日本占領時期の香港

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香港占領地
香港政庁 1941年 - 1945年 香港政庁
香港占領地の国旗
(国旗)
公用語 日本語広東語英語
首都 香港
Merchant flag of Japan (1870).svg 大日本帝国天皇
‐ - ‐ 昭和天皇
War flag of the Imperial Japanese Army.svg 香港総督
1941年 - 1942年 酒井隆
1942年 - 1944年 磯谷廉介
1944年 - 1945年 田中久一
人口
1941年 1,600,000人
1945年[1] 600,000人
変遷
占領 1941年12月25日
降伏(香港重光) 1945年8月15日
通貨 大東亜戦争軍票
香港の歴史
Hkhist.png
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年表
  • 日本占領時期
分野史
教育史
参考
文化 - 経済 - 教育
地理 - 政治

香港 ポータル
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日本占領時期の香港(にほんせんりょうじきのほんこん)とは、第二次世界大戦において、イギリス植民地であった香港イギリス軍を放逐した日本軍が占領統治した時期においての香港の状況について論述する。その時期は、イギリス領香港総督が日本に降伏した1941年12月25日から、日本ポツダム宣言受諾による降伏までの1945年8月15日までである。この3年8ヶ月間にわたる日本統治時期を香港では「三年零八個月」と呼んでいる。

背景[編集]

降伏交渉を行う日英両軍の将校
香港に入城する日本軍

1937年7月7日盧溝橋事件勃発以来、日本と中華民国は全面戦争に突入した。日本軍は華北及び華東中国大陸の大部分を占領し、華南でも中国軍の補給路を遮断すべく広州などを占領した。

しかし、香港は当時日本とは交戦状態になかったイギリスの植民地として中立地帯であり、日本軍が進出し戦闘状態におかれることはなかった。そのため、香港の人口は1936年に100万人だったものが、中国各地から戦闘を避ける避難民が殺到し1940年には160万人にまで膨張していた。その後日本軍の占領下の香港から70万人前後の中国人住民が中国本土に退去し、占領前に160万人の人口を抱えていた香港は、1945年(民国34年)8月の終戦時には人口が60万人程度にまで減少した。その後、イギリスの植民地に復帰した香港では、この3年8か月間にわたる日本統治時期を「三年零八個月」と呼んでいる。なお、日本軍政府により発行された軍票は、日本の敗戦に伴いイギリス軍の命令により無価値とされ、中華人民共和国が香港を統治することとなった現在も、日本政府に経済的補償を要求する香港人も存在している。

1941年12月8日大日本帝国陸軍イギリス領マレー半島への攻撃により太平洋戦争大東亜戦争)が勃発すると、イギリスやオランダアメリカなど東南アジアに植民地を持つ国々に宣戦布告した日本は、イギリス軍の極東の要衝であった香港攻略作戦を実行した。酒井隆中将指揮下の第23軍による香港の戦いである。日本軍は九龍半島の要塞地帯ジン・ドリンカーズ・ラインを突破し、12月13日には九龍半島を制圧した。地の利を生かしたゲリラ戦法をとるイギリス連邦軍の香港島内での抵抗に当初日本軍は苦慮したものの、12月25日、イギリス軍は降伏し(暗黒のメリークリスマス)、香港は日本軍の軍政下に入った。

政治[編集]

香港を占領した日本軍は、イギリスの香港政庁に代わる香港軍政庁ザ・ペニンシュラ香港に設置した。その後、磯谷廉介陸軍中将が香港総督として任命され、香港占領地総督部香港上海銀行・香港本店ビルに設置し「民政」を実施していく。日本から多くの高級官僚が送られ、総督部の主要ポストの多くは日本人が占めたが、華人も下級官僚に就くことができた。総督府は統治に際して「以華制華」の方針を打ち出し、諮問機関として華民代表会と華民各界協議会の2つの華人の組織が設置された。

