八紘一宇

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広島県福山市にある素盞嗚神社境内にある「八紘一宇」の文字を刻んだ石碑。戦時中多くの神社には、戦勝を願って「武運長久」とともに石碑を並立して奉納されていた

八紘一宇(はっこういちう)とは、『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇」の文言を戦前の大正期に日蓮主義者の田中智學が国体研究に際して初めて使用し、縮約した語。八紘為宇ともいう。大意は「道義的に天下を一つの家のようにする」という意味である。

解説[編集]

右側に「八紘一宇」の文字がある紀元2600年記念切手(1940年発行)

そもそもは、『日本書紀』巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」にある

「上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」(上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや。)

日本書紀巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」

からの引用である。ここで「八紘」とは、

九州外有八澤、方千里。八澤之外、有八紘、亦方千里、蓋八索也。一六合而光宅者、並有天下而一家也。

淮南子』地形訓

「……湯又問:『物有巨細乎?有修短乎?有同異乎?』革曰:『渤海之東不知幾億萬裡、有大壑焉、實惟無底之穀、其下無底、名曰歸墟。八紘九野之水、天漢之流、莫不注之、而無增無減焉。』……」

列子』湯問

に見ることができる。すなわち「8つの方位」「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する語として解釈されている。また、「一宇」は「一つ」の「家の屋根」を意味している。

大正期に日蓮宗から在家宗教団体国柱会を興した日蓮主義者・田中智學が、「下則弘皇孫養正之心。然後」(正を養うの心を弘め、然る後)という神武天皇の宣言に着眼して「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であると解釈、その結果である「掩八紘而為宇」から「八紘一宇」を道徳価値の表現として造語したとされる。これについては大正2年1913年)3月11日に発行された同団体の機関紙・国柱新聞「神武天皇の建国」で言及している。田中は大正11年1922年)出版の『日本国体の研究』に、「人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である。」と述べている[1]。尤も、田中の国体観は日蓮主義に根ざしたものであり、「日蓮上人によって、日本国体の因縁来歴も内容も始末も、すっかり解った」[2]とも述べていて、これが後に「日蓮を中心とした世界統一」を意味して田中が恣意的に造語したとも解説される一要因になっている。

この用語に最初に着目した行政機関は軍部であり、昭和11年(1936年)に発生した二・二六事件では、反乱部隊が認(したた)めた「蹶起趣意書」に、「謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり」とある。この事件に参加した皇道派は粛清されたが、日露戦争以降の興亜論から発展したアジア・モンロー主義を推し進める当時の日本政府の政策標語として頻繁に使用されるようになった。

「八紘一宇」という表現を内閣として初めて使ったのは、昭和12年1937年)11月10日に内閣内務省文部省国民精神総動員資料第4輯として発行した文部省作成パンフレット「八紘一宇の精神」であるとされる[3]昭和15年1940年)には、第2次近衛内閣による基本国策要綱(閣議決定文書、7月26日)で、「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」[4]と表現し、大東亜共栄圏の建設と併せて言及された。同年9月27日には、日独伊三国同盟条約の締結を受けて下された詔書にて「大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ」と言及されるに至った。

その後の日中戦争から第二次世界大戦にかけても大日本帝国の政策標語としてしばしば言及され、当時発行された切手や10銭紙幣の意匠デザインにも使われた。日本国内各所で東アジアにおける東亜新秩序実現の為のスローガンのひとつとして使われ、さらにはこの語の思想実現のため東京市では肇国奉公隊が結成されるなど市役所組織の軍事体制化に活用された。

第二次大戦での日本の降伏後は一転し、連合国軍最高司令官総司令部による神道指令により国家神道軍国主義・過激な国家主義を連想させるとして、公文書におけるこの語の使用が禁止された[5]

現在における日本の代表的な国語辞典では、「第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」[6]、と説明している[7]

評価[編集]

