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「塔」の起源であるサーンチーのストゥーパ
「塔」の起源であるサーンチーのストゥーパ
旧約聖書に登場するバベルの塔。ピーテル・ブリューゲルの絵
旧約聖書に登場するバベルの塔。ピーテル・ブリューゲルの絵

(とう)とは、接地面積に比較して著しく高い構造物のことである。

西洋建築の世界では、見張り台というような軍事的目的とともに、宗教的な意味を持つ建造物を指す。日本では江戸時代まで仏教の構造物のみを指して使用されていた。五重塔や多宝塔、などであり、仏教用語であった。しかし明治以降は西洋建築物の「Tower」のことも「」と呼ぶようになった。従って、現在の日本語の「塔」は、様々な比較的高い構造物に対しても使用され、言葉の用法に厳密な定義が存在するわけではない。

目次

[編集] 塔の語源

日本語の「塔」の語源は梵語の"stupa"(ストゥーバ、卒塔婆のこと)であるとされる。「塔」の漢字は、ストゥーバの音にあてられた漢字「率都婆」から「塔婆」に変化し、「塔」と省略された。また「Tower」はラテン語turrem/turrisに由来するともいわれる。

[編集] 塔の定義

西洋では、見張り台というような軍事的目的とともに、宗教的な意味を持つ建造物である。つまり地上と天上を結ぶ象徴としてのモニュメントの側面を持つ。従って単なる高い建物とうわけではなく、人を天上へと運ぶというような意味もある。このため人が立ち入ることを前提とし、単に構造物の目的機能を満たすために高くなった構造物、例えば「煙突」は塔と呼ばない。

ストゥーバが「塔」の語源であることはすでに述べた。ストゥーバは仏教において、釈迦の遺骨(舎利)を埋葬したところであった。つまり「塔」は本来、釈迦の墓を意味する起源をもつ。

日本においても「塔」は、江戸時代まで仏教寺の構造物のみを指す言葉として使用されていた。五重塔や宝塔などである。従って、江戸時代前後の高層建造物、例えば城郭に建てられた天守のたぐいを一般に「塔」と呼ぶことはない[1]が、形式では塔のように建てられたものを層塔型ということがある。

しかし明治以降に入ってきた西洋建築物の構成していた構造物のTowerの対訳語として「塔」が使われるようになる。電波送信の高いアンテナや送電のための構造物も「塔」の字が充てられるようになった。従って、現在の「塔」の用法に厳密な定義が存在するわけではない。塔の助数詞は「基」、これも仏塔由来と考えられる。また、助数詞として「層」なども使われることがある。

[編集] 塔の設置目的

ワシントン記念塔(1848年~1884年)。
ワシントン記念塔(1848年~1884年)。
東京タワー(1957年~1958年)
東京タワー(1957年~1958年)
給水塔の一例
給水塔の一例

前述のとおり、塔の定義が不明確であるため、ここでの分類はあくまで目安である。

モニュメントとしての塔
前項で述べたように、仏教では「塔」は釈迦の遺骨を納めたストゥーバを起源としている。すなわち「塔」は釈迦の墓を意味するモニュメントである。従って、仏塔には人間が中に入ることは主眼ではない。
一方で、西洋の塔は地上と天上とをつなぐ建造物という意味が色濃く、人間が中に立ち入ることができることも求められる。
宗教の目的が薄れ、戦勝や建国など世俗的な記念のモニュメントとしての塔が作られることもあった。さらには都市のランドマークとしての塔も近代以降は顕著である。
情報伝達としての塔
キリスト教会に見られる「鐘塔」や、イスラム教のモスクの「ミナレット」は宗教上のモニュメントの性格を持つ一方で、信者に対して祈りの時間を知らせるための機能を併せ持っていた。このため、できる限り広範囲に届くように高さが求められた。近代においては、時計塔が登場した。現代においては、テレビ放送などの情報送信を目的とした電波塔もこれにあたる。
搬送手段としての塔
送電線や通信線を地上から分離するために、電線を支えるための鉄塔がある。給水塔は塔の頂にタンクを置き、塔の高さから得られる位置エネルギーを送水圧に変換して広範囲に水を供給する目的で設置される。蒸留塔は混合物を塔のなかで移動させ、加熱蒸発・冷却凝縮することで各成分を分離する目的を持つ。
監視としての塔
軍事目的として西洋の城壁に設けられた監視および防御のための構造物はしばしば「Tower」と呼ばれた。空港における管制塔などもここに分類できる。

