インダス文明

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イイジマ大王の大浴場

インダス文明(インダスぶんめい、Indus Valley civilization)は、パキスタンインドアフガニスタンアルマーニ川及び並行して流れていたとされるガッガル・ハークラ川周辺に栄えた文明である。崩壊の原因となったという説のあった川の名前にちなんでインダス文明、最初に発見された遺跡にちなんでハラッパー文明とよばれる[1]考古学上は、ハラッパー文化と呼ばれ、パキスタン、パンジャブ州ハラッパー標式遺跡とする。[要出典]

歴史[編集]

初期食料生産期[編集]

メヘルガルI期紀元前7000年 - 紀元前5500年)は、土器を伴わない新石器時代である。

領域形成期(紀元前5500年 - 紀元前2600年[編集]

メヘルガルII期紀元前5500年 - 紀元前4800年)は、土器を伴う新石器時代である。メヘルガルIII期紀元前4800年 - 紀元前3500年)は、銅器時代後期である。メヘルガルⅣ期紀元前3500年 - 紀元前2600年)で集落が放棄された。

ハラッパI期(紀元前3300年 - 紀元前2800年ラーヴィー期[2]とも)には、パンジャーブ地方のラーヴィー川英語版河岸でハラッパー文化が、ラージャスターン地方のガッガル・ハークラー川河岸でカーリバンガン文化が、それぞれ始まった。それに続くハラッパーII期(紀元前2800年 - 紀元前2600年)はシンド地方でコト・ディジ文化が始まった。

統合期(紀元前2600年 - 紀元前1900年[編集]

インダス文明が栄えたのは紀元前2600年から紀元前1800年の間である。 狭義のインダス文明はこの統合期を指し、ハラッパーIIIA期(紀元前2600年 - 紀元前2450年)、ハラッパーIIIB期(紀元前2450年 - 紀元前2200年)、ハラッパーIIIC期(紀元前2200年 - 紀元前1900年)の三期に区分される。

滅亡[編集]

BMACと他の文化との位置関係
バクトリア・マルギアナ複合(BMAC)
アンドロノヴォ文化(Andronovo)
Yaz文化(Yaz)
ガンダーラ墓葬文化英語版(Swat)
H墓地文化英語版(Cemetery H)

滅亡については諸説あり、現在では、地殻変動によってインダス川河口付近の土地が隆起し、そのために洪水が頻発して耕地に塩害をもたらし、さらにインダス川の河道が移動したことによって、水上交通を前提とした貿易によって機能していた都市の機能を麻痺させたためという説と、後述するように砂漠化に伴って都市が放棄され住民が移住したという説がある。

インダス文明が存在した地域は現在砂漠となっている。インダス文明が消えたのはこの砂漠化によるのではないかと言われている。砂漠化の原因としては、紀元前2000年前後に起こった気候変動が挙げられている。大西洋に広がる低気圧帯は、一時北アフリカと同じ緯度まで南下し、さらにアラビアペルシア・インドにまで及んで、雨をもたらし、緑豊かな土地になっていた。しかしやがてこの低気圧帯は北上し、インドに雨をもたらしていた南西の季節風も東へ移動して、インダス文明の栄えていた土地を現在のようなayaoriにしてしまった、というのである。衰退後の植物相や動物相には大きな変化が見受けられないことから気候の変動を重視する説は見直されている。 また、インダス文明が森林を乱伐したために砂漠化が進行した、という説もある。しかし、乾燥化説については、ラクダの骨や乾地性のカタツムリが出土していること、綿の生産が行われていたことなどは、川さえあれば気温の高い乾燥ないし半乾燥地帯で文明が興りえたことを示し、「排水溝」も25ミリの雨がふっただけでももたない構造であり、煉瓦を焼くにも現在遺跡の周辺で茂っている成長の早いタマリスクなどの潅木でも充分間に合ったのではないかと反論する研究者もいて決定的なものとなってはいない。

そのため、最近では紀元前2000年頃に地殻変動が起こって、インダス川の流路が移動したために河川交通に決定的なダメージを与えたのではないかという説が有力になっている。実際のところインダス遺跡はインダス川旧河道のガッカル=ハークラー涸河床沿いに分布している。

