宗谷 (船)

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船の科学館に展示される宗谷
艦歴
発注 ソビエト連邦
起工 1936年10月31日
進水 1938年02月16日
竣工 1938年06月10日
退役 1978年10月02日
戦歴 潜水艦2隻撃退
戦闘機撃墜1
その後 記念船として船の科学館で公開
性能諸元
排水量 2224.1トン(地領丸)[1]
全長 82.3m(地領丸)[1]
全幅 12.8m(地領丸)[1]
平均吃水 5.8m(特務艦)[1]
機関 1450馬力スクリュー1軸(地領丸)[1]
最大速 12.4ノット(地領丸)[1]
航続距離 5.000海里(8.5ノット)(特務艦)[1]
乗員 67人(灯台補給船)[1]
その他 ロイド船級100A型1耐氷構造 

(地領丸)[2]

宗谷(そうや、Japan Coast Guard、[3]船番号: PL107)は、日本砕氷船である。日本海軍では特務艦海上保安庁では灯台補給船、巡視船として服務した。日本における初代南極観測船にして、現存する数少ない(見方によっては唯一の)旧帝国海軍艦船である。現在でも船籍を有しており、船舶法の適用対象で、必要であれば(もやい)を解いて航行できる。現在も海上保安庁特殊救難隊の訓練施設として使用されている。船名は北海道北部の宗谷岬樺太の間にある宗谷海峡にちなんで名づけられた。
後継船は若草、ふじPLH01そうや

歴史[編集]

商船[編集]

1936年昭和11年)9月18日川南工業株式会社香焼島造船所はソビエト連邦通商代表部より、耐氷型貨物船3隻の発注を受けた[4]。これはソ連から北満鉄路を買収した契約の一部であった[5]12月7日 、耐氷型貨物船第107番船として川南工業株式会社香焼島造船所(長崎県)にて起工。1938年(昭和13年)2月16日、川南工業社長の長女 川南幸子の手によってソ連船ボロチャエベツ(Bolochaevets)として進水。[6]姉妹船ボルシェビキ(Bolshevik)1937年(昭和12年)8月10日にコムソモーレツ(Komsomolets)は1937年、昭和12年10月20日にそれぞれ進水していた。しかし、第二次世界大戦直前の情勢に鑑み、ソ連への引渡はなされず商船地領丸として竣工した。同じ様にボルシェビキは「天領丸」、コムソモーレツは「民領丸」となった。なお3隻はロイド船級協会の規格に沿った性能であることが求められたが、1938年(昭和13年)2月10日、一番船ボルシェビキをロイド船級協会極東主任検査官立会いのもとで公試運転したところ、性能が規定値に満たず不合格となった[7]

本船と姉妹船はソ連向けに建造された耐氷能力と、当時としては珍しい最新鋭のイギリス製音響測探儀(ソナー)が装備されていた民間貨物船だったため、大日本帝国海軍の興味を引いていた[8]。時勢を睨み測量業務ができ、なおかつ大量輸送能力を持つ船を捜していたのである。だが本船はソ連との契約問題がこじれたため直接日本海軍には就役せず、民間会社の貨物船として運行した[9]。 1938年7月15日、日清汽船にチャーターされ、大連を基地にして天津、青島、上海を17日から18日のローテーションで往復。積荷は主に雑貨だったが、季節によって林檎、肉、栗などを積んだ。1939年3月20日に契約終了。同日香焼島のドッグに入り改装。1939年5月7日、栗林汽船にチャーターされファンネルマークは円の中に漢数字の「七」、函館を基地として占守島西岸にある蟹工場を結ぶ航路に就いた[10]。行きは蟹工場で必要とされる機材や資材、さらに加工場で働く女工も運び、帰りは蟹、鮭、鱒、缶詰などの水産加工物を満載し函館を往復した。[11]5月下旬、占守島から製品を積んで抜錨したが千鳥列島から北海道全域を覆う濃霧に見舞われたが一般の貨物船にはない音響測探儀を備え船底から発した音波が海底から跳ね返ってくる時間差によって水深を測定し測深鉛で確認しながら北海道を西に迂回し難を逃れた[12][13]
10月、栗林商船の大連航路を最後にチャーターが解け辰南汽船の朝鮮航路についた[14]。12月10日、地領丸は横須賀に入港して商船としての航海を終えた[15]
商船としての最後の経歴は川南工業が1939年4月に設立した辰南汽船に所属していた。この間日本の戦略方針が南方対米重視となったこともあり3隻を海軍へ売却する計画は消え1隻のみが売却されることとなった。
姉妹船の天領丸は1941年10月頃に陸軍に徴傭、民領丸は1941年2月頃に陸軍に徴傭され4月23日に工作船に改装された[16]

特務艦[編集]

1939年(昭和14年)11月に買い上げが決まり。12月、日本海軍は227万5000円を購入費として計上した。12月20日、地領丸は東京石川島造船所深川第一工場のドックに回航して地領丸の乗組員は下船した。
1940年(昭和15年)2月20日、「宗谷」と命名され[17]、同日付で特務艦に編入、運送艦に類別された[18]。この日を正式購入日とする説がある。[19]
宗谷の名は海軍艦名としては二代目。初代はロシアの巡洋艦ヴァリャーグで、こちらは日露戦争で沈没後、日本が浮場整備して「宗谷」と命名(こちらも本記事の宗谷と同じく、艦名は宗谷海峡が由来[20])し艦籍に編入された。 石川島造船所にて、8cm単装高角砲1門、25mm連装機銃、測探儀室、測量作業室増設などの改装を行う。6月4日特務艦として改装工事完了し、横須賀鎮守府籍[21]となる。海軍は老朽化した砕氷艦「大泊」の不足を補う役目を本艦に期待し、砕氷艦としては新鋭砕氷艦ができるまでの繋ぎとして千島・樺太など北洋水域の後方補給・物資輸送および同海域強行測量艦として運用するつもりだった。初代特務艦長は山田雄二中佐[22]。塗装は灰色だった。 12月20日、ソ連通商部は東京民事裁判所に提訴し、前払い建造費の返還と違約金の支払いを求めた[23]。本船の購入問題はソ連政府がモスクワ駐在大使東郷茂徳に解決をせまるほどの大問題に発展する。[24]裁判中にノモンハン事件が発生している。結局、裁判は1941年1月にソ連政府と建川美次大使との交渉で政治決着した。[25]

6月4日、宗谷は長浦港のドックを出て横須賀に向かった[26][27]横須賀鎮守府部隊付属となる。最初の任務は北樺太の調査だった。10月11日、紀元二千六百年特別観艦式に拝観艦の一隻として参加。(番外列13隻のうち9番目)[28]10月22日、新艦長松本亀太郎中佐が着任。 11月12日、測量、気象、海象観測任務のためサイパン島に赴く。[29]12月16日測量を終え横須賀に向けて出航[30]1941年(昭和16年)2月8日再びサイパンに赴き3月末まで調査を続けて横須賀に帰還。[31]5月7日ポナペに向けて出港した。 5月24日、コロニアに基地を置きポナペとトラック島の間を測量をおこない[32]7月30日トラック島へ戻った。 8月26日、サイパンにて久保田智中佐が艦長が着任。[33](海軍辞令公報では8月11日付)その後、東カロリン諸島、トラック諸島、ポナペ島の測量をおこない。11月1日サイパンを出港、11月13日横須賀帰港し入渠した。[34] 1941年12月8日、横須賀で日米開戦の報を受ける。12月29日輸送物資を満載した宗谷はトラック島向けて抜錨した。

