松代大本営跡

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象山地下壕入り口
象山地下壕内
案内看板

松代大本営跡(まつしろだいほんえいあと)は、太平洋戦争末期、日本(当時の大日本帝国)の国家中枢機能移転のために長野県埴科郡松代町など(現在の長野市松代地区)の山中に掘られた地下坑道跡。象山、舞鶴山、皆神山の3箇所が掘削された。また舞鶴山地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現在の宮内庁)として予定されていた建物も残っている。

目次

[編集] 松代大本営建設に至るまでの皇居の防空対策

皇居には1935年頃、鋼鉄扉の防空室=地下金庫室が作られた。だが、内部が狭く大型爆弾に耐えられないことから、宮内省工匠寮の設計で、吹上御所近くに新たに防空壕を作ることになった。のちに御文庫と命名される大本営防空壕が完成するまでの間、昭和天皇香淳皇后は空襲警報発令のたびに宝剣神璽(三種の神器のうち剣と印)とともに皇居第2期庁舎の防空室に避難していた。

さらに1941年4月12日に御文庫が極秘に着工され、1942年12月31日に完成した。施工を請負ったのは大林組。建築費は約200万円であった。建坪1,320m2。地上1階、地下1階・2階の3階建て。そこには天皇・皇后の寝室、居間、書斎、応接室、皇族御休息所、食堂、洗面所、侍従室、女官室、風呂、トイレなどがあった。このほか、映写ホール、ピアノ、玉突き台などもあった。屋根は1トン爆弾に耐えるよう、コンクリート1mの上に砂1m、さらにその上にコンクリート1mの計3mの厚さであった。天皇は午前中は表御座所(御政務室)、午後は御文庫で過ごすのが日課であった。

戦況が悪化したため、1945年6月頃にさらに頑丈な御文庫附属室が御文庫から90m離れた地下10mに陸軍工兵部によって建設された。広さ330m2、56m2の会議室2つと2つの控室、通信機械室があり、床は板張り、各室とも厚さ約1mの鉄筋コンクリートの壁で仕切られていた。50トン爆弾にも耐えるよう設計され御文庫とは地下道で結ばれていた。この地下壕はのちの終戦時の2度の御前会議の場所となった。

[編集] 概要

太平洋戦争以前より、海岸から近く広い関東平野の端にある東京は、陸軍により防衛機能が弱いと考えられていた。そのため本土決戦を想定し海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を進めていた。太平洋戦争で1944年7月にサイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になった。同年同月、東條内閣最後の閣議で、かねてから調査されていた長野松代への皇居大本営、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。

初期の計画では、象山地下壕に、政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。皆神山地下壕に皇居、大本営の施設が予定されていた。しかし、皆神山の地盤が脆く、舞鶴山地下壕に皇居、大本営を移転する計画に変更される。また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。

土地の買収は役場を通じて軍が行った。当時は養蚕が重要であったので桑畑は程度により買収金額が三段階に分かれていた。買い上げた土地のうち戦後に不要になったものは買い上げ価格の半値程度で払い下げられた。

1944年11月11日11時11分、象山にて最初の発破が行われ、工事が開始された。ダイナマイトで発破して、崩した石屑をトロッコなどを使った人海戦術で運び出すという方法で行われた。総計で朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が12時間二交替で工事に当たった。最盛期の1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が作業に従事した。当時の金額で2億円の工事費が投入されたと伝わっている。しかし、1945年8月15日の敗戦により、進捗度75%の段階で、工事は中止された。

昭和天皇の神器を奉じて帝都を動かずとの考えによって、内廷皇族では皇太子明仁親王今上天皇)、義宮(常陸宮)、皇女以外は東京から疎開する気は無かったと言われる。しかし、6月中旬には宮内省の関係者が訪れ、内大臣木戸幸一の日記(木戸日記)の1945年7月31日付けに信州に行くことの具体化を相談している記述があり、終戦直前には移動を本気で考えていたと思われる。