※なお、高層ビルの名称・愛称に「タワー」という語が付されることもある(横浜ランドマークタワーJRタワーなど)が、建物の構造からすると普通は本稿で述べられるようなタワー・塔とは区別される。

[編集] 西洋の塔

[編集] 古代の塔

チョガー・ザンビール遺跡のジッグラト(紀元前2000年?)。
チョガー・ザンビール遺跡のジッグラト(紀元前2000年?)。

旧約聖書の『創世記』には、バベルの塔が登場する。バベルの塔は、町と塔を建てて、その頂きを天にとどかせようとする野望の実現と、それに対して主の与えた罰の寓話である。

バベルの塔のモデルになったのは、メソポタミアのバビロニア王国の首都ホルサバードに建築されたジッグラトであるといわれる。ジッグラトは、ウル王朝時代にできたピラミッド型の日干し煉瓦で作った塔であった。多層のテラスを階段や斜路で結び、最上段に神殿や祭壇を設置してあった。ホルサバードのジグラットは高さ約42mで、周囲にらせん状の斜路を取り巻いた塔であった。

エドフ神殿のパイロン(紀元前2世紀?)
エドフ神殿のパイロン(紀元前2世紀?)

古代エジプトでは、神殿の門が2つの塔にはさまれた形をとっていた。この形式をパイロン(塔門)と呼ぶが、現在でもパイロンは、ルクソールやエドフに残る神殿で確認できる。また、オベリスクと呼ばれる四角錘の記念塔が神殿の入り口などに設置された。

古代ギリシアでは、あまり塔は作られなかった。しかし、世界の七不思議にも数えられるアレクサンドリアの大灯台(紀元前3世紀頃)が作られた。灯台の全高は約134メートルで、大理石造だった。14世紀頃の地震により崩壊している。

古代ローマでは、塔を軍事上の目的から盛んに建設した。ローマ帝国は都市を建設したときに城壁で囲い城塞都市化したものが見受けられるが、このときに城壁の角や門に塔を配置した。またゲルマン民族など異民族の侵入を防ぐために各地に防御壁(リーメス)を築いた際、一定間隔で見張りのための塔も建設した。


[編集] キリスト教の浸透からゴシック期までの塔

サン・セルナン教会(11世紀~13世紀)
サン・セルナン教会(11世紀~13世紀)

ローマ時代は、軍事的性格が中心だった塔は、中世に入るとキリスト教と結びつき、教会建築において重要な役割をになうようになった。祈りの時刻など教会が信者に情報を伝達するための手段であった鐘を設置するための「鐘塔」(鐘楼とも、英語:Belfry)が出現した。

プレ・ロマネスク期に入って教会建築の基本ができあがったが、「西構え」の構造もこの頃に出現した。教会の入り口は西側を向いているが、西構えとは教会の入り口を突出させた形式であり、ここに塔を配置するものが現れた。

ヴォルムス大聖堂(1171年~1240年?)
ヴォルムス大聖堂(1171年~1240年?)

周囲の建造物から独立した塔もあったが、この形式はイタリアで数多く建築された。ビザンティン建築の教会の形式を良くのこすイタリア・ラヴェンナのサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂(530年~550年?)の鐘塔は、高さ37.5mで10世紀末に追加されった。

ロマネスク様式の独立鐘塔として代表的なものとしてピサの斜塔(1173年~1372年)。ゴシック様式であるが、フィレンツェにあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂にあるジョットの鐘楼(1387年)も独立した塔である。

建物を十字に交差させ、その交点上に塔を持つ形式のもの登場している。代表的なものとしは、フランスのトゥ-ルーズにあるサン・セルナン教会(11世紀~13世紀)や、ベルギーのトゥールネ大聖堂などである。

ドイツのヴォルムス大聖堂(1171年~1240年?)は、交差部分に八角塔が、東西に4つの円塔が立つ。ドイツのロマネスク建築の一つの到達点とされる。

シャルトル大聖堂(12世紀)。右側が1140年から建つ角錐塔、左が16世紀に建てられた後期ゴシックの塔。
シャルトル大聖堂(12世紀)。右側が1140年から建つ角錐塔、左が16世紀に建てられた後期ゴシックの塔。

