平賀譲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
平賀譲

平賀 譲(ひらが ゆずる、1878年明治11年)3月8日 - 1943年昭和18年)2月17日)は、日本海軍軍人工学者華族。海軍技術中将従三位勲一等男爵工学博士東京帝大総長。東京府(現・東京都)生まれ、本籍地広島県広島市。父は芸州藩士から維新政府に仕えた主計官。兄・徳太郎は海軍軍人。

略歴[編集]

  • 1890年
    • 4月1日 横鎮から海大など父の転勤にともなって神奈川小学校、戸部小学校、横須賀汐入小学校を経て、泰明小学校高等科に1年半ばかり在籍した。泰明小より東京府尋常中学校(現・都立日比谷高等学校)に入学。
  • 1895年
  • 1898年
    • 7月8日 東京帝国大学工科大学(後の工学部)造船学科(後の船舶工学科)に入学。
    • 7月10日 第一高等学校工科を卒業。
  • 1899年
    • 4月1日 母親、さらに父親も亡くしていたため、給費付きの海軍造船学生試験に応募し採用となる。
  • 1901年
    • 6月27日 海軍造船中技士(後の海軍造船・造機中尉)
    • 7月10日 東京帝国大学工科大学造船学科を首席で卒業。
    • 7月17日 横須賀海軍造船廠に着任。
  • 1903年
    • 9月28日 海軍造船大技士(後の海軍造船・造機大尉)
  • 1904年
  • 1905年
    • 1月27日 イギリス駐在を仰せつかる。
    • 2月8日 結婚[1]
    • 2月28日 横浜発、アメリカ経由でイギリスへ向かう。
    • 4月7日 ロンドン着。
    • 10月1日 グリニッジ王立海軍大学造船科修学開始。
  • 1908年
    • 6月30日 グリニッジ王立海軍大学造船科を卒業。
    • 10月1日 帰朝を仰せつかる。出発まで、イギリス・イタリア・フランスの諸造船所見学。
    • 12月12日 日本郵船丹波丸でロンドン発。
  • 1909年
    • 1月26日 横浜に帰着。
    • 2月3日 海軍艦政本部々員。
    • 9月25日 東京帝国大学工科大学講師
    • 10月1日 海軍造船少監(後の海軍造船・造機少佐)
  • 1912年
    • 8月5日 横須賀海軍工廠造船部々員
    • 8月16日 東京帝国大学工科大学講師解嘱
    • 8月16日 製図工場長、新造主任。戦艦「山城」、巡洋戦艦「比叡」、二等駆逐艦」を担当。
    • 12月1日 海軍造船中監(後の海軍造船・造機中佐)
  • 1913年
    • 6月10日 造船工場長(兼任)
    • 11月28日 勳四等瑞宝章
  • 1915年
    • 11月7日 大正三~四年戦役従軍記章。功により勳三等瑞宝章。
  • 1916年
    • 4月7日 造船工場長兼務を免ぜらる。
    • 5月5日 海軍技術本部々員、造船監督官。海軍技術本部第四部に勤務、八八艦隊主力艦の基本計画を担当。
    • 5月18日 臨時海軍軍事調査会委員
  • 1917年
    • 4月1日 海軍造船大監(後の海軍造船・造機大佐)
    • 4月20日 従五位
  • 1918年
    • 10月19日 東京帝国大学工科大学教授兼任。
  • 1919年
    • 2月6日 改正帝国大学令公布、(4月1日施行)、従来の各科大学を学部と改称。
    • 3月8日 工学博士の学位を受く
    • 9月22日 法令改正により、海軍造船大監あらため海軍造船大佐。
