あきつ丸

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AkitsuMaru.jpg
1944年当時改装後の「あきつ丸」
船歴
運用 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍

日本海運

発注 播磨造船所
起工 1940年(昭和15年)9月17日
進水 1941年(昭和16年)9月24日
竣工 1942年(昭和17年)1月30日
戦没 1944年(昭和19年)11月15日
除籍
性能諸元
総トン 9,190t
全長 152.1m
水線長 143.75m
全幅 19.5m
吃水 7.857m
飛行甲板 新造時
全長127m・全幅21m
改装後
全長110m・全幅23m
機関 三胴式水管重油専焼水管缶4基
石川島製二段減速ギヤード・タービン2基2軸
最大出力 13,435hp
最大速力 21kt
航続距離
乗員
兵装 新造時
八八式 7.5cm 単装高射砲(特)2基
三八式 7.5cm 野砲10基
爆雷60個
水中聴音機
飛行甲板等に八九式 15cm 加農4基・
九八式 20mm 単装高射機関砲7基を増設可

改装後
八八式 7.5cm 単装高射砲(特)4基
九六式 25mm 単装高射機関砲8基
二式 12cm 迫撃砲1基(対潜用)
爆雷60個
水中聴音機
最終時には高射砲4基・高射機関砲4基を増設
搭載上陸用舟艇 大発動艇(D型)最大27隻
搭載機 九七式戦闘機13機または三式指揮連絡機8機
輸送任務時には分割した一式戦「隼」20ないし30機弱を搭載可

あきつ丸(あきつまる)[1]は、大日本帝国陸軍が建造・運用した揚陸艦上陸用舟艇母船)。帝国陸軍では特種船 丙型丙型特種船)に分類される。

世界初のドック型揚陸艦として1930年代中期に開発された「神州丸」の発展型として、上陸用舟艇である大発動艇(大発)を多数搭載し高い上陸戦遂行能力を持つとともに、上陸部隊の支援を目的とする全通飛行甲板を使用した航空機運用能力を有す世界的にも極めて先進的な揚陸艦であり、その運用思想と船型から現在の強襲揚陸艦の先駆的存在であった。

建造の経緯[編集]

1938年に撮影された「神州丸」。船尾ハッチから大発を発進させているほか、後部甲板には装甲艇(AB艇)や高速艇甲(HB-K)が搭載されている。

島国である日本の地理的条件、第一次世界大戦の戦訓(ガリポリ上陸作戦)、在フィリピンアメリカ極東陸軍)を仮想敵国とする大正12年帝国国防方針によって、1920年代の早くより上陸戦に関心のあった帝国陸軍は、同年代中期には上陸用舟艇として小発動艇(小発)・大発を実用化。更に1930年代初期には従来の「宇品丸」以下一般的な軍隊輸送船と異なり、多数の上陸用舟艇をその先進的なウェルドック(舟艇格納庫)に搭載し、主に船尾より迅速かつ安全に発進可能な世界初のドック型揚陸艦(舟艇母船)を開発、その「R1」は設計の手直しを経て1933年(昭和8年)4月8日に起工、「神州丸」と命名され翌1934年(昭和9年)12月15日に竣工した[2]。揚陸艦たる通称特種船「神州丸」は優秀な舟艇運用能力だけでなく、上陸部隊の支援を目的とする航空機運用能力をも有しており、その発進にはカタパルトを使用していた。

完成した「神州丸」は錬成を重ね、各演習のみならず1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争支那事変)の各上陸戦・輸送任務でその能力を遺憾なく発揮し大活躍[3]。この「神州丸」の成功により、陸軍は更なる上陸戦対応能力の強化を図るべく特種船の増産を計画するに至った。

なお、陸軍がこれら本格的な揚陸艦を開発・保有した背景について、当時の海軍戦闘艦の整備に傾注し、揚陸艦といった支援・補助艦艇の開発には極めて消極的で、近代戦において進化する上陸戦のみならず遠隔地への軍隊輸送・海上護衛(船団護衛)に対して理解が無く、揚陸艦のみならず上陸用舟艇・上陸支援艇の開発・保有は必然的に陸軍が行う必要があった事に留意しなければならない[4]。かつ、陸軍海軍とは別に(揚陸や輸送を目的とする)独自の船舶部隊(陸軍船舶部隊)を保有する事は、日本だけでなく同時期のアメリカ陸軍でも大々的に行われていた行為である[5]

