重慶爆撃
重慶爆撃(じゅうけいばくげき)とは、日中戦争中の1938年12月4日より1943年8月23日にかけて、日本軍により断続的に218回行われた重慶に対する戦略爆撃を指す[1]。中国側の主張では死者は計11,800人、家屋の損壊は17,600棟となっている。[要出典]
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[編集] 背景
1937年の第二次上海事変の結果、日本軍は中華民国の首都南京を攻略し占領。日本政府は中華民国・中国国民党が和睦を乞うことを期待した。
これに対して対日徹底抗戦を決定した国民政府は、アメリカやイギリスなどの援助を受け、首都機能を南京から漢口に移転した。しかし漢口も陥落したため、さらに内陸である四川の重慶への首都移転を実行した。
大本営は地上軍による重慶の攻略を計画したが、重慶が天然の要害の地である事や、兵站の問題もあり即時攻略は困難であるという結論に達した。
[編集] 立案
こうした状況を受けて大本営は1938年12月2日、中支那方面軍に対し「航空侵攻により敵の戦略中枢に攻撃を加えると共に航空撃滅戦の決行」との指示を出した。しかし、直ちに大規模な爆撃を行なう能力は当時の日本陸・海軍には無く、また中国軍航空部隊の迎撃も無視する事は出来なかった。
中央統帥部は現地部隊に対し「航空侵攻作戦は概ね1939年秋以降に実施するので、各部隊はそれを目処として、整備訓練に勤めるように」と通達した。
稼働率や航空性能の劣るイ式100型重爆撃機(フィアットBR.20、九七式重爆撃機が完成する前の代用機)や防御火器が貧弱な九三式重爆撃機では、中国軍の迎撃や対空砲火で被害が増大したため、防備の固められた重慶に対しては、より新鋭の九七式重爆撃機、九六式陸上攻撃機を主体とする陸・海軍の航空兵力による長距離侵攻を実施する事となった。
[編集] 作戦の実行
爆撃は主に1939年から1941年の、視界が確保できる春から秋の間に行われ、投下した爆弾は1940年には4333トンに達した(佐々木隆爾編「昭和史の事典」)。爆撃は陸軍爆撃隊、海軍航空隊それぞれが日程調整のうえ実施した。爆撃目標は「戦略施設」であり、1939年4月の現地部隊への指示では、「敵の最高統帥、最高政治機関の捕捉撃滅に勤めよ」とあり、アメリカ、イギリスなど第三国の施設への被害は避けるようにと厳命されていた。しかし重慶の気候は霧がちで曇天の日が多いため目視での精密爆撃は難しく、目標施設以外に被害が発生する可能性があった。また、後期には完全な絨毯爆撃となった。 蒋介石は市街地に高射砲陣地を置いていた。
[編集] 百一号作戦、百二号作戦
1940年の5月から9月までを百一号作戦、1941年5月から8月までを百二号作戦と呼ぶ。日本の軍中枢で支那事変とは別に第三国(対ABD)との開戦が取りざたされはじめたことから、早期参戦を強行に反対していた海軍部、主に井上成美支那方面艦隊参謀長らが支那方面の早期終結を目的に提言した作戦である。
[編集] 爆撃の効果
日本軍の航空部隊は、当時の航法の限界(無線やレーダーなどの誘導方法は当時なかった)などもあって、蒋介石の司令部の位置を特定し施設を狙った爆撃を行ったにもかかわらず、司令部施設に命中弾は無かった(二発命中との説もある)。 中国側は防空壕の不足や、換気装置の不備による避難者の大量死などの事故もあり、多くの犠牲者が発生した。市内の実に8割が損害を受けたといわれている。
爆撃の効果については、日本軍内部に疑問視する声もあった。しかし、現実には蒋介石軍に与えた影響は大きく、蒋介石の日記によれば、ほとんど戦争を単独で遂行することができないまでに追い込まれていたという。
この重慶爆撃に際しては、当時の日本軍戦闘機の航続距離が爆撃機のそれに及ばないため、奥地の重慶まで爆撃機を護衛できず、そのため日本軍爆撃機にかなりの被害が発生した。これが後に爆撃機並みの長い航続距離をもった戦闘機の開発を促す戦訓になったといわれている。
3日間の延べ出撃機数は74機、未帰還9機+大破・不時着3機(損害率16.2%)。