  • 1920年
    • 10月1日 海軍艦政本部再編、海軍技術本部々員あらため海軍艦政本部々員。
    • 11月7日 大正三~九年戦役従軍記章、戦捷記章、功により旭日中綬章
    • 12月1日 第四部長に山本開蔵就任に伴い、計画主任を命ぜらる。
  • 1921年
  • 1922年
    • 6月1日 海軍造船少将。海軍艦政本部出仕。引き続き第四部に勤務。
    • 7月1日 海軍艦政本部技術会議々員
  • 1923年
    • 10月1日 計画主任を解任。同日、主としてワシントン条約下の列強建艦状況調査のため、欧米各国に出張を命ぜらる。
    • 11月22日 日本郵船ロンドン線の香取丸にて横浜発。
  • 1924年
    • 8月3日 横浜に帰着。以後約1年、不遇の日々を送る。
  • 1925年
    • 2月3日 海軍大臣に「欧米視察所見」を提出
    • 6月3日 海軍技術研究所造船研究部長
    • 12月7日 海軍技術研究所所長兼造船研究部長、艦政本部技術会議々員。
  • 1926年
    • 2月25日 勳二等瑞宝章
    • 7月2日 従四位
    • 11月1日 造船研究部長の兼務を解かる
    • 12月1日 海軍造船中将
  • 1928年
    • 4月10日 官制改正により、海軍艦政本部技術会議々員あらため海軍技術会議々員。
    • 8月 ワシントン海軍軍縮条約によって廃艦が決まった駆逐艦「夕立」を実験艦として海上曳航抵抗実験を実施。
  • 1929年
  • 1931年
    • 3月20日 待命
    • 3月31日 予備役(退職金7,855円、恩給年俸3,124円)。
    • 4月1日 三菱造船株式会社(後の三菱重工業株式会社)技術顧問
  • 1934年
    • 4月7日 友鶴事件より設置された「臨時艦艇性能調査会」の事務嘱託、艦艇復原性能改正対策を精力的に指導。
    • 6月7日 「臨時艦艇性能調査会」事務嘱託を解かる。
  • 1935年
    • 3月22日 船体抵抗実験をまとめた論文はイギリス造船協会に評価され、外国人初の1934年度金牌授与を決定。
    • 4月1日 海軍艦政本部の造船業務嘱託、そのころより超弩級戦艦大和」(大和型戦艦)の設計に携わる。
    • 10月31日 第四艦隊事件より「臨時艦艇性能改善調査委員会」設置、海軍艦政本部嘱託として改正対策を強力に指導。
    • 11月 熔接制限を第四部長山本幹之助に建言。
  • 1936年
    • 1月 平賀提案による「船体構造電気熔接使用方針」を制定
  • 1938年
    • 12月20日 東京帝国大学十三代総長。
  • 1939年
    • 1月~2月 「平賀粛学」によって経済学部13人を追放した。
  • 1942年
    • 11月1日 法令改正により、海軍造船中将あらため海軍技術中将。
    • 12月20日 東京帝国大学総長に再任。だが、すでに健康を極度に損ね、結核菌に喉頭を冒されていた。
  • 1943年
    • 2月17日 午後7時55分、東京帝国大学医学部附属病院で嚥下性肺炎により64歳にて死去。同日、男爵・旭日大綬章を授かる。
    • 2月18日 保存のため、病理学教室緒方知三郎教授の執刀により解剖。現在、東京大学医学部に保存されている。
    • 2月23日 東京帝国大学の安田講堂に大学葬を挙行、墓は府中市多摩町の多磨霊園にある。総長現職のまま死に、大学葬まで執り行われたのは平賀のみである。


