自由インド仮政府

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自由インド仮政府
आर्ज़ी हुक़ूमत-ए-आज़ाद हिन्द
عارضی حکومت‌ِ آزاد ہند
Ārzī Hukūmat-e-Āzād Hind
Provisional Government of Free India
イギリス領インド帝国 1943年 - 1945年 イギリス領インド帝国
インドの国旗 インドの国章
国旗 国章
インドの位置
公用語 ヒンドゥスターニー語
首都 ポートブレア
国家主席
1943年 - 1945年 スバス・チャンドラ・ボース
首相
1943年 - 1945年 スバス・チャンドラ・ボース
変遷
樹立 1943年10月21日
解体 1945年8月

自由インド仮政府(じゆうインドかりせいふ、Provisional Government of Free India)は、イギリス植民地支配下にあったインドイギリス領インド帝国)の即時独立をめざし、東南アジアに樹立された暫定政府。亡命政府

目次

歴史 [編集]

前身 [編集]

日本は1941年12月に大東亜戦争太平洋戦線)を起こし、その後イギリスの植民地を含む東南アジア各地域を占領した。これを受けて1942年に、第二次世界大戦前より亡命先の日本でインド独立運動を行っていたラス・ビハリ・ボース率いる「印度独立連盟」と、同じくシンガポールバンコクを拠点に独立運動を行っていた「インド独立連盟」が合流してインド独立連盟が設立され、ビハリ・ボースが初代議長に就任した。

その前後に、かねてより植民地軍として駐留していたイギリス軍を放逐し日本が占領したマレーやシンガポールでは、捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募ってインド国民軍が編制された。その長には最初に日本軍に投降した元英印軍の大尉であったモーハン・シンが就任した。

しかし、シンは親イギリス的志向が強かっただけでなく、軍内において自身に対する個人的利益を優先させた上に、そもそもが大尉という下級士官にすぎなかったこともあり、数千人を数える規模となったインド国民軍を統率することは困難であったため軍内に大きな混乱を招いた。そのためにインド国民軍は、ビハリ・ボース率いるインド独立連盟の管轄下に入り、その後連盟内で孤立したシンはインド国民軍司令官を罷免される[1]

しかし、この様な混乱の中で自ら調停役として立ちまわり、心労を重ね体調を崩したビハリ・ボースは、1943年7月4日にシンガポールにおけるインド独立連盟総会において、インド独立連盟総裁とインド国民軍の指揮権を、独立連盟幹部のA.M.ナイルの提唱により、総会に先立ち亡命先のドイツからシンガポールへ来たスバス・チャンドラ・ボースに移譲し、自らはインド独立連盟の名誉総裁となった[2]

樹立 [編集]

チャンドラ・ボース(右)とガーンディー(左)

その後チャンドラ・ボースの主唱により、インド独立連盟による独立運動を進化させた組織として、日本の後援と東南アジア在住インド人の支持を得て1943年10月21日に、シンガポールにおいて仮政府樹立が宣言された。

チャンドラ・ボースが国家主席兼首相に就任し、ビハリ・ボースを最高顧問に置いた他に5人の大臣を置いた。また軍事組織としてインド独立連盟からそのままインド国民軍を引き継ぎ、国防相も兼務したチャンドラ・ボースがこれを率いた。

しかし、インド国内における独立運動の主流派であったマハトマ・ガンディージャワハルラール・ネルー率いる国民会議派主流派は、イギリスの統治下にあるインドに拠点を置いていたために、イギリスを過度に刺激することを避ける必要があった。その為に対英非協力を貫きつつも日本政府及び軍との協力は拒否していたため、自由インド仮政府との公式な協力体制はとらなかった。

日本との協力 [編集]

大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ張景恵汪兆銘東條英機ワンワイタヤーコーンホセ・ラウレル、チャンドラ・ボース
フランスで連合軍を迎え撃つ自由インド兵(1944年3月21日)