日中戦争の実戦に先駆け1936年(昭和11年)8月には既に要望されていたが、1938年(昭和13年)10月に陸軍中央は特種船の増産を決定。翌1939年(昭和14年)には海軍と協議を行い具体的な増産計画を定義した[6]。予算の制約により、大量の特種船を「宇品丸」・「神州丸」のような陸軍省保有船(陸軍船)として維持することは難しいため、陸軍は戦時徴用を前提として民間海運会社に補助金を出し、建前上とはいえ特種船を民間籍の商船として建造する事とし[7]、平行して各海運会社・造船所とも協議を重ね9隻・80,000tの建造を計画。その計画量産特種船は船型によって大別して以下の通りとなる。

  • 甲型 - 10,000t級貨客船型(のちの戦時標準船M型構造はM甲型と称す)
  • 甲(小)型 - 5,000t級砕氷貨物船型(乙型とも)
  • 丙型 - 10,000t級航空母艦型(甲型・甲(小)型と異なり航空機運用能力を有す、のちの戦時標準船M型構造はM丙型と称す)
    • 丙型は平時は第1形態として一般商船型の構造物を甲板上に有し、戦時にはそれを撤去し飛行甲板を装着し第2形態となる。

前身の「神州丸」はその外観が極めて特異であり、(秘密兵器である特種船の)秘匿・防諜の観点から好ましくないため、これら量産特種船の船型は一般商船型とされ本来は空母型である丙型も当初は商船型構造物を有す事になっている[8]

建造[編集]

「神州丸」に次ぐ2隻目の特種船また新鋭量産特種船の第1号として選ばれた丙型は、「神州丸」と同じ播磨造船所において1940年(昭和15年)9月17日に起工、「あきつ丸」と命名された。秘匿・偽装のために計画通り商船型第1形態として建造が初められた「あきつ丸」であったが、起工後に国際情勢を鑑みて(商船型第1形態を取りやめ)当初より飛行甲板を装着した空母型第2形態とする事に決定、1941年9月24日に進水し、太平洋戦争大東亜戦争)突入間もない1942年(昭和17年)1月30日に竣工した[9]

同じ丙型の姉妹船として当初は「にぎつ丸」があったが、これは航空艤装の無い甲型相当として竣工しているため純粋な丙型は「あきつ丸」のみである。姉妹船相当であるM丙型「熊野丸」は航空艤装のある状態で大戦末期に竣工しているが、海軍の小型航空母艦に倣い船橋を甲板下に、煙突は舷側に設けられる等「あきつ丸」の事実上の改良型として建造されている[10]

実戦1[編集]

蘭印作戦[編集]

上陸地点4箇所。メラク(地図左端、「あきつ丸」以下船団)とバンタム(メラクの東部、「神州丸」以下船団)に第2師団主力が上陸する

太平洋戦争開戦直後の1942年1月に竣工した「あきつ丸」は、南方作戦に投入するべく2月26日に播磨造船所を出港、帝国陸軍船舶部隊の根拠地であり陸軍運輸部の本部(のちに兼船舶司令部)も置かれている母港たる広島県宇品宇品港)に移動した。

「あきつ丸」および「神州丸」は太平洋戦争の開戦意義である南方資源地帯確保のため、同年1月11日より始められた蘭印作戦に動員。蘭印作戦では「空の神兵」こと第1挺進団の活躍によって、最重要戦略的攻略目標であるパレンバン大油田を2月14日に制圧していたが(パレンバン空挺作戦)、首都バタビアジャカルタ)やバンドン要塞を擁しオランダ軍主力・イギリス軍オーストラリア軍アメリカ軍ABDA連合軍将兵約8万強が守備するジャワ島の制圧は最終目標となっていた(当時、東南アジアほぼ全域を掌握していた日本軍にとってこのジャワ島上陸作戦は南方作戦の総決算と言えるものでもあると同時に、100隻弱の船団を使用する南方作戦最大規模の上陸作戦であった)。このジャワ上陸作戦において、第16軍(司令官:今村均陸軍中将)司令部が座乗する「神州丸」(当時は秘匿名「龍城丸」を使用)以下はバンタムへ、「あきつ丸」以下はメラクへの上陸に参加する事となった。