平賀艦艇設計の評価[編集]

平賀の留学帰国後は海軍艦政本部で艦艇設計に従事し、第四部計画主任となってからは戦艦紀伊型、重巡洋艦古鷹型妙高型、軽巡洋艦夕張川内型、駆逐艦神風型若竹型を設計した。夕張や重巡洋艦妙高型の軽量化は各国海軍艦艇造船官を注目させた。造船の神様、という賛辞も存在する。

一方、海軍中枢部や他の造船官らからの反対意見には頑として譲らなかったため、平賀譲ならぬ「平賀不譲」と皮肉られた。仕事上の問題で衝突があると、議論の相手が誰であれ怒鳴りつけることもしばしばで(すぐに赤熱するという意味で)「ニクロム線」とも渾名された。この態度が仇となり、周囲からの反感をかい、一時左遷されることもあった。

軽量な艦体に重武装をほどこした平賀の設計は、諸外国からも脅威視された。ワシントン軍縮条約で巡洋艦の分類が主砲口径を基準とされたのは、古鷹型を重巡洋艦にカテゴライズして足枷をはめようという意図があったする説がある。続くロンドン条約では重巡を含む補助艦艇保有量制限がされたのも、妙高型やその改良型の建造を阻止するのが主な目的であったという説もある。

山本開蔵が策定した八八艦隊計画は、40センチ砲装備の戦艦12隻の建造にあたって、連装砲塔58基分を共通にして大幅なコストダウンと工期の短縮を図っていた(土佐においては起工から竣工まで僅か24ヶ月)。この日本海軍の急速な海軍戦力の拡張は、ワシントン軍縮会議の原因のひとつとなった。しかし平賀は加賀の設計において連装・3連装砲塔混載という設計変更を希望した。小型軽量化・安定性向上などの利点はあるが、量産効果を台無しにするものであり、山本に拒否されている。

大正9年12月に計画主任に就任してからの、紀伊型の舷側装甲の増大、川内型軽巡洋艦における重油専焼から石炭混焼への変更、安定性不足を理由とした駆逐艦の船体幅の増加は、前任者の行った艦型の整理による量産体制の否定であり、工期の延長や費用の高騰を招いた。結果、巡洋艦20隻の取得計画が、建造費の増加で12隻に削減された。また、大正10年度設計艦が平賀による設計変更により、重量増加により速力が2~3ノット低下している。

3500トンで5500トンの巡洋艦と同じ戦力を発揮するとした、軽巡洋艦・夕張は、予定重量10パーセント超過により速力が低下。また船体規模の不足から、荒天性能の不足。軽巡洋艦の任務であった水雷戦隊司令部としての機能、人員の余裕不足。航続力不足(14ノット3300海里。ちなみに5500トン巡洋艦は15000海里)。航空機運用能力の付加ができないという欠点があった。ただ夕張は一隻のみ建造された試験的存在であり、後の重巡洋艦設計の礎となり実験艦としての意義はあったという評価もある。

古鷹型も7500トンの予定が1000トン超過して速力低下している。また単装砲塔6基という設計にこだわり、艦政本部第一部の反対を退けて人力揚弾方式を採用。これにより砲塔内の即応弾10発を撃ちつくした後の給弾が追いつかないという欠陥を抱えていた(古鷹型の評価が高かったのは、この欠陥が知られなかったからという説もある)。

妙高型は主砲の散布界が異常に大きく、連装3基の青葉に対し、連装5基で命中率が半分という欠陥があった。また水雷兵装を全廃した事も問題視された。これは国防の基本計画に関わる重大事であり、にもかかわらず平賀の独断で実行したからである。用兵側では主砲は8門でよしとし魚雷装備を求めたが、平賀は条約で戦艦の保有が制限されている以上、重巡洋艦は準戦艦たるべしという信念を持っていた。結果論としては平賀の見解が正解であり、実戦で重巡洋艦の魚雷装備が役立つ事は無かった。また他国の重巡の主砲が8〜9門に対し、平賀設計の重巡は火力・防御力とも優れていたのは事実である。とはいえその性能は条約違反の排水量超過によるものであったのも一面の事実であり、現場を無視した平賀設計と、現場での尻拭い的改善が原因である。

上述の失態や暴挙をかばい立てできなくなった山本は、大正12年10月1日付で平賀に欧州への技術調査を命ずるとともに、海軍を退職した。後任の藤本喜久雄の最初の仕事は、連装砲塔装備の改古鷹型である青葉型の設計、妙高型の水雷兵装の復活という、平賀設計の問題視された部分の改定であった。藤本は主砲10門はそのままに魚雷装備と両立させ、用兵側を大いに喜ばせた。だが、用兵側の要求より高い目標で応じる藤本設計が、後の悲劇となる。

