 第1731号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072103500 で閲覧可能。
  90. ^ a b 昭和21年3月9日付 第二復員省辞令公報 甲 第79号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072158700 で閲覧可能。
  91. ^ a b 昭和21年6月7日付 第二復員省辞令公報 甲 第152号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072159300 で閲覧可能。
  92. ^ 海人社[世界の艦船]1983年2月号 94項。
  93. ^ 正式命名は12月1日
  94. ^ 土井艦長と宗子さんは宗谷退役時に再会することになる。
  95. ^ 艦艇から船にこれ以降、青函連絡船宗谷丸と誤解されるようになる
  96. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』278-280頁。
  97. ^ [世界の艦船]2003年7月増刊 194項。
  98. ^ 元ロシアの客船アルグン号、日露戦争の最中拿捕され羅州丸と改名、1904年5月から1945年3月に戦没するまで灯台視察船として従事。
  99. ^ 川嶋康夫『奇跡の船・宗谷物語』53-54頁。
  100. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』288-291頁。
  101. ^ 海上保安庁『船艇航空機整備の歩み』506頁。
  102. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』353頁。
  103. ^ この号鐘は現在、広島の海上保安大学校史料館にて保存されている。
  104. ^ 一般的に南極観測船として知られる本船だが、海上保安庁での扱いは大型巡視船だった
  105. ^ 当時灯台部長だった土井智喜は解任式の最後に灯台を廻り馴染みしわが船の南極へ航く栄を祝わんと和歌を一首詠んだ
  106. ^ 現在はコットンハーバーに跡地がある
  107. ^ 改造費用四億六千七百三十万円、そのうち七千万は若草購入費『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』353頁。
  108. ^ 日本鋼管は後に砕氷艦ふじしらせ(初代)しらせ(2代)砕氷型巡視船PLH01そうやPM15てしおを建造する。
  109. ^ 片舷110度傾いても転覆することなく必ず復原するように設計『南極観測船「宗谷」航海記』184頁。
  110. ^ 海鷹丸は10月28日に出港、海洋調査を行った後、ケープタウンで合流
  111. ^ 元鵜来型海防艦の新南
  112. ^ 船の科学館『資料ガイド3宗谷』37頁。
  113. ^ 宗谷の強運の拠り所とされていた「宗谷神社」だがGHQに接収された時撤去されていた。大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』409-412頁。
  114. ^ 宗谷の艦内神社には富士山本宮浅間大社の浅間大神が祀られておりこれは、ふじ、新旧しらせに受け継がれた。
  115. ^ 別名、不夜城宗谷と呼ばれていた『昭和基地物語』71頁。
  116. ^ 『南極観測船「宗谷」航海記』190頁。
  117. ^ 現在は「大利根水道」として親しまれている。
  118. ^ 小島敏男『南極観測船ものがたり』81-82頁
  119. ^ 1956年(昭和31年)10月16日郵政省告示第1131号「プリンスハラルド宗谷船内郵便局を設置する件」
  120. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』421頁。
  121. ^ 『南極観測船「宗谷」航海記』183頁。
  122. ^ ケープタウン寄港中、オビ号が寄港、両船の船長と隊長は相互訪問行った。
  123. ^ 元鵜来型海防艦鵜来
  124. ^ 船の科学館『資料ガイド3宗谷』40頁
  125. ^ アメリカのグレイシャー、ウェスト・ウインド、ベルギーのポーラハブ、ポーラシルケル、オーストラリアのサラダン
  126. ^ 南極物語『タロジロは生きていた』226頁
  127. ^ 復原能力はさがった、当時放送されていた月光仮面第3部マンモスコング編の背景に試運転中の宗谷が偶然写り込んでいるシーンが有る
  128. ^ 106、107号と名付けられた
  129. ^ 201、202号と名付けられた
  130. ^ a b 南極25年史 295頁。
  131. ^ 船の科学館『資料ガイド3宗谷』42頁
  132. ^ 南極六年史 297頁
  133. ^ 小島敏男『南極観測船ものがたり』104-105頁。
  134. ^ 船の科学館『資料ガイド3宗谷』43頁
  135. ^ 宗谷の船底部は建造当初の二重張りで強固な耐氷策が取り入られて堪航性は十分と判断され経費節約上この部分は補強工事対象外とされた『南極観測船「宗谷」航海記』93頁。
  136. ^ 日本経済新聞 夕刊 1961年5月1日
  137. ^ 日本経済新聞 夕刊 1961年5月2日
  138. ^ 302号と名付けられた
  139. ^ 海洋生物の資源調査は海鷹丸が別行動で担当することになった。
  140. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』456-458頁。
  141. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』458頁。
  142. ^ 当時の日赤にもない最新の医療設備が調っていたと村田医師は証言した。わが海の故里-回想 宗谷 第五章-東奔西走-162頁。
  143. ^ 衰弱した患者に輸血が必要だったが、あいにくと輸血用の血液を持ってきてなかったが乗組員数名が献血を名乗りでで輸血することができた。
