陸軍飛行戦隊

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陸軍飛行戦隊(りくぐんひこうせんたい、陸軍飛行戰隊)は、大日本帝国陸軍の航空部隊における部隊編制単位の一つ。通称は飛行戦隊戦隊。帝国陸軍における軍隊符号FRないしF

従来の飛行連隊からの改編以降、飛行戦隊は日中戦争支那事変)・ノモンハン事件太平洋戦争大東亜戦争)にわたり帝国陸軍解体に至るまで、陸軍航空部隊陸軍航空隊陸空軍空軍とも呼称)において中核となる実戦部隊編制単位であった。

本項では飛行戦隊のみならず他関連部隊など、陸軍航空部隊全体について詳述する。

沿革[編集]

日本軍航空部隊(陸軍航空部隊)は、観測気球の装備・運用を目的とし1904年(明治37年)に編成され同年の日露戦争に従事した臨時気球隊を原点とする。これは翌1905年(明治38年)に気球班となり、さらに1907年(明治40年)には気球隊に改編され交通兵旅団隷下となった。

飛行機で編成された実戦部隊としては、第一次世界大戦日独戦争)下1914年(大正3年)の青島の戦いに初めて実戦投入された臨時航空隊青島派遣航空隊)が初の実戦飛行部隊となる。1915年(大正4年)12月10日には臨時でない常設の飛行部隊として、日本航空発祥の地である陸軍所沢飛行場にて航空大隊が編成され、1917年(大正6年)には計6個大隊を保有していた。また、1919年(大正8年)に陸軍航空部が設立され、1925年(大正14年)には航空兵科が独立[註 1]し同時に陸軍航空部は陸軍航空本部へと格上げされた。

1920年代から航空部隊の更なる拡張を始めた帝国陸軍は、1922年(大正11年)に従来の航空大隊を飛行大隊と改称、1924年(大正13年)には飛行連隊(FR)に格上げし1930年(昭和5年)には計8個連隊を保有していた。

1930年代後半、ソビエト労農赤軍赤色空軍)を仮想敵とした研究の中で、航空兵力差を補う効率的な航空部隊の運用法として空地分離が検討された。これは従来の飛行連隊から整備補給などの支援部門(地)を切り離し、飛行部門(空)だけを高速で前線基地へ展開させるという構想である。この構想を実現するために1937年(昭和12年)から満州所在の飛行連隊の空地分離が進められ、飛行部門の飛行戦隊FR/F)と、支援部門の飛行場大隊(ab)が編成された。日本本土の飛行連隊についても飛行戦隊と飛行場大隊への改編は行われたが、本土の部隊は固定的な防空任務を予定していたために、各飛行戦隊の隷下に飛行場大隊が置かれ、従来と実質は変化しなかった(内地型戦隊)。教育飛行部隊については飛行戦隊編制は基本用いられず、教育飛行連隊(1944年前後より教育飛行隊に改称)が基本単位だった。なお、1938年(昭和13年)には陸軍航空総監部が設置され(航空総監以下部員は陸軍航空本部兼)、同年に新設された陸軍航空士官学校を筆頭とする航空関連学校を管轄した。

太平洋戦争開戦時には計46個戦隊を有しており、大戦中の1943年(昭和18年)にも空地分離の改良が行われたが(#編制)、飛行戦隊は編制の変化はありつつも陸軍航空部隊の基本的な部隊単位として維持され、敗戦までには計92個戦隊に上った。

なお、帝国陸軍の空挺部隊(落下傘部隊)である挺進団(隷下に挺進連隊滑空歩兵連隊など)では、挺進兵の輸送やグライダーの曳航を行う飛行部隊として、挺進飛行戦隊(RFR)・滑空飛行戦隊(KFR)が編成されともに挺進飛行団RFB)に属し、1944年末には第1挺進集団に隷属した。

編制[編集]

飛行第25戦隊の一式戦「隼」二型(キ43-II)

飛行戦隊の編制として、部隊長たる戦隊長が在籍する本部戦隊本部)を筆頭に、基本は3個飛行中隊Fc中隊[註 2]から構成され、本部(戦隊長)は飛行場大隊(隷下に中間整備を担当する整備中隊及び、飛行場の警備を担当する警備中隊)を事実上隷属し、また各飛行中隊(中隊長)は戦闘整備を担当する整備班を隷属していた。

