龍田丸

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龍田丸
Tatuta maru 1.jpg
船歴
起工 1927年12月3日
進水 1929年4月12日
竣工 1930年3月15日
就役 1930年4月25日
喪失 1943年2月8日
主要目
総トン数 16,955 トン
載貨重量トン数 8,170 トン
全長 178.0 m
垂線間長 170.68 m
型幅 21.98 m
型深 12.98 m
吃水 8.71 m
機関 ズルツァー社ディーゼル機関4基4軸
出力 20,663馬力(最大)
16,000馬力(計画)
航海速力 19.0ノット
最高速力 21.232ノット
船客定員 計 839名
  • 一等 239名
  • 二等 96名
  • 三等 504名
乗組員 330名
姉妹船 浅間丸秩父丸(鎌倉丸)
日英交換後、横浜に向け航海中の龍田丸。米潜水艦キングフィッシュが撮影。1942年10月14日

龍田丸(たつたまる)は、日本郵船がかつて保有していた遠洋客船(オーシャン・ライナー)。1927年から1930年にかけて三菱造船長崎造船所で建造された。

龍田丸は隔週で運行されていた北米航路用の船であった。主な寄港地は香港上海神戸横浜ホノルルロサンゼルスおよびサンフランシスコであった。

本船は浅間丸の姉妹船で、どちらの船も神社にちなんだ命名であった。

船歴[編集]

日本郵船初の定期客船は建造番号450(浅間丸)で、その姉妹船で建造番号451が龍田丸である。両船はいずれも三菱造船長崎造船所で建造された。もう一隻の姉妹船である秩父丸横浜船渠で建造された。龍田丸は1929年4月12日に進水し、1930年3月15日に竣工、同年4月25日に横浜からサンフランシスコに向けて処女航海をおこなった。

総トン数16,955トン、全長178mで最大幅は22mであった。4基のディーゼル機関を搭載し、4本のスクリューを持ち、航海速度は19ノットだった。姉妹船の浅間丸は日本で2番目のディーゼル推進式の定期客船だった。

日米関係悪化[編集]

1941年7月にサンフランシスコに出航したが、現地では入港拒否に遭遇する。荷物の搬出には成功したものの、龍田丸より1便後に7月18日に横浜を出港した浅間丸を最後に、サンフランシスコ線は運休となる。

7月25日にアメリカが在米日本資産の凍結宣言を発したことを受け、8月4日に日本政府は北米線の全船に帰港命令を出した。この関係で本船は十分な準備をおこなわずに出港したため、アメリカから横浜に向かう船内で食中毒が起き、125人が発症し9人が死亡する惨事となった。同船の乗客だった二階堂進(戦後、自民党副総裁)が中毒者の看護に奔走した。当時、作家の宮本百合子がこのニュースについて「龍田丸の中毒事件」というエッセイを「家庭新聞」(8月21日号)に発表している[1]

12月2日、横浜からロサンゼルスを経由してパナマのバルボアへ向けて出港したが、日米開戦を受けて引き返し、12月14日に横浜に帰港している。

太平洋戦争[編集]

1941年、龍田丸は兵員輸送船として海軍に徴用された。1942年には一時的に日本郵船に船籍を戻して日英交換船に供され、横浜とロレンソ・マルケスとの間を往復している。

1943年2月8日21時45分、龍田丸は兵員輸送任務でトラック島に向け航行中[2]御蔵島東方約70km(北緯34度00分 東経140度00分 / 北緯34.000度 東経140.000度 / 34.000; 140.000)の地点で米軍の潜水艦ターポンの雷撃を受けて沈没した。夜間に加え現場の海域は強風下であったが、ターポンはレーダーで龍田丸を探知して魚雷を発射した[3]。日本側では攻撃を全く察知しておらず、爆発を確認した護衛の駆逐艦山雲が反転して捜索に当たったが、荒天という状況もあって乗組員198名・乗船員1283名全員が死亡した。

脚注[編集]

  1. ^ 龍田丸の中毒事件 青空文庫所収
  2. ^ 『日本郵船戦時船史 上』230ページ
  3. ^ NHK取材班『ドキュメント太平洋戦争1 大日本帝国のアキレス腱』角川書店、1993年

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 船舶技術協会『船の科学』1981年2月号 第34巻第2号
  • 海人社『世界の艦船』2002年1月号 No.591
  • 海人社『世界の艦船 別冊 日本の客船[1] 1868-1945』1991年 ISBN 4-905551-38-2
  • 日本郵船株式会社『七つの海で一世紀 日本郵船創業100周年記念船舶写真集』1985年

外部リンク[編集]