  144. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』458-461頁。
  145. ^ a b c わが海の故里-回想 宗谷-有安記- 171頁。
  146. ^ a b c わが海の故里-回想 宗谷 第五章-東奔西走-151-156頁。
  147. ^ 木俣滋郎『残存帝国艦艇』256頁。
  148. ^ a b わが海の故里-回想 宗谷 -有安記-178頁。
  149. ^ 小島敏男『南極観測船ものがたり』124頁
  150. ^ a b 森仁 写真集北の巡視船 17頁
  151. ^ 朝日新聞 1965年10月26日。
  152. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』468頁。
  153. ^ 朝日新聞-1972年3月8日。
  154. ^ わが海の故里-回想 宗谷 40年-有安記
  155. ^ 毎日新聞-1978年9月1日
  156. ^ 北海道新聞-1978年3月23日
  157. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』473頁。
  158. ^ 同日そうやが日本鋼管鶴見造船所にて進水
  159. ^ わが海の故里-回想 宗谷 40年-有安記-182頁
  160. ^ わが海の故里-回想 宗谷 40年-有安記-184頁。
  161. ^ 艨艟幾百敗れて姿消し、宗谷僅かに残って解役の悲み、吾希う永存三笠に準じ、栄光朽ちず極南のほとり 解役式にて詠まれた詩。わが海の故里-回想 宗谷 40年 48頁。
  162. ^ 船の科学館『資料ガイド3宗谷』45頁
  163. ^ 「“宗谷”保存募金」の活用報告について 船の科学館 2015年3月21日閲覧
  164. ^ 初代南極観測船“宗谷”の整備工事に伴う見学休止について(平成26年12月1日~平成27年1月3日) 船の科学館 2015年3月21日閲覧
  165. ^ 若井登・小口高 『14人と5匹の越冬隊』5項
  166. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』462頁。
  167. ^ ジャーナリストとして歩んだ道  柴田鉄治 第6回■南極帰りのタロと観測船「宗谷」 朝日新聞北海道旧友会会報 2015年3月21日閲覧

参考文献[編集]

  • アルバム「写真で見る『宗谷』の生涯」 海人社世界の艦船』1983年2月号 No.318 pp.45–49
  • 伊東直一「「宗谷」一代記」 海人社『世界の艦船』1983年2月号 No.318 pp.92–97
  • 川嶋康夫『奇跡の船・宗谷物語』 (あすなろ書房、1994年)ISBN 4751512315
  • 小島敏男『南極観測船ものがたり』(成山堂、2005年)ISBN 4425947118
  • 桜林美佐『奇跡の船「宗谷」 昭和を走り続けた海の守り神』(並木書房、2006年) ISBN 4890632069
  • 飯沼一雄「「宗谷」誕生秘話 封印された松尾造船所問題 上・下」 海人社『世界の艦船』2006年11月号 No.666 pp150–155・2006年12月号 No.667 pp.150–155
  • アルバム「あれから50年 昭和31年10月 南極観測船に改造直後の「宗谷」」 海人社『世界の艦船』2006年11月号 No.666 pp.48–51
  • 「巻頭特集・南極物語 観測船「宗谷」が目指した極限の大地」 大日本絵画『モデルグラフィックス』2007年3月号 No.268
  • 「特別記事・南極観測船「宗谷」」 モデルアート社『モデルアート』2007年3月号 No.721
  • 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』(新潮社、2009年)ISBN 4103904070
  • 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』文庫版(新潮社、2011年改題)ISBN 9784101332222
  • 船の科学館『資料ガイド3宗谷』(日本海事科学振興財団、2012年改訂)
  • PLHのルーツ南極観測船宗谷を回顧する 海人社『世界の艦船』2012年7月号No.762 pp.109–115
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • わが海の故里-回想 宗谷 40年-宗谷記念会、1984年
  • 毎日新聞社別冊『一億人の昭和史・昭和船舶史』第23号「地領丸(宗谷)で北千島へ」 1980年5月 pp.214–219
  • 福島博『昭和基地物語』(あかね書房、1985年改訂)
  • 南極六年史(文部省、1963年)
  • 南極観測二十五年史(文部省、1982年)
  • MDLニュース サヨナラ宗谷 1978年10月
  • 南極OB会編集委員会 南極観測船「宗谷」航海記 航海・機関・輸送の実録(成山堂、2014年)ISBN 9784425948314
  • 赤井謙一『世界の砕氷船』(成山堂、2010年)ISBN 978-4-425-77171-4
  • 森仁 『写真集北の巡視船』 1978年
  • 木俣滋郎『残存帝国艦艇』図書出版 1972年 pp251–257
  • 海上保安庁『船艇航空機整備の歩み』1990年
  • 宗谷を偲ぶ会『宗谷の想いで』1987年
  • 日本極地研究振興会『南極裏方余話』1983年
  • 永田武 『南極観測事始め』1992年
  • 若井登・小口高 『14人と5匹の越冬隊』(南極観測第3次越冬隊、2008年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度37分11秒 東経139度46分24秒 / 北緯35.619726度 東経139.773246度 / 35.619726; 139.773246 (宗谷)