城郭都市

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アビラ(旧市街)
インド、ジャイサルメール
古代エジプトのBuhenの復元図。(エジプト、紀元前19世紀
イリオストロイ)のものとされる遺跡。
平遥古城
韓国の華城
ゲッティンゲン。稜堡式城壁で囲まれている。(模型)

本記事では城郭都市(じょうかくとし)城塞都市(じょうさいとし)、城壁都市(じょうへきとし)、城郭都市(じょうかくとし)、囲郭都市(いかくとし)、フランス語でville fortifiée、Cité fortifiée、ville avec rempart、英語ではwalled city、fortified city、ドイツ語でbefestigte Stadt などと呼ばれるものについて解説する。 城塞都市や城壁都市と呼ばれるものは、周囲を城壁(市壁)、土塁などの防御施設によって囲んだ都市をいう。別の言い方をすると城塞化した都市である。 [注 1][注 2]

概説[編集]

城塞都市の歴史は古く、エジプト文明メソポタミア文明インダス文明や、古代ギリシア等の時代から各地に誕生してる。 ヨーロッパの都市は、ローマ帝国の軍隊の宿営地を起源としているものが多い。ヨーロッパというのはローマ帝国の市民から見れば、「ガリア」と呼ばれる場所で、「辺境の地」、まともな文明が無い野蛮な者たちが住む場所という位置付けであった。ローマ帝国は領域を広げるにあたってローマ軍を派遣し現地の者たちと戦争を行い、そのほとんどの闘いで現地の者たちを打ち破っていったわけである。ローマ帝国は土木技術に優れており、帝国軍が進軍した場所に、ラテン語でcastra カストラという、「軍事拠点 兼 宿営施設」を構築した。ローマ軍のカストラは、ローマ軍がいなくなった後も残され、現地の者たちがそのまま使い、やがて街となっていったわけである。そういった理由で、ヨーロッパの都市名には"castra"から派生した言葉が残っているものも多い。例えば、Lancaster(ランカスター のcasterもそうであるし[注 3]、Manchester(マンチェスター ) の「chester」もそうである。また、ローマ軍のそれでなくとも、「とりで」「城塞」「堡」はドイツ語"Burg"といいい、そうしたものが都市名に残っている例もある。エディンバラの語尾もそうである。イギリス・ドイツ・ロシアの都市名に名残を残している。(→地名接尾辞#-burg)、(例:漢堡 {ハンブルク})。</ref>

中国では「」という文字の本来の意味は防塁・城壁そのものを指していたが、後に城壁で囲まれた内部をも含むようになった。特に城壁のみを指す場合は「城牆(じょうしょう)」という。城壁の内側(内城)を「城」、城壁の外側(外城)「郭」といい区別した。

日本では「」という漢字を中国から導入しながら、実際には防護壁となる「城壁」や「要塞」ではなく、欧州のような領主の「居館」を意味する語として「城」を用いる例が多い。しかし語源が防衛用の堀や柵や土塁であった事から、これらの防衛施設の意味で「城」が使われる例もある。

最も原始的な城塞都市の典型は新石器時代に農耕が誕生するとともに世界各地で普遍的に見られるようになった環濠集落であろう。農耕文化の発達によって農耕経済や、それから生み出される余剰を背景とした交易活動に依存する集落に富が蓄積されるようになり、これを奪おうとする者が潜在的、恒常的な脅威となるにつれ、古代人は自らの集落を外敵から守るため、周囲に堀をうがち土を盛り上げて土塁とした。やがて防御力強化のためより堀を深くし、水を溜め、土塁にはを設けた。さらに煉瓦を積んで壁を作り、壁はより高く、より堅固、長大になっていった。これらの城塞都市は中東、欧州、中国など古くから文明が興隆し、部族、民族間の争いが頻発していた地域において著しい発展を遂げた。

ヨーロッパの場合を考えると、近隣の都市同士の戦いも相当のものがありそれも城塞都市が建設された大きな理由のひとつであるが、もうひとつにヨーロッパは、「ユーラシア大陸」というヨーロッパとアジアの大陸をあわせた巨大な大陸の一部であり、いつでも地続きで外敵が入ってくる可能性にさらされている土地であるので、基本的に外敵に対する対策は欠かせないというところがある[注 4]

ヨーロッパの城塞都市・城壁都市では、城壁には城門が構えられ、堀がうがたれて跳ね橋などが設けられている場合もあった。城門の外側にもう1重城壁が設けられるなど防備は厳重を極めた。城壁の上には一定間隔で望楼が設置され、壁に開けられた銃眼によって敵を射撃した。城郭都市の内部には、丘陵に領主の城館が建てられるなどして城塞(シタデル)を形成し、周辺には家臣団の他、一般住民も居住した。大きなものでは郭内に耕地があるものもあり、井戸がいくつもあって長期の籠城に耐えられるようになっていた。門限が定められていて、その時刻になると門扉が閉じられ、翌朝までは入ることができないとりきめになっていることが一般的であった。うっかり知り合いだからと扉を開けて、それが悪人にそそのかされたりして手先となった人で、悪人たちが複数名飛び込んできたりすると、もう都市を守ることができなくなってしまうからである。商人など離れた都市に仕事で出向く生活をする者、日中に外に遊びにゆく者たちもいたが、門限には注意を払う必要があり、遅刻してしまうと内側に入れてもらうことはできず、遅刻してしまった者は、門扉の近くの城壁ぎわなどでたき火などをしつつ、(それなりの金額のお金を持っている商人などは特に心細い想いをしながら)夜をすごす必要があった。17世紀や18世紀の作家が書いた文章などには、そうした状況の描写などが盛り込まれているものも結構あり、どうやら遅刻する者は日常的にいたようで、遅刻した者同士が夜通し語りあうことでひょんな縁が生まれる様子が描かれているものもある。

