レイモンド・スプルーアンス

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レイモンド・スプルーアンス
Raymond Ames Spruance
Ray Spruance.jpg
1944年4月
生誕 1886年7月3日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国メリーランド州 ボルチモア
死没 1969年12月13日(満83歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州 モントレー ペブルビーチ
所属組織 Seal of the United States Department of the Navy.svgアメリカ海軍
軍歴 1907 - 1948
最終階級 海軍大将
除隊後 在フィリピンアメリカ合衆国大使
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レイモンド・エイムズ・スプルーアンス(Raymond Ames Spruance, 1886年7月3日 - 1969年12月13日)はアメリカ海軍軍人、最終階級は大将海軍十字章受章者。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモアで、アレグザンダー・スプルーアンス (Alexander Spruance) とアンナ・エイムズ・スプルーアンス (Anna Ames Spruance) の長男として産まれた。誕生後、インディアナ州インディアナポリスの家で育つ。父親の家系は何代か奴隷所有の大規模農場経営や商人を経てインディアナポリスに土着した一族で、母親の実家ヒス家はマサチューセッツヤンキー(この場合「オランダ系移民」の意)の9代目にあたるボルチモアの裕福な家系で、母親は16歳の時に叔父のいるイタリアジェノヴァへの留学歴がある。両親の他には3歳年下の弟ビリーと6歳年下の弟フィリップがいたが、フィリップが病弱で知的障害者だったため、母親は6歳のレイモンド少年をボルチモアの実家に預ける事にした。こうして思春期を両親・弟2人と離れて暮らす事になった。

海軍入隊[編集]

高校生の時に居候先の母親の実家ヒス家が破産し、やむなくインディアナポリスの実家に帰ったが、スプルーアンス家も父アレグザンダーは破産して仕事もせずにブラブラしている世捨て人で、ボブズ・メリル社の編集者であった母親の収入が頼りの散々な有様であった。

大学に進学できそうにない経済状態だったため、無料で高等教育が受けられる所という事で1903年アナポリス(アメリカ海軍兵学校)に入学した。当時アナポリスでは上級生が下級生にリンチを加える (en:Hazing) 荒廃状態にあったが、我関せずといった態度で過ごしていた。士官不足に伴う卒業繰上げ政策で半年卒業が繰り上がり、1906年9月12日にアナポリスを卒業した。卒業席次は209名中21番目だった。

少尉候補生になると、戦艦アイオワ (BB-4)に乗組みとなり、1907年に「アイオワ」が除籍になるとグレート・ホワイト・フリートの一隻であった新鋭戦艦「ミネソタ」(BB-22)に転属、12月からの世界巡航に旅立ち、1908年10月に最初の寄港地日本におけるガーデン・パーティーで東郷平八郎元帥と出会う。後の上官チェスター・ニミッツほど熱烈な敬意では無いものの、東郷の颯爽とした姿に日本国民に対する敬愛の念を抱いた。1909年2月に帰国後、電気技術の研修生としてゼネラル・エレクトリック社に1年間勤務、1910年に正式に少尉に任官すると、戦艦「コネチカット」(BB-18)乗組みとなり、1911年10月に軽巡洋艦「シンシナティ」(CL-6)に機関将校として赴任、成績優秀につき1912年中尉に昇進した。1913年には駆逐艦「ベインブリッジ」(DD-1)の艦長となった。この時、のちに親友で名参謀長となるチャールズ・J・ムーア(通称:カール・ムーア)少尉と出会う。

第一次世界大戦[編集]

1914年5月に大尉に昇進しアメリカ本国に帰国。ヴァージニア州ニューポート・ニューズ造船所に海軍監督官として赴任、12月には幼馴染のマーガレット・ディーンと正式に結婚した。造船所で戦艦「ペンシルベニア」(BB-38)が進水すると同艦の電気担当士官として乗艦、この時ヨーロッパでは第一次世界大戦が勃発している。1917年にはブルックリンの海軍工廠に転属し、戦時特例で少佐に昇進した。大戦終結後はドイツの客船「カイザー・ヴィルヘルムII世」の捕獲・改良輸送船「アガメムノン」の副長に就任してヨーロッパのアメリカ兵の帰国輸送に従事した。1918年には士官不足が深刻を増し、この年には戦時特例で中佐に昇進した。

大戦の間[編集]

