サミュエル・B・ロバーツ (護衛駆逐艦)

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艦歴
起工: 1943年12月6日
進水: 1944年1月20日
就役: 1944年4月28日
退役:
その後: 1944年10月25日に戦没(レイテ沖海戦
除籍: 1944年11月27日
性能諸元
排水量: 1,745トン
全長: 306 ft 0 in (93 m)
全幅: 36 ft 7 in (11 m)
吃水: 13 ft 4 in (4 m)
機関: ギアード・タービン、2軸推進
最大速: 24ノット (44 km/h)
航続距離: 6,000 海里 (10,000 km) 12ノット時
乗員: 士官、兵員222名
兵装: 38口径5インチ砲×2基
ボフォース40mm連装機銃×2基
エリコン20mm機銃×10門
21インチ3連装魚雷発射管×1基
ヘッジホッグ×1基、爆雷軌条×2基

サミュエル・B・ロバーツ (USS Samuel B. Roberts, DE-413) は、アメリカ海軍護衛駆逐艦ジョン・C・バトラー級護衛駆逐艦の1隻。艦名は海軍十字章を受章したサミュエル・B・ロバーツ英語版に因む。

艦歴[編集]

起工から就役まで 1944年[編集]

サミュエル・B・ロバーツは1943年12月6日にテキサス州ヒューストンブラウン・シップビルディング英語版社で起工する。1944年1月20日にサミュエル・B・ロバーツ夫人によって命名、進水し、1944年4月28日に艦長ロバート・W・コープランド英語版少佐の指揮下就役した。就役後は5月21日から6月19日までバミューダ沖で公試を行い、その後ボストン海軍工廠で信頼性試験を行う。サミュエル・B・ロバーツは1944年7月22日にバージニア州ノーフォークを出航し、7月27日にパナマ運河を通過。8月10日に真珠湾に到着し太平洋艦隊チェスター・ニミッツ大将)に合流した。

サミュエル・B・ロバーツは訓練演習を継続し、8月21日に船団と共に出航、8月30日にエニウェトク環礁に到着した。9月2日に真珠湾に向けて出航し、10日に船団と共に到着した。さらなる訓練の後、ロバーツは21日に出航、再びエニウェトクへの船団を護衛し9月30日に到着した。続いてマヌス島に向かい、第77.4.3任務群(通称「タフィ3」。クリフトン・スプレイグ少将)に加わりレイテ湾海域に向けて出撃、サマール島沖で北部航空支援グループと共に作戦活動を行う。

サマール沖海戦[編集]

1944年10月25日の夜明け直後、サミュエル・B・ロバーツはこの日もサマール島沖で第77.4.3任務群の護衛に従事していた。第77.4.3任務群はレイテ島の戦いの支援を行う動く航空基地として機能していた。第77.4.3任務群は突然、夜のうちにサンベルナルジノ海峡を突破してきた栗田健男中将率いる日本の中央艦隊から攻撃を受けた。7時35分、サミュエル・B・ロバーツは反転して栗田艦隊との対決に打って出た。目標を重巡洋艦鳥海と思しき巡洋艦に定めたサミュエル・B・ロバーツは、コープランド艦長が艦内放送で「我々は水雷突撃を敢行する。結果はどうなるか分からない。だが、義務を果たそう」旨放送。煙幕を張りつつ突撃したサミュエル・B・ロバーツは鳥海から4,600メートルにまで迫ったものの、20センチ砲の射撃を受けた。これを受け、サミュエル・B・ロバーツは鳥海にさらに接近し、砲撃できないほど深く食い入った。砲弾はサミュエル・B・ロバーツの頭上を飛び越えていった。