飛行分科「戦闘」の戦隊の1個中隊の編制は、編隊の最小単位となる1個分隊(分隊長機と僚機の計2機)が2個分隊集まり1個小隊(小隊長機以下の計4機)を、その小隊が3個集まり1個中隊(中隊長以下の計12機)であった。なお、これは陸軍航空部隊がロッテ戦法シュヴァルム戦法)をドイツ空軍から伝授され使用し始めた1942年中頃以降の標準的な編制であり、それまでは最小編隊が3機となるケッテをもとに12機からなる中隊を編成していた(#定数も参照)。

しかし1943年9月の飛行場大隊の大幅な改編と共に、飛行分科「戦闘」の戦隊には同年9月以降、「中隊編制」に代わり新たに「飛行隊編制」が布かれた。従来の中隊編制は機材の整備・管理や人事が個々の中隊ごとに独立しており、損耗や移動の激しい「戦闘」戦隊においては不都合があった。飛行隊編制とは従来の中隊の垣根を取り払い、これを統一・一元化した飛行隊を新設するものであり、これは戦隊本部の直属とし、飛行隊自体の指揮官としては飛行隊長を新設し戦隊長がこれを任命した。また、各中隊が隷属していた整備班は整備小隊となり、同時に戦隊本部隷下となった整備隊本部のもとへと移行された。これにより機材の一元管理化が行われ、整備班附整備員ら地上勤務者を含む大勢の人事まで掌握・指揮しなければならなかった中隊長の労苦も軽減された。

この改編により「戦闘」戦隊における部隊編制単位上の「中隊」は廃止され、編制表から無くなり統一した「飛行隊」となったものの[註 3]、多くの戦隊では機材管理や人事においては飛行隊編制を適用するものの中隊呼称を使用、ないし中隊編制自体に戻される事が多かった。具体的な呼称としては、一般的には従来の「中隊」称(第1中隊・第2中隊・第3中隊等)を踏襲したほかは、「飛行隊」称(第1飛行隊・第2飛行隊・第3飛行隊等)、「」称(第1隊、第2隊、第3隊等)が使用されており、中には無線電話等において使用されるコールサインを兼ねた愛称に近い名称(飛行第47戦隊の「旭隊(第1中隊相当)・富士隊(第2中隊相当)・桜隊(第3中隊相当)、飛行第244戦隊の「そよかぜ隊(第1中隊相当)・とっぷう隊(第2中隊相当)・みかづき隊(第3中隊)」等)の使用もされている。

大戦後期になると、外地部隊を中心に重なる損害と滞る補給のため消耗し部隊の維持が困難になる戦隊が多くなり、それら部隊は後方に移り戦隊員(空中勤務者・地上勤務者)と装備の補充を受けたり、他の戦隊・独飛中隊・独飛隊などと統合され戦力回復を果たすのが一般的であったが、ニューギニアの戦い末期フィリピン防衛戦末期ではその戦力回復も絶望的となり、また大勢からなる戦隊員の後方退却も不可能として貴重な空中勤務者のみが装備機や輸送機で脱出し、整備員ら地上勤務者は現地で歩兵部隊に改編され、結果連合軍の徹底的な攻撃により壊滅し解散した戦隊も存在した(その空中勤務者の脱出もままならず、地上戦や徒歩後退中に戦死した者も多い)。

飛行分科[編集]

飛行第53戦隊の二式複戦「屠龍」丙型丁装備(キ45改丙)

飛行戦隊を中心に、陸軍航空部隊の各飛行部隊には以下の飛行分科(分科)および相当の装備機種が決まっていた。

軽爆撃機より近接航空支援(「地上攻撃機」)に比重を置いている
主任務は航空作戦や大規模地上作戦に密接した戦略偵察
主任務は地上軍に密接した戦術偵察。「偵察」戦隊では軍偵・直協を混用することが多い
輸送任務は陸軍航空輸送部や輸送飛行中隊の担当であり、本来は実戦飛行部隊たる飛行戦隊の任務ではなく、編成された輸送戦隊は大戦後期の2個戦隊ほどに留まる
主任務は対哨戒ならびに爆雷攻撃。大戦後期に独立飛行中隊に対し設けられた分科で、「偵察(軍偵・直協)」から改編された部隊が多い。戦果としては独立飛行第73中隊(装備機・九九式軍偵)によるUSS ブルヘッド撃沈など。また揚陸艦強襲揚陸艦)である特種船あきつ丸」を兼対潜護衛空母として運用するため、分科「対潜」の独立飛行第1中隊(装備機・三式指連機)が編成され、艦載機として運用されている