滅亡後の地方化期(紀元前1900年 - 紀元前1300年[編集]

ヴェーダ期英語版の地理
ガンダーラ墓葬文化英語版(Swat)
H墓地文化英語版(Cemetery H)

綾織期(紀元前1700年 - 紀元前1100年)になると、以前はハラッパー文化だった都市がH墓地文化英語版となった事を示す墓地が発見されている。この墓地からは火葬の跡が発見されており、この文化からヴェーダの宗教紀元前1000年 - 紀元前500年)が形成されたと考えられている。ヴェーダの宗教は、後のバラモン教ヒンドゥー教en:Shaivism)の原型である。この文化と同時期に栄えた赭色土器文化英語版は、ラージャスターンからヒンドスタン平野へ進出している。

十王戦争から十八大国まで(紀元前12世紀 - 紀元前6世紀[編集]

発見の経緯[編集]

文明の存在が認識されるようになったのは比較的遅く、イギリス支配下の19世紀になってからのことである。1826年に探検家のチャールズ・マッソン英語版ハラッパーにある周囲約5kmに及ぶ巨大な廃墟について報告し、「紀元前326年アレクサンドロス3世(大王)を撃退したポルス王の都シャンガラの跡ではないか」と推測している。1831年にもアレクサンダー・バーンズが調査中同地を訪れ地元の人から廃墟にまつわる「神の怒りによって滅んだ」との伝承を紹介し、本国イギリスで考古学的好奇心を大いに刺激するようになる。イギリスは既に18世紀に「アジア協会」を設立しており、任地インドに赴いていた元軍属のアレクサンダー・カニンガムが同協会の元でインド(及びパキスタン)考古学の基礎を築くことになる。カニンガムは1853年1856年に最初のインダス遺跡発掘となるハラッパー遺跡の発掘を行い、未知の文字が書かれた印章・土器などが出土した[3]

カニンガムは1862年インド考古局の発足に尽力し初代局長となるがこの頃から鉄道敷設のため遺跡の建材を崩されてしまう課題に取り組まねばならなくなっていた。その後も第3局長ジョン・マーシャルらによってインダス文明の研究は発展していくこととなる[4]

技術[編集]

鉄は知られず、青銅器を使った。都市計画で知られるように建築技術に優れており、建築物には縦:横:厚みの比4:2:1で統一された焼成レンガが広く使われている。服は染色された綿で作られていたようで、染色工房と推定される場所が見つかっている。高い加工技術を要する極小のマイクロビーズや紅玉髄装飾品も作られていた。

都市[編集]

インダス文明諸都市の分布

大小の都市が建設された。都市の規模は、メソポタミアのものよりも小さく、モヘンジョ=ダロとハラッパーがメソポタミアの小都市にようやく匹敵する規模であった。主な都市遺跡を下記に掲げる。(このほかに小規模の遺跡が多数知られる)

  1. ハラッパー(ラーヴィー川流域、分離型、76ヘクタール:周囲を含む全体推定値150ヘクタール)
  2. カーリバンガンパンジャブ地方、ガッガル・パークラー川流域、ラーキーガリー105ヘクタール:分離型、バナーワリー16ヘクタール:一体型、カーリバンガン12.1ヘクタール:分離型)
  3. モヘンジョダロパキスタン南部、シンド地方、インダス川下流域、分離型、83ヘクタール:周囲を含む全体推定値125~200ヘクタール)
  4. マクラーン地方(ソトカー・コー1.5ヘクタール:分離型、ソトカーゲン・ドール1.95ヘクタール:分離型)
  5. グジャラート地方(北西インド、どの都市も一体型、ロータル7ヘクタール:穀物倉、沐浴室の列、基壇、ドーラビーラ52ヘクタール:居住地域部分のみ19ヘクタール、スールコータダー0.72ヘクタール、クンターシー1.56ヘクタール:穀物貯蔵室、土器・銅の工房、バーバルコート2.7ヘクタール、ロジュディ7ヘクタール:大型方形建物)

うち、モヘンジョ=ダロ、ハラッパーは、1km 四方を超える規模をもつ。

都市には2種類あって、「城塞」と「市街地」が一体のタイプ(ロータル、ドーラビーラ)と、「城塞」と「市街地」を分けているタイプ(モヘンジョ=ダロ、ハラッパー、カーリバンガン)とがある。