自由インド仮政府は、同年10月24日にイギリスを含む連合国に対してインド独立のための宣戦布告を行い、同年11月5日東京都で開催された大東亜会議にボースがオブザーバーとして出席した。オブザーバーとなったのは日本がインドを大東亜共栄圏に組み込まないという意思を明確にしていたからである[3]

1944年には駐印イギリス軍に対する軍事作戦活動を進めるため、仮政府本部はビルマのラングーンに移転し、「インド解放」のスローガンの下にインド国民軍は日本軍とともにインパール作戦に従軍した。

解体 [編集]

1945年8月15日の日本のポツダム宣言受諾表明と、イギリスをはじめとする連合国に対する降伏、その直後の8月18日台湾でのチャンドラ・ボースの航空事故死により自然解体した。

しかしその後、インド国内においてイギリス政府による自由インド仮政府とインド国民軍幹部に対する裁判が行われた際に、これに反対するインド国民会議派及びインド国民による抗議活動が活発化し、これがその後のイギリスによるインド独立承認に大きく影響したことや(起訴された幹部はその後無罪となった)[4]、東南アジア、なかでもマレー半島に多かった同政府のインド系支持者は戦後、ジョン・サイヴィを中心にマレーシア・インド人会議(MIC)の源流となったことなど、インド独立に与えた影響は大きく、現在においてもビハリ・ボースとチャンドラ・ボースをはじめとする仮政府幹部はインドにおいて独立の英雄として高い評価を得ている。

政府閣僚 [編集]

  • 国家主席兼首相兼国防相兼外相
スバス・チャンドラ・ボース
  • 最高顧問
ラス・ビハリ・ボース
  • 財政相
A.C.チャタルジー中佐
  • 宣伝相
S.A.アイヤール(en
  • 婦人相
ラクシュミー・スワーミーナータン(en)
  • 軍代表
A.A.カーン中佐
N.S.バガト中佐
J.K.ボーンスレー中佐(en
グルザール・シン中佐
M.Z.キヤーニー中佐(en
A.D.ローガナータン中佐(en
エヘサーン・カーディル中佐
シャーナワーズ・カーン中佐(en)
  • 書記官長
A.M.サハーイー(en
  • 書記官(一部)
ジョン・サイヴィen

承認国 [編集]

日本、満州国中華民国・南京国民政府タイビルマフィリピンドイツイタリアクロアチアが自由インド仮政府を外交的に承認し、イギリスから独立したアイルランド共和国デ・ヴァレラ大統領がボースに祝辞を送った。また1944年12月には、日本から初代公使として蜂谷輝夫が着任した。

領土 [編集]

太平洋戦争初期に日本海軍が占領したベンガル湾アンダマン諸島ニコバル諸島の領有を日本から認められ、アンダマンはシャヒード、ニコバルはスワラージと改名、ローガナータン中佐を主席理事官として実際に統治した。これら島嶼の面積8,100平方キロ、人口は33,000人であった。インパール作戦中一時的だが解放した英領インドのコヒマとインパールにも自由インド仮政府組織が樹立されたが、イギリス軍などの連合国軍の反撃により撤退している。

郵便切手 [編集]

ドイツで印刷された自由インド仮政府切手(未発行)

自由インド仮政府は、主権国家であると宣言する手段として郵便切手を発行することを企画していた。そのためドイツに切手の印刷を発注し、インドへ進軍の暁にはこの切手を発行して使用しようとしていた。

しかし、戦局の悪化でドイツからの輸送が困難になったことからビルマで印刷したもので代用しようとしたが、政権の瓦解によって未発行に終わった。現在では大量に流出しているため、比較的安価な価格で取引されている。

出典 [編集]

  1. ^ 『知られざるインド独立闘争—A.M.ナイル回想録(新版)』 河合伸訳、風涛社、2008年
  2. ^ 『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』中島岳志著 白水社、2005年
  3. ^ 『黎明の世紀 大東亜会議とその主役たち』深田祐介著 文藝春秋 1991年
  4. ^ 『知られざるインド独立闘争—A.M.ナイル回想録(新版)』 河合伸訳、風涛社、2008年

関連項目 [編集]