なお、部隊や時期によってはこれら各分科や機種を束ねることもあった。主に大戦後期においては更なる戦闘隊増強の要求から重爆・軽爆・襲撃から「戦闘」へ分科を転科した操縦者や部隊も多く、また戦闘隊が落下タンクの代わりに爆弾タ弾を搭載し、戦闘爆撃機として臨時の軽爆・襲撃隊として使用されることも珍しくなかった[註 4]

偵察隊とりわけ「司偵」は戦略偵察任務の特殊性や大きな需要から、部隊(戦隊・戦隊1個中隊・独飛中・独飛隊)の改編や吸収統合が特に激しく複雑であった[1]

定数[編集]

飛行戦隊が保有する機体の定数は、時期や部隊や装備機種にもよるが、おおむね太平洋戦争当時は1個中隊が飛行分科「戦闘」では12機、飛行分科「重爆・軽爆」と「司偵」・「偵察(軍偵・直協)」では9機で、戦隊としては約24~36機+α(本部機・予備機など)が一般的であった。これは中隊編制から飛行隊編制に改編された、大戦後期の「戦闘」戦隊も基本同様となる。

また部隊によっては帳簿上の定数に含まれない員数外の機体として、廃棄機の修復機や鹵獲機を保有している。

戦隊長[編集]

大戦下の日本では「軍神加藤少将」として最も有名だったエース・「加藤隼戦闘隊」こと飛行第64戦隊長加藤建夫中佐。同戦隊のピスト(空中勤務者控所の意)で第3中隊長安間克巳大尉らとくつろぐ姿

飛行戦隊の長は戦隊長で、階級大佐中佐少佐大尉が補職する。戦隊でも飛行分科によって違いはあるが、太平洋戦争開戦前頃までは大佐・中佐・少佐が一般的で、太平洋戦争前中期には中佐・少佐が多くなり、後期には大尉が任命されることが珍しくなくなっている[註 5]

帝国陸軍(陸軍航空部隊)においては「指揮官率先」の伝統から、中隊長のみならず戦隊長は階級や飛行分科を問わず「空中指揮官」であり、自ら戦隊が装備する第一線機に搭乗し隷下の本部僚機や中隊・飛行隊を率い、積極的に指揮・攻撃を行うものとされた。そのため飛行第64戦隊加藤建夫中佐や宮辺英夫少佐、飛行第22戦隊岩橋譲三少佐などを筆頭に少なくないエース・パイロットたる戦隊長を輩出していると同時に多数の戦死者や負傷者も出しており、大戦末期には貴重な中堅空中指揮官を温存するために戦隊長の出撃を控えるよう、その旨の令を上級部隊から出されていた戦隊も多々あった。

上級部隊[編集]

飛行戦隊を筆頭に各飛行部隊の上級部隊として、主に以下の部隊が存在し「陸軍航空部隊」を組織していた。

飛行団[編集]

核となる飛行戦隊が2個以上集まり、旅団に相当するである飛行団(FB)を編成した。1935年(昭和10年)の組織改編で生まれた部隊である。長は団長(飛行団長)で少将・大佐・中佐クラスが補職し、司令部を置き数名の部員を擁した。飛行団は戦術的単位の部隊であるため、戦隊長ほどではなくとも団長も空中指揮官として、戦隊同様に飛行団に配備されている第一線機ないし隷下部隊機に搭乗し、隷下の各飛行部隊を率い空中指揮を執るものとされていた。特に戦闘戦隊をメインとする戦闘飛行団の団長はそれが常識であり、操縦者出身かつ大佐・中佐級の古参高級将校たる団長の多くが操縦桿を握り実戦に出撃していった。例として独立第15飛行団長今川一策少将、第12飛行団長川原八郎大佐、第14飛行団長寺西多美弥中佐[註 6]第16飛行団長新藤常右衛門中佐などが居り、中でも16FB長・新藤中佐は本土防空戦においてB-29を1機確実撃墜している。

各飛行団のうち「独立(s)」の称呼を冠する独立飛行団(FBs)は、飛行師団ではなく更なる上級部隊(#航空軍)高級指揮官の直属となる部隊である。

また、主に練習飛行隊(RF)・教育飛行隊(FRK)・錬成飛行隊(FRL)といった各教育飛行部隊を隷下にもつ飛行団として、教育飛行団(KFB)も編成されている。

飛行師団[編集]