ゴシック期にはさらに塔に注力が注がれ、教会建築として多数の塔がヨーロッパ各地に建設された。特に西構えに2つの双塔を持つ形式が目立つようになる。塔は上昇性を強調するような工夫が施された。塔の開口部分は縦長になり、塔の上部を絞り込んだ尖塔が備え付けられるようになった。

ゴシック様式は、その装飾がキリスト教を視覚的に要約したものともいえるが、塔は天上への掛け橋のイメージと鐘塔としての機能を併せ持った。またこの時期、ヨーロッパ各地で教会の塔の高さを競う争いも生じた。

双塔の顕著な例としては、フランスではノートルダム大聖堂(パリ大聖堂)・アミアン大聖堂ラン大聖堂・ランス大聖堂シャルトル大聖堂などがる。

シャルトル大聖堂のファサードの右側が1140年から建つロマネスク様式の角錐塔、左が16世紀に建てられた後期ゴシックの塔が建てられた。

ストラスブールのノートルダム大聖堂(1190年~1439年)のファサードは、単塔ながら高さ142m。赤色の砂岩で造られており、独特の印象を与えている。

ドイツのゴシック期の教会塔としては、ケルン大聖堂(1248年~1880年)やウルム大聖堂(1377年~1890年)などが著名である。ケルン大聖堂は、双塔形式でその高さは157mに達した。さらにウルム大聖堂の西構えの塔は161mでゴシック期で最も高い。一方で、ミラノ大聖堂(1386年~1813年)は、高い塔は存在しないが、135基のピナクル(小尖塔)が設けられた。

他方、巨大化するゴシック様式の建築に反発するようにフランスでは「レイヨナン式」と呼ばれる小規模な聖堂も出現した。パリのアルビ大聖堂(1282年~1385年)は、その一例であるが、ここでも高い塔が確認できる。

サン・ジミニャーノ(12世紀~14世紀)。丘の上にある塔の街。
サン・ジミニャーノ(12世紀~14世紀)。丘の上にある塔の街。

キリスト教における宗教建築としての塔とは別に、世俗的な塔の建設も目立った。

イタリアのサン・ジミニャーノは、丘の上にある町である。貴族が教皇派と皇帝派に分かれて競いあい、互いに権力を誇示するため次々と塔が建設されていった。その数は72といわれる。この塔の立ち並ぶ景観は、「サン・ジミニャーノ歴史地区」として世界遺産に登録されている。この町は軍事的意味や宗教的意味で塔が築かれていたわけではなく、世俗的なシンボルとして塔が競って建てられた点が面白い。

ベルギーのフランデレン地域ワロン地域では、自治権を獲得した都市が街の広場の中心に教会とは独立して鐘塔を建設していった。「ベルギーとフランスの鐘楼群」として世界遺産にも登録されている。

クラック・デ・シュヴァリエ(12世紀~13世紀初頭、現シリア)。十字軍の築いた城。
クラック・デ・シュヴァリエ(12世紀~13世紀初頭、現シリア)。十字軍の築いた城。

他方で軍事目的につくられた城塞にも特徴的な塔が作られた。十字軍が建設したクラック・デ・シュヴァリエ(12世紀~13世紀初頭)。フランスのガイヤール城(1196年)やクーシー城なども代表的である。


[編集] ルネッサンスからバロック期の塔

セント・ポール大聖堂(1710年)
セント・ポール大聖堂(1710年)

ルネッサンス時代のイタリアの建築家は、反ゴシックを鮮明に打ち出した。塔よりも安定感のあるドームを重視した。鐘塔の設置はあったが、あまり高さに注力しなくなった。

バロック様式では、再び塔が見直され、教会のファサードに2つの塔が配置されたものが流行した。この双塔形式の教会建築は、バロック期にヨーロッパ全域に広がったほか、スペインが植民地化したラテンアメリカの各地にも数多く建設された。

バロック様式の塔としては、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂(1750年)、イギリス・ロンドンのセント・ポール大聖堂(1710年)など多数の例をみることができる。