1942年(昭和17年)1月11日夏島トラック泊地で輸送物資の荷揚げ。17日第四艦隊に編入され[35]19日日本へ向けて出港し、29日横須賀に入港してドッグ入り。2月2日出渠と同時に第四艦隊に搬送する物資や測量班員を乗せ14日出港した。24日トラック島到着。28日ポナペ経由でラバウルに向かった。 3月8日ラバウル到着[36]10日から湾内の測量に着手した。 22日マッサバ掃蕩作戦に参加この時、第八特別根拠地隊司令官・金沢正夫中将が座乗したため宗谷に初めて将官旗が掲げられた。そして宗谷は測量艇を用いて水源地を確保した。[37]28日、八特根陸上警備隊を乗せた宗谷は、駆逐艦睦月弥生卯月とともにショートランド島へ向かった。30日午前4時、ショートランド泊地に到着し陸戦隊を上陸させ通信機器を揚陸して通信所を仮設した後、水路測量に取り掛かった直後、双発の飛行艇に襲撃されるが駆逐隊が応戦し撃退した。同日午後4時キエタに向かった。31日午前1時、ブーゲンビル島東側キエタ港に進入、艦内からも陸戦部隊を編制し部隊はキエタ街に突入した、街はもぬけの殻だったので無血上陸に成功。午前7時、作戦完了した宗谷はラバウルに引き返した[38]。 4月6日、13ミリ機銃2基増設、7日、陸戦隊と大発を搭載しラバウルを出港。8日早朝、タラシー湾に進入、陸戦隊を揚陸させ無血上陸に成功。その日内にダンピール海峡の水路調査に向かった。[39]15日デュークオブヨーク島に向けてラバウルを出港。23日、測量中に敵双発機に襲撃されるも被害なし。またこの日、ラバウル方面の防備隊に編制され、24日以降はMO作戦の準備に入った。
5月6日、13ミリ機銃1基増設、5月17日、13ミリ機銃1基陸揚した後、ミッドウェー海戦参加のため第四艦隊を離れ集合地のサイパンに向けラバウルを発した。5月25日第二水雷戦隊の指揮下にはいり、翌日単独でサイパン発、6月4日にはミッドウェー島北西500海里でB-17九機と交戦も被害なし。 6月6日、機動部隊全滅の報を一番早く傍受して、ウェーク島へ転針・待機。6月13日ポナペに撤収し、宗谷のMI作戦は終了した。[40]
6月19日、第四艦隊に復帰命令を受けポナペからトラック島に移動し、21日にラバウル方面防備部隊測量部隊に再編入された後、カビエンとニューハノーバー島の間に散在する小島とステファン、バイロン両海峡の測量と航路浮標の設置の任務に就いた。
8月、ラバウルに移動し第八艦隊に所属する。8月7日、海兵隊第1海兵師団がガダルカナル島に上陸し、「ガダルカナル島の戦い」が始まる。敷設艦津軽、明陽丸(5628 t)、第二十一号掃海艇、各艦に分乗する海軍陸戦隊と共に宗谷はフロリダ諸島の戦いで占領されたツラギ島奪還に向かった。8月8日、米潜水艦「S-38」(SS-143)の雷撃で明陽丸が大破、翌朝沈没。作戦中止命令が出され、宗谷はラバウルを経てトラック基地に戻った。同日、三川軍一中将率いる巡洋艦部隊が米軍艦隊に突入して第一次ソロモン海戦が発生するが、宗谷以下陸戦隊輸送船団が後退していたため、当初のツラギ奪還任務は果たせなかった。 8月18日、横須賀帰還命令を受け翌19日、日本へ向けて出港。28日、横須賀到着。この日、初代特務艦長・山田雄二大佐が第二十駆逐隊指令としてガダルカナル島に向かう途中爆撃機に急襲され戦死した[41]。 9月14日、夕張と共に横須賀からラバウルへむけて出港した。10月5日ラバウルからブインに着任。第三次ソロモン海戦に備えソロモン諸島北部の港湾測量、掃海、錘量浮標の設置を行った[42]。 12月27日、ブインを出て翌日ブカ島クイーンカロライン港に到着。翌年1月1~31日にかけて港付近の測量、掃海、錘量浮標の設置、海図の設計、ブカ島の滑走路に航空隊を導入の為の下地作りをおこなった。

1943年(昭和18年)1月28日ブカ島クイーンカロライン沖で測量海図の仕上げの最中の午前6時55分、敵潜水艦から発射された魚雷4本のうち1本が右舷後方に命中するも、幸運にも不発弾であったため難を逃れた。護衛の第二十八号駆潜艇と共に爆雷を投下し、この潜水艦を撃沈した。[43]ただし、米軍の記録では該当する潜水艦の喪失記録はない。宗谷が爆雷を投下したという証言もあるが、宗谷が爆雷を搭載したのは横須賀に戻ってからという証言もある。[44]米潜水艦「グリーンリング」の記録では1月18日、南緯02度04分 東経150度37分 / 南緯2.067度 東経150.617度 / -2.067; 150.617の地点で宗谷撃破となっているがこの時期宗谷はブカ島クイーンカロライン近辺で測量などをおこなっていた。
4月26日、ラバウルにて艦長が天谷嘉重大佐に交代[45]。久保田大佐は横須賀鎮守府付となって退艦した。 4月28日ラバウルを出発し水路測量のためサンタイサベル島に赴いた。30日到着し測量任務を開始した直後、翼を休めていた敵飛行艇と遭遇、撃ち合った後、敵飛行艇は飛び去った。5月5日B-24と交戦、12分間の戦闘の間に、高角砲19発、20ミリ機銃120発、13ミリ機銃480発、7.7ミリ機銃138発の弾丸を撃ったが撃墜には至らなかった。機銃掃射と至近弾により測距儀を故障し二名の負傷者がでた。その日の夜カビエンに向けてイサベル泊地をあとにした。 5月23日、午前2時24分カビエンの港にて敵機の襲撃うけた、至近弾の爆発の震動によって「九〇式一型改一転輪羅針儀(ジャイロコンパス)」と「音響測探儀」が故障し横須賀に修理に戻ることになった。6月3日カビエンを出港し、トラック島に六泊したあとサイパンに寄港し、6月24日に横須賀に帰港した。 7月19日横須賀を出港し、7月29日にトラック泊地に到着。8月6日、駆逐艦夕月と第二十八号駆潜艇を護衛艦に、朝風丸、山霧丸、北開丸を率いてラバウルへ出発した。 9月27日輸送船団を率いてラバウルを出港、10月2日にトラック島に到着。10月8日数隻の大発を搭載し上陸部隊を乗せマーシャル諸島クェゼリンに向かった。10月13日早朝、クェゼリンを目前に米潜水艦「シードラゴン」から雷撃をうけるも被害なし、午前9時クェゼリンに到着した宗谷は陸軍部隊が移乗した大発を見送ると、夕方にルオットへ移動した。[46]

