フリータウン
| フリータウン市 City of Free town |
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|---|---|
フリータウン港 |
|
| 位置 | |
| 座標 : 北緯8度28分44.4秒 西経13度16分6.34秒 / 北緯8.479000度 西経13.2684278度 | |
| 歴史 | |
| 建設 | 1792年 |
| 行政 | |
| 国 | |
| 州 | 西部地域 |
| 県 | 都市県 |
| 市 | フリータウン市 |
| 市議会議長 | ハーバート・ジョージ・ウィリアムズ (全人民会議(APC)) |
| 地理 | |
| 面積 | |
| 市域 | 357km2(137.8mi2) |
| 標高 | 26m(84ft) |
| 人口 | |
| 人口 | (2006年現在) |
| 市域 | 約1,070,200人 |
| 備考 | [1]参照 |
| その他 | |
| 等時帯 | グリニッジ標準時 (UTC+0) |
| 夏時間 | なし |
フリータウン(Freetown)は、シエラレオネ共和国の首都。同国最大の都市である。
人口は2004年時点で107万人。同国南西部のフリータウン半島に位置し、シエラレオネ川の西に大西洋を臨む港湾都市。クィーン・エリザベス2世・キー(埠頭)はフリータウン最大の公共交通機関である。フリータウンの市長は2008年1月7日に就任したハーバート・ジョージ・ウィリアムズ(Herbert George-Williams)。イギリスの解放奴隷が建設した欧米型の都市で、かつて西アフリカの経済や文化の中心地だった。
目次 |
歴史[編集]
1787年にグランビル・シャープを中心にトマス・クラークソン、ウィリアム・ウィルバーフォースら奴隷制度廃止主義者らにより、奴隷貿易廃止促進協会が結成され、「自由の国」をスローガンとしたイギリスの解放奴隷の黒人らによるシエラレオネの入植計画が始まった。グランビル・シャープは解放奴隷の町建設の為、現地部族テムネ族のトム王から土地を貰いフォーラー・ベイ付近グランビルタウン(後にクラインタウンと改名)の入植するが、テムネ族のトム王の後継者ジミー王による攻撃やマラリアなどの病気により多くの入植者が死に、失敗していた。1791年グランビル・シャープの後継者として、奴隷貿易廃止促進協会のメンバーでもあった、アレキサンダー・ファルコンブリッジ指導の下、入植失敗したグランビルタウンはクラインタウンと改名し、再建設されるがこれも結局成功しなかった。
1792年トマス・クラークソンの弟で、イギリスの奴隷制度廃止を推進するシエラレオネ会社のエージェントであったイギリス軍人ジョン・クラークソン中尉により、イギリスや北アメリカ(カナダのノヴァスコシア州)やジャマイカなどの奴隷制度から解放され自由になった黒人たちの移住地として再びシエラレオネでフリータウンは建設された。兄トマスの後を引き継ぎ、ジョン・クラークソンはアメリカ独立戦争で、カナダのノヴァスコシア州に移されていたイギリスの為に戦った元奴隷の黒人達をシエラレオネに移住させる計画をしていた。トマス・ピーターズを中心にバプテストの牧師デヴィッド・ジョージ、メソジストの牧師モーゼス・ウィルキンソンらノヴァスコシアの解放奴隷の黒人らはフリータウン植民地の代表的な創立者であり、彼らはフリータウンに移住する為に、ノヴァスコシアの解放奴隷の黒人達に対して入植の募集をし、カトー・パーキンスやジョセフ・レオナルドの様なアメリカの奴隷反対主義者も支援ていた。1822年に建設されたシエラレオネの隣国リベリアの首都モンロビアもアメリカの解放奴隷の黒人により、建設された入植地であるが、フリータウンは其れよりも古い解放奴隷の入植地であった。ノヴァスコシア州から入植しに来た黒人達は当初、フリータウンのセトラータウンと呼ばれる地域に移住し、彼らはノヴァスコシアン・セトラーズと呼ばれていた。1800年になると、ジャマイカからノヴァスコシアに移されていた逃亡奴隷マルーン550人もフリータウンに移住しマルーンタウン地域を設立した。
1997年、シエラレオネ内戦が激化。当時政権にあったアフマド・テジャン・カバーが内戦により海外亡命したため、暫定政権がフリータウンを支配。暫定政権は反政府軍であるRUFとも手を結び、それまで内戦の影響が比較的少なかったフリータウンにもRUFが侵入。「分捕り作戦」と称したRUFによる略奪作戦が始まり、RUFはフリータウン市民の家を無差別襲撃、あらゆる財産を略奪した。 一般市民は暫定政権への協力を拒み、RUFに抵抗した。 しかし暫定軍事政権と武力をもって戦ったのはECOMOGであった。ECOMOGは暫定軍事政権を崩壊させ、RUFを駆逐しカバー大統領が復権した。
1999年1月、再び息を吹き返したRUFがフリータウンに侵入。殺人・略奪・強姦の限りをつくした。ECOMOGはRUFへの攻撃において、RUFと一般市民の区別がつかなかったため結果的に無差別攻撃となってしまい、多くの市民が巻き込まれて殺害され、フリータウンのコノート病院の前は死体の山となってしまった。 その後2週間にわたり戦闘と殺戮が続いたが、ECOMOGが再びRUFを駆逐した。
1999年、それまで無関心であった国際社会が紛争ダイヤモンド問題に目を向け始めたことをきっかけに、ようやくシエラレオネ内戦の調停に介入しロメ和平合意が行われたが、政府が新政権にRUFを受け入れ、RUF指導者・議長であるアハメド・フォディ・サンコーを副大統領としたため、歪な平和が訪れた。
同年、サンコー議長はフリータウンの自宅で抗議する市民らによって拘束されシエラレオネ警察に引き渡された。
経済[編集]
