小林仁 (海軍軍人)

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小林 仁
Kobayashi Masami.jpg
生誕 1890年6月18日
日本の旗 日本 山形県
死没 1977年8月7日(満87歳没)
所属組織 大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍
軍歴 1911 - 1944
最終階級 海軍中将
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小林 仁(こばやし まさみ/まさし、1890年6月18日 - 1977年8月7日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将山形県米沢市出身。山形県立米沢中学校海軍兵学校(38期)卒業。

経歴[編集]

大佐昇進まで[編集]

米沢藩の農家に生まれる。山下源太郎黒井悌次郎南雲忠一ら同郷の先輩と同様に、米沢中学より兵学校に進む。米沢海軍武官会会員。兵学校での卒業席次は149名中4位。戸塚道太郎栗田健男福田良三杉山六蔵三川軍一五藤存知ら、太平洋戦争で司令長官・司令官を輩出したクラスにあたる。

兵学校卒業後は巡洋艦笠置」を皮切りに、戦艦朝日」に乗り組み、イギリスで新造した「金剛」の回航委員としてイギリスへ出張している。帰着後に砲術学校水雷学校で学んだ。1916年海軍大学校乙種・専修学生として研鑽を積んだ後は、敷設船「勝力」、海防艦秋津洲」の航海長を歴任し、もっぱら航海畑の色が濃くなる。少佐昇進を目前とした1921年には再び大学校の門をたたき、甲種学生としてステップアップを図った。

1922年に少佐へ昇進。1927年に中佐へ昇進するまでの5年間、上海に駐留する砲艦比良艦長を1年、アメリカ駐在を1年半、さらにアメリカ大使館附武官補佐官を1年間と、大半を海外勤務に費やした。

1927年より大佐昇進までの4年間は、海軍省人事局で勤めた2年間がもっとも長い。1930年よりしばらくは、海軍省・軍令部出仕の無任所となる。

支那事変[編集]

1931年に大佐へ昇進すると、国際連盟の軍縮会議に参加を命ぜられ、永野修身全権と同行してジュネーヴ入りした。会議終了後にアメリカ大使館附武官を命じられ、再び渡米する。任期は1932年11月から1934年6月まで1年半にも及ぶ。帰国後は対米諜報活動を推進する軍令部第5課長を1936年まで2年間務めた。この時期の小林の政治的立場は条約派である[1]

その後、戦艦「山城」艦長を1年務めたが、支那事変の増援部隊として1937年10月20日に第四艦隊が急遽編成されると、初代参謀長に抜擢されて青島へ進出、豊田副武長官を補佐した。参謀長就任直後の同年12月1日に少将へ昇進したが、参謀長職は翌年9月まで続いた。

帰国後、1年2ヶ月間佐世保鎮守府参謀長を務めたが、1939年11月に漢口方面特別根拠地隊司令官となり、再び大陸に出た。翌年にも上海特別根拠地隊司令官へスライド。1941年5月に帰国するまで大陸方面での陸戦・揚子江警備を指揮した。小林の人となりを言い表すときに「猛将」と呼びならわすことが多いが、その評価は大佐時代から少将時代にかけての中国大陸での活躍で確立されたといえる。逆に、太平洋戦争中には実戦を経験する職から離れていた。

太平洋戦争[編集]

開戦半年前の1941年6月に水路部長となる。10月の定期昇進で中将へ昇進。水路部長は少将の職分であるため、地位を後任に譲って大阪警備府司令長官となる。軍需物資の生産、大量の人員徴集、東京-神戸間の航路確保と、事務処理に追われる身となる。この警備府長官時代は1943年3月まで続くが、この間に戦局は逆転しており、猛将でもある小林にとっては不満が鬱積していた時期でもあった。

1943年4月、小林に待望の最前線勤務が命ぜられた。内南洋防衛の主力である第四艦隊である。小林はトラック環礁に進み、連合軍の機動部隊によるギルバート諸島マーシャル諸島への警戒を強めた。就任間もない新参の長官でありながら、歴戦の近藤信竹第二艦隊司令長官・小松輝久第六艦隊司令長官と連名で、着任間もない古賀峯一連合艦隊司令長官に「内南洋の作戦および防備」の意見具申を行っている。

このように意気込みは強かったが、1943年11月にマキンの戦いタラワの戦いで両島を失陥、6回に及ぶギルバート諸島沖航空戦も空振りに終わると、采配が鈍りだす。急遽増強を図ったマーシャル諸島の防衛も軌道に乗らないうちにクェゼリンの戦いが始まってしまい、1944年2月に陥落。潜水艦停泊地とマーシャル諸島最大のルオット島飛行場を一挙に失った。

内南洋の一大拠点であり“日本の真珠湾”とも呼ばれたトラック環礁への攻撃も間近に迫る中、2月10日に連合艦隊司令部をパラオ諸島に後送する。トラックでは敵航空隊の迎撃体制を整えたが、小林はなぜか16-17日に警戒を緩めさせた。米軍第58任務部隊の襲来は、たまたまこの小林の采配ミスと重なってしまい、17日に成功を収めた。地上施設を破壊されて基地機能を喪失したのみならず、残存した商船はことごとく撃沈され、沈船のために泊地としての機能も完全に失われた(トラック島空襲)。海軍ではこの空襲を小林の判断ミスによる被害とみなし、「海軍丁事件」と称して小林の弾劾に踏み切った。この失態の責任を問われ、空襲の2日後に第四艦隊司令長官を更迭され、5月30日に待命、その翌日31日に予備役編入という形で海軍を追放された。

戦後[編集]

小林の悲運は終戦直後にも訪れた。1943年10月、第四艦隊管区のウェーク島捕虜虐殺が行われた事実が発覚したためである。空襲と艦砲射撃を受けたウェーク島では、上陸戦間近と判断し、酒井原繁松第65警備隊司令は捕虜100名の銃殺を実行したものである。酒井原司令は戦犯として死刑判決を受け、1947年に処刑されたが、酒井原の上官として小林も監督責任を問われることとなった。判決に基づき、講和条約成立による仮出所まで、小林は巣鴨拘置所に収監された。

戦後、海上自衛隊幹部学校教官を務めた竹下高見が、トラック島空襲についてのセッションで、事前警戒の不備問題について次のような証言をしている。

竹下:(前略)トラックとか、テニアンとか、サイパン辺りは、意識の問題もあると思うんですね。同時にやっぱり、さっきいったように防備施設というようなものは、中央の問題もあると思うんです。

 私は、戦史部におります時に、小林中将に二回ほどなんとか聞きだそうと思いまして、お話伺いましたけれども、トラック空襲については一言もしゃべられませんでした。そのことから『太平洋方面の海戦』[2]の中では「専任防空戦闘機隊の不在、所在航空機部隊の不明確な指揮関係、多数商船隊の在泊など、むしろ連合艦隊司令部あるいは大本営海軍部が事前に適切に処置すべき問題が多かったように思われる。」という表現になったわけです。(笑)

「太平洋戦史研究部会報告第3回セッション トラック空襲(その1)」『太平洋学会誌』1987年4月P56 

1977年8月7日死去。享年87。

脚注[編集]

  1. ^ 秦郁彦『昭和史を縦走する』p.65
  2. ^ 注:『世界海戦史概説第四巻』内の「太平洋方面の海戦」のこと。幹部学校の依頼により竹下が執筆した。