1944年(昭和19年)1月初旬、燃料や食料の補給のためクェゼリンに向けて出港の用意をしていると前艦長久保田智・第二十四駆逐隊司令が来訪「クェゼリンは食料が不足してる」と忠告されトラック島に針路をかえた。
1月14日、久保田司令率いる第二十四駆逐隊の駆逐艦海風涼風[47]の護衛を受けてブラウン島を出港、18日にトラック島に入港した。[48]2月1日第八艦隊から連合艦隊付属に編入。
2月14日、姉妹船「民領丸」が米潜水艦「フラッシャー」に撃沈された。トラック島空襲では2月17日、回避行動中に座礁し、[49][50]翌18日には空襲で米軍機1機を撃墜するも測探儀と20mm機銃が大破、副艦長を含む9名が戦死し、天谷艦長も重傷を負い、福島大尉が指揮官を代行し機密書類を焼却した後、総員退艦命令を出した。[51] 翌19日、潮が満ちて宗谷は自然離礁し、漂流しているところを様子を見に来た乗組員が発見し、仰天した乗組員は再び艦に乗り込んだ。[52]
こうして宗谷は奇跡的に脱出に成功するが、当時の艦長 天谷嘉重大佐は艦放棄の責任をとわれ2月28日更迭、1944年(昭和19年)12月16日に拳銃自殺した。[53]

3月17日トラック泊地を出港、サイパンで東松第二船団と合流、ボイラーの故障により途中で船団を離脱、[54]28日小笠原諸島父島の二見港に到着、応急修理を施し4月4日二見港を出港。4月7日横須賀に帰還。 9日、日本鋼管浅野ドッグ入りし測量艦から輸送艦に改装され測探儀や観測機器を撤去し、25mm機銃を4機増設、円管から海軍制式の水管缶の交換をおこない、22日出渠[55] 5月7日戦車第十一連隊第四梯団を乗せた天領丸と大湊で合流し駆逐艦雪風とともに護衛し5月15日幌筵島に到着。[56][57][58]5月25日横須賀に帰着、これ以降ボイラーの不調になやまされ修理と試運転を翌年の2月まで繰りかえす。
5月30日、志和彪大佐が艦長就任。8月20日、志和彪大佐横須賀にて退艦。8月28日、電波探信儀搭載。[59]

8月18日、第三代艦長、久保田智大佐が軽巡名取にてパラオに緊急輸送任務の途中、敵潜水艦の雷撃をうけ艦と運命をともにした。[60]
久保田智大佐は1月25日に涼風、2月1日に海風を失い2月10日に満潮だけになった第二十四駆逐隊を解隊された後、3月18日に軽巡名取の艦長に着任していた。

9月21日、第五代艦長、志和彪大佐は特務艦勝力にてマニラに向かう途中、敵潜水艦の雷撃をうけ艦と運命をともにした。[61]

1945年(昭和20年)1月20日、横須賀鎮守府付属の雑用艦に配置換え、2月輸送任務に復帰、「特攻輸送艦」として2月27日軍事物資を積み横須賀を出港。3月2日室蘭に到着、3月4日、山内正規大佐が艦長就任。このあと物資を荷揚げして石炭などを搭載。青森県八戸に石炭を運んで室蘭に戻り、石炭を満載して横須賀に帰ったのは3月23日だった。これをもって第一次輸送任務完了[62]。3月25日第二次輸送任についた。5月29日、姉妹船「天領丸」が米潜水艦「スターレット」に撃沈された。[63]天領丸が海に消えた日、宗谷は第四次輸送任務おえて横須賀軍港にいた。6月19日、第五次輸送任務完了。6月24日、物資を積み満州にむけて神津丸、永観丸連れて横須賀を出港。同日午後、海防艦四坂、第五十一号駆潜艇と横須賀沖で合流し護衛についた。25日、第三十三号掃海艇が護衛に加わる、26日、宗谷は第126船団(神津丸、永観丸、海防艦四坂、第五十一号駆潜艇、第三十三号掃海艇)と大湊警備府第九〇三海軍航空隊の九〇三空の水上機隊の航空支援を受けて船越湾大釜崎沖を航行中、米潜水艦「パーチー」からの雷撃で神津丸が轟沈、永観丸が被雷沈没。宗谷と護衛艦は爆雷で反撃し、パーチーに損害を与えて撃退した。[64]
7月27日、横須賀に帰港し第六次輸送任務完了その後ドッグ入り。8月2日、横須賀でドック入りしている時、戦艦長門、病院船氷川丸と共に空襲を受ける。敵機が投下したガソリンタンク(増槽)が宗谷の機関室に飛び込んできたが、整備を終えたばかりでボイラーに火を入れていなかったため爆発しなかった。[65]
翌日の3日、横須賀鎮守府の避退指令を受けた宗谷は標的艦大浜を伴い女川に向かった。4日女川に到着、6日の夕方、大浜を置いて第七次輸送任務のため室蘭に向けて単艦で出港した。 7日早朝、敵機動部隊に接近されるが霧が濃くなり、その霧に包まれた宗谷は八戸港に逃げきることに成功。この霧は乗組員に神の衣と呼ばれた。[66]この敵機動部隊はこのあと女川港を空襲、港に残った大浜は攻撃を受けて着底。 8日早朝、八戸を出港、同日午後室蘭に到着し、8月15日室蘭港で防空訓練中に終戦をむかえた。[67] 8月17日石炭を積んで室蘭を出港、八戸港を経由して21日横浜湾に到着、台風の影響により横須賀港に入ったのは24日の午後4時だった。同日第七次輸送任務を終了。29日軍艦旗を降ろし、30日引き渡しを終了。山内艦長以下全員退艦。[68]9月5日に除籍された。

艦長[編集]

艤装員長
  • 山田雄二 中佐:1940年4月24日[69] - 1940年6月4日[70]
特務艦長

(注)1945年12月20日以降は「艦長」[71]

  • 山田雄二 中佐:1940年6月4日[70] - 1940年10月22日[72]
  • 松本亀太郎 中佐:1940年10月22日[72] - 1941年8月11日[73]
  • 久保田智 中佐:1941年8月11日[73] - 1943年4月26日[74]
  • 天谷嘉重 大佐:1943年4月26日[74] - 1944年2月28日[75]、以後1944年5月30日まで艦長を置かず。[76]
  • 志和彪 大佐:1944年5月30日[77] - 1944年8月20日[78]、以後1945年2月18日まで艦長を置かず。
  • 山内正規 大佐/第二復員官:1945年2月18日[79] - 1946年2月13日[80]
  • 土井申二 第二復員官/第二復員事務官:1946年2月13日[80] - 1946年6月1日[81]
  • 田上明次 第二復員事務官/復員事務官:1946年6月1日[81] -

引揚船(S119)[編集]

終戦後、1945年10月1日宗谷は同日付でGHQから大蔵省に返還され、日本商船管理局に所属するSCAJAP番号S-119が与えられ特別輸送艦S119となった。[82]
このとき宗谷丸と改名されたが艦名表記は宗谷のままだった。 10月7日ヤップ島復員任務のため浦賀発。同月24日に帰還。11月20日にはグアム、トラック方面復員任務のため浦賀発。12月12日に大竹で揚陸後、呉に移動した。 12月26日上海方面復員任務のため呉発。以後、台湾、ベトナムのサイゴン、葫蘆(コロ)島からの復員任務に従事した。
1946年3月23日、台湾の高雄からの引揚者輸送中船内で女児誕生。名付け親になった船長は宗谷の一字をとって宗子(もとこ)と名付けた。
1946年8月31日付で船主が大蔵省から民間組織の船舶運営会に移籍され特別輸送艦から民間組織の引揚船になった。[83]
1947年から1948年にかけては、大連、朝鮮、樺太からの引揚輸送に従事した。1948年11月に引揚任務を終了するまでに運んだ引揚者の総数は、19,000名以上にも達した。

灯台補給船そうや(LL-01)[編集]

