第17師団 (日本軍)
| 第17師団 | |
|---|---|
| 創設 | 1907年(明治40年)11月30日 |
| 廃止 | 1925年(大正15年)5月1日 |
| 再編成 | 1938年(昭和13年)4月4日 |
| 廃止 | 1945年(昭和20年) |
| 所属政体 | |
| 所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
| 部隊編制単位 | 師団 |
| 兵種/任務/特性 | 歩兵 |
| 人員 | 約25,000名/約15,000名 |
| 所在地 | 岡山-満州/姫路-中支-ビスマルク諸島 |
| 編成地 | 岡山/姫路 |
| 通称号/略称 | 月 |
| 補充担任 | 第十七師管(岡山)/姫路師管区 |
| 最終上級単位 | 天皇直隷/第8方面軍 |
| 最終位置 | ビスマルク諸島 ニューブリテン島ラバウル |
| 主な戦歴 | 日中-太平洋戦争 |
第17師団(だいじゅうななしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。日露戦争後の1907年(明治40年)と、日中戦争勃発後の1938年(昭和13年)に編成された。
目次 |
[編集] 第一次編成
第17師団は1907年(明治40年)11月、第18師団と共に創設された。1915年(大正4年)から2年間満州に駐屯するが、1920年(大正9年)からの第一次世界大戦後の不況や、シベリア出兵を強行した事などから財政が逼迫し、日露戦争後拡大してきた軍備を削減する事になり、1922年(大正11年)から三次に亘って軍縮され、1925年(大正14年)に加藤高明内閣で行われた所謂「宇垣軍縮」によって4個師団の廃止が決まり、第17師団も第13・第15・第18師団と共に廃止された。
[編集] 歴代師団長
- 一戸兵衛 中将:1907年(明治40年)11月30日 - 1911年(明治44年)9月6日
- 仙波太郎 中将:1911年(明治44年)9月6日 - 1914年(大正3年)4月17日
- 本郷房太郎 中将:1914年(大正3年)4月17日 - 1916年(大正5年)8月18日
- 星野金吾 中将:1916年(大正5年)8月18日 - 1918年(大正7年)7月24日
- 古海厳潮 中将:1918年(大正7年)7月24日 - 1921年(大正10年)7月20日
- 大野豊四 中将:1921年(大正10年)7月20日 - 1925年(大正14年)5月1日(廃止)
[編集] 最終所属部隊
[編集] 第二次編成
日中戦争が起こると1925年(大正14年)に廃止された師団は悉く復活し、第17師団も第26師団に引き続き三単位師団として再度編成された。また、同時に第15・第21・第22・第23師団も三単位師団として編成された。
師団は1938年(昭和13年)4月4日に留守第10師団の担当で編成され、中国大陸に渡り中支那派遣軍戦闘序列に編入、一部部隊が武漢作戦に参戦する。師団捜索隊は1940年7月に復帰して編制から消える。
太平洋戦争勃発後、1943年(昭和18年)9月に南方へ転用され、ニューブリテン島に渡る。第17歩兵団司令部・歩兵第81連隊など隷下部隊の約1/3はブーゲンビル島へ分遣され、1944年(昭和19年)7月に独立混成第38旅団へ改編されて師団から除かれた。第8方面軍隷下に移った師団はニューブリテン島中心地のラバウルやツルブにて連合軍の攻撃に耐えてニューブリテン島の戦いを展開、1945年(昭和20年)8月の終戦を迎えた。持久戦の間に2個混成連隊と師団捜索隊(2代目。第51師団捜索第51連隊の残存人員で編成)が新たに編合された。
[編集] 歴代師団長
- 広野太吉 中将:1938年(昭和13年)7月15日 - 1940年(昭和15年)8月1日
- 平林盛人 中将:1940年(昭和15年)8月1日 - 1942年(昭和17年)12月1日
- 酒井康 中将:1942年(昭和17年)12月1日 - 終戦
[編集] 最終所属部隊
- 歩兵第53連隊(鳥取):大島廉治大佐
- 歩兵第54連隊(岡山):丸山巖大佐
- 混成第2連隊:坂本康一大佐
- 混成第6連隊:永井元大佐
- 野砲兵第23連隊:菅井房吉大佐
- 工兵第17連隊:糸川僖一中佐
- 輜重兵第17連隊:今村武雄大佐
- 第17師団通信隊:繁田武一郎大尉
- 第17師団兵器勤務隊:関根朝男技術大尉
- 第17師団捜索隊:
- 第17師団第1野戦病院:高田俊三軍医少佐
- 第17師団第2野戦病院:永沼与助軍医少佐
- 第17師団第4野戦病院:小柳寅雄軍医少佐
- 第17師団病馬廠:安藤謙四郎獣医大尉