ジャワ島へ上陸する日本軍

2月18日、西部ジャワ島上陸部隊たる「神州丸」は「あきつ丸」等とともに総計56隻の大船団を編成し、仏印カムラン湾を出港(19日に東部ジャワ島上陸船団38隻はホロ島を出港)。27日、日本軍上陸を阻止すべく出撃したABDA連合軍艦隊と、日本海軍第3艦隊との間で数日に渡りスラバヤ沖海戦が発生。3月1日0時、メラク湾に入った「あきつ丸」以下(およびバンタム湾に入った「神州丸」以下)の船団は投錨し揚陸作業を開始、0時30頃には第1次上陸部隊がジャワ島に無血上陸した(第2師団を筆頭に各上陸部隊は快進撃を続け、5日には首都バタビアを占領し7日には要衝バンドンに進出(これによりバンドン地区防衛兵団は降伏)。8日より蘭印総督との間で降伏交渉が行われ翌9日無条件降伏が確定、今村陸軍中将以下第16軍は3月10日の陸軍記念日にバンドンに入城し、蘭印作戦は日本軍の完勝に終わっている)。

バンタムの西部に位置するメラクへの上陸部隊である「あきつ丸」以下は、敵艦隊との遭遇も無く終始無事にに揚陸作業を成功させ帰路に就いたが[11]、バンタム湾の「神州丸」以下はスラバヤ沖海戦で取り逃がしたアメリカ海軍重巡洋艦ヒューストン」と、オーストラリア海軍軽巡洋艦パース」の砲撃を受けている(遠距離のため命中せず)。これによりABDA連合軍残存艦隊と上陸船団護衛の日本海軍艦隊との間でバタビア沖海戦が発生、砲雷撃戦を経て日本軍は同海戦に勝利したものの、重巡洋艦最上」の発射した九三式魚雷の流れ弾(誤射)によって、「神州丸」および輸送船2隻・病院船1隻・掃海艇1隻が沈没ないし大破している(「神州丸」はサルベージ・修理され復帰)。

輸送・揚陸任務[編集]

このジャワ上陸戦をもって一連の南方上陸作戦は終了したため、以降「あきつ丸」はその優秀な積載・揚陸能力を生かし他の特種船と共に兵員等の輸送任務に就いた。主にラバウル・シンガポール・サイゴントラックスラバヤマニラ高雄に対し、兵員・航空機・舟艇・物資の輸送を行っている。一式戦「隼」I型からII型に機種改編する飛行第50戦隊への機体輸送任務も「あきつ丸」の任務であった。

特筆すべき点として、連日空襲を受けるため海軍の空母機動部隊でさえ入港しなかったラバウルへ3回も入港している事が挙げられる[12]。「あきつ丸」は無傷でこのラバウル輸送任務を成し遂げているが、1回目の入港時にアメリカ軍の偵察機に写真撮影されている。なお、アメリカ軍は「あきつ丸」を「あるぜんちな丸護衛空母」(特設空母「海鷹」)と誤認し、「日本艦船識別表 ONI41-42」に特設空母「大鷹」等とともに掲載されてる。

構造[編集]

舟艇運用能力[編集]

大発(D型)

「あきつ丸」を含む量産特種船は、大発等の泛水設備として主にウェルドックを船体内に設けている。この設備は「神州丸」とほぼ同様のものであり、ドック内にはローラーを利用した軌条が敷かれて、舟艇は軌道上を移動し船尾の滑走台を経て跳ね上げ式ハッチ(門扉)より泛水、発進する。

なお、「神州丸」はウェルドック内だけでなく前部・中部・後部の全甲板に、さらに多数の小発・大発や装甲艇(AB艇、護衛砲艇)や高速艇甲(HB-K、高速偵察艇)を搭載可能であったが、「あきつ丸」は飛行甲板を有すため搭載舟艇はウェルドック内のみとなる。

航空機運用能力[編集]

新造時[編集]