1948年(昭和23年)11月の引揚任務終了後、宗谷丸は商船風に外見を改め小樽に係船され樺太引揚業務の再開に備え少数の要員が保管にあたっていた。1949年(昭和24年)8月1日、宗谷はGHQより正式に帰還業務を解かれた。8月13日に来訪した海上保安庁の係官により調査された宗谷は使用可能と判断された。当初海上保安庁水路測量船として使用する予定だったが、民間からチャーターし灯台補給船として使用していた第十八日正丸を船主から解傭を求められ返還するに伴い急遽、灯台補給船の代船が必要になり候補船になった。候補船になったもう一隻は青函連絡船宗谷丸であり、砕氷能力もあり適当と考えられてたが、GHQが求める設標船として測量艇のデリックを備えた宗谷のほうが好都合だったため宗谷に決まった。[84]このとき同名船2隻を候補としたため、宗谷に再改名することになった。 11月に小樽より東京港竹芝桟橋沖に回航された宗谷は12月12日付で海上保安庁へ移籍した。石川島重工業で改装工事に着手、ソナーを撤去、売店を設置、海軍制式の水管缶から円管に換装、真っ白に塗り替えられ、五代目灯台補給船「羅州丸」の号鐘を継承した。[85]
1950年(昭和25年)4月1日に改装を終えた宗谷は七代目灯台補給船(LL-01)となった。
この頃、灯台を回る一年間のコースは、東京港竹芝桟橋沖を母港とし春は本州を一周、夏は宗谷岬など北海道中心、秋は九州本土、南西諸島、冬は瀬戸内海の島々と四国地方を巡った。[86]
1952年(昭和27年)6月頃、改装され航海用レーダー設置、SCAJAP番号廃止、船名をひらがな表記にした。

灯台補給船時代の特殊な任務に奄美群島現金輸送がある。1953年(昭和28年)12月15日、同年度第三次補給航海を終えて門司港に入った宗谷に鹿児島港回航の命令がでた。アメリカ統治下にあった奄美群島が1953年12月25日に日本に返還されることになり、それにともなう約9億円の現金と通貨交換業務要員の輸送をするというものであり。当時、海上保安庁最大の船だった宗谷が指名された。12月20日深夜、鹿児島を発した宗谷は21日名瀬に入港、各島を回り、25日に名瀬に帰港。27日には「日本復帰祝賀式典」に出席した国務大臣一行を乗せ、28日に鹿児島に戻った。明けて、1954年1月3日、再び名瀬に向かい、各島で米軍統治時代の軍票を回収し、通貨交換業務要員を乗せ、1月9日に鹿児島に帰還した。[87]

1950年4月20日~6月6日、第一次補給航海を実施した宗谷は南極観測船転用のため灯台補給船を解役されるまでの5年半この任にあたった。宗谷は灯台守からは就役直後は「燈台の白姫」、晩年は「海のサンタクロース」と呼ばれ親しまれていた。当時大ヒットした映画喜びも悲しみも幾歳月には白く塗られた灯台補給船時代の宗谷が登場する。
1955年12月26日、後継船として大阪商船若草丸が購入され八代目灯台補給船「若草」として灯台補給船の任務と号鐘を継承した。[88] [89]

南極観測船宗谷 SÔYA(PL107)[編集]

南極への航路

1957年(昭和32年)7月1日から1958年(昭和33年)12月31日に開催される国際地球観測年(International Geophysical Year、略称:IGY)にあわせて、日本は南極観測を行うことにし、1955年(昭和30年)7月に開催された第1回南極会議に文書で南極観測参加の意志を伝えた。それに伴い南極観測を行うこととなり、砕氷船が必要となった。国鉄宗谷丸などの候補が選定され、砕氷能力や船体のキャパシティは宗谷丸のほうが勝っていたが、改造予算の問題や耐氷構造、船運の強さ(魚雷を被弾するも不発弾等)を買われ、宗谷が選定される。 1955年11月24日~12月12日には三菱日本重工横浜造船所のドックで総点検が実施された。 12月24日に灯台補給船としての解任式が行われ、同日をもって巡視船(PL107)へ種別変更された。[90][91]
12月28日海上保安庁船舶技術部は2400馬力の主機関を二基新潟鉄工所に発注した。
1956年(昭和31年)2月13日適格造船所十社を指名して入札をおこなったが不調に終わり、翌14日も再入札も不成立に終わったが、最低入札だった日本鋼管(現ジャパン マリンユナイテッド)浅野船渠に随意契約の形をとってやってもらうことになった。ところが修理を専門とする浅野船渠では詳細図面の作成はできなかったので、海上保安庁船舶技術部長の水品政雄は船舶設計協会常務理事の牧野茂 に詳細図面の作成を依頼した。
3月12日に日本鋼管浅野船渠で南極観測船への改造工事に着手し、造船所以外からも集まった職人達が意地とプライドを賭けて突貫工事を始めた。一方、独自に新技術を編み出していた各企業も惜しげもなく資材を提供し10月17日に竣工した。[92]
宗谷は次のような改造を受けた。
船首部分を砕氷型に改造、デリックブーム新規交換、観測用/航海用40マイル大型レーダー及び見張所新設、蒸気機関からディーゼル機関2機2軸への換装、ファンネル換装、救命艇4隻及びダビットを換装、宇宙線観測室新設、後部マストを門型に換装、居住区換装、舵の換装、豆腐製造機新設、アイスクリーム製造機新設、ヘリコプター発着飛行甲板新設、ヘリコプター格納庫の新設、バルジ新設、ベル47G型ヘリコプター2機搭載、セスナ180型1機搭載、ビルジキール撤去、QCU-2型ソナー、音響測探儀を最新の物に再装備等。
まだ護衛艦などでもヘリの搭載例は無く戦後日本の艦船としては最初の本格的な回転翼機搭載を実現した
(日本鋼管は後に砕氷艦ふじしらせ(初代)しらせ(2代)砕氷型巡視船PLH01そうやPM15てしおを建造する)
初代南極観測船として、東京水産大学(現東京海洋大学)の海鷹丸二世(1.452t)を随伴船に従え、[93]1956年11月8日、東京晴海埠頭の1万人以上の大群衆と島居辰次郎海上保安長官、乗組員、観測隊員の家族らを乗せた巡視船「むろと」(PL-03)、「げんかい」(PM-07)、「つがる元鵜来型海防艦新南(PL-105)に見送られ、宗谷と第1次南極観測隊員53名、宗谷の乗組員77名、樺太犬22頭(オス犬20頭・メス犬2頭)、猫1匹、カナリア2羽を乗せ、南極に向け出港した。[94]