松代大本営建設作業にあたっては朝鮮半島より徴用された労働者が中心となった。工事は西松組鹿島組が請け負った。当時飯場で賄いをしていた人などからの聞き取り調査では、地下壕の中で掘削のために働いていた朝鮮人労働者には1日に白米7合、壕の外で資材の運搬などで働く人には白米3合が配給され、他にそれぞれトウモロコシなどが配られていた。当時の食料事情を考慮(一般の日本人国民への配給は、米(白米ではない)2合3勺とわずかばかりの副菜であり、白米は禁止されている)すると待遇は良く、軍が大本営建設を重視していた表れではないかと見られている[1]。終戦後、朝鮮半島出身の帰国希望者には列車、帰還船を用意し、一人当たり250円の帰国支度金が支払われ1945年の秋にはほとんど富山港から帰国させることができた。また壕周辺にいわゆる慰安所は3ヶ所あり4~5人の朝鮮人の慰安婦がこれらの施設を回っていた。ただしこれは軍人用のものではなく、朝鮮人労働者を監督する立場にあった朝鮮人用のものであった。

なお松代大本営は主に陸軍において計画・推進されたものであるが、さらに戦局が悪化した終戦直前になって、連合国軍が南九州に上陸するとの想定のもと[2]、より作戦が取りやすいという理由などから、奈良県天理市の一本松山付近に大本営と御座所を移すという計画が主に海軍により立てられ、実際に工事が進められていた。詳細については天理の大本営跡を参照。

[編集] 松代が選ばれた理由

大本営移動計画は後に終戦時の宮城事件に関わることになる陸軍省井田正孝少佐が1944年1月に発案し、富永恭次次官に計画書を提出、大本営幹部会の承認を経た後、鉄道省の現地調査が行われ、全国に地下施設の構築計画案が決まり、大本営の建設場所には松代が選定された。選定理由は以下のとおりである[3]

  1. 本州の陸地の最も幅の広いところにあり、近くに飛行場がある。
  2. 固い岩盤で掘削に適し、10t爆弾にも耐える。
  3. 山に囲まれていて、地下工事をするのには十分な面積を持ち、広い平野がある。
  4. 長野県は労働力が豊か。
  5. 長野県の人は心が純朴で秘密が守られる。
  6. 信州は神州に通じ、品格もある。

この案では松代に大本営、東京浅川に東部軍収容施設、愛知県小牧に中部軍収容施設、大阪府高槻に中部軍収容施設、福岡県山家に西部軍収容施設を建設するものであった。その後、この案は東条英機首相の日本政府全体の移動の意向により変更され、大規模化した。

[編集] 跡地利用

1990年から、長野市により象山地下壕の一部(約500m)が一般に内部公開されており、象山地下壕には信州大学の宇宙線観測施設も設けられている。

また舞鶴山地下壕には、1947年気象庁の地震観測所が設けられ、現在では日本最大規模の精密地震観測室となっている。

[編集] 脚注

  1. ^ “松代大本営工事 朝鮮人労働者に白米7合配給”SBC信越放送ニュース 2005年5月16日 (参考映像)
  2. ^ 実際に連合国軍は1945年11月1日に南九州に上陸開始するというオリンピック作戦を発動予定であった。
  3. ^ ミリタリークラシックス5巻第11号 イカロス出版 Jウイング8月号別冊 2003年8月

[編集] 参考文献

  • 林えいだい『松代地下大本営 証言が明かす朝鮮人強制労働の記録』明石書店 1992年8月 ISBN 4750304441
  • 青木孝寿『松代大本営 歴史の証言』改訂版 新日本出版社 1997年7月 ISBN 4406025227
  • 和田登 作 武部本一郎 絵『悲しみの砦』岩崎書店 1977年
  • ミリタリークラシックス5巻第11号 イカロス出版 Jウイング8月号別冊 2003年8月 
  • 丸 第45巻第8号 潮書房 1992年8月 
  • 入江相政日記〈第2巻〉朝日新聞社 1994年9月 ISBN 4022610425
  • 松浦 総三『天皇裕仁と東京大空襲』 大月書店 1994年3月 ISBN 4272520318
  • 小倉庫次侍従日記 文藝春秋4月特別号(2007)

[編集] 外部リンク

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