1920年には新鋭駆逐艦「アーロン・ワード」の艦長に就任。この時の6隻の駆逐艦からなる駆逐隊の司令は後に共に日本軍を撃破する事になる親友ウィリアム・ハルゼー中佐であった。この時2年ほどハルゼーの部下として仕えるが、ハルゼーはスプルーアンスを「駆逐艦の艦長としてきわめて優れた技能を持っているだけでなく、その性格ならびに頭脳においても、きわめて優れた人物である」と激賞し、スプルーアンスもハルゼーの統率力と勇敢な攻撃精神に尊敬の念を持つようになった。また、お互い家族ぐるみの付き合いをするようになっている。

1921年海軍省技術部電気課長に就任。この時父アレキサンダーが死去している。1922年に正式に中佐に昇進、1924年にヨーロッパ・アメリカ海軍部隊参謀を拝命、部隊のいるフランスシェルブールに家族と共に赴任した。後に一旦帰国後駆逐艦「オズボーン」艦長を拝命。前任の艦長はハルゼーで、交代の際乗組員に新しい艦長は良い艦長になるから生真面目さだけで誤解しないよういい含めてあった。

1926年海軍大学校に入学、1927年に卒業すると海軍作戦部情報課勤務となった。この時日本大使館駐在武官坂野常善大佐伊藤整一中佐と親交があった。1929年には戦艦「ミシシッピ」(BB-23)副長に就任した。1931年には海軍大学に戻り通信教育部門の責任者となった。この年大佐に昇進。1933年3月、合衆国艦隊偵察艦隊駆逐艦群の参謀長に就任、1935年には3度目の海軍大学勤務となった。1938年には戦艦「ミシシッピ」に艦長として赴任した。

1940年2月に少将に昇進し、第10海軍区(カリブ海と西印度諸島)の初代司令官となり、プエルトリコ基地建設に従事した。1941年初頭に大西洋分艦隊司令官アーネスト・キング少将からクレブラ島上陸作戦演習見学の招待があり参加している。

1941年太平洋艦隊所属第5巡洋艦戦隊司令官の辞令が下りる。指揮下にあるのは巡洋艦4隻に過ぎず、戦艦部隊司令官を望んでいたスプルーアンスをがっかりさせたが、別の任務候補が海軍省兵器部と大西洋艦隊参謀長だったため、ワシントンに行くよりはマシだと思って受ける事にした。1941年9月に真珠湾に到着すると、重巡洋艦「ノーザンプトン」(CL/CA-26)将旗を掲げた。11月28日ウェーク島に航空機を輸送する任務を帯びたハルゼー中将指揮の第8任務部隊の一部隊を率いて真珠湾を出港した。

太平洋戦争[編集]

ミッドウェー海戦まで[編集]

太平洋戦争開戦時はホノルル西方200マイルの洋上におり、真珠湾への帰路途上であった。開戦後しばらくはハルゼー中将指揮下で各種作戦に参戦していたが、この時はハルゼー配下の無名の一少将に過ぎなかった。

しかし、1942年6月のミッドウェー海戦の時、ハルゼーが急病で緊急入院。ハルゼーに代わって第16任務部隊を指揮し、ミッドウェー島に迫る日本軍を迎撃・撃退せよとの命令を太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将から受ける。この役目はハルゼーの推薦で、条件として副官以外の幕僚はハルゼーの幕僚をそのまま引き継ぐ事と、旗艦は空母「エンタープライズ」に置く事が定められていた。これを受諾すると、副官ロバート・オリバー中尉だけ連れて「エンタープライズ」に乗艦し出港、1日遅れで出港したフランク・J・フレッチャー少将の第17任務部隊と、ミッドウェー島北東の「ポイント・ラック」と呼ばれた地点で合流、フレッチャー提督指揮の下日本軍迎撃に就いた。この海戦の折、第16任務部隊の幕僚の面々はスプルーアンスの事を航空のキャリアが無い事だけしか知らなかったが、初めての会食の席上「諸君、私は諸君の1人ひとりについて、いささかの不安の念も持っていないということを、先ずはっきりさせておきたい。もし1人でもそうでない人物がいたら、ビル・ハルゼーが君達をこのままにしておくはずがないからだ」と明言して信頼を勝ち得たという。この海戦は太平洋戦争のターニングポイントと捉えられており、スプルーアンスはその立役者と目されている。

参謀長〜第五艦隊司令官[編集]

同海戦からハワイに戻るとニミッツ大将の参謀長となる。この任務の折ニミッツの官舎に居候しており、公私に渡って行動を共にしている。ニミッツも次第に自分に対する用件を全てスプルーアンス経由にするほど信頼するようになった。1942年10月には南太平洋艦隊司令官ロバート・ゴームレー中将からのガダルカナルに関する悲観的な報告に業を煮やしたニミッツの指示で、スプルーアンスは復帰したハルゼー中将と共に現地視察に赴いている。