栗田艦隊の砲撃はガンビア・ベイ (USS Gambier Bay, CVE-73) に集中していた。サミュエル・B・ロバーツは間隙を縫って、鳥海か羽黒利根と思しき巡洋艦に対してMk15 魚雷を3本発射した[1]。少なくとも1本が命中したように見え、乗員は歓喜した。しかし、依然として砲弾が飛び交っており、サミュエル・B・ロバーツはさらに約1時間もの間、栗田艦隊との対決を行った。鳥海と推定される巡洋艦の上部構造物に、600発もの5インチ砲弾を初め、40ミリ機関砲と20ミリ機銃を浴びせかけた。8時51分、サミュエル・B・ロバーツは日本側の砲弾2発が命中し、二発目の砲弾は後部砲塔を破壊した。被弾したサミュエル・B・ロバーツは筑摩と思しき巡洋艦の上部構造物などに5インチ砲を浴びせ、第三砲塔を破壊したと判断された。その直後、戦艦金剛は煙幕から出てきたサミュエル・B・ロバーツを発見し、この「クラベン型駆逐艦」に対して36センチ砲弾を発射した[1]。サミュエル・B・ロバーツは主砲弾の直撃をボート・デッキに受け、第二機関室に長さ12メートル、幅3メートルの亀裂が入った。その後も大口径砲弾がサミュエル・B・ロバーツに命中あるいは至近弾として降り注いだ[2]

後部砲塔担当のポール・H・カー英語版兵曹は、用意された325発もの5インチ砲弾を全て発射させた。救助班が到着したとき、カー兵曹は最後の一発を抱えたまま戦死していた。戦死したカー兵曹にはシルバー・スターが授けられ、オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲートの一艦であるカー (USS Carr, FFG-52) は彼にちなんで命名された。また、同型艦のコープランド (USS Copeland, FFG-25) およびサミュエル・B・ロバーツ (フリゲート) (USS Samuel B. Roberts, FFG-58) は、艦そのものと艦長を記念して命名された。9時35分、コープランド艦長は総員退艦を令して艦は放棄され、軽巡洋艦矢矧と第十七駆逐隊(駆逐艦浦風磯風雪風)は、「413」という艦番号が確認できるぐらいサミュエル・B・ロバーツに近接し、止めの砲弾を浴びせかけた[3]。30分後にサミュエル・B・ロバーツは89名の乗員とともに沈没していったが、艦首の一部はしばらくの間、海面上に突き出ていた[3]

コープランド艦長を含む120名の生存者は、3隻の救命筏に揺られ50時間を過ごした後救助された。ジョン・C・バトラー級護衛駆逐艦の設計上の最高速は23から24ノットであったが、この戦闘の間にサミュエル・B・ロバーツは28.7ノット (53 km/h) の高速を発揮した。サミュエル・B・ロバーツは1944年11月27日に除籍された。

サミュエル・B・ロバーツが所属した第77.4.3任務群は「戦闘における特別な英雄的行動」を称えられ、殊勲部隊章英語版を受章した。サミュエル・B・ロバーツ自体には第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章英語版を受章し、「戦艦のように戦った護衛駆逐艦」の愛称を得た。

残骸の発見[編集]

2022年に撮影されたサミュエル・B・ロバーツの残骸。ハルナンバー413が確認できる

2022年6月25日ビクター・ヴェスコヴォ英語版率いるチームの深海探査艇リミティング・ファクターにより水深6900メートルの海底に沈む本艦の艦体が発見され、艦体は二つに割れ、互いに10メートル離れて沈んでいたと発表された(探査艇にはヴェスコヴォ自身がソナーの専門家と共に搭乗した)。また、これまでの記録であった駆逐艦ジョンストンの水深6460mを塗り替え、世界で最も深い位置で発見された沈没船となった[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b 木俣『日本戦艦戦史』498ページ
  2. ^ 木俣『日本戦艦戦史』499ページ
  3. ^ a b 『第十戦隊戦闘詳報』C08030037400, pp41,42
  4. ^ 「世界で最も深い沈没船」、第2次大戦の米軍艦を発見 水深6900メートル”. CNN.co.jp (2022年6月25日). 2022年6月26日閲覧。

参考文献[編集]

  • 第十戦隊『昭和十九年十一月一日 第十戦隊戦闘詳報第一三号 自昭和十九年十月十七日至同十月三十一日捷号作戦』(昭和19年10月17日〜昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)(2)(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030037400、C08030037500、C08030037600
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
  • 金子敏夫『神風特攻の記録 戦史の空白を埋める体当たり攻撃の真実』光人社NF文庫、2005年、ISBN 4-7698-2465-3

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯11度40分 東経126度20分 / 北緯11.667度 東経126.333度 / 11.667; 126.333