[編集] 近代建築の塔

イギリス国会議事堂(1847年~1860年)。向かって右がビッグ・ベン、左がヴィクトリアタワー
イギリス国会議事堂(1847年~1860年)。向かって右がビッグ・ベン、左がヴィクトリアタワー

19世紀にイギリスから始まったゴシック・リヴァイヴァル運動により、塔も再び見直されるようになった。しかし従来のような鐘塔ではなく、近代の合理性を象徴するように時計塔が置かれるようになった。

1836年に再建が始まったイギリス国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)には、高さ97mのビッグ・ベンで知られる時計塔、および110mの高さを持つヴィクトリアタワーが設置された。

カナダ国会議事堂(1865年~1927年)。火災の後に再建
カナダ国会議事堂(1865年~1927年)。火災の後に再建

アメリカでは、19世紀から20世紀にかけて各都市にゴシック様式による教会が相次いで建築された。これらの教会には、高い塔が併設した。

ゴシック・リヴァイバルをよく表現している例として、カナダのオタワにあるカナダ国会議事堂(1865年~1927年)がある。この建物は、一度火災により全てを失ったが、その後再建。中央にある塔の高さは、約92mである。

アントニ・ガウディの代表作であるサグラダ・ファミリア(1882年~)は、当初、東に「生誕の門」、西「受難の門」、 南に「栄光の門」の3つファサードにそれぞれ4つの尖塔、計12の塔を持たせる計画であった。現在完成しているのは「生誕の門」で、塔の高さは92m。

建設中のエッフェル塔(1889年)
建設中のエッフェル塔(1889年)

近代になって建築に取り入れられるようになった素材、すなわちガラスコンクリートは、塔にも新しいスタイルを与えた。

エッフェル塔(1889年)は、鉄骨による300m[2]の塔としてフランスのパリ市内に建設された。エッフェル塔は、第4回万国博覧会のモニュメントも兼ねて設計されたが、パリの美観を損ねるとして建設当初は不評であり、パリの芸術家から抗議がなされた。しかし時代を経るごとにパリのランドマークとして認知されるようになっていった。

エーリヒ・メンデルゾーンの処女作で、ドイツの表現主義の特徴を色濃く出したドイツポツダムにあるアインシュタイン塔(1920年~1924年)がある。この塔は文字通り相対性理論を実測検証のための施設で、鉄筋コンクリートで作られた。

ドイツのダルムシュタットに建てられたヨゼフ・マリア・オルブリッヒ設計のルートヴィヒ大公結婚記念塔(1908年)も、頂部に手をイメージした丸い屋根をもつ特異な形状をしている。

オーギュスト・ペレの作であるフランスのデュ・ランシーのノートルダム教会(1924年)も鉄筋コンクリート製。コンクリート剥き出しの塔が特徴的である。

クライスラービル(1928年~1930年)。完成後に世界一を奪還するため36mの尖塔を追加した。
クライスラービル(1928年~1930年)。完成後に世界一を奪還するため36mの尖塔を追加した。

19世紀末に発明されたエレベーターは、高層建築の居住性を大幅に改善した。1900年代に入り、ニューヨークでは、第一次世界大戦による好景気で、高層ビルの建築ラッシュとなった。その嚆矢となったのは、キャス・ギルバート設計のウールワースビル(1913年)である。先に説明した、イタリアのサン・ジミニャーノのように、相次いで世界一の高さを目指す競争が発生し、摩天楼(Skyscraper)が出現した。

クライスラービル(1928年~1930年)は、高さ283mでアメリカのアールデコ様式の完成形として評価された。しかしビル完成直後にウォールタワーに世界一の高さを奪われた。このため36mの尖塔を追加してその座を奪還した。世界恐慌の発生により、エンパイアステートビルディング(1930年)の完成で、摩天楼の高さ競争は終止符が打たれた。


ソビエト連邦においても高さへ強調を試みる権威的な建築様式が発生した。第二次世界大戦を前後して発生したソビエト連邦のゴシック・リバイバルは、スターリン様式(スターリン・ゴシック様式)ともよばた。1930年代から計画されていたソビエト宮殿は高さ415mでエンパイアステートビルディングを抜いて世界一になることを目指した。この宮殿を中心に、周囲にセブンシスターズと呼ばれる高層ビルを配置した都市設計が行われた。

