ノーフォーク (重巡洋艦)

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HMSNorfolk28Countyclasscruiser.jpg
戦時迷彩のノーフォーク(1944年以前)
艦歴
発注
起工 1927年7月8日
進水 1928年12月12日
就役 1930年4月30日
退役 1950年1月3日売却
その後
除籍
性能諸元
排水量 基準 10,035トン
満載 13,420トン
全長 610 ft (186 m)
全幅 66 ft (20.1 m)
吃水 16 ft (4.9 m)
機関 アドミラリティ三胴式重油専焼水管缶 8基、パーソンズ式オール・ギヤードタービン 4基、80,000shp、4軸推進
最大速力 31.5ノット
航続距離 12,000海里(12ノット時)
乗員 平時700名、戦時819名
兵装 Mark.VIII 8インチ砲連装 4基
Mark.XVI 4インチ連装高角砲 4基
2ポンドMark.VIII 8連装ポムポム砲 2基
21インチ4連装魚雷発射管 2基
搭載機 スーパーマリン ウォーラス 2機
カタパルト 1基

ノーフォーク (HMS Norfolk, 78) はイギリス海軍重巡洋艦カウンティ級重巡洋艦の1隻。艦名はノーフォークに因む。その名を持つ艦としては4隻目。

艦歴[編集]

1927年7月にゴヴァンのフェアフィールド造船造機会社において起工され、1928年12月に進水した。就役は1930年4月30日だった。1931年9月、ノーフォークは後に「インヴァーゴードン反乱」として知られる反乱の舞台となった。その後1932年まで本国艦隊に所属し、1932年から1934年まではアメリカの西インド諸島方面で任務についた。1935年から1939年まで東インド方面で行動した後、改装のため1939年に帰国した。第二次世界大戦が始まったときはまだ造船所のドック内にあった。

北方の船団護送任務に従事してロシアの入り江に入港したノーフォークと駆逐艦部隊。(巡洋艦シラから撮影)

1939年、戦争の勃発にともないノーフォークは本国艦隊の第18巡洋艦戦隊に配属され、ドイツの装甲艦アドミラル・シェーアばかりでなく巡洋戦艦(軽戦艦ともいわれる)グナイゼナウシャルンホルストなどの追跡任務についた。そしてそれによって受けた多数の損傷の修理を行ったが、それが主要部分の改装に及ぶことはなかった。ベルファストで行われた最初の修理は、戦艦ロイヤル・オークを撃沈したドイツ潜水艦U-47の魚雷の至近弾によるものであった。

その後まもなく、ノーフォークは激しい空襲によって損傷を受け、クライド川においてさらなる修理を受けることを余儀なくされた。そしてこれらの修理がすべて完了した後、タイン工廠で新兵器 - レーダー・セットの装備が行われた。

1940年12月、ノーフォークは南大西洋において、K部隊の一員としてフリータウンから出発する船団護衛に任ずると共に、アドミラル・シェーアの、そして1941年1月には、仮装巡洋艦コルモランの捜索を命じられた。2月には大西洋の兵員輸送船団の護衛任務についたが、5月にアイスランド海域に戻された。ノーフォークはビスマルクを視認した2番目の船となった。そして戦艦ロドニーキング・ジョージ5世がビスマルクを沈めるまで追尾しつづけた。9月からは苛烈な北極船団の護衛を担当した。ノーフォークは輸送船団JW55Bが1943年12月26日にシャルンホルストの攻撃を受けたとき、それを護衛する巡洋艦部隊の一員であり相手に3発の命中弾を与えた。シャルンホルストは退避し、後に戦艦デューク・オブ・ヨークの部隊に撃沈された。(北岬沖海戦

出迎えの群衆にノーフォーク艦上から手を振るノルウェー王族(オスロにて)

その戦闘で損傷を負ったノーフォークはタインにおいて修理に入ったため、歴史的なノルマンディー上陸作戦には関与できなかった。

1945年1月11日から12日にかけての夜、ノーフォーク、軽巡洋艦ベローナ、駆逐艦オンスローオーウェルオンスロートはノルウェー沖でドイツの船団を攻撃、3隻中2隻を撃沈したほか護衛の艦艇の内1隻(掃海艇M273)も撃沈した。

戦争が終わると、ロンドンに5年間亡命していたノルウェー王室をオスロに運んだ後、プリマスを発って、非常に重要な修理のためにマルタに向かった。その後、東インドで東インド艦隊司令長官の旗艦を勤めた。

1949年、帰国したノーフォークは予備艦となり、1950年1月3日にスクラップとしてブリティッシュ・スチール社(BISCO)に売却された。同年2月14日から19日にかけてニューポートに移動し、22年間に及ぶ栄光の生涯に終止符を打った。本艦は「ノーフォーク」の名を持つ軍艦の栄誉ある系統の最後に位置している。

戦歴[編集]

参考文献[編集]