昭和21年1946年)より開廷された東京裁判において、「田中上奏文(Tanaka Memorial)」を歴史的真実として判決を導く裁判を進めていた検察側意見では「八紘一宇の伝統的文意は道徳であるが、…一九三〇年に先立つ十年の間…これに続く幾年もの間、軍事侵略の諸手段は、八紘一宇と皇道の名のもとに、くりかえしくりかえし唱道され、これら二つの理念は、遂には武力による世界支配の象徴となった」としたが[8]、東條の弁護人・清瀬一郎は『秘録・東京裁判』のなかで「八紘一宇は日本の固有の道徳であり、侵略思想ではない」との被告弁護側主張が判決で認定されたとしている[9]

昭和32年1957年)9月、文部大臣松永東は衆議院文教委員会で、「戦前は八紘一宇ということで、日本さえよければよい、よその国はどうなってもよい、よその国はつぶれた方がよいというくらいな考え方から出発しておったようであります。」と発言した。昭和58年1983年)1月衆議院本会議では、総理大臣中曽根康弘も「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった。」と説明した[10]

一方で、八紘一宇の考えが欧州での迫害から満州や日本に逃れてきたユダヤ人ポーランド人を救済する人道活動につながったとの評価がある。上杉千年は、「八紘一宇の精神があるから軍も外務省もユダヤ人を助けた」とする見解を示している[11]

八紘一宇の提唱者の田中は、その当時から戦争を批判し死刑廃止も訴えていることなどから、田中の真の思想に反してこの語だけが当時の軍部(のち行政府)に発掘され政策に利用されただけという解釈もできる。田中は大正12年(1923年11月3日、社会運動組織として立憲養正會を創設した。「養正」の語も神武天皇即位前紀から取られている。立憲養正會は1929年(昭和4年)、智學の次男、田中澤二が総裁となると、政治団体色を強め、衆議院ほか各種選挙に候補を擁立(田中澤二本人も選挙に立候補している(落選))。衆議院の多数を制し、天皇の大命を拝し、合法的に「国体主義の政治を興立」することを目標とした。その後同会は一定の政治勢力となり、田中耕が衆議院議員を2期(1期目は繰り上げ当選)務めたほか、地方議会や農会には最盛期で100人を超す議員が所属した。しかし新体制運動大政翼賛会を批判していたためかえって弾圧の対象となり、1942年3月17日には結社不許可処分を受け、解散に追い込まれた。日蓮主義を政治に実現しようとすることは、軍部などが言う国体を無視する思想であると見なされたためである。同年の翼賛選挙では現職の田中耕ほか元会員37名が無所属で立候補したものの全員が落選している。戦後同会より衆議院議員に当選した齋藤晃は当時「護国の政治運動を展開していたが、大政翼賛会や憲兵から弾圧を受けた」という。第二次大戦後、田中澤二は公職追放となったものの同会組織は復活し、再び衆議院に議席を獲得。日本国憲法施行後も同会公認の浦口鉄男が衆議院議員に当選。浦口は他の小政党所属議員とともに院内会派を結成し、政権野党として活動した。

八紘一宇の塔[編集]

平和の塔の現状(2007年)
昭和19年発行の十銭紙幣の表側。八紘一宇塔が描かれている。

宮崎県宮崎市の中心部北西の高台、平和台公園(戦前は「八紘台」と呼ばれていた)にある塔。正式名称は「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」。設計は、彫刻家日名子実三。現在は「平和の塔」と呼ばれている。

神武天皇大和に東征するまでの皇居と伝えられる皇宮屋(こぐや)の北の丘に1940年(昭和15年)、紀元二千六百年記念行事の一つとして建造された。

この塔の建立に当たっては日本全国からの国民の募金・醵出金がその費用の一部に充てられた。また、日系人が多く住む中南米やハワイ、同盟国であったナチス・ドイツの企業DESTイタリア王国からの寄付もあった。さらに日本軍の各部隊が戦地から持ち帰った様々な石材が使用された。