さらに飛行団が2個以上集まり戦略的単位の師団である飛行師団(FD)を編成した。なお、1942年(昭和17年)4月以前は飛行師団は飛行集団(FC)と称しており、飛行師団はこれを改称したものである。中核となる飛行戦隊のほかに支援部隊である航空地区司令部(FTB、飛行場大隊・飛行場中隊を隷属)、航空通信団司令部(FTB、航空通信連隊(FTR)を隷属)などを隷属している。長は師団長(飛行師団長)[註 7]中将が補職し、司令部を置き参謀長(大佐級)1名・参謀数名・高級副官・兵器部長・経理部長・軍医部長など部員を擁した。

このほか、隷下に教育飛行団などをもつ飛行師団に準ずる教育部隊として、航空師団(KD)や教育飛行師団(KED)も編成されている。

1944年6月、航空総監部が管轄していた学校(航士を除く)は軍隊に改編され、明野下志津に代表される主要な陸軍飛行学校教導飛行師団(KFD)となり、教導航空軍KFA、同年12月より第6航空軍に改編)に隷属した。なお、熊谷陸軍飛行学校は教導飛行師団とならず上記の航空師団(第52航空師団)となっている。のちに明野と常陸の教導飛行隊[註 8]は飛行戦隊(前者が第111戦隊、後者は第112戦隊)となった。

戦闘飛行集団[編集]

戦闘機を大量に集中運用(戦闘戦隊・戦闘飛行団を主に集中配備)する飛行師団に準ずる部隊として、大戦後期のフィリピン防衛戦時に第30戦闘飛行集団が、最末期の本土防空戦時に第20戦闘飛行集団が編成された。長は集団長(戦闘飛行集団長・飛行集団長)で中将・少将が補職し、司令部を置く。飛行師団の改編前の旧称たる飛行集団とは異なるものの、軍隊符号は同じくFC

  • 第20戦闘飛行集団(20FC)
  • 第30戦闘飛行集団(30FC)

航空軍[編集]

1942年6月以降には、上述の飛行師団[註 9]を束ねるとして航空軍(FA)が編成される。長は司令官(航空軍司令官)で中将が補職し、司令部が置かれ参謀長・高級参謀・参謀数名・高級副官・兵器部長・経理部長・軍医部長・法務部長や部員を擁す。

航空総軍[編集]

さらに大戦末期の1945年(昭和20年)4月には、本土決戦となる決号作戦時に主に日本本土防衛を任務とする全陸軍飛行部隊を統轄する総軍として、官衙である陸軍航空総監部を改編した天皇直隷の航空総軍(FSA)が編成された。長は航空総軍総司令官大将が補職し、総司令部を置き総参謀長・総参謀副長・高級参謀・参謀数名・兵器部長・経理部長・軍医部長・法務部長を筆頭に、部員や総司令部附約700人近い人員を擁した。

  • 航空総軍(FSA) - 北東方面を除く日本本土、朝鮮

独立飛行中隊・独立飛行隊[編集]

陸軍航空部隊の中核である飛行戦隊のほか、主に以下の実戦飛行部隊が多数編成されており帝国陸軍の屋台骨を支えていた。これらは基本的に飛行戦隊や飛行団に隷属せず、更なる上級部隊高級指揮官の直属となる「独立(s)」の称呼を冠する部隊である。

独立飛行中隊[編集]

独立飛行中隊Fcs、独飛中隊・独飛中)は、約1個飛行中隊(定数はおおよそ10機前後)で編成され飛行師団(飛行集団)や航空軍に直属する。長は中隊長で少佐・大尉が補職。独立飛行中隊は編制が小規模ゆえに特に機動的に運用され、その任務性から飛行分科「司偵」・「偵察(軍偵・直協)」・「対潜」が多かった。

飛行戦隊の支援部隊としては飛行場大隊が充てられるのに対し、規模の小さい独立飛行中隊には飛行場中隊(ac)が主に充てられていた。

独立飛行隊[編集]

1941年7月には、上記の独立飛行中隊を2個以上束ね、航空軍や飛行師団(飛行集団)に直属する実戦部隊である独立飛行隊Fs、独飛隊)が編成されている。長は隊長(飛行隊長)で大佐・中佐が補職し、本部を置いた。

なお大戦後期に編成された独立飛行隊は規模が小さくなっており、義号作戦にて義烈空挺隊を輸送し敵飛行場に強行着陸を敢行した第3独立飛行隊諏訪部忠一大尉を隊長とし、12機の九七重爆を装備・運用していた。

部隊マーク[編集]