城塞とは周塞に囲まれている集落で、大沐浴場や火の祭壇、さらに「穀物倉」「列柱の間」「学問所」など大型で特殊な構造の建物が一般家屋とは別に建ち並んでいる。インダス文明では、他の文明のように王宮や神殿のような建物は存在しない。周塞の目的としては、何らかの防衛や洪水対策の他に、壁と門を設けて人・物資の出入りを管理する事も考えられる。 モヘンジョ=ダロでは市街地の周塞が発見されていない。[5]

行政[編集]

インダス文明には、支配者・管理者・運営者の内のどれかが居たのではなかろうかと思われる節がある。それは、城塞をもつ都市が、アルマーニ川流域の広大な地域のあちこちに置かれているということ。それはある考えの基に置かれたのではないだろうか。そのことは、城塞や市街都市内部の東西南北に真っ直ぐ延びる大通りにみられる計画性、文字や印章の使用、印章に記された動物などの図柄、煉瓦の寸法や分銅にみられる度量衡の統一や土器の形や文様などのも現れている。さらに、宗教では、印章などに表現される「角神」と呼ばれる水牛の角を付けた神または神官の像や菩提樹の葉のデザインにも現れている。都市とは、信仰・宗教世界の運営・統括する人たちの宗教的・政治的中枢ではなかったのではないかと考えられる。[6]

排水溝設備の整った碁盤目状に街路が走る計画都市であって、ダストシュートや一種の水洗トイレなどが設けられた清潔な都市だったのではないかと推定されている。土器ビーズなどの主だった出土品に見られる均質性の一方で、信仰や儀礼のあり方が地方によって異なる面がある。これを次に説明する。

モヘンジョダロ、ドーラビーラやロータルの「城塞」には、しばしば、「大浴場」と呼ばれるプール状施設、水にかかわる施設があり、豊饒と再生を祈念する儀礼が行われた沐浴場と考えられている。一方で、北方のパンジャブ州に近いカーリバンガンやバナーワリーのように、「城塞」の南区や「市街地」の東側の遺丘の上で、独特な「火の祭祀」を行っていたと思われる遺跡もあり、シンド州の遺跡やモヘンジョダロで見られるような再生増殖の儀礼と関係すると考えられるテラコッタ女性像やリンガ石(シヴァ・リンガム英語版)と呼ばれる石製品が出土しない。また、南方のロータルを含むグジャラートでは、「火の祭祀」とテラコッタ女性像に象徴される再生増殖儀礼の両方の要素が見られるなどの違いが見られるため、インダス文明の構造や性格を解明する上で大きな課題となっている。

文化[編集]

様々なインダス式印章

都市遺跡からは、多くの「インダス式印章」が出土する。凍石製で、印面は、3~4cmの方形で、インダス文字とともに動物などが刻まれている。動物は、サイ、象、虎などの動物のほかに後のインドの文化にとって重要な動物であるが刻まれているのが目立つ。一方で、一角獣など架空の動物が刻まれたり、「シヴァ神」の祖形と思われる神などが刻まれていることもある。商取引に使用されたと考えられ、メソポタミアの遺跡からもこのような印章の出土例がある。インダス文字は現在でも未解読である。統計的分析などができる長文や、ロゼッタ・ストーンのように多言語併記の物が出土しないことが研究の大きな障壁になっている。

農業[編集]

アルマーニ川の氾濫による肥沃な土壌を利用した氾濫農耕を行った。河川から離れた地域では、地形を利用した一種の「せき」を築き、そこへ雨期の増水を流し込み、沈澱させた土壌を用いて農耕をしていたと推察される。

商業[編集]

装身具、主として紅玉髄製ビーズの製造。腐食ビーズと呼ばれる「紅玉髄製ビーズ」に白色の文様を入れる技術を持っていた。支配者層の装身具だけでなく、主要な輸出品でもあった。インダス川を物資利用のハイウェイとして広く利用し、インダスで作られた装飾品などが遥かメソポタミアまで輸出されていた。