歴代香港統治者[編集]

任期 肖像 総督 任期開始 任期終了
香港軍政庁長官 Sakai Takashi.jpg 酒井隆陸軍中将

Lt. Gen. Takashi Sakai

1941年12月25日 1942年2月20日
Niimi Masaichi.jpg 新見政一海軍中将

Gen. Masaichi Niimi

1

香港占領地総督

Isogai Rensuke.jpg 磯谷廉介陸軍中将

Lieutenant General Rensuke Isogai

1942年2月20日 1944年12月24日
2

香港占領地総督

Hisakazu.jpg 田中久一陸軍中将

Lieutenant General Hisaichi Tanaka

1945年2月1日 1945年8月15日

行政区画[編集]

経済[編集]

大規模な工業や農業が無く、中国とアジア各地のイギリスの植民地、また同じくイギリス連邦の構成国であるオーストラリアなどとの間の交易をその経済活動の中心としていた香港は、日本による占領後に中国本土との貿易が減少し、さらに香港と同時期にその多くが日本軍の占領下におかれたアジア各地のイギリスの植民地との貿易も減少した。さらにイギリスと同じく日本との交戦状態に入ったオーストラリアとの貿易は完全に停止し、香港は経済的苦境に立たされる。特に従来よりその殆どを中国やオーストラリアなどからの輸入に頼っていた食糧不足は深刻で、餓死者を出すにまで至った。

日本軍による統治期間中は、九龍と香港島を結ぶ交通の要衝であったスターフェリーが運休されたほか、日本軍は軍票を乱発行してインフレーションを起こし、香港経済を疲弊させた。軍票は後に日本の敗戦を受けてイギリス軍により無価値とされ、今なお賠償を求める人がいる。

民政[編集]

(翻訳中)

住民政策[編集]

香港に建設予定だった忠霊塔の完成予想図

従来のイギリスの植民地政府による影響力の払拭を望んだ日本軍は、イギリスが香港の公用語として定めていた英語の使用を禁止して、日本語を新たな公用語として使用するように指導した。学校では、日本語教育を1週間に4時間実施させたほか、教科書も日本文化を紹介する内容に変更された。また日本語の習熟度に応じて、香港に進出した日本企業への就職や、食料配給量の優遇を与える政策も実施した。さらには、本格的な香港統治に向けて、日本語に精通した香港人公務員を育成する為に「香港東亞学院」を設立したが、生徒は少なかった。

なお、現地で広く使用されていた広東語の使用を止めることはなかった。

一方、当時香港唯一の大学であった香港大学は、イギリス人の教師や知識人が、俘虜となるか香港を脱出した事から人材不足に陥り、日本軍の降伏まで閉校状態となっていた。

地名については、「ネイザンロード」のようなイギリスの人名を使用していた道路や、「香港仔」、「浅水湾」などの地名を、それぞれ「香取通り」や、「元香港」、「緑ヶ濱」のような日本式の地名に改称した。ハッピーバレー競馬場は、「青葉峡競馬場」と改称されている。

さらに、イギリス由来の名称をもつ会社は日本風の名前に変更する様指導され、閉店したイギリス系百貨店の「レーンクロフォード」の代わりに「松阪屋」が開店した。「重慶大厦」(当時は「重慶市場」)も、「中興市場」に変更されている。

未完成ではあるが、ビクトリアピークの中腹に香港神社を建造したが、これは主に駐留する日本人向けのものであった。

反日活動[編集]

日本軍の香港占領に反感を持つ香港市民は多く、占領期間中、反日活動は絶え間なく続き、次第に地下活動に変化していった。また、香港を脱出したイギリス軍や、中国共産党の支援による軍事活動も行われた。

英軍服務団(British Army Aid Group)は、中国内地に逃れたイギリス軍や香港政府関係者によって1942年7月に設立された部隊で、本部を桂林に置き、香港における日本軍の情報収集やイギリス軍捕虜の脱走幇助、医薬品類の捕虜収容所への搬送などを支援した。