高さ37m、塔の四隅には和御魂(にぎみたま)・幸御魂(さちみたま)・奇御魂(くしみたま)・荒御魂(あらみたま)の四つの信楽焼の像、正面中央に秩父宮雍仁親王の書による「八紘一宇」の文字が刻まれている。内部には神武東征などを記した絵画があるが非公開。第二次世界大戦敗戦後に「八紘一宇」の文字と荒御魂像(武人を象徴)は一旦削られたが、後に再興された。この復元運動の中心となったのは、県の観光協会会長を務めていた岩切章太郎宮崎交通社長)だった。

1964年(昭和39年)の東京オリンピックの際は、聖火リレー宮崎ルートのスタート地点にもなった。1979年(昭和54年)の昭和天皇宮崎訪問では、この塔の前での歓迎祝典が予定されていたが、天皇は固辞している。

「八紘一宇」の用例[編集]

戦前[編集]

日本軍の航空基地に掲げられた「八紘一宇」の旗印。航空兵に対し「肇国の精神」実現のスローガンになっていた。
  • 田中智學日本国体の研究」(大正11年(1922年)初版)における『宣言 =日本国体の研究を発表するに就いて=』(初出:国柱会日刊紙『天業民報』、大正9年(1920年)11月3日)
    天祖は之を授けて「天壌無窮」と訣し、国祖は之を伝へて「八紘一宇」と宣す、偉なる哉神謨、斯の文一たび地上に印してより、悠々二千六百載、スナハチ君臣の形を以て、道の流行を彰施す、篤く情理を経緯し、具に道義を体現して、的々として人文の高標となれるものは、日本君民の儀表是也、乃神乃聖の天業、万世一系億兆一心の顕蹟、其の功宏遠、其の徳深厚、流れて文華の沢となり、凝りて忠孝の性となる、
    体に従へば君民一体にして平等、用に従へば秩序截然として厳整、這の秩序の妙を以て、這の平等の真に契投す、其の文化は静にして輝あり、是の故に日本には階級あれども闘争なし、人或は階級を以て闘争の因と為す、然れども闘争は食に在て階級に関らず、日本が夙く世界に誨へたる階級は、平等の真価を保障し、人類を粛清せんが為に、武装せる真理の表式なり、吁、真の平等は正しき階級に存す、人生資治の妙、蓋斯に究る。
  • 陸軍教育総監部「精神教育の参考(続其一)」(昭和3年(1928年))
    積、重、養と云ふは総合的広大持続を意味する生成発展の思想である、静的状態より動的状態への展開である。
    今や天業恢弘の気運に向へり、養正を主とし積慶、重暉を加へ以て八紘を掩ふて一宇と爲さむとし給へるもの即建国精神の第三なり。
  • 陸軍省出版班「躍進日本と列強の重圧」(昭和9年(1934年)7月28日)
    五、結言──危機突破対策
    二、日本精神の宣布
    列強の対日反感は、一面皇国の驚異的飛躍に基くと共に、皇国の真意に対する認識の欠如による事も大である。
    皇国は肇国の始めより、厳として存する大理想たる、八紘一宇の精神により、排他的利己主義を排し、四海同胞、一家族的和親の実現によって、世界人類の発展と、恒久平和とを招来せんことを庶幾しつつあるものである。