11月14日早朝、ルソン島沖にて慰霊を行い松本船長は戦没した先輩や同僚の追福を祈って花束を投げ入れた。翌日フィリピン洋上で台風19号に遭遇、16日、台風20号が発生し、二つの台風にはさまれた宗谷は横揺れが40度にも達しそれをなんとか切り抜けたがセスナ機のさちかぜ号が損傷した。20日、松本船長は出港前に訪ねてきた元士官の「戦時中宗谷が沈まなかったのは艦内の宗谷神社のおかげ」とアドバイスされたことを思い出し「宗谷神社」を復活させた。
(宗谷の強運の拠り所とされていた「宗谷神社」だがGHQに接収された時撤去されていた)[95] [96] [97]
23日シンガポールに到着、さちかぜ号の修理と補給を行った。28日シンガポールを出港。12月1日赤道を通過、甲板上で赤道祭が行われた。12月5日インド洋上で幻の流星群に遭遇、この流星群は100年以上行方不明だったブランペイン彗星であることが2005年に判明した。
12月19日ケープタウン入港、海鷹丸と合流。24日飛行甲板にクリスマスツリーを飾り、航海中の宗谷船内では餅つきが難しいのでこの日餅つきをおこないクリスマスと正月を同時に祝った。29日ケープタウンを出港。 1957年1月4日、暴風圏を通り抜けて最初の氷山に遭遇。7日、宗谷は偵察にベル47G型ヘリコプターを飛ばした。このヘリコプターは日本航空史上初の南極を飛んだ航空機となった。10日、パックアイス縁に到着、海鷹丸から航空機燃料入りのドラム缶47本を受け取り、ここで海鷹丸と別れ宗谷はパックアイスに進入していった。16日、偵察に出たさちかぜ号がプリンスオラフ海岸に沿って続く細長い開水域を発見。この開水域は「利根水路」と名付けられ宗谷はこの水路に向けて進んでいった。[98][99]
1957年(昭和32年)1月24日 南緯69度00分22秒・東経39度35分24秒オングル島プリンスハラルド海岸に接岸。[100]1月29日 公式上陸、第1次南極地域観測隊昭和基地を開設、宗谷がプリンスハラルドに接岸の間、「プリンスハラルド宗谷船内郵便局」が船内に置かれた[101]。2月13日オングル島の北にある小島に「宗谷神社」を分祀しこの小島を「宗谷島」と命名した。[102]15日、越冬隊員に見送られ離岸したが、翌日天候が悪化し氷に閉じ込められた。28日早朝、天候が回復しビセット状態から解放され、外洋に向けて砕氷再開。午後2時、氷原の中間点にて海鷹丸の誘導で救援に到着したソ連の砕氷艦オビ号(12.600t、8400馬力)と会合。オビ号の航跡を追い午後11時、外洋への脱出に成功し海鷹丸と合流。その後、ケープタウン沖の暴風圏で宗谷は、最高片舷62度に及ぶ横揺れに見舞われたがこれを見事に切り抜け、3月10~15日ケープタウンに寄港した後、[103]宗谷は4月5~13日シンガポールを寄港、海鷹丸はコロンボと香港を経由し、21日鹿児島沖にて鳥居長官を乗せた巡視船さつま(PL-105)と会合(元鵜来型海防艦ネームシップの鵜来)23日午後9時宗谷と海鷹丸は羽田沖にて合流し、4月24日、陸、海、空をうめつくす大観衆に迎えられ東京の日の出桟橋に帰港した。[104]

1957~58年、第2次南極観測は第一回の反省を踏まえ特製ビルジキールを装着、水上機をデ・ハビランド・カナダ DHC-2の昭和号に換装し出港を1ヶ月繰り上げたものの、この年の南極の気象状態はきわめて悪く、宗谷を以外にも各国5隻の砕氷船が氷に閉じ込められた。[105]このときは救援を待たず脱出に成功したが、1958年2月1日には密群氷を航行中に左スクリュー・プロペラ1枚を折損した。6日、46日ぶりに外洋に脱出に成功し、7日アメリカ海軍のウィンド級砕氷艦「バートン・アイランド」号と会合、支援を受け8日密群氷に突入したが、その日の午後三時半、誘導していたバ号のベル型ヘリコプターが不時着し救出活動に入って進入をやめ、ここから昭和号を飛ばすことになった。11日、第一便に隊員1名と子犬1頭、カナリア2羽、第二便に隊員2名と子犬4頭、第三便に隊員2名と猫1匹、子犬1頭、第四便に隊員3人の回収に成功した。13日天候の悪化により空輸が困難となった。同日、船長・航海士・機関長・操舵手らが宗谷の前方300メートルくらいの所に大型の未確認動物を目撃、それは30秒くらい見えていたが機関長がカメラを取って船橋に戻って来た時には見えなくなっていたので写真を撮影する事はできなかった。当時の船長であった松本満次が自著にて南極ゴジラと記述した。14日晴れの間をみて昭和号を飛ばし隊員3名、子犬2頭、母犬を連れ戻すがこれ以降天候が悪化、15日、バートン・アイランド号は砕氷航行中、氷盤に乗り上げ動けなくなってしまい宗谷がロープで引っ張ったがロープが切れてしまった。16日バ号側が氷盤を爆破して抜けだすことに成功。2月17日、外洋に脱出し18日、密群氷に再進入し昭和号を発進させられそうな水路や氷山を探したが見つからず、19日、風速30メートルを超える吹雪により探照灯と電話アンテナがもぎ取られた。2月24日越冬計画を断念し帰途についた。
これがタロとジロの悲劇につながる。

1958年、第2次観測の失敗を経験に第3次観測では雪上車による輸送体勢から大型ヘリコプターによる空輸を主体とすることに方針転換し、宗谷は大型ヘリ発着甲板を従来のヘリ甲板の上に増設し、小型へり格納庫を撤去、航空機ガソリンタンク新設、航空司令室を増設、ヘリコプター吊上げ用のクレーン増設等の、ヘリコプター運用に特化した大改装を行った。[106] 偵察用ベル47G2機、シコルスキーS58型2機、測地用DHC-2ビーバー1機を搭載した宗谷は乗組員や観測員からヘリ空母、ミニ空母と呼ばれていた。 大型ヘリコプターによる人員、物資、資材を基地まで空輸するという、前例の無い輸送方法だった。

1958~59年、第3次南極観測、1958年11月12日、松本船長以下92名の乗組員と永田隊長以下37名の観測隊員、初の外国人オブザーバーD.J.メロイを乗せて東京の日の出桟橋を出港。
1959年(昭和34年)1月14日午前八時十五分、宗谷は水平線上にグリーンフラッシュ現象が現れるなか、昭和基地から約163kmの地点で着岸し、午後一時三十八分、シコルスキー1号が発進した。第一便のヘリが昭和基地上空で走り回る熊のように大きな犬二頭を発見、午後十時十五分、第五便のヘリで到着した第1次越冬隊で犬係だった北村泰一が二頭の犬をタロとジロと確認。
1959年2月1日、宗谷から昭和基地へ輸送した物資は57tに達し、第3次南極観測隊の隊長永田武は、第3次越冬隊の成立を宣言する。そして、囲まれていた氷を爆破すると宗谷は離岸した。離岸した宗谷は氷に囲まれて身動きがとれなくなったベルギー隊のポーラーハブ号(600t、1200馬力)を救出にあたるためリュツォ・ホルム湾で待機する。第3次南極観測隊は宗谷の待機中にプリンスハラルド海岸の測量を行い、昭和基地への追加輸送も行った。2月4日、ポーラーハブ号から「状況が好転した」との連絡を受け宗谷は任務を終えて帰路についた。 1959年1月14日~2月3日の20日間に58便の輸送を行い、村山雅美越冬隊長以下14名の越冬隊員及び資材57tの空輸に成功した。[107]
大型ヘリコプターによる航空輸送は予想以上の成果を上げ、各国(特にアメリカとソ連)もおおいに注目した。 この空輸を基本とした体制は後継船のふじ、しらせにも受け継がれることになる。

1959年、第4次観測、南極観測本部はソ連が昭和基地を航空機の基地連絡中継地として利用することを許可した。その後、第4次観測隊員はオビ号側に共同接岸を申込みオビ号側はそれに同意した。 12月半ば第4次隊の往路ケープタウンでベルギー隊からグリーンランド・ハスキーの子犬をプレゼントされた。 1960年1月1日オビ号と合流、2日昭和基地から43マイルの位置から輸送を開始。1月7日、オビ号がベルギー観測船の救出要請を受けたためオビ号と別れた。その後も輸送を続け、2月6日まで103便126t、雪上車による輸送28t含めると総計154tの輸送に成功した。[108]1960年4月16日沖縄からの要請で第4次観測の帰途、那覇に入港し大歓迎を受けた。[109]