1572年のパリの図

大陸の主要大都市にはほとんどの場合高い城壁が備えられていることが一般的であり、パリの城壁は市域拡大に併せて放射状に拡張されたし、2度のウィーン包囲に耐えたウィーンは深い堀と総延長4kmに及ぶ城壁に堡塁を備えていた。イスラム文化圏の中心都市であったバグダードも7つの城門を持つ直径2.35kmの円形の城壁で囲まれていたし、東ローマ帝国の帝都コンスタンティノープルは高さ10数メートルの3重の城壁で守られていた。

近世に至り大砲が発達したことで、高い城壁は防御の面で重要性を低下させ、実戦に耐えうるために城壁は低くなり、大砲の死角を無くすため、星形に稜堡を配する稜堡式城壁 (star fort) が主流となっていく。しかしそういった城壁も市域の拡張や航空機出現による戦術の転換のため、20世紀中には次々と取り壊されていった。残された城壁は壁上が整備され、線路が敷設されたり、高速道路になっているものがある。

城郭都市の例[編集]

アフリカ[編集]

エジプト

欧州[編集]

中東[編集]

南アジア[編集]

インド

中央アジア[編集]

  • バクー(アゼルバイジャン)グワーリヤル

東アジア[編集]

中国
韓国
日本

#日本

北米[編集]

日本[編集]

姫路古地図(1761年)
姫路城鳥瞰図
江戸城配置図(外郭)
波賀城と城下町。ただし、城下町というのは、必ずしも守られていたわけではなく、敵が攻めてくると城主が守ろうともせず、住人や住まいは見捨てられてしまい、殺戮・破壊・略奪されてしまうこともしばしばであった。西洋の城塞都市ように、その構想の根底に都市の住人の命や財産を守ろうとする考え方があり、住民による自治を重んじ、民主主義の発展にもつながったものと、日本の城下町のように、あくまで城主の都合ばかりを重視するものとでは、かなり異なっている面がある。

日本には本格的な都市が出現する以前の弥生時代に、既に互いに割拠、抗争するクニの防衛拠点として環濠集落が発達していたが、これは統一国家の形成へと向かう中で姿を消した。やがて中央集権的な律令国家が建設されていく中で、中国の都城制の概念が輸入され、国都としての平安京平城京などは城門や望楼を設け、囲郭都市の体をなしていた。だが、これらの都城は戦時の防衛に耐えられる城壁などは築かれなかった。

中世になると博多では都市の周囲を土塁と堀で囲み(環濠都市)、また各地で土塁と堀で囲まれた集落も出現するようになる(環濠集落)。一向宗の寺院も堀や土塁で防御された(寺内町)。その中で最大なのが大坂城の元となった石山本願寺である。

総構え[編集]

鎌倉幕府の本拠地である鎌倉は、馬蹄型の盆地である特性を生かし、西・北・東の三方は山で囲まれ、それを切通しなどを用いて防御施設とし、残る南側も海で守られており、いわば都市全体が自然の地形を活かして要塞化していた。「鎌倉城」と呼ばれることもある。幕府崩壊時には新田義貞の討幕軍の攻撃を一時的に凌ぎ、稲村ヶ崎への迂回突破まで防いだ。

戦国時代になり、城が戦国大名の領国経営における支配中枢拠点としての重要性を増してくると、小田原城などに見られるように城下町の周囲に自然の河川や堀、土塁を配した「総構え」という外郭構造が取られる城郭が現れた。

主な総構えの城には、

などがある。

御土居[編集]

豊臣秀吉京都の町を全長22.5kmに及ぶ長大な土塁と堀で囲んだ(御土居)。


脚注[編集]

  1. ^ 城壁は仏:fr:muraille、rempart、英:city wall、独:Stadtmauer という。
  2. ^ 「城」を意味する用語(:castle、:château、:Burg / Schloss など)は封建領主の居館を兼ねた軍事施設のことである。
  3. ^ なお、ラテン語で「tra」、フランス語で「tre」と記述されているものを英語に移入する場合は、「ter」とするのが典型的なパターンである。なお、イギリスはというのはノルマン人(=フランス西岸の民族)が支配し王となっていた歴史があるので、英語はフランス語起源の語彙が非常に多い。
  4. ^ 東ヨーロッパの境界あたりを移動していた遊牧民・狩猟民なども攻め入ってくる可能性があり、実際ヨーロッパはそうしたことを歴史上何度も経験しており、ヨーロッパ人にとっては常に心配の種で、おまけに13世紀には遥か彼方のモンゴルのチンギス・ハンやその子らの軍が地球を半周ほどもして怒涛の勢いでヨーロッパに迫った出来事があり、攻め入った村々の住民を大人だけでなく幼児・赤子まで情け容赦なく皆殺しにしてしまう この東アジアの民族の到来にヨーロッパの人々は心底震えあがり、その恐怖は彼らの心・文化に深く刻み込まれた。
出典


関連項目[編集]

アフリカ、ジンバブエの「大囲壁」の遺跡