その部隊マークから「稲妻部隊・稲妻戦隊」と謳われた飛行第11戦隊九七戦乙(キ27乙)。中隊色で色分けされている

陸軍航空部隊の飛行戦隊・挺進飛行戦隊[註 10]・独立飛行中隊・独立飛行隊・飛行団(司令部機)・練習飛行隊・教育飛行隊・錬成飛行隊・直協飛行隊・司令部飛行班[註 11]飛行学校航空学校航空士官学校特別攻撃隊など、航空機を有する大半の飛行部隊・組織[註 12]は職種を問わず部隊マーク戦隊マーク戦隊標識部隊標識部隊章)を有し、これを機体に描いていた(描画場所は視認性の良さから垂直尾翼が多く、大掛かりなものは機体側面や機首、水平尾翼にも描かれていた)。

部隊マークは隊員や関係者が自前で考案することが大半であり、これらは帝国陸軍に公式に認められたもので各々の所属を識別する重要な標識であると同時に、隊員の士気や団結心を高める存在として重要視されていた。中には派手で個性的な意匠も多かったことから、いわゆるノーズアートに相当する側面もあった。

なお、海軍航空部隊では極めて簡素かつ地味な表記(片仮名・漢字・英字・数字等の組合せ)をもって所属を表しており、ごくわずかな例外を除き陸軍航空部隊における部隊マークに相当する文化は存在しない。

中隊色[編集]

飛行第50戦隊第2中隊所属の一式戦「隼」二型(キ43-II)。部隊マーク(「電光」)・スピナー・カウリング先端を中隊色の「黄色」で描く(1943年)。垂直尾翼の「考」の文字は操縦者が考案・記入した機体愛称[註 13]
飛行第25戦隊第2中隊長(尾崎中和大尉)の一式戦「隼」二型(キ43-II)。部隊マークとして垂直尾翼に白色で縁取られた中隊色の赤色の「帯」、また機体番号「71」を、さらに「中隊長標識」として部隊マークと同様の白縁の赤帯を胴体後部に描いている
飛行第73戦隊所属の四式戦「疾風」一型(キ84-I)。部隊マークとして垂直尾翼に赤色の「3本ストライプ」、また方向舵下端を黄色の中隊色で塗り分け、さらに機体番号(下二桁)「91」を描いている

これら部隊マークの中でも、飛行戦隊では中隊・飛行隊ごとにマークを色分けすることが多かった(中隊色)。なお、飛行第104戦隊のようにマークではなく、垂直尾翼上端・主翼端・スピナーを塗り分けた部隊、飛行第244戦隊のように戦隊本部のみ垂直尾翼全面を赤で塗り、中隊色の塗り分けは主脚カバーの機体番号にとどめ、マークは共通で白とした部隊など例外も存在する。

例として飛行第64戦隊では「斜矢印」を戦隊本部は「コバルトブルー[註 14]」、第1中隊は「」、第2中隊は「」、第3中隊は「」で、飛行第50戦隊では「電光」を戦隊本部は「」、第1中隊は「赤」、第2中隊は「黄」、第3中隊は「白」で塗り分け区別していた。なお、第50戦隊のエース・パイロットである穴吹智軍曹が自称していた異名「白色電光戦闘穴吹」は、穴吹の原隊である第1中隊の中隊色「白色」・部隊マーク「電光」・飛行分科戦闘」に由来する。

また、第50戦隊(太平洋戦争中期以降)や飛行第72戦隊のように、部隊マークにのみならずプロペラスピナーや、エンジンカウリング先端をも中隊色で塗り分ける戦隊も存在した。

種類[編集]

隊号「81」を瀟洒にアレンジ・図案化した部隊マークを描いた飛行第81戦隊一〇〇式司偵「新司偵」三型甲(キ46-III甲)
隊号「244」を瀟洒にアレンジ・図案化し、さらに「」を重ねた部隊マークを描いた飛行第244戦隊本部小隊(戦隊長小林照彦大尉乗機)の三式戦「飛燕」一型丙(キ61-I丙)

部隊マークのデザインは多種多様であり、また部隊の誇りでもあるために意匠を凝らしたものが多かった。例として以下のようなものが使用されていたが、これら意匠は必ずしも固定されたものではなく、TPOによって意匠を変更する部隊や同部隊で複数のマークが用いられることも珍しくなく、帝国陸軍には数百個単位の部隊マークが存在していた。