条約時代の新型水雷艇新型駆逐艦新型軽巡洋艦は、平賀が左遷されていた時期に藤本が設計しているが、復原力不足で友鶴事件第四艦隊事件を起こした。平賀設計に輪をかけた重武装が、トップヘビーを招いたのが原因であった。平賀が担当していれば事件は起きなかったという見解もある。ただし、平賀の設計した駆逐艦早蕨も復原力不足による転覆沈没事故を起こしている。

艦政本部長の山梨勝之進は帰朝した平賀を海軍技術研究所造船研究部長に任じ、設計部門への復帰を許さなかった。金剛代艦の設計時においては、技術検討会議の席上で設計部門ではない海軍技術研究所所長でありながら私案を提出し再び批判を浴びたが、副砲を高速航行時には使用できないケースメート式にする(対駆逐艦戦闘に使用する事ができない)、後檣楼が省かれたために予備の射撃指揮所が無いなど設計の内容でも酷評を受けている。平賀はこのときの設計案においても連装、3連装の混載を主張した。このころには「船作りは上手いが軍艦作りの能力の無い造船官」という評価であったという[2]

昭和7年(1932年)には、既に採用されかけていた海軍駆逐艦の主砲高角砲統一案を廃案にしたとされ、これが仇となって太平洋戦争中、日本海軍は米国海軍に対し対空能力において大幅な劣勢を強いられることとなる。もっともこれは、平賀が左遷後、予備役に追いやられた時であり、この時期の平賀がどの程度影響力を行使できたかは疑問符がつく。また駆逐艦の主砲高角砲化は島風建造時にも検討され、松型駆逐艦において実現しており、これは左遷されていた平賀が復帰後の事である。

藤本の急死後、後継者には同い年の江崎岩吉福田啓二が挙がったが、平賀の弟子である福田が計画主任に任じられている。同年7月、特型駆逐艦がうねりによって船体にしわが発生する事件があった。これを調査した牧野茂造船少佐は船体強度上の重大な欠陥とし、同型艦すべての入渠修理を上申したが容れられず、豊田貞二郎艦政本部総務部長の決定の下、定例修理で対応する予定であった。9月に第四艦隊事件が発生すると、平賀は牧野造船少佐の上申を握りつぶした上で、藤本とコンビを組んでいた江崎を「事前の処置を図らなかった」として呉工廠に転出させる辞令を出し「将来のことを考え民間会社に移ってはどうか」と「忠告」したという。

この頃、設計部門に返り咲いた平賀は戦艦設計の唯一の経験者として絶大な影響力を振るうようになっていた。軍令部要求に従って速力30ノット以上、主砲の艦首集中配備、充実した航空艤装を持った高速戦艦として藤本・江崎コンビによって設計が進んでいた大和型は、これ以降、平賀好みの重防御低速戦艦として設計変更が進むことになる(もっとも大和型の27ノットが、果たして低速だったのかは異論がある。事実、キングジョージV世級、サウスダコタ級戦艦も同速度である)。そしてこのときも主砲の連装、三連装を混載した設計案を提出し、軍令部から砲塔二種の生産余力なしと拒否されている。

平賀は当時の列国の新造艦では廃止される傾向にあった中央隔壁をどの艦にも設けたが、これは船体を多少強固にする反面、魚雷命中等、何らかの要因で艦が浸水した場合に、隔壁によって片舷のみが浸水し、傾斜、沈没しやすくなる致命的な欠陥があった。太平洋戦争では、これが裏目に出て、日本の巡洋艦は一発程度の被雷(魚雷命中)で頻繁に傾斜、転覆するなど比較的損害が多くかった。(第一次ソロモン海戦における重巡洋艦加古の沈没がその一例)