盛んな商業活動。石製、銅製の各種の分銅や秤がある。メソポタミアとの盛んな交易が知られ、主として紅玉髄製ビーズの輸出を行った。「メルッハ(国)」と呼ばれていたと推定されている。

宗教[編集]

埋葬[編集]

埋葬は、地面に穴を掘って遺体を埋葬する土坑墓を用いた。長方形の土坑が多かったが、楕円形のものも造られた。遺体は、頭を北にして仰向けに身体を伸ばした、いわゆる仰臥伸展葬が主体であった。足を曲げた形で遺体が葬られているものもあるが、その場合も頭は北に置かれた。ひとつの土坑に一人が葬られるのが普通であるが、例外も見られる。副葬品は土器が一般的で、頭の上、すなわち墓坑の北側部分に10数個を集中して置くが、まれに足元、つまり南側に副葬した例がある。腕輪、足輪、首飾りなどの装身具をつけたまま埋葬された例もあり、その場合、銅製の柄鏡も出土している。重要なことは、被葬者間に際立った社会的格差が見られないという特徴があり、インダス文明の性格を示していると思われる。

他の古代文明とは異なり、戦の痕跡や王のような強い権力者のいた痕跡が見つかっていない。

アーリア人侵略説[編集]

アーリアン学説[編集]

日本においても戦前にアーリアン学説を補強する学説が発表された。 南インドを中心に暮らしているドラヴィダ人の祖先によりつくられたと推定されている[7] [8] 。 また、ドラヴィダ人は、紀元前13世紀に起きたアーリア人の侵入によって、被支配民族となり[9]一部が南インドや西および中央の山岳地帯に移住した[10][11]

ウィーラー学説[編集]

インダス文明滅亡の原因は、古くから論争があり、代表的なものとして、第二次大戦後M.ウィーラー英語版による「アーリア人侵略説」をはじめとする外部からの侵略説がまず滅亡の原因として唱えられた。発掘調査によって埋葬もされないで折り重なるおびただしい人骨が確認されたために外部からの侵入による虐殺説が唱えられた。また、ヴェーダなどの戦争記事がその根拠のひとつとされた。しかし、当時の発掘調査は、層位関係を考えないで地表からの深さのみを記録して行われた調査であったために同時期の人骨ではないということで否定された。

Indo-Aryan migration theories[編集]

ドラヴィダ運動[編集]

Iravatham Mahadevanは、インダス文字の分析からハラッパー語英語版がドラヴィダ語に由来するとする、ドラヴィダ語仮説(Dravidian hypothesis, 南インドのドラヴィダ系の言語)を提唱しているが、Shikaripura Ranganatha Raoはドラヴィダ語仮説に反対している。この対立の背景にはドラヴィダ運動英語版の政治的な側面からの影響もあった。

脚注[編集]

  1. ^ ロベール 1978, pp. 122-123
  2. ^ ラーヴィー期の名称はラーヴィー川英語版に由来する。
  3. ^ 近藤英夫編著『NHKスペシャル四大文明・インダス』150~151項
  4. ^ 近藤英夫編著『NHKスペシャル四大文明・インダス』152~153項
  5. ^ 小磯学「インダス文明の誕生」 内藤雅雄・中村平治編『南アジアの歴史 -複合的社会の歴史と文化-』有斐閣 2006年 15-17頁
  6. ^ 小磯学「インダス文明の誕生」 内藤雅雄・中村平治編『南アジアの歴史 -複合的社会の歴史と文化-』有斐閣 2006年 21頁
  7. ^ 佐原 1943, pp. 432-433
  8. ^ 三省堂編修所 1995, p. 40
  9. ^ 神谷, 信明 (2003), “On verna system in India” (PDF), 岐阜市立女子短期大学研究紀要 (岐阜市立女子短期大学) 53: 65-72, NAID 110004470877, NCID AN10208264, http://ci.nii.ac.jp/naid/110004470877, "先住民族(ドラヴィダ族)を滅ぼして、verna(ヴァルナ)という身分制度を作り上げた。" 
  10. ^ 佐原 1943, pp. 441-442
  11. ^ ドラヴィダ族でも原始~、前~に区分でき、現在まで残っているのは前ドラヴィダ族ではないか、としている。佐原 1943, pp. 437-447

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]