1960年、第5次観測出発前、搭載機のS58の一機が事故で大破し、修理が間に合わなかったため海上自衛隊のHSS-1対潜ヘリを緊急に借用することになった。その際パイロットも海上自衛隊から海上保安庁に出向した。

宗谷は派遣回数と同じ回数の修理・改装を繰り返し、通算6回の南極観測任務を遂行した。

巡視船宗谷 Japan Coast Guard(PL107)[編集]

1962年(昭和37年)4月17日南極観測任務を終えた。5月13~15日、随伴船に巡視船「もがみ」(PS11)を従え伊勢湾で開催される観閲式に米、英、仏、ソ連、タイの大使館付海軍武官夫妻、運輸大臣、海上保安庁長官を乗せた観閲船として参加した。保安庁最大の宗谷は所属船艇の旗艦、模範船として退役するまでトップの座にあった[110]
6月15日、日本鋼管浅野ドッグ入渠し、観測機器、航空機関係の重装備を降ろしたが船体の色は観測船のままだった。[111]
8月1日第三管区海上保安本部所属になる。3日、サケ、マス漁業監視のため北海道第一管区釧路海上保安部へ旅立った。24日、監視任務を終え函館に入港、燈台補給船時代の最後の船長だった松原船長は函館海上保安部長になっていた。松原部長の指揮のもと第一管区所属の全巡視船を集合させ宗谷のための観艦式がおこなわれた。同日午後11時、三宅島の雄山噴火の報せ受けた宗谷は急遽、東京湾に急行した。9月14日、館山に疎開した学童約2千名を島に送り届けた。
9月28日、金華山沖南東1500キロの海域でマグロ漁船「第六海進丸」から医療救助の通報が横浜海上保安部に入り出動命令が下った。宗谷には当時の日赤にもない最新の医療設備が調っていた。横浜日赤病院の外科医1名と看護婦2名を乗せた宗谷は漁場へと急いだ。翌29日、同じ海域で操業中の「第六金良丸」からも急患発生との緊急連絡が入った。翌30日午後8時50分、横浜沖約1千キロの地点で「第六金良丸」会合。医師は急性盲腸炎と診断しすぐさま手術となった。同日「第六海進丸」の急患が到着、手術が終わった直後の午後11時53分、運び込まれた患者は意識不明だった。硬膜下血腫と判断した医師は上陸してからも間に合うと判断、しかし衰弱した患者に輸血が必要だったが、あいにくと輸血用の血液を持ってきてなかったが、乗組員数名が献血を名乗りでた。10月3日午前10時20分横浜港に接岸、患者は手術うけて助かった。[112]

1963年(昭和38年)2月、オホーツク海の流氷調査のため第一管区に派遣、この時小樽港から北杜夫と柴田鉄治が取材で乗り込んでいる。その後、4月1日北海道第一管区海上保安本部に移籍。
第一管区に移籍した後の宗谷の一年のスケジュールは12~3月北洋前進哨戒、流氷調査、4月東京にて整備、5月観閲式、6~7月北洋サケ、マス漁前進哨戒、海上保安学校の訓練船を勤める、8月津軽海峡を中心に巡視、各地慰霊、9月、20日間ほどの整備、10~11月舞鶴海上保安学校の訓練船各地を長距離練習航海、北洋哨戒、この頃から宗谷は年に二回は海上保安学校練習航海で、若き海上保安官候補生を乗せて航海の実際を教える教育船としての顔を持つようになる。[113][114]

1963年10月2日、コレラの海上封鎖のため、さど(PM03)、ちふり(PM18)、すみだ(PS55)を率いて李ラインに向け出港。
1964年(昭和39年)2月、初代ふじ艦長に内定された本多敏治一佐を乗せオホーツク海での氷海航海訓練を行った。[115]
1964年4月6日、巡視船「てんりゅう」(PS03)が紋別港沖で流氷にはさまれて行動不能となった漁船5隻の救助作業中、流氷により行動不能になり、9日、宗谷に救出された。
1965年(昭和40年)7月15日、 二代目南極観測船ふじ」就役にともない南極観測船としての役割を正式に終える。
1966年(昭和41年)5月小笠原墓参団を芝浦ふ頭から乗せ父島・母島及び硫黄島にて慰霊祭を行なった。
1970年(昭和45年)3月16日、カムチャッカ方面を哨戒中、釧路保安部から「単冠湾へ急行せよ」と緊急指令が入った。19隻の漁船が吹雪と流氷のために遭難し、宗谷が救出に向かう。悪天候の中、生存者84名の救出に成功。 この頃から漁民の間で「福音の使者」「北洋の守り神」といわれるようになる。
1970年4月、東京にて整備中に巡視船本来の色に塗り替える。[116]
1975年(昭和50年)8月「対馬丸」海上慰霊祭に派遣され、22日遺族の方々を乗せ、卜カラ列島の悪石島沖にて午後10時12分から慰霊をおこなった。
1976年(昭和51年)4月8日、最後の船長となる有安欣一船長が就任。
1977年(昭和52年)8月1日、灯台補給船が廃止され若草が解役。
1978年(昭和53年)3月12日、稚内港の流氷群を砕氷し、とじこめらていた漁船41隻を外洋に導いた。
1978年3月半ば、根室半島沖にてふじの 後継艦建造計画 のための砕氷実験をおこなった[117]
。 1978年5月14日、海上保安庁創立三十周年の観閲式に観閲船として参加。

竣工から40年以上が経過した1978年7月3日ついに解役が決まり、[118]最後の任務として舞鶴海上保安学校本科学生の実習をかねた全国14の港を巡る「サヨナラ航海」を実施し各港で、「サヨナラ宗谷船内公開見学会」を開いた。 78年8/2-4舞鶴/5-7門司/7-9広島/9-12高松/12-14神戸/15-17名古屋/18-19横浜/19-20東京/21-22塩竈/23-25函館/26-27小樽/29-30新潟/31舞鶴9/2-3青森寄港/3函館入港。 舞鶴港では海上自衛隊舞鶴音楽隊のファンファーレを奏で迎えられた。 青森港には17000人が押し寄せた。歓迎飛行の海上自衛隊大湊地方隊のヘリコプター二機が飛来し宗谷の飛行甲板に大湊総監・江上純一海将の「同じ海上に勤務する者として輝かしい宗谷の栄光と歴代乗組員の努力に最大の敬意を表します」というメッセージが投下された。 岸壁では陸上自衛隊第九音楽隊が太平洋行進曲を演奏し式典は大いに盛り上がった。

9月4日稚内市から最後にもう一度と、青年会議所が海上保安庁に陳情してサヨナラ航海番外編が実現することになった。
9月23日天北一号埠頭に接岸した宗谷は陸上自衛隊第二師団のブラスバンドの演奏に迎えられた。翌24日、11000人の見学者を迎えた。その日の夜静かに稚内港を後にした。
9月28日午前9時、秋晴れの空に「UW1(ご幸福を)」の国際信号旗掲げた宗谷は「蛍の光」「錨を上げて」の演奏に見送られ長年の母港だった函館をあとにした。

1978年(昭和53年)10月2日 竹芝桟橋にて解役式を迎え退役。解役式には歴代長官、歴代船長、観測隊員、宗谷にゆかりある人たちが出席した。海上自衛隊音楽隊が演奏する国歌とともに、国旗、海上保安庁旗、長官旗がおろされ、有安船長から高橋長官に返納されて式典は終わった。