1943年5月30日中将に昇進し、中部太平洋艦隊司令官に任命された。この時指揮下にある兵力は正規空母6隻、軽空母5隻、護衛空母7隻、戦艦12隻、巡洋艦15隻、駆逐艦65隻、潜水艦10隻、上陸作戦用輸送船33隻、戦車揚陸艇 (LST) 29隻、タンカー22隻、陸軍航空隊爆撃機90機、海軍爆撃機・偵察機66機、海兵隊航空機200機という膨大なものであった。旗艦はスプルーアンスの故郷の名を冠する重巡洋艦「インディアナポリス」(CA-35)に定めている。この船は巡洋艦戦隊旗艦クラスの設備しか備えておらず、これだけの大艦隊を指揮するには収容能力が小さかったが、指揮・命令系統のスリム化を図る上で幕僚の数を「インディアナポリス」に収容できる範囲に制限する効果があった。スプルーアンス以下幕僚32人が乗船したが、32人という数はハルゼーの幕僚の半分程度の規模だったといわれている。この少数精鋭主義の幕僚陣は親友カール・ムーア大佐が参謀長に就任して束ねている。ギルバート・マーシャル諸島の戦い(コードネーム「ガルヴァニック作戦」)の攻略戦を指揮した。1944年2月10日には大将に昇進、この知らせと前後して旗艦を新鋭戦艦「ニュージャージー」(BB-62)に移し、トラック島攻撃の折、戦艦「ニュージャージー」・「アイオワ」以下巡洋艦2隻、駆逐艦4隻を直率し、航空攻撃で撃ち漏らした日本の艦隊の撃滅を追い求めるという珍しく興奮した行動を取っている。3月には中部太平洋艦隊が第5艦隊と改称され、パラオ諸島の攻撃を開始、4月には攻略完了している。

マリアナ沖海戦〜硫黄島攻略[編集]

旗艦を「インディアナポリス」に戻し、一旦真珠湾に帰港したのち、5月28日に再び出港、6月にはマリアナ諸島の攻略に着手し、堅実な戦略で攻略支援に徹しつつ、マリアナ沖海戦小沢治三郎中将が指揮する日本海軍機動部隊も打ち破った。7月9日にはサイパン島8月8日にはテニアン島8月10日にはグアム島が陥落、マリアナ諸島はアメリカ軍の手におちた。8月半ばにキング提督の命令でムーア参謀長は解任、新参謀長アーサー・C・デイビス少将が着任した。8月末にはサイパン島でハルゼー大将と指揮権を交替すると真珠湾に戻った。ニミッツは次の目標は台湾だろうと示唆したが、スプルーアンスは硫黄島沖縄がよいと答えている。休養と次の作戦立案の最中の1944年10月にレイテ沖海戦が起こり、そこでハルゼーの猪突が問題視されたが、「ビル・ハルゼーは日本からやってきた艦隊(小沢提督の囮艦隊)に対して実によく行動した」とだけ述べてハルゼーを擁護した。

1945年1月に真珠湾を出港、ウルシー環礁で指揮権を引き継ぐと硫黄島の戦いを指揮した。この戦いは軍部内で批判も強かったが、陸軍航空隊カーチス・ルメイ少将が「非常に大きな価値を持つ」と断言したため、迷いを振り切って作戦に邁進した(しかし、後にルメイがスプルーアンスの嫌う民間人を巻き添えにする焼夷弾攻撃に切替え、硫黄島がその拠点として使われたため愕然としたという)。2月末に硫黄島攻略を成し遂げると、一旦ウルシー環礁に帰還した。

沖縄攻略[編集]