先代の「神州丸」も航空艤装が施されていたが、搭載機の発進にはカタパルトを使用する射出型であり、これは航空機の急速な発達により建造後数年で実質的な意味を失ってしまい、なおかつその運用難度からも使用される事は殆どなかった。その経験から「あきつ丸」は全通飛行甲板を有する空母型となり、島型船橋・マスト・煙突は右舷に寄せられ飛行甲板の下には航空機格納庫を備えている。飛行甲板後端に設置された航空機用エレベーターで、格納庫から飛行甲板へ航空機を移動した。搭載機の目的は「神州丸」同様、上陸戦時に搭載機(戦闘機)を発進させ上陸部隊の支援であった。機体は九七式戦闘機13機の搭載が計画されている。

搭載機の発船(発艦)にこそ飛行甲板を使用するが、「神州丸」同様に着船(着艦)は想定されておらず、機体は占領した敵飛行場・臨時造成飛行場に着陸、陸上・水上に不時着・不時着水するか、操縦者は乗機を捨て落下傘降下によって収容される(なお、これに擬似する運用能力を持つ船舶としては、のちの第二次世界大戦時に輸送船団護衛のためイギリス海軍が実戦投入したCAMシップが該当する。「神州丸」と同じくカタパルトによって発船した戦闘機は、敵機を迎撃した防空戦闘後には陸上の飛行場に向かうか、船団付近に不時着水ないし落下傘降下し操縦者は収容されていた(このCAMシップおよびMACシップは一般の輸送船(商船)を臨時に改装したものであり、日本の「神州丸」以下特種船と異なり揚陸艦ではない)。そのため、通常の空母なら着船コースとなる船尾中央にはデリックが屹立しており、着船制動装置・着船指揮装置も無く、エレベーターの装備位置も飛行甲板後端のみとなる[13]

「神州丸」の射出発船が滑走発船になっただけの「あきつ丸」の航空機運用の難しさは特に変わらず、またそれ以上に実戦たる上陸戦で搭載機を使用する機会がなかったため、「当初の計画通りに搭載戦闘機を実戦で使用する事は無かった」。飛行甲板・格納庫は航空機・車両・舟艇の海上輸送用の搭載スペースとして使用され、一例として一式戦「隼」機体輸送任務時には、格納庫に分割した「隼」数十機を搭載し従事している。しかしのちの太平洋戦争後半、「あきつ丸」はその航空機運用能力を見込まれ上陸戦ではなく対潜戦用の護衛空母と変貌を遂げることとなる。

航空機を運用しない場合、飛行甲板には「臨時設備」と称し対空用に高射機関砲九八式高射機関砲7基)、対艦用に重加農八九式十五糎加農4門)を増設可能である。後部スポンソン(右舷4基・左舷1基分)に4門が配備される大口径大威力重砲たる八九式十五糎加農4門を初め、多数の高射機関砲・高射砲、さらに基筒式三八式野砲10門の装備はこの種の艦船としてはかなりの重武装である[14]速射性能や方向射界で大きく劣るが、砲火力は単純比較で五十口径三年式十四糎砲を主砲とする海軍の旧式軽巡洋艦天龍型相当ないしそれ以上)。また、飛行甲板には黒・明灰・灰の三色迷彩が施され、船体は軍艦色と呼称される灰色一色であった[15]

改装[編集]

カ号観測機(オ号観測機)

太平洋戦争中期、アメリカ海軍潜水艦通商破壊作戦によって日本の輸送船被害が激増すると、海軍よりこれを重大事項として受け止めていた陸軍は船団護衛を目的とする独自の海上航空戦力の構築を検討[16]。まず1943年(昭和18年)6月4日、船舶司令部オートジャイロであるカ号観測機を、対潜哨戒機として使用するため船上発着船試験を「あきつ丸」を用い広島湾にて行った。上述の通り船尾にはデリックが屹立しているため、着船には左舷後方より斜めに進入し甲板上で左に急旋回する方法を取り成功。午後には「あきつ丸」航行中の、さらには対魚雷回避運動中の状態で発着船試験を行い、結果は1分とはかからない好成績であった[17]。なお、写真とともにこの「あきつ丸」船上発着船実験を撮影した記録映像が残っている。

三式連絡機

同年8月、陸軍は海軍との協議の中で改造護衛空母の建造を提出。この計画案は戦時標準船D型に航空偽装を施し、先の運用試験で使用されたカ号観測機4機を搭載し運用させるものであったが、「D型戦標船は小さすぎ運用困難」という海軍の反対により頓挫。9月、陸軍は海軍に対し「昭和19年度甲造船計画」に新鋭丙型特種船を入れる事を要望(カ号観測機20機搭載)、造船計画の余裕の無さからこの新鋭特種船建造自体は実現に至らなかったが、この代わりとして「あきつ丸」を改造し三式指揮連絡機三式連絡機)の運用を可能とする事が決定した[18]