平賀は溶接工法に反対しリベット工法にこだわり、結果として被弾時の損害が増えたり(リベットの破損による他箇所への損害波及)また、船体のブロック工法等の新技術を取り入れにくくする、ディーゼルエンジンへの不信など、保守的な手法を用いるがゆえに古い技術による無駄の多い設計となっていた。

また、彼が設計を指導した大和型は防水隔壁の数が過小(20年も古い長門型と同数の23)、被弾、損傷時に於けるダメージコントロールの研究も怠っていた(反して藤本はよく研究していた)。その一方でわずかな能力向上のためにコストを度外視し・造船の現場を無視した設計を行い、そして重量超過や工期の遅れについては厳しく「指導」した。

平賀の上司であった山本は、敗戦の責任の多くが艦政にあり、その原因が平賀の艦政本部復帰にあると考えていたと言われる。戦後、造船協会が山本に名誉会員の称号を贈ろうとしたときはこれを固辞し、強行するなら協会を脱退する、自分はそのような名誉を受けるに値する人間ではない、と言ったといわれる。

人物像[編集]

  • 仕事のことばかり考えていて、職場で私服から軍服に着替えるのを忘れてしまったり、食事を取るのも忘れて没頭してしまうほどであった。反面私生活では、家人に仕事の話をせず、休みは朝湯、将棋、映画鑑賞などに夢中になった[3]
  • 菊づくりが趣味で、庭に1200鉢あまりの菊を持っていた。賞も数多く受けるなどその腕はプロ級であった[3]
  • 生真面目な性格だったが、反面さばけたところもあり、東京帝大総長時代の昭和15年(1940年)1月23日、宮中にて昭和天皇にご進講を行った際にはカフスに書き込みをして、「生まれて初めてのカンニングをした」と記者会見で白状。満座を爆笑させた[3]
  • 太平洋戦争時は陸軍には好意的な態度をとらなかった。総長就任時、英語教育に力を入れたり、東条英機首相の卒業式参列には最後まで反対した。最終的には東条首相は式に参列し勇壮ながらも空疎な式辞を述べたのに対し、平賀の式辞は開戦以来の浮かれた気分を否定しアメリカの工業力や学力の軽視を戒め、「功を急ぐとは、自己の名利を急ぐの意味であって、これを大にしては国を誤り」と暗に軍部を批判するもので、すでに病魔に侵されていた平賀の声は、かぼそく淡淡としたものであった[3]

家族・親族[編集]

妻は原正幹の妹・カズ[1]。三女は元サントリー社長の佐治敬三に、姪(原正幹の長女)は建築家平山嵩天文学者平山信の次男)にそれぞれ嫁いでいる[4]

著作[編集]

伝記[編集]

  • 内藤初穂『軍艦総長 平賀譲』
文藝春秋、1987年) ISBN 4-16-341910-1
中公文庫、1999年) ISBN 4-12-203480-9

関連書籍[編集]

  • 東京大学平賀譲研究会・呉市海事歴史科学館 編『平賀譲 名軍艦デザイナーの足跡をたどる』(文藝春秋、2008年) ISBN 978-4-16-371140-9
  • 畑野 勇『近代日本の軍産学複合体 海軍・重工業界・大学』(創文社、2005年) ISBN 4-423-71063-3
  • 雑誌「丸」編集部『写真集・日本の重巡「古鷹」から「筑摩」まで全18隻の全て』(光人社、1972)
    「設計資料から見た日本重巡洋艦史」168-177頁 福井静夫が平賀譲と日本重巡洋艦各艦設計を論評している。 

関連項目[編集]

関連人物

脚注[編集]

  1. ^ a b 平賀譲の略歴
  2. ^ 遠藤昭『戦艦大和』(サンケイ出版、1981年)
  3. ^ a b c d 阿川弘之『軍艦長門の生涯・上』(新潮文庫、1982年) ISBN 4-10-111007-7 第二章 p28~p39
  4. ^ 『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 日本図書センター、1987年10月5日発行、ISBN 4-8205-0693-5、831頁 - 832頁

外部リンク[編集]