港九大隊は、中国共産党の配下で広東地方で活動していた「広東抗日遊撃隊」の協力の下、香港・新界の農民漁民によって1942年2月に成立した抗日部隊で、香港のみならず、広東省を含めた抗日活動を展開した。港九大隊は、イギリス軍が撤退・降伏の際に遺棄した武器を入手し、香港・九龍の日本軍施設や警察署、啓徳空港への攻撃を行ったほか、捕虜の救出や、爆撃中に乗機が打ち落とされた連合軍のパイロットや、香港に留まっていた外国人の香港脱出を支援した。

1942年9月からは、連合軍爆撃機による空襲が開始された。主に日本軍の施設を目標としたが、誤爆も度々発生した。このうち最も被害の大きかったのは、1945年1月の湾仔市街への誤爆で、香港市民の死者は約1000人、負傷者約3000人に達したという。また同年4月の爆撃では、銅鑼湾にあった病院付近に爆弾が落ち、約490名の死者を出した。このほか、小学校にも誤爆があった。しかし、香港市民からは、誤爆による連合国軍への反感は無かったという。

(翻訳中)

終結[編集]

降伏式
香港解放を祝うパレードをする中英両軍

1945年8月15日、日本はイギリスと中華民国を含む連合国に対し無条件降伏し戦争は終結した。これにより日本の統治が終わった香港の帰属問題が生じた。中国人がその殆どを占める当時の香港の世論は、「阿片戦争」という過去の不当な戦争により清国から強引に主権を奪ったイギリスへ主権を戻さず、清国を継いで中国を統治している蒋介石率いる中華民国に返還すべきであるというものであった。しかしイギリスは返還を拒否する強硬な態度に出た。これは戦勝国間の大戦後の利害関係の対立が生じつつあったためである。

この様な住民からの声を無視する形で、イギリスは日本が無条件降伏をした8月15日に香港統治の回復を宣言した。これに対し中華民国は抗議したが、同じ連合国であるアメリカ合衆国政府の調停により、中華民国側も最終的に了承した。8月30日にイギリス海軍の少将のハーコートは香港に到着し、正式にイギリスによる香港の主権回復となった。この日は「重光紀念日」として、イギリスの植民地支配が終結する1997年まで香港の祝日であった。1945年9月16日に、中華民国、イギリスと日本の代表は香港総督府で香港の主権を返還する文章に調印した。

影響[編集]

日本風屋根の香港礼賓府

日本の占領時期を物語る建築物に総督府(現:香港礼賓府)がある。この建物は英国総督府の本館とダンスホールであったが、日本軍の接収後に藤村正一によって、ふたつの建物を繋ぎ合わせた上に、日本風の瓦屋根や塔のある和洋折衷的な建物に改築された。この建物は、香港が英国統治下に戻った後は香港総督の住居として使用され、1997年に香港が中華人民共和国に1997年に返還・譲渡された後は、行政長官の官舎として使用されている。

日本占領時期に行われた「帰郷政策」は、香港住民の権利を失わせる事となった。1950年代、香港人が英国本土に移民するには、香港の永久居留権を持つ必要があったが、永久居留権を取得するには、香港での出生証明が必要だった。日本軍の帰郷政策によって多くの児童が中国内地へ移住し、戦後香港に戻ってきたが、各種原因(記録文書の散逸・破棄など)によって、これらの児童の香港での出生証明が紛失しており、中国での出生とされた結果、移民権利を失う事となった。 (翻訳中)

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 和仁兼夫・編著「旅行ガイドにないアジアを歩くシリーズ『香港』」梨の木舎1996年9月刊(ISBN4-8166-9601-6 C3026 P1854E)

注釈[編集]

(翻訳中)

脚注[編集]

外部リンク[編集]

(翻訳中)