1944年(昭和19年)4月13日、当時はマニラへの輸送任務中を繰り返していた「あきつ丸」は日本に帰還し播磨造船所へ入渠、同年7月30日にかけ本格的な護衛空母への改装が行われた。主な改造は飛行甲板の拡幅(船橋や煙突の右舷方への移設)、甲板後部デリックの撤去(煙突後部へ移設)、格納庫の拡張、船橋部へのピスト(操縦者等空中勤務者の控所を意味するフランス語由来の陸軍用語)新設、着船制動装置「KX」・着船指揮灯・着船標識の設置、防火設備の強化、高射機関砲の増設、対潜用迫撃砲の設置等。改装にあたって飛行甲板の三色迷彩は無くなり白線の標識が描かれ、また従来は灰色であった船体は当時の海軍空母と同様に「外舷21号色(濃緑)」および「外舷22号色(薄緑)」を用いた緑色系の迷彩塗装に変更されている。なお、「あきつ丸」が着船制動装置として採用した「KX」は、もとは陸軍と(カ号観測機の開発元でもある)萱場製作所が協同開発した「移動式野戦隠密飛行場装置」のひとつである。

一方、片倉恕陸軍少佐[19]以下水戸陸軍飛行場を根拠として三式連絡機2機を用いた審査も始まり、爆雷投下試験を経たのち、陸軍航空審査部飛行実験部のある多摩陸軍飛行場にて模擬発着船試験が行われた[20]。これは海軍の母艦飛行機隊搭乗員の模擬着艦訓練とほぼ同様の、飛行場に石灰にて飛行甲板を描いたものであった。7月、播磨造船所に近い加古川陸軍飛行場に移動した三式連絡機2機は、播磨灘にて改装工事も終盤になった「あきつ丸」を使用した着船試験を開始。同月、赤色と青色の着船指揮灯を目印にタッチ・アンド・ゴーを実施し、翌8月、まず会田智陸軍中尉機が、続いて畠山基陸軍曹長機がフックを用い着船を行い成功した[21]

対潜哨戒機となった三式連絡機の捜索可能幅は高度300mで左右各600mであり、目視により哨戒を行う操縦者・偵察者(同乗者)は双眼鏡のほかに航法目標弾または特設浮標発煙弾を携帯[22]。警戒海域においては3機の三式連絡機が発船し1番機は船団の前方5kmないし6km、2番・3番機は左右2.5kmを円弧状に飛行し対潜哨戒を行い、敵潜発見時には無線等を使用し護衛艦艇以下船団と僚機に報告する[23]

独立飛行第1中隊[編集]

三式連絡機を運用中の「あきつ丸」。左手前は単装基筒式の九六式二十五粍機銃(1944年)

「あきつ丸」船上において三式連絡機を運用する飛行部隊として、1944年6月に独立飛行第1中隊軍隊符号:1Fcs)が編成された[24]。 

実戦2[編集]

三式指揮連絡機を搭載しての「あきつ丸」の実験的な洋上哨戒は、1944年8月6日より日朝間を結ぶかたちで対馬海峡朝鮮海峡において数回実施されたが、対潜戦が発生する事はなかった。

11月、フィリピン防衛戦のため精鋭第23師団を緊急輸送する任務が、「あきつ丸」および「神州丸」・「摩耶山丸」(甲型)・「吉備津丸」(甲型)の各特種船に与えられた。そのため、「あきつ丸」は対潜哨戒の任を解かれ同月9日に日本に帰還。ルソン島マニラ行き「あきつ丸」以下特種船々団は、本来のシンガポール行きタンカー船団とともにヒ81船団を編成、14日に船団は伊万里湾を出港した。