ソビエト宮殿の建築は見送られたが、周囲の高層ビルは予定通り建設された。これらのビルは高さを強調するように頭頂部に尖塔が設けられた。モスクワ大学本館(1953年)、ホテル・レニングラード(1953年)が代表的である。

第二次世界大戦後、1970年代にワールドトレードセンターシアーズ・タワーなど、アメリカ以外でも世界各国に超高層ビルの建築ラッシュとなった。

1990年代以降は、東南アジアや中国などで超高層ビルの建築が活発化している。


[編集] 日本の塔

法隆寺の五重塔(6世紀~7世紀)現存する木造塔として日本最古
法隆寺の五重塔(6世紀~7世紀)現存する木造塔として日本最古

仏塔を参照。

すでに述べたように、「塔」の字は元々は仏寺にあるものを指す言葉であった。さらに、日本最初の本格的な仏教寺と推定されている飛鳥寺の伽藍は、塔を中心とし、その東・北・西に金堂が配置されていた。しかし次第に塔は伽藍の前面に置かれるようになった。

[編集] 木造仏塔

木造塔の建築様式としては、大きく分けて「多重塔」と「多宝塔」に分けられる。

談山神社の十三重塔(1532年頃)
談山神社の十三重塔(1532年頃)

多重塔は、三重塔五重塔に代表されるもので、平面上から見て四方形(円形や多角形もある)の空間を何層にも重ねたものである。日本の多重塔の源流は、中国の楼閣であると考えられている。

塔の中心には「心柱」が置かれた。その周囲に柱を配置している。頂部には「相輪」とよばれる銅または鉄でできた小塔を取り付けた。

塔を支える心柱は、法隆寺の五重塔では地中2mほどに礎石を置き、その上に建っている(掘立て式)。平安時代に入ると、礎石を地表において、その上に心柱を置くようになった(地上式)。

さらに鎌倉時代以降は、心柱を最上層から第二層で止めるようにしたものが目立つ。京都の海住山寺の五重塔がこの形式の現存する最古のものである。

江戸時代の寛永寺や日光東照宮の五重塔は、心柱を上から吊り下げる構造をとっている。これは、木材の乾燥に起因した心柱の収縮と他の柱の収縮の差による歪みの発生を抑えるためと考えられている。

五重塔より多層のものは、七重以上は木造では数が比較的少ない。妙楽寺の十三重塔(現、談山神社)が唯一現存する木造塔である。

752年に奈良の東大寺に高さ320尺(約100m)の七重塔が東西二基が建設され、何度か消失の後に再建されたが、室町時代以降は再建されなかった[3]。この塔が日本で最高を誇った木造塔であった[4]

石山寺の多宝塔(1194年)
石山寺の多宝塔(1194年)

多宝塔は本来、多宝如来と釈迦如来の2つの仏像を安置した塔のことである。木造の他に石造のもの(長野の常楽寺多宝塔など)も存在する。通常一層目が方形で、二層目が円形をした二層形式のものが一般的であるが、その外観は一定していない。中国では三層式が多く、日本でも六角三重塔のものが存在していた。

二層目の円形部分を支える柱を第一層にまで伸ばしたものを大塔形式と呼び、多宝塔と区別する場合もある。空海が建立した高野山大塔(810年頃?)が最初と言われる。

石山寺の多宝塔は、鎌倉時代の1194年の建立で、現存する木造多宝塔の最古のものである。根来寺の多宝塔(大塔)は高さ約36m。現存する日本最大規模の多宝塔で、現存する唯一の大塔形式である。

[編集] 石造仏塔

五輪塔(ごりんとう)は、密教での五大、すなわち地・水・火・風・空を体現した塔である。日本独自の仏塔で、墓碑や供養碑としても広く使われている。

無縫塔(むほうとう)は、塔の一番上のを楕円形につくった塔のことであり、縫い目の無いことからこの名前がついたといわれる。またこの形状から卵塔(らんとう)とも呼ばれることがある。元々は唐時代の中国で生まれ、鎌倉時代に日本に伝わったと考えられている。

宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、陀羅尼(だらに)と呼ばれた呪文を納めておくための塔であった。後に、墓碑や供養碑などにも使われるようになった。法隆寺の絵にも描かれているため、古くから日本に伝わったと考えられている。平安時代には木造の塔に陀羅尼を納めたこともあったようだが、鎌倉時代に石造となった。