巡視船の解役式に海上保安庁の長官が出席したのは、現在のところ宗谷のみである。

巡視船になってから海難救助出動は350件以上、救助した船125隻、1000名以上の救助実績を揚げ「海の守り神」という異名をもつ事になった。

1978年11月22日、代替船としてヘリコプター搭載型巡視船そうや」(船番号:就役当時PL01、現在PLH01現役)が就役。

展示[編集]

1979年(昭和54年)5月1日から、東京お台場にある船の科学館で一般公開されている。
1982年 1月18~3月15日にかけて船体外部の全面塗装、船名文字・ヘリコプター着艦標識・錨塗色の観測船時への復元を中心とする修復工事を実施。
2006年(平成18年)には南極観測50周年を記念して宗谷とタロ、ジロが写った切手と記念硬貨の発行、宗谷南極観測出港の再現が宗谷で行われた。
2008年(平成20年)2月16日には宗谷の戦友会「軍艦宗谷会」が中心となり靖国神社より権宮司を招き誕生70年を祝う古希祭が執り行われた。参加した人々は宗谷の建造や改造に関わった者、地領丸、特務艦、復員船、灯台補給船、南極観測船、巡視船様々な時代の宗谷に関わった人々が集まった。
2010年(平成22年)チリ地震 (2010年)の津波により、船の科学館は宗谷への乗船を一時停止した。 保存船としての宗谷は、現在も海上保安庁特殊救難隊の特殊訓練所としても使われている。
船の科学館に保存先が決まった時、当時の館長笹川良一は「不可能を可能にした強運と奇跡の船」と称えた[119]
進水からすでに76年が経過しており、本来商船としてつくられながら、軍艦や南極観測船、巡視船として、過酷な環境に身を置いた類稀な船歴からくる長年の酷使や、退役後の繋留に伴う経年劣化により船体が傷んでいるため、維持管理には多額の資金が必要とされ、募金活動が行われている。

要目[編集]

1945年(特務艦)[編集]

1961年(第6次南極観測仕様)[編集]

船の科学館に展示される宗谷
  • 総トン数:2,736 t
  • 排水トン(満載)4.614t
  • 全長:83.7 m
  • 全幅:15.8 m(バルジ含む)
  • 速度:12.3 kt
  • 機関:ディーゼル機関2基、2軸
  • 出力:4,800馬力
  • 航続距離:11 ktで16,400浬
  • 搭載機:シコルスキーS-58型ヘリコプター 2機
    ベル47G2型ヘリコプター 2機
    デ・ハビランド・カナダ DHC-2「昭和号」1機(第2次観測~第5次観測)セスナ185型1機(第6次)(いずれも露天繋留)
  • 砕氷能力:1.2 m (第1次観測から0.2m強化)
  • 貨物積載量:500 t(観測用物資、初期値400 tから増量)
  • ソナー:QCU-2型[120]

※当初、搭載ヘリコプターは小型のベル47G観測機2機であったため、ヘリ甲板前方に格納庫を有していた。第2次南極観測の失敗を元に昭和基地への物資輸送をヘリコプターの輸送に切り替え大型のシコルスキーS-58型2機を追加で搭載、格納庫の容量が不足したため第3次改装の際に格納庫を撤去してヘリ甲板を拡大、露天繋留による暴露積載とし、小型ヘリコプターのベル47Gは分解して箱詰めされた状態で飛行甲板上に搭載された。

1970年(巡視船)[編集]

  • 総トン数:2,734 t
  • 排水トン(満載)3.853t
  • 全長:83.7m
  • 全幅:15.8 m(バルジ含む)
  • 速度:13.5 kt
  • 機関:ディーゼル機関2基、2軸
  • 出力:4,800馬力
  • 航続距離:12.7 ktで18,578浬
  • 搭載機:なし
  • 減揺タンク装備
  • 母港:函館港

宗谷を題材とした作品[編集]

