秋津洲 (水上機母艦)

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Japanese seaplane carrier Akitushima.jpg
艦歴
計画 1939年マル4計画
起工 1940年10月29日川崎重工神戸
進水 1941年7月25日
就役 1942年4月29日竣工
その後 1944年9月24日戦没
除籍 1944年11月10日
性能諸元
排水量 基準:4,650t 公試:5,000t
全長 114.8m
全幅 15.8m
吃水 5.40m (公試平均)
主缶 なし
主機 22号10型ディーゼル4基2軸 8,000hp
速力 19kt
航続距離 8,000 NM / 14kt (重油455t)
乗員 545名
兵装
(竣工時)
40口径12.7cm連装高角砲2基
25mm連装機銃2基
兵装
(最終時)
40口径12.7cm連装高角砲2基
25mm3連装機銃6基
25mm単装機銃3挺
航空機 飛行艇1機搭載可能 (停泊時)
補給物資 航空燃料689t
航空魚雷36本
800kg航空爆弾30個
500kg航空爆弾15個
250kg・50kg航空爆弾100個

秋津洲(あきつしま)は、日本海軍水上機母艦。類別は水上機母艦だが、実際には大型飛行艇への補給、整備を任務とする艦艇であり、飛行艇母艦と呼ばれる事もある。

概要[編集]

水上機戦力に力を入れた日本海軍は飛行艇の前線基地での支援、洋上補給のための艦が要望された。そのため「神威」を改装したが十分でなく、昭和14年度計画(マル4計画)において新艦を建造することとなった。 完成した本艦は船体後部が飛行艇収容スペースに当てられ、艦尾に飛行艇を引き揚げる35tジブクレーンを装備、日本海軍では珍しい艦形となっている。

本艦が施していた特異な迷彩塗装は、初代艦長、黛大佐の影響であった。第一次ソロモン海戦後のラバウルで、第8艦隊参謀長の大西新蔵少将が本艦の迷彩の事を「厚化粧みたいにゴテゴテ塗ってきたな」と指摘した時には「攻撃力がないから、昆虫のように保護色にしたんですよ」と黛艦長は説明した[1]。また、空襲の多いショートランド方面で行動していた際には、連日の爆撃から航海士が米重爆の水平爆撃のクセを見抜き、艦長に進言し「秋津洲流戦闘航海術」として実践した。これは停泊中に空襲を受けた場合に、両舷の錨を右舷側に偏らせ150mの所まで錨鎖を伸ばしておき、敵機が仰角38度になった時に前進一杯を号令すると艦が急速に右舷側に動いて回避できるという方法であった[2]。ラバウル方面で行動する時には、座礁すれすれの場所を通ることで米潜水艦の襲撃を防いでいる。黛は「秋津洲流戦場航海術」と称していた[3]

戦歴[編集]

飛行艇母艦として行動していた頃は、単艦もしくは「秋風」などの駆逐艦1隻を護衛に伴っての行動が多かった[4]。1942年8月7日、米軍がガダルカナル島とツラギ諸島に上陸してガダルカナルの戦いが始まると「秋津洲」は不時着機の救助を命じられ、ガダルカナル方面に進出した[5]。8月8日、三川軍一中将が指揮する第八艦隊と遭遇し、情報を交換した。第八艦隊側は、迷彩を施した秋津洲を見て敵艦と誤認しかけている[6]。これが前述の「厚化粧」発言につながった。第八艦隊はその夜、第一次ソロモン海戦で大勝利をおさめた。第二次ソロモン海戦直前の8月22日には、駆逐艦「陽炎」に燃料補給を行った事も記録されている[7]。その後も各地で飛行艇の母艦任務、索敵哨戒等に従事した[8]。また、その艦形を活かして基地設営、物資輸送、魚雷艇の輸送、工作艦任務などにも活躍した[9]

1944年9月、フィリピンコロン湾で米空母艦載機の攻撃を受け沈没した。現在ではファンダイビングの沈船スポットになっており、海底に沈む船体を観察することができる。

艦歴[編集]

  • 1940年10月29日 川崎重工神戸にて起工。
  • 1941年7月25日 進水
  • 1942年4月29日 竣工、水上機母艦に類別。
    • 5月15日 横須賀出港、19日サイパン入港、24日ラバウル入港。
    • 8月8日 三川軍一中将が指揮する第八艦隊 と遭遇。
    • 8月16日 ショートランド方面に進出。
    • 12月12日 横須賀入港
  • 1943年1月15日 横須賀出港、22日カビエン入港、24日ラバウル入港。
    • 3月12日 マキン入港。八〇二空所属飛行艇の母艦として従事。
    • 6月6日 イミエジ出港、八〇二空の損傷飛行艇を輸送。
  • 1944年2月17日 トラック島空襲、損傷を受ける。
    • 3月14日 横須賀入港
    • 4月2日 入渠、13日出渠
    • 9月5日 佐世保出港、13日高雄入港、18日マニラ入港、22日コロン湾入港。
    • 9月24日 コロン湾にて艦上機の攻撃により戦没。
    • 11月10日 除籍

歴代艦長[編集]

艤装員長[編集]

  1. 岩淵三次 大佐:1941年11月1日 -
  2. 黛治夫 大佐:1942年3月25日 -

艦長[編集]

  1. 黛治夫 大佐:1942年4月29日 -
  2. 高尾儀六 大佐:1942年12月3日 -
  3. 藤牧美徳 大佐:1943年8月26日 -

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 生出寿『ライオン艦長黛治夫』58頁
  2. ^ 生出寿『ライオン艦長黛治夫』43-45頁
  3. ^ 生出寿『ライオン艦長黛治夫』47頁
  4. ^ #第5空襲部隊戦闘詳報第2次ソロモン(2)pp.3-4
  5. ^ #第5空襲部隊戦闘詳報ソロモン海戦間(5)pp.7-11、p.39
  6. ^ 生出寿『ライオン艦長黛治夫』47-48頁
  7. ^ #昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(3)p.19
  8. ^ #第5空襲部隊戦闘詳報第2次ソロモン(3)p.27
  9. ^ #第5空襲部隊戦闘詳報第2次ソロモン(4)p.9、pp.14-15

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)
    • Ref.C13120132600 『基地航空部隊第5空襲部隊戦闘詳報 「ソロモン」海戦の間に於ける戦闘詳報(5)』。
    • Ref.C13120132800 『基地航空第5空襲部隊戦闘詳報 ソロモン海戦 第2次ソロモン海戦 昭和17年8月~17年9月(2)』。
    • Ref.C13120132900 『基地航空第5空襲部隊戦闘詳報 ソロモン海戦 第2次ソロモン海戦 昭和17年8月~17年9月(3)』。
    • Ref.C13120133300 『基地航空第5空襲部隊戦闘詳報 ソロモン海戦 第2次ソロモン海戦 昭和17年8月~17年9月(4)』。
    • Ref.C08030095800 『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(3)』。
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第4巻 空母Ⅱ』光人社、1989年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。
  • 生出寿『ライオン艦長黛治夫』光人社、1988年。 ISBN 4-7698-0372-9

関連項目[編集]