モンテビデオ
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| モンテビデオ Montevideo |
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テレコムニカシオネス塔から見たモンテビデオ |
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| 愛称 : "モンテビデオ、汝の館(Montevideo,tu casa)" | |||
| 位置 | |||
| 座標 : | |||
| 歴史 | |||
| 建設 | 1726年 | ||
| 行政 | |||
| 国 | |||
| 県 | モンテビデオ県 | ||
| 市 | モンテビデオ | ||
| Municipal Intendent | Ricardo Ehrlich | ||
| 地理 | |||
| 面積 | |||
| 市域 | 525.54km2 | ||
| 標高 | 43m | ||
| 人口 | |||
| 人口 | (2004年現在) | ||
| 市域 | 1,325,968人 | ||
| 人口密度 | 2,523人/km2 | ||
| その他 | |||
| 等時帯 | UTC-3 (UTC-3) | ||
| 夏時間 | UTC-2 (UTC-2) | ||
| 郵便番号 | 10000 | ||
| 市外局番 | +02 | ||
| 公式ウェブサイト : www.montevideo.gub.uy | |||
モンテビデオ (Montevideo) はウルグアイの首都であり、メルコスールの事務局が置かれている都市である。ウルグアイの南部、ラ・プラタ川の左岸河口に位置し、ウルグアイ最大の都市であり、2004年における人口は約132万人である。ウルグアイ最大の貿易港を兼ね温暖な気候で知られる。 美しい砂浜を備え、ポシトス、ブセオ、マルビン、プラヤ・デ・ロス・イングレス(イギリス人の砂浜)、プラヤ・ベルデ(緑の砂浜)、プンタ・ゴルダ(太い岬)、カラスコなどがあり、観光地としては他に、多くの記念碑や博物館が歴史的な建物や通りと同じぐらいある。マーサー人的資源コンサルティングによると、モンテビデオはラテン・アメリカで最も生活の質が高い都市である。(ブエノスアイレスとサンチャゴ・デ・チリが続く)
世界でも安全な都市の30位に入る。
目次 |
[編集] 人口
現在モンテビデオの市街地に住んでいる人口は約1,349,000人であるが、大モンテビデオ都市圏を加えると1,814,400人が住んでいることになる。 モンテビデオ市民はヨーロッパ人の影響を特に強く受けており、イタリア系、スペイン系の家系が最も一般的だが、その一方でアフリカ系ウルグアイ人の家系やユダヤ人の共同体の存在も重要である。 モンテビデオにはおおまかに言って国民の約44%が居住しており、モンテビデオの郊外と言っても良いカネロネス県は約12%を占めている。
[編集] 歴史
[編集] 語源
モンテビデオの語源には二つの説がある。第一の説はフェルナン・デ・マガリャンイスの艦隊がこの土地を見つけた時にポルトガル語で言った、"Monte vide eu"(我、山を見たり)が語源となっているという説である。第二の説はスペイン人がこの土地を地図に記す際に"Monte VI De Este a Oeste" (東から西に向けて六番目の山だ)と言って記したからだという説である。
建設された当事の正式名称はサン・フェリペ・イ・サンティアゴ・デ・モンテビデオだった。
[編集] 初期の歴史
1516年にフアン・ディアス・デ・ソリスがここを訪れたがその後チャルーア族に殺害されてしまう。1624年に現在のモンテビデオの地にグアラニー族へのイエズス会伝道所が建設された。
その後1680年にポルトガル人が今のモンテビデオの西にコロニア・デル・サクラメントを建設する。その後、スペイン人はトルデシリャス条約を持ち出してポルトガル人と戦い、1720年にサンホセ要塞が建設された。1726年にブエノスアイレス総督のブルーノ・マウリシオ・デ・サバーラがサンホセ要塞を拡大してモンテビデオ市を建設する。 1828年に独立したウルグアイの首都となった。19世紀から20世紀のはじめまでアルゼンチンとブラジルの影響を回避するためにイギリスの強力な影響下で発展し1869年 には内陸に向かう鉄道が開通し、1930年にはFIFAワールドカップが開催された。
[編集] 20世紀以降
1939年12月13日プンタ・デル・エステ沖に現れたドイツ海軍のポケット戦艦グラーフ・シュペーをイギリス海軍が追撃し、ラ・プラタ沖海戦が起きた。海戦の後、艦長のハンス・ラングスドルフ大佐はモンテビデオに退避した。この間にウルグアイの中立を巡るドイツ・イギリス・ウルグアイの外交戦が繰り広げられ、この町は一躍世界的に有名になった。ウルグアイは親英的な立場で中立を貫き、シュペー号は72時間の停泊の後、12月17日にモンテビデオ港外で自沈した。
[編集] 地理
ラ・プラタ川左岸にあり、南半球の遠心力により右岸のアルゼンチン側よりも海岸が綺麗になっている。
[編集] 発展
1860年に37787人だった人口は、多くの移民を迎えて1884年には104472人になった。1950年代には90万人近い人口に達したが、1970年代から始まった軍事政権は停滞を招き、今日まで続いている。多くの貧しい地方出身者が都市に溢れ、特に旧市街に集中した。 近年の経済回復とウルグアイの隣国の強力な貿易の結びつきは農業の発展を導き、将来の繁栄が望まれている。
2004年には135万人近い人口を数え、大モンテビデオ都市圏を含めると180万人になる。
[編集] 区域
詳細は「モンテビデオの地区 」を参照
[編集] 教育
共和国大学などのウルグアイの主要教育機関が集中する。
[編集] スポーツ
1930年にはエスタディオ・センテナリオで世界初のFIFAワールドカップが開催された。この1930 FIFAワールドカップでロス・チャルーアズは勝利を飾り、ウルグアイは初代優勝国となった。
[編集] 交通
市民の足としてはもっぱらバスとタクシーが使われている。近隣諸国や国内各地との主な交通手段は、長距離バスやラ・プラタ川を運航する船舶の他に、航空機が利用されており、主に市街地にあるカラスコ国際空港が使用されている。だが、同空港には長距離国際線がそれほど就航していないため、欧米など遠くに行く場合には隣国ブラジル、サンパウロにあるグアリュ-リョス空港、アルゼンチンはブエノスアイレス郊外にあるエセイサ国際空港が利用されることも多い。
[編集] 観光
主にアルゼンチンとブラジルから観光客がやって来る。ポシトスや旧市街が観光地として有名である。