3月14日には沖縄戦(「アイスバーグ作戦」)に向けて出港、3月18日に攻撃を開始した。この時神風特攻の猛攻で正規空母3隻が行動不能、空母「フランクリン」は爆弾2発命中で一時放棄・沈没を覚悟するほどの猛火に包まれた。3月31日には旗艦「インディアナポリス」に特攻機が命中、4月5日に戦艦「ニューメキシコ」(BB-40)に将旗を移している。4月6日には伊藤中将率いる戦艦「大和」以下の水上特攻部隊を捕捉、神風特攻に備する機動部隊を代わりモートン・デイヨー少将の戦艦部隊に迎撃を命じたが、攻撃隊の発艦準備を整えたマーク・ミッチャー中将から「貴官において攻撃されるや、あるいは当方において攻撃すべきや」との打電を受け、即座に”You take them”(「君がやれ」くらいの意味合い)と返信している。これと前後して4月1日には沖縄本島に上陸部隊が上陸したが、日本軍の抵抗に上陸部隊司令官サイモン・B・バックナー陸軍中将も怯み、スプルーアンスを落胆させている。また特攻機の攻撃も苛烈さを増し、5月12日には臨時旗艦「ニューメキシコ」にも特攻機が命中、戦死54名・負傷119名、スプルーアンスもあわや戦死という危機に見舞われた。ニミッツ元帥は司令部は限界に達していると判断、攻略作戦途中でハルゼー提督と交代という非常手段を取った。5月28日にハルゼー提督が戦艦「ミズーリ」(BB-63)で沖縄西海岸沖に到着し、指揮権を交代すると、修理が完了していた「ニューメキシコ」でグアム島に帰還した。6月に陸上に司令部に移すと程なくしてアメリカ本土に休暇で帰国、1週間ほどモンロビアで過ごすとすぐにグアム島に戻った。8月14日にニミッツから正式に日本占領計画が発令され、旗艦を戦艦「ニュージャージー」に定め、準備に取り掛かった。8月15日日本降伏のニュースはグアム島で聞いた。その時満足げな顔はしたが、特に何の感情も示さなかったと息子エドワードは回想している。

戦後〜晩年[編集]

8月27日マニラ湾に到着、29日にダグラス・マッカーサー陸軍元帥と対面した。マッカーサーに会ってみると日本に対する考えが同じである事が分かり、すっかり尊敬するようになった。後にマッカーサーであれば日本占領をうまく切り盛りできるだろうという旨の発言をしている。9月2日の戦艦「ミズーリ」での降伏文書調印式にマッカーサーから招待を受けたが、「ニミッツが自分の出席を求めるなら、ニミッツがそう言ったであろう」と答えて拒否し、この時沖縄中城湾で艦隊の指揮を執っていた。

在日海軍司令官の職務に就くと9月15日和歌山に上陸、病院船「サンクチュアリー」他2隻に収容されたアメリカ軍捕虜を見舞うと17日に横浜港に入港、イギリス海軍のサー・バーナード・ローリングス中将のもてなしを受け、旗艦「キングジョージ5世」で久しぶりに深酒をした。後日アメリカ本国に帰国するハルゼーを見送ると、横須賀でマッカーサー率いる占領軍本隊(進駐軍)の上陸支援、機雷掃海、捕虜の帰国に従事した。また、アメリカ軍兵士の強姦事件、花柳病泥酔者が続発したので艦隊医官ウィルカッツ博士の提案で在日米海軍の管理下の慰安所を設置、犯罪・性病が激減したが、従軍牧師が連邦議員に「海軍が横須賀で売春を許可し、これを幇助(ほうじょ)している」と報告したため、海軍省はスプルーアンスに直ちに廃止するよう命令した。

11月に第5艦隊司令官の地位をジョン・H・タワーズ中将に引き継ぐと真珠湾に戻り待命、2週間後ニミッツ元帥の後任の太平洋艦隊司令長官に就任する。しかし、わずか2ヶ月ほどでタワーズ提督に譲ると、1946年2月1日から海軍大学校長となり1948年7月1日に退役した。スプルーアンスは終身現役の元帥にはなれなかったが、退役後も終身、大将の俸給を受けるという前例のない待遇を連邦議会から認められた。

カリフォルニア州モントレー半島ペブル・ビーチで妻と引退生活を送っていたが、ハリー・S・トルーマン大統領の指名を受けて1952年1月に駐フィリピン大使に就任、1953年に退任する予定であったが、後に大統領となったドワイト・アイゼンハワーに慰留され延長、1955年まで務めた。

再びペブル・ビーチに戻ると第2の引退生活を送る。1966年椎間板ヘルニア白内障を患い、後に動脈硬化症を併発する。1969年春に長男エドワードが交通事故死すると精神に異常をきたし、認知症のような状態に陥る。1969年12月13日に自宅で死去、83才だった。最後の言葉は「私は妻にさよならを言いたいのだ」であったという。海軍による葬儀ののち、サンフランシスコのゴールデン・ゲート国立墓地にニミッツ、ターナー両提督の墓と隣り合うように葬られた。

スプルーアンス級駆逐艦のクラスネームとその1番艦(DD-963)、アーレイバーク級ミサイル駆逐艦61番艦(DDG-111)は彼にちなんで命名された。

参考文献[編集]


軍職
先代:
チェスター・ニミッツ
アメリカ太平洋艦隊司令長官
1945年 - 1946年
次代:
ジョン・ヘンリー・タワーズ
外交職
先代:
マイロン・M・カウエン
駐フィリピン大使
1952年 - 1955年
次代:
ホメロス・ファーガソン