[編集] 戦局への影響
蒋介石は、重慶爆撃により戦争遂行能力の限界を感じて、爆撃の悲惨さを非人道的な無差別爆撃として強調、宣伝することにより、大国アメリカを介入させる為の政治的な駆け引きに利用したという説がある。重慶爆撃の非人道行為としての側面が大きく扱われる原因もここにあるとされる。
一方、日本軍はこの爆撃の戦果を正確に検証できなかった為、戦果を拡大することが出来ず、また有効性に疑問があったため4発エンジンの本格的な戦略重爆撃機の生産を遂に行なわなかった(計画のみ)。そして、敵機からの爆撃に対する備えも怠ったため、のちにアメリカ軍のB-29爆撃機によって日本本土を爆撃されることになり、その重要性に気づいた時には既に戦争遂行能力をほとんど喪失していた。
さらに戦後には、戦略爆撃を始めた側として東京裁判で弾劾されたほか、非人道的行為をおこなった当事者「日本」を非難する活動に材料として利用され、また重慶爆撃と同じく戦時国際法で明確に禁止されている非戦闘員への無差別攻撃である東京や広島・長崎への爆撃が、重慶爆撃への報復であるとして正当化され、同じく非戦闘員を無差別に攻撃した、東京大空襲をはじめとした日本全土への無差別爆撃や原爆投下に対する非難を、相対化させる状況を与える要素ともなった。
[編集] 重慶爆撃の戦史上の位置づけ
重慶爆撃は日中戦争・第二次世界大戦と続くこの時期の世界戦争の中で、1937年のゲルニカ爆撃に続く最初期の組織的な戦略爆撃に位置づけられる[2][3][4]。
[編集] 脚注
- ^ 日付・回数は『戦略爆撃の思想―ゲルニカ・重慶・広島』(前田哲男 凱風社)による。
- ^ ゲルニカ以前にも、第一次世界大戦期にドイツによるロンドン空爆(1915年5月31日飛行船ツェッペリンによる)がある。
- ^ 日本軍による初の都市空爆は満州事変のさいに関東軍独立飛行第一〇中隊主力により実施された1931年10月8日の錦州爆撃である。但し計画立案者の石原莞爾は偵察中に応射を受けたため自衛のための反撃および誤爆としている。
- ^ 戦時国際法に抵触する空襲手段を採用した別の嚆矢としてはイタリア空軍が挙げられる。1935年から39年にかけてエチオピアで500トン以上の化学剤(マスタード剤)の投下をおこなっている。
[編集] 重慶爆撃に対する見識
[編集] 文学作品より引用
- 攻撃目標を軍隊や軍事施設に限定せず、都市を丸ごと破壊する作戦。軍隊と市民の区別なく、生命ある者すべてを焼き尽くしてよしとする攻撃のかたち。爆弾と飛行機を手にした人類が、ついに踏み越えた一線。世界の戦略家たちが持っていた無意識の倫理的規範をあっさりと吹き飛ばし、時代遅れのものとした。人類史上初の無差別戦略爆撃。これが新しい時代の戦争のありかたなのだと、日本軍が世界に最初に示した歴史的な作戦。『ストックホルムの密使』(1994年) 著作/佐々木譲 新潮文庫版:(上巻)ISBN 4-10-122315-7 頁330-331 より引用。
[編集] 関連項目
- 戦争犯罪
- 井上成美
- 山口多聞
- 大西瀧治郎
- 桑原虎雄
- 坂井三郎
- 渡洋爆撃
- ゲルニカ爆撃(en:Bombing of Gernika)
- バトル・オブ・ブリテン
- ドレスデン爆撃
- 東京大空襲
- 広島市への原子爆弾投下 / 長崎市への原子爆弾投下
- 重慶大爆撃賠償請求訴訟
[編集] 参考資料
- 歴史記録映像昭和15年-重慶爆撃(IPA「教育用画像素材集サイト」」) - 動画あり
- 『戦略爆撃の思想 ゲルニカ、重慶、広島』前田哲男 凱風社)。序章では日本軍による戦略爆撃の始原性をやや不必要に強調しているかのように読めてしまう箇所があり、また書籍タイトルの印象から「ドイツ・日本が始めた戦略爆撃がヒロシマ・ナガサキにつながった」的印象をもたらしているが、本論では史料の蒐集と要約に集中しており当該事件関連の二次史料として充実している。
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