    彼のチモシイ・オコンロイの「皇道なる名称は、世界支配の大野心をカムフラージュせんが為め与えたるものである」と謂う如きは、全く我が真意を認識せざるもので、斯る蒙を啓く為め、日本精神を世界に向って宣布することが喫緊である。
  • 内閣情報部愛国行進曲」 (1937年12月)
    2番
    起て一系の大君を
    光と永久に頂きて
    臣民我等皆共に
    御稜威に副はむ大使命
    往け八紘を宇となし
    四海の人を導きて
    正しき平和打ち立てむ
    理想は花と咲き薫る
  • 基本国策要綱(昭和15年(1940年7月26日)第2次近衛内閣によって閣議決定された政策方針
    「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」
  • 日独伊三国軍事同盟締結における詔書(昭和15年(1940年9月27日)
    「大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ・・・惟フニ万邦ヲシテ各〻其ノ所ヲ得シメ兆民ヲシテ悉ク其ノ堵ニ安ンゼシムルハ曠古ノ大業ニシテ前途甚ダ遼遠ナリ爾臣民益〻国体ノ観念ヲ明徴ニシ深ク謀リ遠ク慮リ協心戮力非常ノ時局ヲ克服シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼セヨ」
  • 『我言霊』(控訴審公判調書第7回昭和16年1月23日)
    我国ニ於テハ第一豊葦原ノ千五百秋ノ瑞穂ノ国ハコレ吾子孫の王タルベキ地ナリ云々ト云フ天祖ノ御神勅、第二、神武天皇ノ八紘一宇ノ御勅語、第三、和気清麿ノ奏上シタ我国ハ開闢以来君臣ノ分定マレリ、云々ノ御神示、之ヲ我国ノ三大言霊ト云フノデアリマス
  • 石原莞爾 (軍事思想家)『最終戦争論・戦争史大観』
    「昭和十三年十二月二六日の第七十四回帝国議会開院式の勅語には「東亜ノ新秩序ヲ建設シテ」と仰せられた。更にわれらは数十年後に近迫し来たった最終戦争が、世界の維新即ち八紘一宇への関門突破であると信ずる。」
    「日本主義が勃興し、日本の国体の神聖が強調される今日、未だに真に八紘一宇の大理想を信仰し得ないものが少なくないのは誠に痛嘆に堪えない。」
  • 鈴木安蔵 (マルクス主義憲法学者) 『政治・文化の新理念』p.44, p.119 利根書房
    今日占領しつつある諸地方に限らず、今後、全東亜は言うまでもなく、八紘為宇の大理想が今や単なる目標ではなくして、その実現の前夜にある…
    東亜共栄圏と言い、八紘為宇と言うのは、わが指導権の範囲が一億同胞にとどまらず、全東亜、いな全世界におよぼすべき目標と使命と有する…
  • 中村哲「民族戦争と強力政治」『改造』p.66 昭和17年2月号
    八紘為宇の精神が世界史の現段階において、いかに四隣に光被さるべきかの軌道を示し、東洋諸民族をして各々その所を得しむる偉大な国家的悲願の具体的発顕である
  • 平野義太郎 (マルクス主義法学者)『民族政治学理論』p.259 日本評論社 昭和18年9月
    八紘一宇の東亜政治の理想をその内在的な理念とする戦争論が樹立されねばならない

