ウィリアム・リーヒ

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ウィリアム・リーヒ
William Daniel Leahy
1875年5月6日 -1959年7月20日(満84歳没)
リーヒ元帥 1945年
生誕地 アイオワ州 ハンプトン
死没地 メリーランド州 ベセスダ
所属政体 アメリカ合衆国
所属組織 アメリカ海軍
軍歴 1897 - 1939
1942 - 1949
最終階級 海軍元帥
指揮 統合参謀本部議長
海軍作戦部長
戦闘/作戦 米西戦争
義和団の乱
第一次世界大戦
希土戦争
第二次世界大戦
賞罰 海軍殊勲章
海軍殊勲十字章
サンプソン・メダル
その他
  

ウィリアム・ダニエル・リーヒWilliam Daniel Leahy, 1875年5月6日 - 1959年7月20日)は、アメリカ海軍軍人。最終階級は元帥アイオワ州ハンプトンに生まれ、1897年海軍兵学校を卒業。戦艦オレゴンに配属され、米西戦争に従軍した。その後、フィリピンおよび中国勤務を経て1904年にアメリカに帰り、海軍兵学校教官を務める。次いで、在ニカラグア米軍司令官の参謀長に就任した。

[編集] 経歴

1915年から1916年にかけては砲艦ドルフィンの艦長を務め、ついで戦艦ネバダの副長に就任。アメリカの第一次世界大戦参戦に際しては輸送艦プリンセス・マトイカの艦長となり、フランスへの兵員輸送に従事した。この功績により、1918年には海軍十字章を受章。またこの間に、当時海軍次官だったフランクリン・ルーズヴェルトと知り合っている。1920年代には巡洋艦セントルイスおよび戦艦ニューメキシコの艦長を務め、1927年少将に昇進。兵站局長、次いで航海局長に任命された。1931年には中将1936年には戦闘艦隊司令長官に就任し、併せて大将となった。1937年1月2日、ルーズヴェルト大統領より第7代海軍作戦部長に指名され、1939年8月1日に一旦退役するまでこの任にあった。

陸海軍参謀長会議メンバーによる会食(1943年頃)。左から、ヘンリー・アーノルド陸軍大将(陸軍航空軍総司令官)、ウィリアム・リーヒ海軍大将、アーネスト・キング海軍大将(海軍作戦部長)、ジョージ・C・マーシャル陸軍大将(陸軍参謀総長)

1939年にはプエルトリコ総督となり、次いで1940年駐仏大使を拝命。ヴィシー政権に対してヒトラーへの抵抗を呼びかけたが、これは成功しなかった。1942年6月20日には再び海軍に復帰し、アメリカ陸海軍総司令官参謀長 (Chief of Staff to the Commander in Chief, U.S. Army and Navy) に就任。大統領の個人的な軍事顧問として事実上統合参謀本部の議長を務めた。1944年12月15日には新たに制定された海軍元帥の地位が与えられ(五つ星元帥中の最先任)、1949年に初代統合参謀本部議長 (Chairman of the Joint Chiefs of Staff) にオマル・ブラッドリー大将が就任した後は、亡くなるまで海軍長官の顧問として軍務に留まった。

1959年7月20日、死去(84歳没)。

リーヒは決して卓越した戦略家でも軍政家でもなかったが、穏健な良識家として知られ、とりわけルーズヴェルト大統領の信望が篤かった。統合参謀本部においては表立って意見を表明することはせず、会議の調整役と大統領への連絡役に徹したという。ルーズヴェルトの死後は引き続きトルーマン大統領を補佐したが、非戦闘員を犠牲にすることをよしとしない軍人としての立場から、日本への原子爆弾投下に対しては批判的だった。

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官職
先代:
ウィリアム・スタンドリー
アメリカ海軍作戦部長
1937年1月2日 - 1939年8月1日
次代:
ハロルド・スターク
先代:
ホセ・コロン
プエルトリコ総督
1939年9月11日 - 1940年11月28日
次代:
ホセ・ミゲル・ガラルド
先代:
-
アメリカ陸海軍参謀長会議議長
1942年7月20日 - 1949年3月21日
次代:
オマル・ブラッドリー
外交職
先代:
ウィリアム・ブリット
フランス駐箚アメリカ合衆国特命全権大使
1941年1月8日 - 1942年5月1日
次代:
ジェファーソン・キャフェリー