皇国史観
皇国史観(こうこくしかん)とは、日本の歴史を天皇中心に捉え、万世一系の天皇家が日本に君臨することは神勅に基づく永遠の正義であり、天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値であるとする価値判断を伴った歴史観である[1]。
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[編集] 江戸時代まで
南北朝時代に南朝の北畠親房が著した『神皇正統記』が皇国史観の先駆である。江戸時代には水戸学や国学がおこり、幕末になると尊皇攘夷運動が盛んになった。
[編集] 第二次世界大戦前
天皇の権威の下、明治政府は「神国日本」を掲げる皇国史観を正統な歴史観として確立していく。1889年に制定された大日本帝国憲法では政教分離、信教の自由、学問の自由を保証する一方、万世一系かつ神聖不可侵の天皇が統治することを明記した。翌1890年には教育ニ関スル勅語(教育勅語)が発布された。
国定歴史教科書は、神武建国につながる日本神話から始まり、天皇を中心に出来事を叙述し、歴史上の人物や民衆を天皇に対する順逆で評価した。また、小学校では、宮城遥拝や御真影(天皇の写真)への敬礼も行われた。この風潮は昭和初期に強まり、第二次世界大戦で最高潮に達した。
[編集] 経過
1880年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。
しかし、1891年には帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。このような変化は、神道内においては伊勢派が出雲派を放逐したことと軌を一にする。
その後、1920年代には大正デモクラシーの高まりを受けて、歴史学にも再び自由な言論が活発になり、マルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版されたが、社会主義運動の高まりと共に統制も強化された。
1935年には憲法学者美濃部達吉の天皇機関説が、それまで学界では問題視されなかったにも拘わらず議会で非難を浴び、美濃部が不敬罪の疑いで取調べを受け、著書は発禁処分となった(天皇機関説事件)。1940年には歴史学者津田左右吉の記紀神話への批判が問題となり、著作が発禁処分となった。一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。そして、第二次世界大戦が勃発すると、「世界に一つの神の国」と記載した国定教科書が小学校に配布された。
[編集] 南北朝正閏論争
1911年には、小学校の歴史教科書に鎌倉幕府滅亡後の時代を「南北朝時代」とする記述があった点が、南朝と北朝を対等に扱っているとして帝国議会で問題とされた(南北朝正閏論)。文部省の喜田貞吉は責任を取って休職処分にされた。これ以後の教科書では、文部省は後醍醐天皇から南北朝合一までの時代を「吉野朝時代」と記述するようになった。
現実の皇室は北朝の流れであり、北朝の天皇の祭祀も行っていた。しかし、足利尊氏を逆臣とする水戸学では、南朝を正統と唱えていた。また、幕末の尊王論に影響を与えた儒学者頼山陽は、後小松天皇は後亀山天皇からの禅譲を受けた天皇であり、南朝正統論と現皇室の間に矛盾はないと論じた。南北朝正閏論争以降、宮内省も南朝が正統であるという見解を取った。
[編集] 第二次世界大戦後
第二次世界大戦での敗戦によって、日本国憲法が施行され、思想・信条の自由が保障され、国民主権が明記された。すると、戦前戦中に弾圧されたマルクス主義の唯物史観が復活して興隆した。これにより、皇国史観ではタブー視されていた古代史や考古学の研究が大いに進展した。また、「古代」「中世」「近代」「現代」といった名称も用いられるようになった。これらの歴史学は一般的に「戦後史学」と呼ばれ、戦後民主主義の流れの中で、皇国史観は超国家主義の国家政策の一環とし、「周到な国家的スケールのもとに創出されたいわば国定の虚偽観念の体系」(岩波ブックレット、1983年[2])と批判されて影を潜めた。
[編集] 脚注
- ^ 「日本を神国とし、神の子孫としての万世一系の天皇統治の永遠性を強調し、国民の天皇への忠誠を至高の美徳とする」『日本史広辞典』 山川出版社 1997年
- ^ 永原慶二著『皇国史観』(岩波ブックレット20), 岩波書店, 一九八三・八刊, A5, 六三頁