中村、平野は「世界共産化」という意味で「八紘一宇(為宇)」を用いていると中川八洋は述べている[12]

  • 蓑田胸喜 (反共思想家)「学術維新」(昭和16年(1941年))
    肇国の始めより『いつくしみ』『八紘為宇』の人道的精神を含蓄する日本精神は其世界文化史的使命に於いて、単に欧州的地方文化に制約された『民族主義だけの民族主義』を原理としてチェコ合併やポーランド分割の如きによって、直ちにその『一民族・一国家・一指導者』の国家原理に思想的破綻を来す如きナチス精神とは比倫を絶するものである。個人が人倫道徳に於いて超個人性を具現すべきが如く、民族国家も亦その思想精神に超民族性超国家性を含蓄啓示せねばならぬ。 (P.748)
  • 四王天延孝(反ユ思想家)「ユダヤ思想及運動」(1941年)
    次は八紘一宇の大理想を以て進むべき大日本帝国は宜しく清濁合せ呑むの慨を以てユダヤ人をも包容し、之を愛撫して皇化に浴せしむべきだ、基督教徒や回教徒と、ユダヤ人との在来の対立の如きは日本の徳により解消させ得べきである。日本自らがユダヤ人に対抗するが如きは自らを小さくするものであると云ふ風な議論であって、堂々たるものである。議論としては宜しいが、実際に於て日本の経済も、政治も、道徳も、思想も、教育も既に大部ユダヤ思想にむしばまれ穴があいてゐる。之を今修繕して何でも来いと云へる迄は暫くこの大風呂敷へ余り多くの物、殊にトゲのあるものや発火の虞ある品物など詰め込まない方が宜しい。前章に述べたベロックの対策にある異物除去を吸収や同化で行ふと云ふのであるが胃腸が不健全の場合には六ヶ敷い、ことによると胃潰瘍の素地がもう出来てゐるかも知れない。
    八紘一宇の大理想と云ふても、善も悪も皆共に抱擁すると云ふのではなく、荒振るものがあれば之を掃ってしまふことも八紘一宇の大理想に近く方法である。この頃八紘一宇と云ふ言葉が少し使ひ過ぎられる傾きがある。 (P.356-357)
  • 松本誠 「第四回全鮮金融組合理事協議会開会の辭」 ─ 朝鮮金融組合連合会『第八回金融組合年鑑』(昭和16年(1941年))より
    諸君以上は我が金融組合が現下並に今後邁進すべき使命と目標に付てその大要に触れたのでありますが之を要するに今や世界史的一大転換期に当りまして
    我が肇国の大精神たる八紘一宇の大理想を顯現いたしますが為には国民生活の領域に立って之が指導を担当するわが金融組合の如きは最も真剣に其の指導理念の把握をなすの要ありとするのがその第一であります。
    就中半島刻下の要求たる皇国精神の徹底に協力して内鮮一体の理想達成を期すると云ふ事はその第二であります。
  • 宮城長五郎 (裁判官、検察官、政治家)「法律善と法律悪」 (1941年)
    我が日本は八紘一宇の肇国精神を具現実行すべく、敢然として立ち上って居るのでありますが、各国は皆夫々目指す処を異にして居るのであります。即ちドイツ、イタリア両国が人的全体主義国家であり、ロシアが共産的全体主義国家の建設を目賭してゐるのであるが、我が皇国は外国の国家建設を模倣する事なく、日本は日本独自の立場に立って、「八紘一宇」の精神を如何に具現すべきかを考へねばならぬのであります。
  • 宮本武之輔 (技術者、企画院次長) 「大陸建設の課題」内「興亜日本の技術者に望む」 (1941年12月。初出:1940年1月)
    東亜の共同防衛、帝国主義的支配機構の廃絶、アジア的共同体制の樹立と新東方文化の昂揚を以て、その根本性格とする東亜新秩序建設は、東亜両民族の醇化統一による福利増進と共栄確保とを目的とする。従って東亜新秩序と東亜国防国家とは一にして二ならず、征服精神、侵略精神を含まず、八紘一宇の世界観に立脚して『しらす』ことを以て本質とする、わが国体の大義を恢弘することを指導原理とする。東亜国防国家は実に日満支善隣連環の東亜新秩序の上に構成せられなければならない。この故に東亜新秩序を目標とする経済ブロック建設と文化建設とは、アジア的共同体制における自給自足経済の確立と、東洋古来の精神文化と西洋近代の物質文化とを融合した東亜の新文化の創造を目標としなければならない。それが東亜国防国家の緊急の要請だからである。
  • 市丸利之助 (軍人)「ルーズベルトニ与フル書」(1945年)
    畏クモ日本天皇ハ、皇祖皇宗建国ノ大詔ニ明ナル如ク、養正(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)ヲ三綱トスル、八紘一宇ノ文字ニヨリ表現セラルル皇謨ニ基キ、地球上ノアラユル人類ハ其ノ分ニ従ヒ、其ノ郷土ニ於テ、ソノ生ヲ享有セシメ、以テ恒久的世界平和ノ確立ヲ唯一念願トセラルルニ外ナラズ。
    之、曾テハ「四方の海 皆はらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」ナル明治天皇ノ御製(日露戦争中御製)ハ、貴下ノ叔父「テオドル・ルーズベルト」閣下ノ感嘆ヲ惹キタル所ニシテ、貴下モ亦、熟知ノ事実ナルベシ。