[編集] 塔と安全性

塔はその高さのため、外部要因による思わぬ副作用や倒壊などの危険性をはらむ。

[編集] 構造的欠陥

ピサの斜塔(1173年から1372年)は、地盤の弱い場所に建てられ塔が傾いた。このため予定の半分の高さに変更となった。
ピサの斜塔(1173年から1372年)は、地盤の弱い場所に建てられ塔が傾いた。このため予定の半分の高さに変更となった。

ピサの斜塔(1173年から1372年)は、地盤の弱い場所に建てられ塔が傾いた。このため予定の半分の高さに変更となったが、そのまま工事が続けられた。不等沈下の最も顕著な例となってしまった。

フォントヒル修道院(1776年~1812年)。塔は2回崩壊した。
フォントヒル修道院(1776年~1812年)。塔は2回崩壊した。

フランスのボーヴェ大聖堂(1225年~1300年頃)は高さ153mという塔の建設に挑戦した。しかし完成して10年後に塔は自然崩壊した。

またイギリスにおけるゴシック・リヴァイヴァル建築の先駆けであるウイリアム・バックフォード作のフォントヒル修道院(1776年~1812年)は、90mの高さを持つ塔が予定されていた。しかし、工事中に塔は崩落し、バックフォードは設計ミスを認めた。結局規模を縮小して完成をみたが、1825年に崩壊し、再建されることはなかった。

[編集] 地震

すでに述べたが、エジプトにあったアレクサンドリアの大灯台は14世紀頃の地震により崩壊している。

一方で日本の五重塔は地震でほとんど倒壊した例はない。これは、塔の各層が強固に結合していない、いわゆる「柔構造」を取るため地震の揺れに強いと考えられている。

[編集] 航空機の衝突

ニューヨーク、エンパイアステートビルディング(1930年)。1945年に航空機が衝突したが、建物はそのまま使用されている。
ニューヨーク、エンパイアステートビルディング(1930年)。1945年に航空機が衝突したが、建物はそのまま使用されている。

衝突の予防設備として、航空障害灯の設置がある。日本の場合では、航空法で地上面から60m以上の建物には航空障害灯の設置が義務づけられており、さらに鉄塔のような骨組み構造の構造物に関しては、点滅するランプ等による昼間障害標識の設置も必要となる。

エンパイアステートビルディングは、1945年7月28日にアメリカ空軍のB-25爆撃機が79階に衝突する事故が発生した。原因は、濃霧による視界不良であった。B-25爆撃機は目的地のニューアーク空港に向かっている途中で残りの燃料が少なかったこともあり、建物への被害が少なかった。エンパイアステートビルディングが完成したのは1930年であり、航空機の衝突は設計上まったく想定されていなかった。この事故を教訓に、高層建築物は航空機の衝突も想定した設計がなされるようになった。

2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件で、2機のボーイング767ワールドトレードセンターの南棟・北棟に相次いで突入した。ワールドトレードセンターの設計に航空機の衝突は考慮されていたので、突入直後にはビルは倒壊しなかった。しかし、約1時間後に2棟とも倒壊した。原因は、衝突の衝撃で耐火被覆が脱落し、さらに離陸直後の767が搭載していた大量の燃料による火災の高熱でビルを支えていた鋼材の強度が低下したことによる。

[編集] 風による振動

塔が高くなると風による圧力も無視できない。一方強度上で風を克服したが、高層建築では強風により長時間揺れることが問題となった(風揺れとも呼ぶ)。これに対応するための制振装置の導入も行われている。例えば横浜マリンタワーの最上部には、水槽を設置している。これは水槽の中の水がタワーの揺れにともなって振動し、この水の振動が建物の揺れを抑える方向に働くことで、建物の揺れを抑えることができる(この装置を液体ダンパと呼ぶ)。

[編集] 脚注

  1. ^ ただ天守を英訳するときに「tower」をあてることがある。
  2. ^ 後に320m
  3. ^ 1970年の日本万国博覧会において古河パビリオンとしてのこの塔が再現されている。鉄筋コンクリート製。
  4. ^ 法勝寺の八角九重塔は、高さ840尺(約250m)と伝わっている。しかしこの信憑性は低い

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ
マルチメディア
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