本船団は特種船と高速タンカーが主体となり、護衛には海軍の特設空母「神鷹」・駆逐艦「」および海防艦5隻が就く日本軍としては極めて豪華な編制であり、空母「神鷹」には対潜飛行部隊として第九三一海軍航空隊九七式艦上攻撃機14機が搭載され、目視が可能な昼間には2機が常時飛行し哨戒、また「あきつ丸」以下特種船・護衛各艦も水中聴音機を使用し敵潜水艦を警戒していた。なお、護衛に「神鷹」と九三一空があることと大規模な軍隊輸送のため、ヒ81船団当時の「あきつ丸」の1Fcsと機体は陸揚げされ航空機格納庫には物資等を満載、1Fcsは飛行分科「対潜」の他Fcsと同じく飛行場より発進する哨戒飛行部隊として運用された為、「あきつ丸」が本格的に護衛空母として運用される事は無かった。

しかし15日正午頃、五島列島沖において護衛艦艇および九三一空機の哨戒の隙を突かれ、「あきつ丸」はアメリカ海軍潜水艦「クイーンフィッシュ」の雷撃を受け、弾薬が誘爆炎上、転覆沈没し乗員2,576人のうち2,046人が戦死した(同月17日、「摩耶山丸」は「ピクーダ」の、神鷹は「スペードフィッシュ」の雷撃を受け沈没・喪失。「神州丸」・「吉備津丸」は生還し、同じく無傷のタンカー郡(ヒ81船団)と分離し高雄よりタマ33船団を編成、フィリピンへの軍隊輸送・揚陸を成功)。

船歴[編集]

  • 1939年11月 - 播磨造船所にて起工
  • 1941年9月 - 進水
  • 1942年1月 - 竣工。同時に陸軍に徴用
    • 2月 - 蘭印作戦動員
    • 3月 - 蘭印作戦ジャワ上陸戦参加
  • 1942年3月-1944年4月 - 航空機運搬船・輸送船として使用
  • 1944年4月-7月 - 播磨造船所にて改装、航空機運用能力を強化
    • 8月6日-11月6日 - 日朝間にて洋上哨戒任務
    • 11月9日 - 日本帰還
    • 11月14日 - ヒ81船団に加入し日比間の輸送船として日本出港
    • 11月15日正午頃 - 五島列島沖において「クイーンフィッシュ」の雷撃を受け沈没

脚注[編集]

  1. ^ 平仮名表記が正式であり秋津丸漢字表記は誤表記。
  2. ^ 奥本 2011、37項。
  3. ^ 奥本 2011、43項。
  4. ^ 「神州丸」の開発にあたって当初は陸軍運輸部が独自に設計を行っていたが(「R1」)、途中で海軍艦政本部の技術協力により大幅な設計変更が行われている(舟艇運用能力・航空機運用能力自体は元より陸軍の考案)
  5. ^ 21世紀初頭現代においても、アメリカ陸軍は大規模な船舶部隊を海軍とは別に保有している。
  6. ^ 奥本 2011、44項。
  7. ^ 何れも竣工当時は既に太平洋戦争大東亜戦争)下であるため、竣工と同時に陸軍徴用船となっている。
  8. ^ 奥本 2011、45項。
  9. ^ 奥本 2011、45項。
  10. ^ M丙型2番船「ときつ丸」は建造中に終戦を迎え未成。
  11. ^ 奥本 2011、53項。
  12. ^ 奥本 2011、56項。
  13. ^ 奥本 2011、46項。
  14. ^ 奥本 2011、46・47項。
  15. ^ 奥本 2011、9項。
  16. ^ 奥本 2011、58項。
  17. ^ 奥本 2011、56・57項。
  18. ^ 奥本 2011、58項。
  19. ^ 陸軍航空審査部飛行実験部における一〇〇式司令部偵察機「新司偵」の審査主任。
  20. ^ 奥本 2011、60項。
  21. ^ 奥本 2011、60項。
  22. ^ 奥本 2011、60項。
  23. ^ 奥本 2011、61項。
  24. ^ 奥本 2011、86項。

参考文献[編集]

  • 秋本實 「陸軍の空母」『日本航空母艦史』世界の艦船481号(増刊)、1994年、178-181頁
  • 大内健二 『護衛空母入門―その運用とメカニズム』光人社〈NF文庫〉、2005年
  • 瀬名尭彦 「昭和の日本陸軍船艇」『世界の艦船』506号、1996年、22-23頁
  • 松原茂生、遠藤昭 『陸軍船舶戦争』戦誌刊行会、1996年
  • 奥本剛 『日本陸軍の航空母艦 舟艇母船から護衛空母まで』大日本絵画、2011年

関連項目[編集]