諸外国による用例[編集]

アメリカは自国民に対し、映画で以て八紘一宇を以下のようにプロパガンダしようとしたが、公開前に終戦し戦争中に公開されることは無かった。

  • アメリカ合衆国旧陸軍省依頼「Know Your Enemy: Japan
    It is called as "Hakkō Ichiu". It became national ambition of Japan.
    [...]
    "Hakkō Ichiu" is coming true. Japs couldn't seem to make mistakes. [...]
    In 1927, one of them, baron Gīchi Tanaka made out a secret modern blueprint to archive this mad gree and handled it to the emperor. It is called a Tanaka Memorial, Japan's Mein Kampf.
国民服儀礼章と箱。儀礼章の台座の四角形は八紘一宇を表しており[13]箱には「八紘一宇」の文字が表記されている。


戦後[編集]

  • 坂口安吾『安吾巷談-野坂中尉と中西伍長-』 昭和25年1950年文藝春秋第3号
    「私は日本映画社というところの嘱託をしていたが、そこの人たちは、軍人よりも好戦的で、八紘一宇的だとしか思われなかった。ところが、敗戦と同時に、サッと共産党的に塗り変ったハシリの一つがこの会社だから、笑わせるのである。今日出海を殴った新聞記者も、案外、今ごろは共産党かも知れないが、それはそれでいいだろうと私は思う。我々庶民が時流に動くのは自然で、いつまでも八紘一宇の方がどうかしている。八紘一宇というバカげた神話にくらべれば、マルクス・レーニン主義がズッと理にかなっているのは当然で、こういう素朴な転向の素地も軍部がつくっておいたようなものだ。シベリヤで、八紘一宇のバカ話から、マルクス・レーニン主義へすり替った彼らは、むしろ素直だと云っていゝだろう。」

その他[編集]

  • 愛国行進曲の二番に「往け、八紘を一宇([いえ]とよむ。宇とも書かれる)となし」という歌詞がある。

脚注[編集]

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  1. ^ 近代デジタルライブラリー書誌情報 43036425 (p325) 原著p664
  2. ^ 日本国体の研究 大正11年発行 (2頁目)。これは「仏法・覚道、即ち法華経の一念三千の法門、並びに日蓮の三大秘法の法門によって日本国の理義が明らかになり解決を得た」という田中の解釈である。
  3. ^ 国会図書館デジタル化資料
  4. ^ 長谷川亮一は、「十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策」p.38で「ここに至り、「八紘一宇」は「肇国の精神」にして「皇国の国是」という位置付けを得、さらに、新たに提唱された「大東亜新秩序」(大東亜共栄圏)とも結び付けられたことになる。」と解説している。
  5. ^ 神道指令 一のヌ
  6. ^ 大辞林(三省堂)
  7. ^ 「広辞苑」(岩波書店)、「大辞泉」(小学館)
  8. ^ アジア歴史資料センター(JACAR)リファレンスコードA08071307000 A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.160)(105,106枚目画像)(E-86,E-87)
  9. ^ 読売新聞1967年3月10日
  10. ^ 国会会議録
  11. ^ 上杉千年先生講演記録「猶太難民と八紘一宇」
  12. ^ 中川八洋『亡国の「東アジア共同体」』北星堂書店2007年
  13. ^ 被服協会P 23

参考図書[編集]

  • 日本国体学会『日本の師表田中智学』 錦正社、1968年
  • 里見岸雄『国体学創建史 上』展転社、平成18年
  • 田中巴之助『日本国体の研究』真世界社、1981年(昭和56年)復刻 (原著・大正11年発行)
  • 被服協会 『国民服(男子用)の手引』 二木貞夫編集、被服協会、1940年5月5日
  • 長谷川亮一「十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策」[1](千葉大学大学院2006)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]