シエラレオネから輸出されるダイヤモンド、チタンなどの豊富な鉱産資源は、その大半がフリータウン港から輸出されるなど、海運業が盛ん。産業は軽工業が中心で、食品加工が主だが、ダイヤモンド加工も行なわれる。ただし最近終了した内戦の影響で市街は壊滅的な打撃を受け、また国連により、反政府勢力支配地域から産出されるダイヤモンドの禁輸措置がとられたことで、海運業も行き詰まりを見せた。現在は禁輸措置は解除されたが、都市の復興と貧困対策が課題となっている。
気候[編集]
シエラレオネの他の地域と同様、フリータウンは雨季(5 - 10月)と乾季(11 - 4月)のある熱帯気候である。雨季の始めと終わりには激しい雷雨に見舞われる。ケッペンの気候区分によると、フリータウンは雨季の膨大な降水量によって熱帯モンスーン気候に分類される。
フリータウンの高い湿度は11月から2月の間は名高いハルマッタン(サハラ砂漠から吹く大変乾燥した貿易風)によっていくらか和らぐ。またその時期が一年で最も涼しい期間である。平均気温は一年中21 - 31°Cである。
| フリータウンの気候 | |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
| 最高気温記録 ℃ (°F) | 33 (91) |
34 (93) |
35 (95) |
35 (95) |
34 (93) |
33 (91) |
32 (90) |
31 (88) |
32 (90) |
33 (91) |
34 (93) |
32 (90) |
35 (95) |
| 平均最高気温 ℃ (°F) | 29 (84) |
30 (86) |
30 (86) |
31 (88) |
30 (86) |
30 (86) |
28 (82) |
28 (82) |
28 (82) |
29 (84) |
29 (84) |
29 (84) |
29 (84) |
| 平均最低気温 ℃ (°F) | 24 (75) |
24 (75) |
25 (77) |
25 (77) |
24 (75) |
23 (73) |
23 (73) |
23 (73) |
23 (73) |
23 (73) |
24 (75) |
24 (75) |
24 (75) |
| 最低気温記録 ℃ (°F) | 20 (68) |
21 (70) |
21 (70) |
21 (70) |
21 (70) |
20 (68) |
21 (70) |
20 (68) |
21 (70) |
19 (66) |
20 (68) |
19 (66) |
19 (66) |
| 降水量 mm (inch) | 13 (0.51) |
3 (0.12) |
13 (0.51) |
56 (2.2) |
160 (6.3) |
302 (11.89) |
894 (35.2) |
902 (35.51) |
610 (24.02) |
310 (12.2) |
132 (5.2) |
41 (1.61) |
3,436 (135.28) |
| 出典: BBC Weather [1] | |||||||||||||
市内の名所[編集]
市内の見所は樹齢500年フリータウンのシンボルであるコットン・ツリーと呼ばれる木がある。この地に辿り着いた解放奴隷たちがこの木の下で休んでいたと言われている。コットン・ツリーからすぐ東には皆殺し作戦と呼ばれた戦乱の傷跡を残す裁判所があり、さらに近くには植民地時代の建物ステート・ハウスがある。コットン・ツリーの西には国立博物館があり、小規模だがシエラレオネに関する資料や格部族の仮面や伝統工芸が展示してある。ジャマイカ系の解放奴隷マルーンが建てたセントジョーンズ・マルーン教会は1820年に建てられたフリータウン最古の教会である。他の教会や聖堂やモスクも市内で見かける。ビクトリア・パーク市場、イースト・ストリート市場、キングジミー市場などはフリータウンの主な市場である。市内の南にあるレイチェスター・ヒルと言う丘がありフリータウンを一望出来、クリオ・ハウスと言う木造建造物がある。この建造物はイギリスやジャマイカなどからこの地に来た解放奴隷たちが住んでいた歴史のある古い家である。 2007年イギリスの奴隷貿易禁止する法律が成立してから200周年に従い街にある通りなどはアフリカの奴隷廃止運動家の名に変える事が提案された。シャーロット通りはアミスタッド号反乱のシンケ・ピエの名に変更され、ウォータールー通りは、元奴隷で奴隷解放運動家のオラウダ・エクイアノの名に変更される事となった。
市内にあるシエラレオネ大学のフォーラー・ベイ・カレッジは、1827年に教会宣教師協会によって、主に神学の教育の為に設立された。イギリスのダラム大学とは1876年以来、姉妹校となっている。西アフリカ英語系の最等教育機関で最古の大学であるこの大学は別名西アフリカのアテネとも言われている。
出身人物[編集]
- パトリシア・ピッチニーニ - オーストラリアで活躍する芸術家。
姉妹都市・提携都市[編集]
提携都市
脚注[編集]
- ^ “Average Conditions Freetown, Sierra Leone”. BBC Weather. 2009年8月21日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- LiveFromFreetown
- Cry Freetown
- FreeTown photos
- Images sur la Sierra Leone (2)
- 1999年1月に起きたRUFのフリータウン侵攻 アムネスティによる報告
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