  • 稲妻/電光 - 11戦隊、31戦隊、50戦隊、独飛48中他
  • 帯/ストライプ - 25戦隊、34戦隊、59戦隊、72戦隊、73戦隊、520臨防戦隊、独飛10中、独飛47中、第3独飛隊、第1錬飛隊他
  • 矢印 - 29戦隊、64戦隊、77戦隊、85戦隊、101戦隊、103戦隊、183戦隊他
  • 菊水紋 - 22戦隊、第3教飛隊他
  • 日章 - 第44戦隊、1航軍司飛班他
  • 隊号(部隊号、部隊番号)の図案化 - 6戦隊14戦隊、19戦隊、20戦隊、24戦隊、33戦隊、47戦隊、51戦隊、52戦隊、53戦隊、第62戦隊、63戦隊、68戦隊、70戦隊、104戦隊、244戦隊、独飛71中、21飛団他

当然ながら上記のみならず、意匠に明確な由来のない自由なマークも大量に考案されており、例として以下のような特に複雑・派手・個性的なマークも存在した。

また、飛行第64戦隊は「斜矢印」の採用前はを意匠化した「赤鷲」を九五戦や九七戦に、独立飛行第47中隊は垂直尾翼の「ストライプ」とともに「三つ巴」を二式単戦「鍾馗」の操縦席横に描いていた。

脚注[編集]

[編集]

  1. ^ それまでは整備には工兵科、空中勤務者には歩兵科騎兵科砲兵科など様々な兵科からの出向者が携わっていた。
  2. ^ 太平洋戦争初期まで2個中隊編制だった第59戦隊(戦闘)、第81戦隊(司偵)ほか、また戦闘機集中運用のために4個中隊編制となったフィリピン防衛戦従軍の第200戦隊(戦闘)など、必ずしも3個中隊編制でない戦隊も少なからず存在した。また、分遣隊として1個中隊を戦隊から一時的に切り離し遠隔地にて独立飛行中隊的な運用をされる戦隊も多々あった。
  3. ^ 戦後に出版された多くの軍事関連書物などでは、大戦後期の飛行隊編成下の飛行戦隊について詳述してるにも関わらず、本来は誤用の旧称である中隊(飛行中隊)と呼称をしている事が多くこれが浸透している。
  4. ^ 1944年(昭和19年)2月に英海軍駆逐艦大破の戦果の第64戦隊、1943年12月に米海軍輸送船3隻命中弾の戦果の第68戦隊など。
  5. ^ 陸軍最年少の24歳で第244戦隊長となった小林照彦大尉が有名。
  6. ^ 陸士36期、陸軍士官学校校歌作詞者
  7. ^ 飛行集団の長は集団長(飛行集団長)。
  8. ^ 空中勤務者は教官助教を、地上勤務者も飛校附を中心に機体は飛校機材を使用。
  9. ^ なお、第5航空軍は隷下に飛行師団を擁せず飛行団を直属している。
  10. ^ 挺進連隊の部隊マーク「落下傘」を共用している。
  11. ^ 飛行師団(飛行集団)・航空軍・航空総軍および、方面軍・総軍・防衛総司令部などの高級司令部が司令部人員の輸送や連絡に用いる航空機を運用。
  12. ^ 陸軍航空審査部飛行実験部(旧・飛行実験部実験隊)はマークを有さず、代わりに機体番号の数字を描いた。
  13. ^ 穴吹智は「吹雪」・「君風」の愛称を付けている。
  14. ^ 矢印自体は白で、縁をコバルトブルーとすることが多かった。
  15. ^ 「虎は千里往って千里還る」の中国(独飛18中の駐屯地)の故事から。
  16. ^ 部隊マークから連想された「タコ八」の愛称を持つ一方、その図案から「翼の生えた8」とも称される。
  17. ^ 同特攻隊には、装備の四式戦「疾風」の機体後端から機首に至るまで側面全体に赤色の「矢印」を描き、さらに「必沈」の文字を記入した大変派手なパーソナルマークで知られる高埜徳伍長が操縦者として居た。

出典[編集]

  1. ^ 碇義朗 『新司偵 キ46 技術開発と戦歴』 光人社、1997年
  2. ^ 一〇〇式司令部偵察機
  3. ^ 四式戦闘機 疾風

参考文献[編集]

  • 防衛研修所戦史室 戦史叢書 『陸軍航空の軍備と運用(1)昭和十三年初期まで』 朝雲新聞社、1971年
  • 同上 『陸軍航空の軍備と運用(2)昭和十七年前記まで』 1974年
  • 同上 『陸軍航空の軍備と運用(3)終戦まで』 1976年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]