  • NHKの番組「プロジェクトX」(『運命の船・宗谷発進』 2001年2月13日)において宗谷の活躍が放映された。
  • 本船の生涯は1984年(昭和59年)にテレビ東京で放映された「宗谷物語」でアニメ化された。
  • 文部省(現:文部科学省)の依頼により開発されたダッチワイフ(弁天さん)も南極地域観測隊と乗船したと言い伝えられている。ダッチワイフの別称「南極1号」はこれが由来である。
  • 1963年6月に北杜夫が「どくとるマンボウ氷海をゆく」と題して宗谷航海記を小説中央公論にて掲載。
  • 1963年3月柴田鉄治が「白いオホーツクをゆく『宗谷』同乗記」を朝日新聞北海道にて連載。
日本が発行した国際地球観測年記念切手。宗谷のシルエットが描かれている。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h 『資料ガイド3宗谷』46頁。
  2. ^ 船の科学館『資料ガイド3宗谷』21頁。
  3. ^ 2001年以降の英称、略称はJCG、以前はMSAMaritime Safety Agency
  4. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』12頁。
  5. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』18頁 飯沼一雄「「宗谷」誕生秘話」の孫引き。
  6. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』8頁。
  7. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』42頁。
  8. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』34-35頁。
  9. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』38頁。
  10. ^ 天領丸、民領丸の記録はなし大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』56頁。
  11. ^ 船の科学館『資料ガイド3宗谷』17頁。
  12. ^ 毎日新聞社別冊『一億人の昭和史・昭和船舶史』第23号 地領丸(宗谷)で北千島へ 松林楠雄手記 216-219頁。
  13. ^ 『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』58-59頁。
  14. ^ 『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』63-64頁。
  15. ^ 『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』70頁。
  16. ^ 昭和16年2月28日付 陸軍整備局長 陸支密第556号「特種作戦準備に伴う特大発、大艀舟及工作船等整備に関する件」に対する、昭和16年6月9日付 陸軍運輸部長 運密第921号「特殊作戦準備に伴う工作船及特大発艇整備完了報告」。
  17. ^ 昭和15年2月20日付 海軍大臣 達第28号。
  18. ^ 昭和15年2月20日付 海軍内令第120号。
  19. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』71頁。
  20. ^ 明治38年8月10日付 海軍大臣官房 官房第3040号。
  21. ^ 昭和15年6月4日付 海軍内令第383号。
  22. ^ 前任は「神通」副長
  23. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』39頁。
  24. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』46-48頁。
  25. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』73-74頁。
  26. ^ 昭和15年6月4日付 海軍公報 (部内限) 第3518号 「艦船所在 6月4日午前10時調」、および昭和15年6月5日付 海軍公報 (部内限) 第3519号 「艦船所在 6月5日午前10時調」。
  27. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』56頁。
  28. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』88-89頁。
  29. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』90頁。
  30. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』95頁。
  31. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』100頁。
  32. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』108頁。
  33. ^ 前任は「国後」艦長
  34. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』112頁。
  35. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』120頁。
  36. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』124頁。
  37. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』125頁。
  38. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』128頁。
  39. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』131頁。
  40. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』144-144頁。
  41. ^ 桜林美佐『奇跡の船宗谷』49頁。
  42. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』149-150頁。
  43. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』120頁。
  44. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』121頁。
  45. ^ 前任は第三十四駆逐隊司令
  46. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』172頁。
  47. ^ この時期の第二十四駆逐隊には他に朝潮型駆逐艦満潮が所属
  48. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』174-175頁。
  49. ^ 深夜パラオへ向かう途中、との元乗組員の証言あり。座礁した後、爆雷20発を放棄
  50. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』142-143頁。
  51. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』184頁。
  52. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』146頁。
  53. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』162頁。
  54. ^ #昭和18年12月~11水戦日誌(3)p.18『26日/1300宗谷缶故障続行不能、巨済、那智丸(特砲艦)ヲ對シ父島ニ直行セシム(28日1230着)』
  55. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』194-195頁。
  56. ^ 護衛した駆逐艦は雪風との第四梯団輸送指揮官だった山本陸軍大尉の証言があるがこの頃の雪風は別方面で活動していたため、別の駆逐艦と思われる。
  57. ^ 姉妹船の天領丸とは最初で最後の行動となった。
  58. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』195-198頁。
  59. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』201頁。
  60. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』198-200頁。
  61. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』203-204頁。
  62. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』208-210頁。
  63. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』166頁。
  64. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』171頁。
  65. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』174頁。
  66. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』222-223頁。
  67. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』236頁。
  68. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』248-250頁。
  69. ^ 昭和15年4月24日付 海軍辞令公報 (部内限) 第469号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072077900 で閲覧可能。
  70. ^ a b 昭和15年6月4日付 海軍辞令公報 (部内限) 第488号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072078200 で閲覧可能。
  71. ^ 昭和20年12月20日付 第二復員省 内令第12号
  72. ^ a b 昭和15年10月25日付 海軍辞令公報 (部内限) 第547号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072079200< で閲覧可能。
  73. ^ a b 昭和16年8月11日付 海軍辞令公報 (部内限) 第688号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072081700 で閲覧可能。
  74. ^ a b 昭和18年4月26日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1102号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072090700 で閲覧可能。
  75. ^ 昭和19年2月28日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1348号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072096000 で閲覧可能。
  76. ^ この間、福島一男大尉が艦長を代理したと元乗組員の証言有り、大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』188-190頁。
  77. ^ 昭和19年5月31日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1491号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072098900 で閲覧可能。
  78. ^ 昭和19年8月22日付 秘海軍辞令公報 甲 第1571号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072100600 で閲覧可能。
  79. ^ 昭和20年2月26日付 秘海軍辞令公報 甲 第1731号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072103500 で閲覧可能。
  80. ^ a b 昭和21年3月9日付 第二復員省辞令公報 甲 第79号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072158700 で閲覧可能。
  81. ^ a b 昭和21年6月7日付 第二復員省辞令公報 甲 第152号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072159300 で閲覧可能。
  82. ^ 正式命名は12月1日
  83. ^ 艦艇から船にこれ以降、青函連絡船宗谷丸と誤解されるようになる
  84. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』278-280頁。
  85. ^ 元ロシアの客船アルグン号、日露戦争の最中拿捕され羅州丸と改名、1904年5月から1945年3月に戦没するまで灯台視察船として従事。
  86. ^ 川嶋康夫『奇跡の船・宗谷物語』53-54頁。
  87. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』288-291頁。
  88. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』353頁。
  89. ^ この号鐘は現在、広島の海上保安大学校史料館にて保存されている。
  90. ^ 一般的に南極観測船として知られる本船だが、海上保安庁での扱いは大型巡視船だった
  91. ^ 当時灯台部長だった土井智喜は解任式の最後に灯台を廻り馴染みしわが船の南極へ航く栄を祝わんと和歌を一首詠んだ
  92. ^ 改造費用四億六千七百三十万円、そのうち七千万は若草購入費『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』353頁。
  93. ^ 海鷹丸は10月28日に出港、海洋調査を行った後、ケープタウンで合流
  94. ^ 船の科学館『資料ガイド3宗谷』37頁。
  95. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』409-412頁。
  96. ^ 宗谷の艦内神社には富士山本宮浅間大社の浅間大神が祀られておりこれは、ふじ、新旧しらせに受け継がれた
  97. ^ この元士官はだれだったかはわかっていない、御社を置いて去っていったともいわれている。大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』409-412頁。
  98. ^ 現在南極観測隊の間では「大利根水道」として親しまれている。
  99. ^ 小島敏男『南極観測船ものがたり』81-82頁
  100. ^ 後に宗谷海岸と命名
  101. ^ 1956年(昭和31年)10月16日郵政省告示第1131号「プリンスハラルド宗谷船内郵便局を設置する件」
  102. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』421頁。
  103. ^ ケープタウン寄港中、オビ号が寄港、両船の船長と隊長は相互訪問行った。
  104. ^ 船の科学館『資料ガイド3宗谷』40頁
  105. ^ アメリカのグレイシャー、ウェスト・ウインド、ベルギーのポーラハブ、ポーラシルケル、オーストラリアのサラダン
  106. ^ 当時放送されていた月光仮面第3部マンモスコング編の背景に試運転中の宗谷が偶然写り込んでいるシーンが有る
  107. ^ 船の科学館『資料ガイド3宗谷』42頁
  108. ^ 小島敏男『南極観測船ものがたり』104-105頁。
  109. ^ 船の科学館『資料ガイド3宗谷』43頁
  110. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』456-458頁
  111. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』458頁
  112. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』458-461頁。
  113. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』468頁。
  114. ^ 桜林美佐『奇跡の船宗谷』156頁。
  115. ^ 小島敏男『南極観測船ものがたり』124頁
  116. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』468頁
  117. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』473頁
  118. ^ 同日そうやが日本鋼管鶴見造船所にて進水
  119. ^ 船の科学館『資料ガイド3宗谷』45頁
  120. ^ 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』374頁

参考文献[編集]

  • アルバム「写真で見る『宗谷』の生涯」 海人社世界の艦船』1983年2月号 No.318 pp.45–49
  • 伊東直一「「宗谷」一代記」 海人社『世界の艦船』1983年2月号 No.318 pp.92–97
  • 川嶋康夫『奇跡の船・宗谷物語』 (あすなろ書房、1994年)ISBN 4751512315
  • 小島敏男『南極観測船ものがたり』(成山堂、2005年)ISBN 4425947118
  • 桜林美佐『奇跡の船「宗谷」 昭和を走り続けた海の守り神』(並木書房、2006年) ISBN 4890632069
  • 飯沼一雄「「宗谷」誕生秘話 封印された松尾造船所問題 上・下」 海人社『世界の艦船』2006年11月号 No.666 pp150–155・2006年12月号 No.667 pp.150–155
  • アルバム「あれから50年 昭和31年10月 南極観測船に改造直後の「宗谷」」 海人社『世界の艦船』2006年11月号 No.666 pp.48–51
  • 「巻頭特集・南極物語 観測船「宗谷」が目指した極限の大地」 大日本絵画『モデルグラフィックス』2007年3月号 No.268
  • 「特別記事・南極観測船「宗谷」」 モデルアート社『モデルアート』2007年3月号 No.721
  • 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』(新潮社、2009年)ISBN 4103904070
  • 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』文庫版(新潮社、2011年改題)ISBN 9784101332222
  • 船の科学館『資料ガイド3宗谷』(日本海事科学振興財団、2012年改訂)
  • PLHのルーツ南極観測船宗谷を回顧する 海人社『世界の艦船』2012年7月号No.762 pp.109–115
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • わが海の故里-回想 宗谷 40年-宗谷記念会、有安記「宗谷の虚舟」、宗谷記念会、1984年
  • 毎日新聞社別冊『一億人の昭和史・昭和船舶史』第23号「地領丸(宗谷)で北千島へ」 1980年5月 pp.214–219

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度37分11秒 東経139度46分24秒 / 北緯35.619726度 東経139.773246度 / 35.619726; 139.773246 (宗谷)